「ーーーー。できるけど。どうして?」
問いかけの真意を探る沈黙の後、ラムが問いに問いで返す。テンは「そりゃぁ」と呑気そうに低い声で応じ、
「ラムにレムを背負ってもらうからだよ?」
「違う。どうしてラムがレムを背負うのかと聞いてるの。わざわざそんなことしなくてもテンテンが背負った方が今は得策でしょう、情けないけど。それともなに、それができない事情でもあるの? まさか、自分一人だけ残って戦う、なんて馬鹿げたことでも考えた?」
「ーーーー」
詰め寄り、胸元で見上げるラムがテンのことを睨みつける。たった数秒の沈黙で、彼の性格を素に、彼の馬鹿げた思考を先読みした彼女は口早に言葉を畳み掛け、彼の真意を問いただす。
その様はどこかテンには幼く見えた。だだをこねる幼子のような、理解していながらもそれを否定するような。今日一日で彼女の雰囲気が随分と変わってしまったものだ。今日限定だと思うが。
テンの口が言葉を生むことはない。ドンピシャで当てられた思考を言われて。馬鹿げたこと、なんて言われ方で呼び止められてしまって。相変わらずラムには敵いそうになかった。
しかしその沈黙こそが何よりも肯定を語り、睨むラムと絶望の息を溢すレム。二人に発言の真意を悟らせてしまったテンは観念するように深く息を吐くと、
「戦えるのは俺一人。ゆっくり走ってても追いつかれる。なら、ここで俺がアイツらを食い止める方が現実的だと思わない?」
「その満身創痍で魔女教徒を相手に? どこが現実的なのかしら。残っても死ぬことは目に見えてるわよ」
「死ぬつもりなんてないよ、エミリアに生きて帰るって約束したし。それに、俺の役目はお前達二人が無茶をしないように助ける事だから」
左手首にある感触に意識を集める。そこにはエミリアに渡された腕輪が煌めいていた。彼女との絆の形が、生きて帰ると約束した証が、そこには存在していた。
死ぬつもりなどない。心の底からそう決意しているテンに迷いは感じられず、本当に自分一人で魔女教徒を相手にしようとしている事が二人には理解できた。
彼は本気で、たった一人で魔女教徒を相手にし、それでも生きて帰ると固く決めている。
しかし、本人が死ぬつもりがなくても、それが死ぬことがない理由に繋がるとは限らないことをラムは知っている。だから引き下がらない。
「テンテンはラムに言った。『お前達を離す時は俺が死ぬ時だ』と。つまり、そういうことなんでしょう?」
「それはアレだよ。絶対に守り通すってゆーことの比喩。俺ってポエマーだから。ほら、言葉の意味をそのまま捉えなくてもいいってかさ………」
途端、普段通りの声の調子で話し出したテンがおどけるように笑う。いつもの厨房で四人揃って話すような風に。続くラムの毒舌を期待したのだろう、彼は自分を作っていた。
けれど、返ってきたのは続くと期待した毒舌ではなく無言の真面目な表情。おどけることを一切許さないそれが、簡易に作った『普段通りの自分』を容易く崩れさせ、語尾が弱く落ちた彼は見た。
一雫。感情が溢れて瞳から落ちた、
ラムの頬を伝う、
「やだ、ゃ、やです…! いか、いかないで…! いかないで……ください!」
レムの、涙。
動かない手足を必死に動かそうとする彼女は彼の身体にしがみつこうとして、力が入らないからそれができないと頭が理解して、瞳から涙が溢れている。
一滴溢れれば、その後は止まることを知らずに。何滴も、何滴も、ラムの頬に滴った。
この時、テンは不思議な突発的に錯覚を起こす。それは、滴る涙はレムのものにも関わらず、なぜかラムが泣いているように見えること。
表情こそは真剣そのものなのに、そう錯覚してからそれ以外に捉えることができなくなった。
どうしてラムが泣いているように見えてしまうのか。泣いているのはレムなのに、テンにはそう見えて仕方がなく、少女二人の涙に心が激しく揺さぶられる。
「そんなことしなくても、レムが戦います。レムが魔女教徒なんか一人残らず始末して……!」
彼が無理をするくらいなら自分が無理をする。レムは己の心と体に鞭を打って再度、力を込める。
しかし、彼女の思いとは裏腹に握り締められるはずだった拳は指先一つ動かず。支えるはずだった足はだらりと下がり、言うことを全く聞き入れようとはしない。
指先が震えている。涙すら拭えない。力の入れ方を忘れたように何一つとして自由に動かなかった。どんなに動かそうとしても、心とは真反対に体は動くことはなく、レムは絶望を知る。何もできない自分は、ただの役立たずだと。
そのまま為す術もなく彼女は、腰を下ろしたテンの背中からゆっくりと地面に下ろされる。自分を支えていた温もりが足から抜け、冷たい土と肌が接し、
彼がこちらを向いた————。
その時。
不意に彼との記憶が、脳裏に全て蘇る。
彼が屋敷に来てから今の今までの思い出が、走馬灯のように流れに流れる。
話したこと、感じたこと、見たこと、抱いたこと。それら全てが流れ、流れ、流れ続け。
——彼の笑顔が、最後に映し出された。
「ーーー!」
瞬間。感情が爆発する。
「だめ。いかないで……、いかないでーーっ!」
絶対に動かないと思っていた体が動き、目の前の青年に飛びつく。
飛びついて、脇腹から回した両腕で背中を掻き抱くように抱きしめる。
抱きしめて——額を胸板に押し付けた。
突然の事に反応できなかったテンが後ろに両手をつきながら尻餅をつき、訪れた痺れるような激痛に片目をギュッと瞑る。それ以上に、レムはテンの体をぎゅっと抱きしめる。
離れていこうとするその存在を繋ぎ止める。この手を離してしまえば、彼は死の危険すら振り切って飛び出してしまう。それだけは阻止しなければならない。
「いかないでください……! レムから離れないでください……! レムの傍に、レムの手が届かないところにいかないでください……!」
縋るように求める。これ以上は何もできないから。瞳から大粒の涙を流してもなお、彼女は力のあらん限りを尽くして彼を求める。
求め続ける。
「レムがなんとかします……なんとかしますから、いかないで、ここにいてください……!」
錯乱した様子で泣きじゃくりながらレムは訴える。その訴えに意味がないことなんて誰よりも分かっていたとしても、彼女は遠のきかける体を抱きしめて離さない。
レムは今、己の不甲斐なさを呪っている。
鬼化さえできれば、こんな状況など容易く打開できる。テンが無理をすることもなく、自分がこんなに悲しむこともない。
なのに、なのに。一番肝心なところで、自分の中の鬼は一切の声を発さない。
「レム。俺はそれでもーー」
「助かるわけない! テンくんだっていつ倒れてもおかしくない、危険な状態なのに……たった一人で立ち向かって……死んで、しまったら……。レムはどうすればいいんですか!」
言葉を遮るレムの号哭がテンの心に深々と突き刺さる。彼女の訴えが鼓膜を殴る度に、戦う覚悟が揺らいでしまいそうになる。整ったはずなのに、決めたはずなのに、レムの涙一つでこんなにも揺らぐなんて、情けない。
眼下で胸元に額を当てている彼女の表情を見ることはできない、見てしまえば自分はきっと立ち向かえなくなってしまうから。こんなにも必死に縋り付く彼女を置いて戦えるだろうか。絶対に無理だ。余計に表情は見れない。
後ろから歪な気配がどんどん距離を詰めているのが分かる。意味するのは時間制限、アレがたどり着いた時、制限時間が過ぎて、三人もまた死ぬ。
だからそうなる前に、テンは言うことを言わなければならない。それがレムにとってどんなに苦しいことだとしても。告げる。
告げなければならない。
「レム。俺はお前達二人を逃すためにここに残ってアイツらと戦う。俺の中で覚悟、整っちゃったから。もう揺らがないって、決めたから」
「やだ! やだぁ……っ! 何も言わないで、何も悟らせないで、何も、何も……何もレムの耳に入れないで!」
「多分、無事じゃ済まない。気休め程度に、生きて帰る、なんて言ってみるけど。今の俺の姿でそんなこと言っても説得力ないよね」
「聞きたくありません! いかないでください! レムと一緒に逃げてください!」
「でも、必ず生きて帰る。生きて、またレムの所にも帰ってくるから。死んだ俺を見させることなんて絶対にさせない。必ず、必ずだ」
「聞きたくない、聞きたくない聞きたくない聞きたくない! い、や、いや……いや! やだ、やだ! やだぁ……!」
二人の声が、混ざり合う。
レムの心に言葉の一つ一つを贈るテンの優しくも力強い声と。それを聞きたくないと自分の声を叩きつけて無理やり遮るレムの泣きじゃくる声の二つが。
今のレムはいつも通りのカケラもなかった。自分の要求だけをただがむしゃらに押し切って、「いかないで」「聞きたくない」を連呼し続け、しがみつく体から刹那たりとも離れようとしない。
その様子は痛々しさに溢れた幼子。大口を開けて噴出するように絶望の泣き声を上げる彼女は、拭いても拭いても止まらない涙を、そこに含んだ感情を全て胸板にぶつける。
やがて、声の枯れた喉が嗚咽を溢し始め。それでもレムは訴え続ける。続けて、続ける。彼が自分達と一緒に逃げると言うまで。
「いかないで……、いか……ぃ、かないで。レム、の、ところに。ずっと……」
「でも。俺はお前達のために戦うよ。それが、俺がここにいる意味。今まで……、今の今まで頑張ってきた理由だから。地道に努力してきた理由だから」
肩が小刻みに震えるレムが首を強く横に振る。泣きに泣き崩れて、呼吸の荒くなった彼女の声は途切れ途切れで、テンの別れ言葉になるかもしれない声の一切を遮断している。掻き抱かれた両手には、もう力は入っていなかった。
胸の中で泣きじゃくるレムのことを振りほどこうと思えば、今のレムの手を振りほどくことはテンには簡単にできたはずだ。
それでも、テンがレムの手を振りほどかないのは、レムを見つめるテンの感情を堪える頬が何より歴然と証明している。
レムの悲痛な訴えに心が絶叫を上げているから、泣き縋る彼女の手を振りほどけないのだ。弱りきった彼女の姿に、自分までも泣きそうになってしまうからだ。
ーーでも。それじゃだめだ
世界はどこまでも理不尽で、ひどく残酷で、こちらの都合など視野に入れていない。「頼むからご都合主義よ、無休で働け」と何度密かに願ったか分からない。
二人を守りながら戦うことなど不可能だ。チートも、化け物じみた戦闘力もなく。この世界で許された力しか扱えない自分は、アニメや小説の世界の主人公のようには戦えない。
傷つき、死に物狂いになって、ようやく生きて帰れるかどうか。自分はそんな程度なのだ。地道に努力したことを積み重ねて、自分を盾にしてやっと近くの人——隣の人を守れる程度の男なのだ。
分かってる、分かっている、分かっているとも。
なのに、今になって恨めしく思う。とっくに割り切ったことなのに。二人を悲しませる選択肢しか手の届く範囲にない自分の弱さが憎い。自分がもっと強ければ、こんな形にならなかった。
運命のタイムリミットはレムが泣き叫んでいる間にも刻一刻と迫ってきている。故に、すぐにでも二人を逃して自分は戦いにいかなければならない。
しかし、このままレムの心が不安定なまま別れたら彼女がラムの背中で何をするか想像もつかない。清楚さもお淑やかさもかなぐり捨てた彼女がもし暴れてしまったら、それこそ終わりだ。
「……レム」
「やぁ……っ、いかないで、どこにも、い、いか、ないでぇ」
名を声にする。
聞こうとしない。
「レム」
「レムの傍にいてください……死なないで、生きて。戦ったら……絶対に帰ってこれない……!」
声に力を持たせた。
聞こうとしない。
「レムーーッ!」
「ーーーっ」
力を持たせた声に感情を乗せた。
号哭が止まる。
己の名を呼ぶ声すら聞き入れない彼女に感情を叩きつけるテンが彼女の両肩を掴む。優しく語るような口調の彼が、初めて心を露わにした言動にレムの顔が跳ねるように上を向いた。
見上げた顔。青の瞳が見つめる先にテンはいる。目元の潤む彼が、自分のことを見下ろしていた。ひどく優しげな表情が、真っ直ぐな目が、添えられた手が、自分の寂しさを煽り立ててくる。
一つの動作で彼女の抵抗を止めたテンは唇がほどけるような吐息を溢し、
「レム。俺の目を見て」
「ーーーー」
「これが死ににいく人間の目に見える? レムに泣きつかれて、死んで帰ってくるなんて考えてそうな目に見える?」
枯れることのない感情の涙をこぼしながら、レムはテンの瞳を見る。気だるげで、自信なさげで、思考の読めない瞳が。
今は、これ以上ないまでに昂っているのが見えた。瞳の奥にゆらめく炎を見た。覚悟の色が、見えた。
「大丈夫。俺は、絶対に、生きて、帰ってくる。何があってもレムの下に帰ってくる。どんなに傷を負っても、どんなに危険な状態になっても、必ずレムの前に生きて帰ってくる。約束する」
吐息がかかってしまう距離でテンはレムに語る。お互いの熱が絡み合って、それがやけに熱く感じられた。
約束——屋敷を出る前にエミリアとした事、必ず生きて帰ってくると。絆の深まった人間同士だからこそ成立するそれは、破ることの許されない絆の証明。
だから、絶対に守らなくてならない。
絶対に。絶対に守らなくてはテンは彼女達との間に築いた絆を裏切ることになり。同時に深く悲しませてしまうことになるのだから。
「……でも」
「確かに俺はハヤトよりも弱いし、自信のカケラもないけど。今くらいは、女の子を背中にした時くらいは流石に頑張れる男なんだぜ。お前にそこまで言わせておいて、死んで帰ってくるなんて真似、絶対にしない」
「でも……、でも」
どんなに優しく語っても、感情的に語っても、レムは首を縦に振る気配がない。
錯乱した態度は鎮まったものの、彼女は否定の言葉を弱く発している。胸元の少女はただ「いかないで」という願いだけを口にして、涙を流している。
空間の余地を許さんばかりに密着した肌を介して彼女の鼓動が——速すぎる鼓動が伝わってくる。どれほど彼女が動揺しているのかなんて、考えなくても伝わった。
それでもテンは彼女の願いを悲痛に断つ。断つしかない。みんなが生き残るために。自分が戦えるようになるために。
そっと。テンは掴んだ肩を引き剥がし始めた。
「ーーぁ、ゃ、テンくん! テンくん!!」
遠のく体。離れる温もり。溢れる寂しさ。
今生の別れを前にしたと錯覚したレムがテンの名前を掠れた声で何度も呼ぶ。離れまいとする両手は、しかし情けなく震えるだけでレムの意志に従うことはない。
感情の第二波が途端に喉の奥から込み上げたレムが、必死に彼の体に縋ろうと自分の至る所に「動け」と命じる。今離せば、大好きな彼ともう二度と会えなくなってしまう。
ーー動け、動け、動いてくれ
でないと自分は一生後悔することになる。今この瞬間に動かなければ、自分は自分を永遠に恨む。
ーーお願いだから、動いて。かみさま、かみさま!
もし今、神様がお空から見ているなら。この叫びが聞こえてるなら。自分は何を対価にしてもいい、何もかもを差し出す。彼を止められるならこの身全てを献上する。
だから、この体を動かす力を。少しでも、刹那でもいいから、
ーーレムに力をください
祈る。願う。縋る。
しかし動かなかった。
震えるどころかピクリとも反応を示さない。力の入れ方を忘れた肉体が、心の指示をシャットアウトしていた。神様は平等ゆえに、それが不都合なことであったとしても容赦なく叩きつけてくる。
そのせいか。こんなに近くにいるのに、テンの姿がとても遠いものに感じてしまう。彼の温もりが——ずっと心を温かくしてくれていた存在が、自分の心から離れていく。
それを悟った時には、レムは大粒の涙を溢して抵抗していた。こうすることしかできないから、涙でぼやける視界を押し開き、呼び止める。呼び求める。
テンはその全てを、断つ。
「聞いて、レム」
言い、垂れる彼女の手を繋ぐテンが彼女の体を引き寄せるのと一緒に自身も前に滑り出る。小さく「あ」とレムの声が漏れ、彼女の小柄な体はテンの胸の中に再び収まる。
一度は離せたくせに、どうしてそのまま引き剥がさなかったのだろうか。それはダメだと思ったからだ。ちゃんと彼女の心を安心させないと、背中は向けられないと思ったからだ。
片方の手が背中に回って。片方の手が後頭部を何度も優しく撫で下ろす。不安がる彼女をなだめる両手が、無言の間を埋めた。
けれど、その行為が彼女の感情を余計に煽ったせいで、なだめるどころか嗚咽の数がどんどん増える。
ーー何を言えばいい?
自分の命を必死に追いかける彼女に何を言えばいい? 何を言えば彼女の心を安心させる事ができる? 何を、何を、何をーーーー。
ーー信じてる。
ーー俺を信じろ!
ーー頼んだわよ。
ふと、心の中から三人の声が聞こえてきた。
エミリアの涙ながらの声と、ハヤトの力強い声と、ラムの落ち着いた声。それは、彼らとの絆がそのまま表れた言葉だった。
互いに信じ合い、己の意志を託し託され、レムの心に届かせるために繋いできたみんなからの思い。エミリアから、ハヤトから、ラムから、三人から託れた絆のバトン。
言われたテン自身、不思議な力があると思った。信用する人から言われただけで、それまでに考えていた負の感情が一気に吹き飛んでしまう。訳も分からない安心感が、心を落ち着かせてしまう。
どうして今、彼らの言葉が心から聞こえたのだろうか。
ーー考えるまでもない
「レム」
回した腕で、ゆっくりと胸に沈めるように彼女を抱き寄せる。寂しがせらないように頭を何度も撫で下ろし、自分の存在を彼女の心に与え続け。
言った。
「俺を信じて」
「ーーーっ!」
言い、テンはレムの反応を体全体で受け取った。言葉をきっかけに嗚咽が止まる。もの言いたげな唇が感情の言語化を何度も繰り返し、しかし言葉が作られることはない。一番は、動くはずない彼女の体——肩が動揺にピクリと跳ねたこと。
感情が彼女を動かしたとでも言うのだろうか。次に体を這い上がる両手が背中に回り、彼女に抱きしめられる。その抱擁に、先のような引き留める意志は感じられなかった。
「レムが俺のことを信じてくれるなら、俺も頑張れる。信じて、俺の無事を心から願ってくれたら、もっと頑張れる」
「……ぁ」
続けて語る。
エミリアには絆につけ込むためでしか告げれなかった言葉を、今度は自分自身の覚悟を信じさせるために。自分に託してくれた相棒のように、安心させられるように。
震える瞳がテンを見上げ、熱を持った頬が赤く染まる。そんな彼女にテンはいつものように微笑んで、
「だから俺を信じて。必ず生きて帰ってくるから。生きて、ちゃんとレムを安心させるから」
「テン、く……」
込み上げてくるものが堪え切れなくなったように、テンの名を呼ぼうとしたレムの言葉が途中で途切れる。
それから彼女は手前まで出かかった言葉を必死に飲み込もうと唇を固く閉じ、何度も息を呑み込んだあと、それでも喉から出てくる嗚咽と一緒に瞳から雫を何滴も溢し、
「……ぜったいに、生きて帰ってきてくれると。レムに約束してくれますか?」
「約束する。俺とレムの絆に懸けて」
即答された。
何の迷いもない言葉がレムの心を真っ直ぐ貫いた。自分と彼の絆——友人関係を越えようとしている関係を前に出されて、彼女は胸が耐えられないくらい熱くなった。
俺を信じて。そんな卑怯な言葉をかけられ、畳み掛けるように絆に懸けて約束され、そんなことをされたらレムの口は反論を刻めない。
だからレムはテンのことを強く抱きしめる。他に反論する方法が分からない彼女は、けれど彼の言葉をちゃんと受け止めて。
レムは言った。
「信じて、ます」
言えば後戻りはできない。彼の言葉を肯定することは自分の言葉を否定すること、つまり彼の体を離すことになる。戦いに行かせてしまうことに直結する。
それを分かっていてもレムは言う。与えられ続ける温もりに、確かめられた絆に、彼という存在に。
「レムはテンくんを信じています。ですから、約束は必ず守ってください。レムの知らないところで、レムの見てないところで。勝手に死んでしまったりしたらレムは追いかけます」
「信じてくれてありがとう。でも、追いかけるのは勘弁してほしいかな」
冗談なのだろうが。場面と声色から全く冗談に聞こえないレムはそう言うと、上げた額を下ろして彼の胸板に押し当てる。
最後の抱擁。最後ではなく最期の抱擁になるかもしれないーー。と考えたくもない思考を断つ彼女は彼の温もりを体の隅々に行き渡らせた。
甘えるというより名残を惜しむの方が表現としては正しいそれを眼下したテン。彼は荒っぽく乱れた髪を整えるように撫で下ろす。状況に酔ってるのだろうか、彼女に泣きつかれてから色々と止まらない。
「ーーそれで。ラムを差し置いてレムと熱く抱擁した感想は? このケダモノ」
「その一言が俺の酔いを覚めさせてくれたよ。どうもありがとう」
不意に真横から投擲された声にふわふわしていた意識が一瞬で引き戻される。苦笑するテンが声の方向に顔を向ければ、真横に目線の高さを合わせているラムが自分を睨みつけていた。
レムの気持ちを察して黙ってくれていたのだろうか。話が着地した途端に口を開いた彼女はもう平常運転。「ハッ」と続けて言葉を繋ぎ、
「どさくさに紛れてラムのかわいい妹の身体を触り散らす。野心、煩悩、常日頃から考えていたことが浮き出たわね」
「語弊が生まれてるから言うけど、別にそんなんじゃないよ」
「男として当然のことをしたまでとでも?」
「俺が男として完成してるように見える?」
「何一つとして完成してない。全部が全部中途半端。いえ、中途半端にすら満たないダメ男」
「すっげぇ言われてびっくりしてる」
軽口に次ぐ軽口に終わる軽口。レムが自分の世界に入ってる外で二人が言葉を交わす。普段通り、いつもの変わらない光景が一瞬だけ広がり、僅かながらにテンの頬が緊張から解放される。
が、首を横に振るテンは訪れた安心を断ち切る。そんな呑気に話してる場合ではない、レムが受け入れてくれたならすぐにでも彼女達にはこの場から逃げてもらう必要がある。
解放された緊張を再び頬に貼り付けるテン。彼は改まった声でラムの名を呼ぶ。「なに?」と返されて彼は言葉を紡ぎ、
「レムを連れて今すぐ逃げろ。ここも安全じゃなくなるから俺の代わりにレムを背負ってハヤトと合流してーー」
「一つ、ラムとも約束なさい。それが守れるのならラムはテンテンの言うことに従ってあげる」
口早に告げていたテンだったが、言葉を遮るラムの声が彼の口を止める。レムほどではないにしても彼を置いていくことに抵抗のある彼女は、だだをこねずに約束事を提示した。
テンの眼前にラムの人差し指が立ち、それが約束事を表すと、
「五体満足で生きて帰ってきなさい。レムにここまで言わせておいて、手足の一つでも千切れようものなら、目に見える傷跡を作ってきたりしたら」
言葉を止める彼女は人差し指を彼に突き向ける。一瞬、鬼気迫る表情になる彼女の瞳が鋭く光ると、
「ラムは一生、あなたを許さない」
「ーーーー」
——許さない。
そう言われたのは、初めてだったかもしれない。ひどく無責任な約束で、無責任な信頼を向けてくるラムにテンは数秒間だけ言葉を忘れ、不意に訪れる熱に心が震えた。
今日だけでも幾度と見たラムの本気の表情。普段の彼女の印象をひっくり返してくるそれは、テンの心を何度となく焚きつける。戦う意志を、生き残る覚悟を、これでもかと煽ってくるのだ。
それらの処理が終わり、自身の停滞が過ぎ去ったとき。テンは深く頷き、
「分かった。約束するよ」
「レムを泣かせたりしたらラムはテンテンを呪い殺すから。物理的に殺してもいいけど」
「守る、守るから。怖いこと言わないで」
「でも、もう泣かせてるから今すぐにでも……」
「待って待って。本当に待って」
多分、冗談なのだろう。と思いたいテンが双子姉妹から向けられた『約束』を強く心に刻む。双方の了解があって今ここに、それは固く結ばれた。
エミリアのも含めると「これは本気で生きて帰らないとなぁ」なんてこともテンは思う。本気と書いてマジ、人生で一番頑張らなければならない時が今だと確信した。
何にしても二人との別れは終わった。
なら、
「……レム。そろそろ離れて、お前達はここから逃げないと」
胸の中で落ち着くレムの背中をポンポンと叩き、自分の世界に入った彼女を帰還させたテン。
涙は止まり、嗚咽も静まり、体の震えと鼓動の悲鳴はもうない。彼女は数秒間、言葉に対して沈黙を貫いていたが。ゆっくりと彼の身体から離れた。
体半分。その隙間を空気が通り抜けるのを感じたレムは、見上げたテンの瞳に愛に満ちた笑みを向けた。泣いて見送りたくない、見送るなら笑顔で送り出したいと。
「信じてます」
「うん。信じていいよ。今の俺、かなり強いから」
向けられた感情にテンは笑みで返し、ここに来て初めて彼が自分自身のことを強いと、それもかなり強いと頼もしく言ってみせた。
自信のカケラもない彼のそれを聞いた二人の瞳が驚くように見開かれる。当たり前だ、だって彼はハヤトとは対極の存在なのだから。それを知る人間からすれば驚くのは無理もない。
尤も、
「美少女二人、エミリア様の腕輪も含めて三人と生きて帰る約束を取り付けた。それだけで威勢を張れるなら覚悟の一つくらいとっとと決めてほしかったわ」
テンからレムが離れる寸前。隣でラムがそう言い、「待ちくたびれた」とでも言いたげなため息を溢す。ここに至るまでに一体自分が何度彼を勇気付けたことか。自分の苦労も知ってほしい。
申し訳なさしか感じないテンである。自覚していながらも今はまだ直すことができない自身の心の弱さ、自分はまだ誰かに支えてもらわないと戦えないようで。
「エミリア様の……腕輪? どういうことですか?」
呆れるラム、申し訳なさのテン。そんな二人のことなど知らないレムはラムの発言の中にあった一文に引っかかる。それは回された腕が離れて気づいた、テンの左手首だ。
贈られてから肌身離さずつけている自分の腕輪と色違いのそれがテンの左手首につけられている。視線の固定されたレムにテンは「それね」と前置き、思い出すように、
「来る前にエミリアと少し話したんだよ。その時に無事を祈って渡されたの。生きて帰ってこい、それで自分で返しに来いってさ」
「なら、レムも渡します。レムのは右手首につけてください」
「レムのは首飾りがあるから大丈夫だよ」
「いいんです。早く出してください」
エミリアの話をした途端に頬を少し膨らませたレムが不満げな表情でテンの右手首を攫い、数秒と経たぬうちに腕輪がつけられる。行動が迅速かつ手早かったためにテンはされるがまま。
満足げなレム。彼女は「はい」と小さく声を漏らし、
「これでレムも同じです。戦っている時にこれを見てレムのことを思い出してください。どんなに苦しくても、乗り越えてください」
「刀を振る腕だから、傷ついちゃうかもだけど」
「レムの心はテンくんと共に。刀を振るたびにレムのことを思い出してください。傷なんて構いません」
どこまでもどこまでもレムはテンを気にかける。自分のことを刹那たりとも忘れないようにと、辛くても苦しくても生きて帰ってきてくださいと。
エミリアに生じた嫉妬と、向ける必要のない対抗心から生まれた行動とも言えなくもないが、捉え方を変えれば彼の命を縛る鎖とも言える腕輪が両手首で輝く。それは二人の存在を彼の脳裏に刻みこませて離れさせない。
自分の帰りを待っている人がいる。その事実がテンの生存意識をどこまでだって高めるのだ。
今一度、自分の立ち位置を理解したテン。彼は己の中で何かしらの覚悟を新たにしたのか、「よし」と呟くとレムの体を持ち上げてラムの背中に移し、
「レムを落とさないでね。ーーお姉ちゃん」
「やめてちょうだい。本気で気色悪い」
「二度と言いません。はい、二度と」
そんなやりとりの後、ラムの体制を整えたテンが一度だけ微笑むと、二人から離れて彼女たちに背を向ける。向けたら、絶対に振り返らない。
男は背中で語るというが、今の自分は語れてるだろうか。弱々しい後ろ姿じゃないだろうか。この期に及んでそんなこと考えるのも大分おかしいかもしれないが。
「さ、行け。走れ。そんで……走り出したら絶対に振り返っちゃだめだよ。後ろのことは俺に全部任せて、前だけを見て」
「約束は守りなさいよ」
「何度も言わなくても分かってる」
「生きて、必ず帰ってきてください」
「うん。また会おう」
二言を最後に背中で駆け出す足音が聞こえ始める。数秒も経たぬうちに徐々に遠くなって、遠くなって、最後には聞こえなくなった。レムとラムの気配が、背中から完全になくなった。
そうなったら、この場所にいるのは自分と、あと数十秒後に訪れる最悪達だけだ。それまでは、自分一人。
足音の反響しなくなった空間はレムが泣いていたとは考えれない程に静かで、風の音すら消失した闇の世界では、様々な考えが頭の中を過る。暗闇は人間に考える時間を強要する、考えすぎる癖のあるテンにとっての一番の敵だ。
「……さて」
一人、残ったテン。彼は大きく息を吸って大きく息を吐く。要らない感情を吐き出し、新鮮な空気を肺の中に取り込んだ。気持ちの切り替えは、今に限って上手くいかない。
振り返りそうになる心を殺すために下唇を噛み締める。一人になると、途端に顔を見せ始める弱い自分をそうやって押さえつける。
覚悟は決まった、決意も決まった。全部が整った。でもどうしてもこの感覚には慣れないものがある。戦いの前に決まって訪れる緊張感、今から自分は死ぬかもしれない戦いに臨むという危機感。
「ま、死ぬつもりなんてないけどさ」
不思議と恐怖はなかった。みんなに支えられたおかげだと思う。自分一人じゃ戦う覚悟なんてまともに決められなかっただろうし。特にラム。今日だけでも彼女には沢山迷惑をかけてしまった。
その罪滅ぼしというわけではないが。お返しとしてテンは彼女を——彼女達を守ると決めた。何があっても、この子達は守り通すと心に決めた。
加えて、レムにあんな風に泣かれてしまっては死ぬわけにはいかないだろう。自分の生還を心から信じている彼女の信頼を、裏切るわけにはいかないだろう。
それに————、
「……うん」
——ふと、先ほどの映像が脳裏に映る。
「これはもう、ダメだな」
——胸元にいたレムのことが、全て。
「そんなの。とっくに自覚してるよ」
——泣いたレムが。
「分かってるよ。俺だって」
——甘えたレムが。
「自分を誤魔化すのも限界だよ。バカ」
——満面の笑みのレムが。
「いい加減、受け入れろよ」
——満面の笑みのレムが。
「いつまでガキみてぇに自分の気持ちから逃げんなよ。いい加減にしろよ」
——満面の笑みの、レムが。
「だって、
——————。
「お前は、レムが好きなんだろ?」
ーーーー。
問いかけの応えは、ない。
先程は辛うじて抑えていた本能を抑えきれなくなった理性は、一切の声を発さない。いつの間にか、『推し』から『好き』に変わったと自覚しているのに、心がそれを受け入れようとしない。
かわいいなぁ。で止まれなくなった心は、しかしまだ目を背け続けている。自覚してもなお、そんなことはないと言っている。
どうしてか。心の問題が故に、その理由も明確でよく理解している。自分の至らなさを嫌というほど分かっている。
レムと一緒にいると自分の中で様々な感情が渦巻いて、混ざり合って、頑張って整理しようとしてもできなくて。だから目を背け、後回しにして、誤魔化した。
彼女に向ける感情を心と肌で感じると、全部全部崩れそうになるから、自分を保っていられなくなりそうになるから、笑って誤魔化した。
そうやって自分の気持ちを誤魔化して、自分という自分を殺した。自覚しているのに、自覚していないと言い張って、レムに対する想いを全否定した。
どこまでどこまでも、自分という人間を誤魔化して。そうしているうちに、いつの間にか自分はたった一人の少女と正面から向き合うことすらできない、最低な男になっていた。
最低だ、最悪だ、クソ男だ。嫌われてしまえ。
「なんでお前は、そんなに不器用なんだよ」
どうして自分はレムと正面から向き合えないのか。どうして自分はレムの心から離れようとするのか。どうして自分はレムという一人の少女から逃げるのか。
全部、自分のせいだ。
自分の心が弱いから、自分の気持ちを受け入れる心がないから。それ一つが原因だと理解してるのに、理解しても尚、正そうとしない自分のせいだ。
ずっと前から、そうだった。
悪い癖を自覚しているくせに、正そうとせず、その結果がこれだ。そんな自分に問おう、これまでで一度でもレムと正面から向き合った事があったかと。
否、向き合おうとすらしなかった。それはダメだと、勝手に自己完結して、何回も何回も誤魔化した。どこまで自分は最低な男なのか。自分で招いた結果が心に突き刺さる度に嫌気がさす。
「なんでお前は、そんなに弱いんだ? お前はレムのことが好きなんだろ。なのに、なのに、どうして彼女のことを見ようとしないんだ? 大人手前、十八にもなってそんなこともできねぇのかよ。男のくせに情けねぇ野郎だな、お前は」
原因の分かっている疑問をテンは小さく吐き散らす。原因は分かっても解決法が見当たらないから、苛立ちの孕んだ暴言を、ハヤト以外には決して向くはずのないそれを、自分自身の心に叩きつける。
そうしたところで意味なんてないのに。やりようのない感情を、少しでも発散するために。叩きつけ、叩きつけ、叩きつけ続け————、
ーーそれが、今やる事なの?
ふと、自分の内側から声が響いた。
闇に包まれ、考えすぎる癖が悪い方向に進み出した途端、問いかけの応えを出さなかった心の声が今ようやく声を上げ、肉体を動かすそれがテンの右頬を強くぶん殴る。
意識したわけでもない。本当に勝手に体が動いて、それは負の悪循環に陥りかけた己の頭を痛みで支配し、力技で一時的に思考を麻痺させた。また流放を使っていたことを忘れていたせいで、今度は鼻血が出てきた。
ーー今、そんなことしてる場合なの?
また、聞こえてきた。
ついさっきまでは無口だった心の声が鼓膜の内側から聴覚を刺激し、それはテンの脳裏に一つの文章を思い出させる。
ーー生きて帰るって、約束したよね?
今のような状況——全く同じ場面がアーラム村で起こった時、自分自身にかけた文章が。用意されていたかのように浮かび上がり、存在を膨らまし始めた。
それは、
ーー長々と自分を咎めている時間はないよ。後悔も反省も、全て終わってからいくらでもできる。だから今は、
「ーー今は、今のことに集中」
パチン、と。乾いた音が空間に一つの音として生じたとき、テンは自分の両頬を思いっきり引っ叩いた。
紅葉型の痕が色濃く刻まれ、肉体を悩ませる痛みが新しく生まれたが、これぐらいでいい。寧ろ、足りないぐらいだ。気が済まないからもう三回程度引っ叩いた。
「
自分自身に助けられたテンが頭を強く振る。今やるべきことを思考の中心に陣取らせた彼は、今まで考えていたことを頭の片隅に追いやる。自分の悪い癖が出てきたことを密かに咎めながら。
それすらも場違いだ。今から生き残りを懸けた戦いをしようとしているのに、自分は一体何をやっている。
生きなければ悩むことすらできないまま終わる。全部置いてけぼりにして、人生の幕は流れる血と共にゆっくり閉じていく。
「んなの、認められるわけがねぇ」
生きることに全てを注ぐ。全身全霊で、自分のやるべきことを果たすために。深く息を吸い、深く息を吐く。気持ちの切り替え、今度は上手くできた。
肩を数回回すテンが「はぁ」と浅く吐息。今度のは変に強張った体から余計な力を抜くために。固まった部分を一つ一つ、漏れがないように解していく。
刀の鞘に左手を添え、柄に右手を添える。視線を向けると二つの腕輪が、レムとエミリアの絆の形が存在を主張するように月明かりを反射させていた。
生きて返さなければならない。戦いを生き延びて「ただいま」ってみんなに言って、約束を果たさなければならない。『人生初の贈り物』と『一生の贈り物』を持ち主に返すまでが自分の戦いなのだ。
どんなに辛かろうが、どんなに過酷だろうが、どんなに苦しかろうが。帰るべき場所に帰ってみせる。でなければ自分は、一生の傷を二人に負わせてしまうのだから。
「やれるさ。大丈夫、俺ならできる」
もう、決して揺らがない。
「だって俺は」
もう、絶対に折れない。
「アイツらに生きて帰るって約束したからーーッ!!」
咆哮。
己を奮い立たせる声が闇に轟き、溜め込んでいた心の炎が一気に解き放たれる。覇気みなぎる声に呼応する魂が、無限に湧いて噴き上がる活力を爆発させる。
一気に刀を引き抜く。鋼と鋼の擦れる音が空間に木霊した時、その場所には一匹の狼が牙を剥き出しにして獲物を待ち構えていた。瞬きの間に気配が別者に変化した彼は、魔女の気配を睨みつける。
そして、
「アル・ゴーアーーッ!!」
溢れに溢れた感情が魔法となって世界に呼び出される。左拳が突き抜けた方向——殺意の方向に放物線を描く巨大な火球が一つ、予兆も無しに飛び出していった。
獲物を焼くにしては軌道がおかしいそれが地面へと真っ逆さまに落下していく。当てるはずのそれは、相手には回避する必要もない魔法だ。
普段は弾丸として使われる火球は、落下地点で弾け飛び周囲を軽く焦がして姿を消す。つまりは当たらなければ威力は発揮されず空振りに終わり、マナを無駄に消費したことになる。
意味もなくやったわけじゃない。理由もなく己を奮い立たせたわけじゃない。今この瞬間、テンは見たのだ。感じたのだ。
闇にゆらめく不気味な影。その気配を。
「ーーーッ!」
弾けるはずだった火球、空振りに終わるはずだった火球。しかし落下した火球は普段とは別の姿を見せて存在を散らしていった。
落下し、着弾した瞬間。木々よりも高く聳え立つ炎の柱が激しい閃光と轟音、更には熱風を伴って昇り立つ。まるで竜が空へと昇っていくようにも見える火球の最期が、瞬間的にテンの正面、染まる闇を晴らす——、
そして見た。
すぐそこまで迫った自分よりも遥かに多い魔女教徒を。
地を蹴り、木々を跳び渡る最悪の殺戮集団を。
「ーーーふ」
思わず笑みが溢れる。なんの笑みかはよく分からない。けれど、ひとつだけ分かることがあるとすれば、
ーー負ける気がしねぇな
「こっから先には、絶対に行かせねぇ! お前達は俺がここで、全員まとめて相手してやるよーーッ!」
叫び、感情を露わにするテンが背後に夥しい量の氷柱を浮かべた。彼の昂る戦意をそのまま具現化したそれが刹那で照準を合わせ、主の呼び声を心待ちにして待機し、それらを背後に刀を携えたテンが吠え猛る。
テンの殺意と、人ならざる者の殺意が衝突する。約束を果たすための戦いが、この世の絶望に立ち向かう戦いが、始まろうとしている。
——その時、遠くで咆哮が轟いた。
▲▽▲▽▲▽▲
圧倒的に自分よりも格上の覇気を感じ取るハヤトは警戒の糸を一切緩めない。緩めた瞬間に命を落としそうな予感が本能を刺激して止まないのだ。
睥睨する闇の中から刹那たりとも視線を外すなと、本能がそう言っている。
今まで一度も感じ取ったことのない脅威。先程から身震いが全く治まってくれず、小刻みに震える大剣には武者震いだと言い聞かせる。実際に武者震いがどうかなど、判断するまでもないが。
ーー怖気付いているのか?
いいや違う、自分よりも強い奴と戦えて心が昂る勢いなだけだ。決して、絶対に、一欠片足りとも、全身を突き刺すような野生的な殺意を向けられて怖気付いているわけがない。
しかし、怯んでいることは否定しきれない。ハヤトに威圧されたウルガルムのように、その存在が放ってきている全てにハヤトの逃走本能が反応していた。
が、逃走本能を闘争本能に変換するのがハヤトの持ち味。逃げる心の分だけ戦う心の力とする彼はどっしり構えた状態から動く挙動は見せない。
かかってこい。そう挑発するように。
大咆哮が森に轟いてからどれほどの時間が経ったか。数十分、数分、数秒。多分数分だろう、時間経過が曖昧なのは取り囲む緊張感に心が浸っているからだ。
時間が経つにつれて音は——大咆哮の足音がどんどん近づいてくる。揺れが大きくなりつつあるのと視線を向ける方角から木々が倒木する音が連鎖してくるのが動かぬ証拠。
加えてハヤトの耳は声を聞いた。人のような言葉を発するものではない。喉の奥を低く鳴らすような唸り声、地底の奥深くから地鳴りのように鳴り響いてくる。
明らかに異常。まさか、森の主でも現れたかとハヤトは考える。自分の領域で暴れる不届き者に対して声を上げ、「俺が森の主だ」とでも言うために自分の下へと向かってきていると。
「へへっ、上等。犬と戦うのは飽き飽してた頃だ。主が出てくんならソイツをぶっ倒して、俺がこの森の新たな主になってやるよ」
望むところである。森の主——森の中で一番強い魔獣が来るならばそれを討ち倒して、カンザキ・ハヤトの名を森に刻んでやろう。森に生息する魔獣どもに誰が一番上かを教えてやろう。
猪突猛進.天真爛漫の代わりに気炎万丈。その一つを捨てて今、彼は一つの炎となる。四字熟語のオンパレードの彼は今この瞬間から背後に炎炎と燃え盛る豪炎を宿した。これで何度目になるか、昂り度合いの記録更新である。
アクラを詠唱するハヤトが戦闘形態に移る。覇気みなぎる彼は、いよいよ数秒後に迫った森の主、そのお披露目に戦闘開始の予備動作を始める。
そうしているうちに、それは闇の中から順番に現れた。
一番初めに現れたのは頭部——途端、ハヤトは目の前の相手がなんなのかを悟った。まだ頭部しか見えてないが、きっと一番重要な部位を初めに見てしまったんだと思う。
赤く光る眼光を宿した瞳をはめ込んだ凶悪な顔は、人間にあたる耳の部位からツノが生えている。口から覗かせた牙は間違えなく噛まれれば骨ごと噛み砕かれる凶器。
魔獣の輪郭が、露わになる。
四メートルはあるだろうか。二本の足から四本ずつ生える鉤爪で地を踏みしめる巨体がそこにはいた。生える爪の一本一本がハヤトの片腕程度の太さ、そして鷹の足をそのまま太く長くした人間のような腕、その先に伸びるは三本の鉤爪。
硬い鱗で覆われた皮膚は鋼の鎧でも纏っているかのようで。背部からうなじにかけて何本もの棘がハリネズミのように伸びているそれは全身が刺々しい。唯一そうでない部位といえば、尾から伸びる長い尻尾。
一番目立つのは背部から大きく伸びる二つの翼。人間の手を彷彿とさせる二つは、どの部位よりも分厚い鱗を纏い、巨体を丸ごと囲える規模のそれは飛行用というよりも防御用とも捉えられる。
全体的な印象としては、人間の二足歩行の形を残しつつ魔獣として進化したと言ったところか。尤も、四足歩行でも全然戦えそうな勢いだが。
「……おいおい。マジかよ」
ようやく目の前に出てきた魔獣を見上げるハヤトは思わず笑ってしまう。なんの笑いかは分からないが、少なくとも恐怖によって齎されたものではない。
いちいち考えなくとも分かる。今、自分の目の前にいるのはドラゴンだ。ファンタジーの王道である怪物が、自分のことを獲物として睨んでいる。
以前、この世界に来た直後に地竜と遭遇したことはあるが翼はなかった。が、今回はちゃんと背中から恐ろしく凶悪なそれが生えている。まさか二度も竜系統の魔獣と遭遇するとは、運が良いのか悪いのか微妙なところである。
これが本当のドラゴン。あまりにも現実味がなさすぎる風貌に世の中にはこんな魔獣もいるのかと、数秒間だけ見惚れてしまっていたハヤト。しかし彼の意識は威嚇の大咆哮で引き戻される。
「ーーーッ!!」
鼓膜が裂けてしまいそうな咆哮に森中が震撼し、身を屈めるハヤトが咄嗟に耳を塞ぐ。バインドボイスとでも例えようか、咆哮することですら攻撃に値する強靭な喉には驚愕しかない。
体の一つ一つが凶器。近づくことは死に急ぐことに直結するのは目に見えている。
だが、
「いいぜ……! 逃げることなんざ頭にねぇし、どの道テメェを倒さねぇ限り、俺の戦いを終わらせることもできねぇんだーーッ!!」
言った直後。
凄まじいマナの奔流がハヤトを中心に渦巻き、次第にそれは彼の肉体から外側へと波紋していく。大気中のマナが震え、この場で息をする存在を取り囲む。それはアクラによって溢れ出したハヤトのマナによる波動の余波だ。
「森の主だかなんだか知らねぇがな。は? 負けるかよ! それがどうした! ンな肩書き、この俺がへし折ってやらァ!」
威嚇するドラゴンに黄金の覇気が爆発し、一挙に襲いかかる。魂の咆哮を上げたハヤトに呼応するように彼に纏われた戦闘の意志が大咆哮し、ドラゴンを威圧した。
生じる衝撃波が彼の本気度合いを物語っている。人一人が発したものとはとても思えぬ暴風がドラゴンの鎧に殴りかかり、宣戦布告と受け取る赤色の瞳が睥睨から臨戦に変化。
全く怯む様子のないハヤトだ。自分より格上という理不尽を前にしても、彼は後ろに引き下がるどころか思いっきり前に突き進む。
向けた威圧は引っ込めない、突きつけた剣先は命に届くまで向け続け。貪欲に勝利に喰らいつく。
ハヤトの咆哮と、ドラゴンの大咆哮が衝突する。森の主を決める戦いが、この世の絶望に立ち向かう戦いが、始まろうとしている。
ーーその時、遠くで火柱が成った。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
奇しくも、二つの声は同時だった。
一つは月光に照らされた舞台で一人の男が託されたものを守るためにドラゴンと正面衝突を始めようと咆哮し。
一つは炎と漆黒の混ざり合う世界で一人の男が誓った約束を守るために魔女教徒と正面衝突を始めようと咆哮し。
最終戦の幕開けを告げようとしている。
その男達は普段から正反対であった。
好き嫌いの話ではなく性格が正反対なのだ。一人は自信に満ち溢れ、常に前を向き。一人は自信のカケラもなく、常に後ろを向き。
その程度は凄まじいもの。性格が故に、考え方すらも正反対の二人は、一つのことに対する反応に分かりやすい反対っぷりを見せる。そのお陰で見ている側が笑ってしまうという事態が発生しているが。
しかし、そんな二人が同じ方向を向く時がある。同じ方向を向いて、同じ考え方で、同じ意志を心に宿す瞬間が二人にはあった。
今、その瞬間が訪れる。
二人の影が重なり、離れていても同じ意志を宿す両者が。剣先を突き向け、命の炎を燃やし続ける声が。一言一句、違わず、世界の中で共鳴する。
普段は正反対なはずの声が、その姿が。けれども今この瞬間に重なって、
「「かかってこいよ!」」
目の前の絶望へと、飛びかかった。
どうも、久しぶりの後書きノランです。本来は書く予定はなかったのですが、一つのご報告にと、場違いなタイミングで登場しました。
この物語が終盤に突入し、真ん中あたりまできた今。このお話を最後に書き溜めがついに尽きました。割と書く時間も取れず、ここから先はのんびり更新が本格的に息をしてきそうです。
余談ですが。
今回のお話の文字数は一万八千文字超えと、過去最高になりました。二話に分けてもよかったのですが、キリが悪かったので。
ようやく認めたテンの恋心。自覚しそうになる描写は今までにも散りばめたので、分かってた方もいらっしゃると思います。
彼の心が受け入れられない理由がちゃんと分かるのはもう少し先です。まぁ、その理由も細かく散りばめたので分かる方はいるかもしれませんが。
最後、無理矢理感があったような……。
さて、ここから最終戦。二人の死闘を最後まで見届けてくれると嬉しいです。