やってやりましたよ。初めて一万文字以内に収めてやりました。その代わり次回が長くなる可能性が出てきましたが。
少し時間を早送りしよう。
二階の西側へと案内されたテン。西側ではなく西棟の方が言い方としては正しいと思うが、そんなことは対して関係ない。
あの後、「つまらない話をしてごめんね」とレムに謝ると「そんなことないですよ!」と彼女から強めに返されたから少し驚いたテンだが。
「この部屋の中で、早朝に太陽の光が一番初めに差す部屋ってどこか分かる?」
「そうですね…。太陽は西から東に過ぎますから。必然的に一番奥の部屋になります。どうしてですか?」
「その方が朝起きやすいでしょ。太陽の光が何よりの目覚ましになる。起きれないとは思わないけど、寝坊はしたくないからね」
などの会話があった後、部屋を決めたテンはすぐさま制服に着替えた。着替えた後はレムと一緒に厨房へ。時間も昼食の時間だったからそのままの流れで作業開始。ハヤト達と合流した。
そして、現在。
「芋の皮むきって、意外とムズイな」
「所詮、脳筋は脳筋でしかなかったわね。使えないのは頭だけじゃなく、手先も含まれていた。上達の気配すらないだなんて」
「なんて言われようだ。ってぁあ、危ねぇ。危うく手ぇ切るとこだった。あ、飛んでった…」
「もう十個はお芋を無駄にしてる気がするんだけど。脳筋には慣れという概念が存在してないのかしら。手も震えてるし」
「これは半ばお前のせいだからな? 地獄の廊下掃除に次いで窓拭きまでやらせやがって、先輩の名が聞いて呆れるぜ」
厨房にそんな掛け合いが続く。軽口に軽口を重ね続ける両者が、終わりのない軽口合戦を皮剥きの隣に添えている。
声の発信源は二つだ。椅子に座って机の上に置いてある芋の皮むきと絶賛格闘中のハヤト、そして彼の隣で同じく椅子に座って芋の皮むきをしているラム。
ラムの視線の先にはナイフと芋を持って数十分前から皮むきを練習中のハヤト。だが、一向に上達の気配が見られず彼女は顔を顰めている。自分が教えているのだから、上達してくれないと困ると。
加え、たった今ハヤトの手の中から芋が飛んでいった。強く握りすぎて押し出されるように明後日の方向へ。
拾い上げられたそれが行き着く先は、同じく落下した九個の芋が入っているボウルの中。通算十個目である。
次なる芋へと手を伸ばすハヤト。生きた芋が入っているボウルの中に手を入れる彼を見てラムは呆れてため息。ここまでくると何も言えない。
「なぁテン、皮むきのやり方教えてくれよ。お前はさっきやった時できてたよな」
自分の限界を感じたのか、ハヤトが導き出した答えはテンに頼ること。ついさっき試しにやらせてみたが、彼は割とすんなりできていた。ただ、途中で皮が途切れる雑なやり方ではあるが。
何にしても自分より上手い人がすぐそこにいるのだから、ハヤトが声をかけないわけがなく。お鍋でぐつぐつ煮込むレムの隣で野菜を切る担当を担っていた彼は「んー?」と振り返り、
「お芋の皮が剥けないって?」
「そーなんだよ。ちょっと教えてくれ」
ナイフと芋を突き出して「やってみてくれ」と実演を要求するハヤト。十個も芋を無駄にした彼もそろそろ焦りを感じてきたのか、テンに縋る思いで頼み込んだ。
親友の頼みならば仕方ないーーというわけでもなく。頼まれたからやる程度の心持ちで自分が使っていたナイフを置くと、「貸してみ」と言いながらテンは彼からナイフと芋を受け取り、
「よく見てな」
「おう」
言い、机を挟んでハヤトの前の椅子に座るテンは無言の集中。右手でナイフを固定し、左手の指先を器用に使って芋を回していくとハヤトの前で綺麗に皮が剥かれていく。
ラムのように剥かれた皮が一本の線のようになっているわけではないが、自分のように実ごと抉るのではなく皮だけを剥けていた。これに関しては素直に「おー!」と感心するハヤト。
幼少期のトラウマは克服したのか。レムの横で野菜を切っていたことも含めると、ナイフの扱いは自分よりも彼の方が今のところは一枚上手だった。
感心しているうちにもテンは作業を終わらせる。皮が途中で途切れて三本線が机の上に出来上がったものの、見事に皮むきを終わらせていた。
「ん。こんな感じ。なんか掴めた?」
「そう言われてもな……、もっかい!」
「えぇ。俺も野菜が残ってんだけど」
「頼むよ。あと一回でいいからさ!」
「……分かった。あと一回だよ」
皮の剥いた芋をボウルに入れたテンに次なる芋を手渡すハヤト。有無も言わさずゴリ押しする彼に面倒そうな顔をしながらも、結局テンはもう一度実演することに。
尤も、「あと一回でいいからさ!」は、この後も連続して要求されることの分かりやすい前振りであることをテンは知っている。故に、彼は説明求むとばかりにラムに視線を飛ばした。
ラムがテンの視線をどう受け取ったのかは不明だが、皮むきを一旦中断したことから察するに説明係になってくれるのだろう。任せたテンは同じように皮剥きを開始した。
「むむむ…」と目を凝らすハヤトが自分の至らない点を探るようにその一つ一つを見る。指の動き、手の動き、ナイフの動き、全てを視界に収めて頭に記憶する。
その隣で口を挟んだのは説明係もといラム。彼女は「いいこと、脳筋」と言葉を繋げるとテンの手元を指差し、
「ナイフは絶対に動かさない。ナイフは固定して野菜の方を回すのよ。テンテンを見なさい。雑だけど、やり方は正しいから。雑だけど」
「二回言うか。でも実際のところ、包丁の切れ味はピカイチだから、俺のやり方でやればハヤトなら簡単にできるよ。俺にできてお前にできないわけがないんだから」
と、先ほどよりも早く皮剥きを終わらせたテンが今度は二本線で済ませ。実だけとなったそれをボウルの中に入れる。彼の自己解釈の仕方には問題がありそうな雰囲気だが、誰も触れない。
それよりも、二度にわたる実演とラムの説明を受けたハヤト。彼は「よっしゃ!」と気合を入れてテンから返されたナイフを片手に十一個目の芋へと手を伸ばした。
それが新たな犠牲者にならなければいいなと心の中でラムは思う。
そんな彼女の中にある小さな懸念は、
「お、できた」
意外にもすんなりと行われたハヤトの皮剥きによって解消された。流石に見違える動き、というわけではないが。少なくとも、先ほどの実ごと抉るような粗末な皮むきではない。
そのまま慎重に進めるハヤトにラムも自分の作業に戻る。一度出来れば誰でもできる芋の皮剥き、特に心配する必要もないだろう。
事実。三十秒程度の時間はかかったものの、彼は剥いた皮の本数が十四本線という異常な記録を叩き出して皮剥きを完了させていた。
「よし、よしよし!」と声を上げるハヤトは自信満々な様子でボウルの中に芋を投入、すぐさま次なる芋を手の中に入れながら嬉しそうな表情をしていた。
小学校の家庭科を思わせる場面に、しかし誰も口を挟むことはしない。一人はしゃぐハヤトも誰も言葉を発さないことなど眼中になく。彼は背中を向けるテンに芋を持つ拳を突き出すと、
「おっし。待ってろよ、テン! 俺も練習に練習を重ねてお前よりも上手くなってやるからな! 今すぐは無理でも、近いうちに必ず追い抜いてやる!」
今ので自信がついたのか、テンに宣戦布告した彼は張り切って皮剥きを再開。不器用ながらもやり方を教わる前と比べたら少しはマシになったようで、自信満々なハヤトの長所が光り始めた。
コツさえ掴めば後はなんとかなるのがハヤトの凄いところ。空手で培ったスキルだろうか、基本的に彼は慣れてしまえば気合いで全部やり切ってしまう恐ろしい人間だ。
もちろん、テンはそれを一番理解している。それに彼に追いつかれて、追い抜かれることなど嫌というほど思い知らされてきた。だから彼は言う。
振り返り、微笑み、心のささくれを無視して。
「うん、頑張れよ」
「おいそこは、俺も負けねぇ! とか言ってくれよ。張り合いのねぇやつだな。お前の性格上、そんなこと言わないとは思ったけどよ」
ノリの悪い返し方に出鼻を挫かれるハヤトだが、全く張り合いのないテンはそのまま何も言わずに体を元の向きに戻してその会話を自然消滅させる。
彼が張り合ってこないのはいつものことだからそのままハヤトも流した。彼は自分とは真反対の性格と知っているから、この対応もなんとなく予想はしていた。相変わらずつまらない男である。
尤も、その部分は男として大切な部分であり。それを否定する彼は男として大事なものが欠落していることになるが。
「お前、もう少し張り合い持てよ。男としてどうなんだ?」
「俺がお前に勝てるわけねぇだろ」
「だから、そーゆーのがって…。まぁいい、いつかその捻くれた根性は俺が拳で叩き直してやるから覚悟しておけよ」
「え、無理だけど」と笑いながら軽く受け流すテンはレムから渡された食材をまな板の上でザクザクと切る作業を開始。
与えられた仕事を淡々と熟す様は、自分の言葉を真面目に受け取ってないようにハヤトには見えていた。
▲▽▲▽▲▽▲
さらに時を進めよう。
太陽がてっぺんを過ぎ、それから徐々にその姿を地平線へと沈ませてお月様とバトンタッチ。青色をしていた空はいつの間にか吸い込まれてしまいそうな程に黒く染まる。世界に夜が訪れた。
午後の仕事、更に夕食の時間が過ぎたテンとハヤトの二人。現在、彼らは初日の仕事を終えて屋敷の浴場へと足を進めている真っ最中である。
「あぁ……、疲れたぁ」
「んな。流石に疲れたわ」
バスタオルを肩からぶら下げ、ヘロヘロになった様子で長い廊下を歩く二人が浴場までの遠い道のりをゆっくりとしたペースで進んでいく。
部屋から風呂場まで徒歩三分程度かかる距離とは。疲れを癒すために風呂場に向かうはずが、癒す前に力尽きないか少しばかり不安になるところ。
だがしかしここまで頑張った後のご褒美、極楽タイムに辿り着く前に力尽きては意味がないと彼らは歩く足に力を入れる。腕に入れる分を使ったせいで両腕は力なく垂れているが。
「んで? 推しキャラと一緒にお仕事をしたご感想は?」
隣のテンにニヤニヤしながら問いかけるハヤト。流れる風景画を横目に彼はテンに興味ありげに視線を向けた。
ハヤトは、隣の男がリゼロファンであると同時にレム推しであることも知っている。自分以上にリゼロが好きであることも十分知っている。
だから、彼がレムに指導を受けるとロズワールから言い渡された時は、絶望の表情を見せるテンに笑いを堪えるので必死。推しと二人っきりになれる状況ならば喜ぶのが普通だと思うがテンの場合はその真逆、反応が面白すぎた。
厨房での後ろ姿を見た感じでは関係は良くも悪くもない『普通』といった風に見えたが。実際のところはどうなのだろうか。
そんな、女性経験の薄っぺらい親友ともしかしたら恋バナが出来るかもーーというハヤトの期待を他所にテンは「決まってんじゃん」と更にハヤトの期待を膨らませる前置きをして、
「仕事に必死で、んなこと一ミリも頭の中に入ってこなかったよ」
「それ以前の問題だった!? いやおま、だって推しキャラと一緒に仕事できるって絶対にありえないことなんだぞ? 全レム推しの中で一番得してんだぞ?」
期待させておいて突き落とす。折れ曲がった背筋を伸ばすテンは「んーー!」と声をこぼしながら背伸びして、
「ごめん、本当に必死で眼中になかった。正直な話、視界に入らなかった」
「今お前、全レム推しを敵に回したからな。『そこ代われよ』とか言われるからな」
視界に入らなくなるまで過酷な仕事とは一体何だったのか。別の方向で疑問が浮かぶハヤトがテンの感想に落胆気味に肩を落とす。
どうせなら「虚無になった」とか面白い感想を期待していたのだが、まだ仕事に不慣れな彼は目の前のことに手一杯。隣にいる少女のことなど気にしてる余裕はなかったと。
情けないというか、なんというか。もう少しその辺は男らしく頑張ってほしかったハヤトだ。推しならば少しは距離を詰めようと、普通なら何かしらのアクションをするはずなのだが。
ロズワールと対談していた時の彼はどこへ行ってしまったのか。自信のない彼の裏側から偶に顔を出す男気の片鱗は、今は一カケラも感じられない。
「ちぇー、本当につまんねー奴だな。男ならもっとガンガンいこうぜ。いのちだいじにしてんじゃねぇよ。攻めてこうぜ」
「表現が突飛すぎる。人間関係でいのちだいじにしてどうすんだよ。ガンガンいっても相手に変な奴だと思われてアウトだし」
「大丈夫だって。女の子ってのは少しくらい向こうから来てくれた方が嬉しいんだよ。表に出さないだけで、こっちから動くのを待ってんだ」
「彼女持ちは言うことが違いますねぇ。お前と話してると自分が惨めに思えてくるよ」
これだから陽の民は。と陰の民であるテンは手を広げて首を横に振る。自分と対極の存在すぎていっそ清々しさすら感じてくる彼の言葉が果てしなく遠い。
こういう会話をしていると人間としての差を改めて実感するテン。今日だけで何度彼と自分を比べられて、自分の中で比べて、その差を思い知らされたか。恐らくこれからも実感するであろう深い溝。
自分が嫌になる。隣で歩く男の背中が、嫉妬すら抱けない程に遠過ぎて。どれだけ手を伸ばしても、伸ばしても、やっとの思いで掴んだ背中はすぐに離れていく。
どうしてこの男と親友になれたのか本当に不思議だ。反対なら意見だって対立するはずだ、相性最悪のはずだ。なのになんで。
「じゃあ俺が今から女の子に対する『ガンガンいこうぜ』を実演してやる。皮剥きを教えてくれたお返しにな」
「ーー?」
ふとした瞬間から心の中に意識が入っていたらしい。掴まれた肩にハッとしてテンは意識を現実へと舞い戻らせる。反射的に声の方向に顔を向けるとハヤトが扉の前で立ち止まっていた。
しかしその扉は確か空き部屋だったはずだ。中に一体誰がいるのか。と、考えているうちにもハヤトは扉を押し開きーー、
「よぉ、ベアトリスぅ!」
「にゃあ!?」
どこぞの受信料支払えとは別格の勢いでハヤトが扉の中へと突撃。ぶっ飛ばされかねないことを懸念した彼は、空間の主に有無も言わさず境界線を越えて行った。
その突撃に空間の主ーーベアトリスも心底驚いた様子。扉の直線上、奥の方で三脚に座って読書中の彼女は、猫が喉から発する声を盛大に響かせながら背筋をピーンと伸ばして驚愕。
ありえない人物が登場したかのように目を見開くベアトリスは思わず膝から本を落とした。
「な、なな!? またお前『扉渡り』を破りやがったかしら! それ以前にどうして屋敷に残ってやがるのよ!」
「聞いて喜べ。それは、俺がこの屋敷の未来の騎士として名を馳せるーー前に使用人として雇われたからだ! これから毎日ここに来る予定だからそのつもりでよろしくな!」
「聞いて喜べないかしら!? 誰がそんなことを、それよりもいつそんな話が。ベティーは何も聞いてないのよ」
「そりゃお前が朝食の時間に来なかったからだ。あの時のテンはすごかったぜ……、お前に見せてやれなかったのが残念なくらいだ」
「しみじみした様子で語り出すんじゃないのよ」
楽しげに話すハヤト、ウザそうなベアトリス。置いていかれるテン。一瞬にして混沌とした空間が展開される。
「なるほど」テンは納得。扉を開いたのはそこが禁書庫だと分かっていたから。そして、ハヤトは彼女のような幼女には容赦がないから。
まさかガンガンいこうぜを実演する相手がベアトリスだとは思わなかった。彼女が相手だと実演する趣旨が『女の子にアタックする方法』ではなく『幼稚園児と仲良くなる方法』にすり替わってしまう。
尤も、ハヤトがそれを気にかける様子はない。
「お前このやろう。さっきはよくも豪快にぶっ飛ばしやがって、あれ普通に痛かったんだぞ。机の角に頭ぁぶつけるしよ。死んでたらどうすんだ」
「ニンゲン、そんな程度で死にゃしないかしら。お前みたいな無駄に図体のデカい男なら尚更。なんなら、またぶっ飛ばしてやってもいいのよ」
「別に構わんが。それをするとなると禁書庫の中で大合戦することになるが。お前はそれでも?」
「コイツ、何する気かしら……」
話しながら近づくハヤトが拳を握りしめ、挑戦的な笑みを浮かべる。あれほど豪快にやられたにも関わらず彼の闘志は昂る一方で、その気になれば今すぐにでも飛びかかってきそうな気配がある。
ぐるりと内部を見渡すハヤト。使えそうなものは何かないかと視線を巡らせ、駆け回るなら本棚を障害物にするのがいいか、などと本格的な戦略を頭の中で構築し始めた。
が、そんな彼の構築虚しく。何かに気づくようにベアトリスは視線をハヤトの後方ーー扉から顔を覗かせているテンに移すと、
「あの男もお前と同じ類かしら? 随分とひ弱そうに見えるのよ」
「おい、テンのことを悪くいう奴は例えツンデレ幼女だとしても許さねぇぞ。よし分かった、頭撫で回しで許してやるからこっちこい」
腰に手を当て、胸を張りながら鼻を鳴らすハヤトにベアトリスが目を細める。
朝にもされた意味の分からない温かさ。それがまた頭に添えられると思うと、不意に沸き上がる感傷が心にチクリと刺さるが。ベアトリスは知らんぷり。舌打ちして顔を顰める。
「ふざけんじゃないかしら。二度とやるんじゃないのよ」
「そう言われるとやりたくなるんだがーー」
言い、近づくハヤトの足が止まる。
止まる、ではなく止まらされるの方が正しい。なぜなら、ベアトリスが無言ながらに手の平を掌底のように突き出したからだ。向けられた手の周囲が歪んで見えるそれは魔力の収束、即ち衝撃波の予兆。
来るか? とハヤトが身構える。いつものが予兆無しに放たれて身体を押し出すならば、自分も動かなければならない。
息を潜めるように沈黙する両者が睨み合う。軽快に軽口を挟んでいたハヤトも、ウザそうに返していたベアトリスも、この瞬間から何かのスイッチが入ったかのように空気が変わった。
そんな二人の均衡が崩れるのはーー、
「ハヤトぉー! 早くお風呂いこーよー!」
シリアスブレイカーことテンの一声。緊張の走る禁書庫の外から呑気な声が聞こえてきたことで、両者に流れる緊張の沈黙が気まずい沈黙へと途端に変化した。
本人としては完全に無意識だろうが、たった今、『絶対に追い出す大精霊 VS 絶対に追い出されない男』の争いを止めたことをテンは知らない。睨み合っていた両者の瞳が興醒めしたように冷めていくのを感じない。
固くしていた身体から力を抜くハヤト。彼は吐息して脱力すると、
「やめだやめ。今日は疲れた、やるならまた今度な」
「ふんっ。別に今すぐやってもベティーはいいかしら。けど、お前がそういうなら今は引いてやってもいいのよ」
顔を背けるベアトリスの言葉を受け取るとハヤトは彼女に背を向け、出口へと歩き出す。一度は険悪な空気が流れた禁書庫も、親友の邪魔が入ったせいで冷めてしまった。
手を下ろすベアトリスもハヤトに衝撃波を放つ気配は見られず。落ちた本を拾い直す彼女は再び読書タイムへと意識を向け始めている。そうなれば二人の一場面は終わることになった。
「おっせぇよ。いつまで話してんだ。つか、今のを俺にやれってそれは無理な話なのでは?」
「それは頑張るしかないな。ガンガンいこうぜはこうやってやるもんだ。相手のこととか無視して自分の意思を押し付ける感じで」
「それをやられるベティーの気持ちを少しは考えたらどうかしらー!」
「あ、聞こえてたか」
遠くから聞こえてくるハヤトの言葉の中に聞き捨てならない文章。突き向けた指をぶんぶん振るベアトリスは、不満感を全面的に押し出して彼に怒る。が、「悪ぃ悪ぃ」と首だけ振り替えるハヤトは笑うだけ。
そんな彼を見ていると怒っている自分が馬鹿みたいに思えてきたベアトリス。彼女は変に熱っぽくなった心を冷ますために一旦落ち着き、深呼吸。柄にもなく乱れた精神を整えた。
整えて、本に移すはずの視線が勝手に前を向く。見えたのはハヤトの背中。小さくなっていく男の背中が見える。
「ーーーー」
足音が、自分から遠ざかる。さっきまで手の届く距離にいた男の足音が、自分から離れていく。
どうしてそれを自分は見ているのか、分かるけど分からないふりをする彼女は何も言わない。ただ見ている。それだけだ。
ハヤトが開いたままの扉を越えて禁書庫から一歩踏み出す、踏み出した足から目が離せない。こちらに笑いかける表情が瞳に焼き付いた。それを最後に、扉がゆっくりと閉められていく。
ゆっくりと、ゆっくりと。そう見えているのはきっとベアトリスだけで。彼女は閉まる扉と扉の縁、その隙間から見えるハヤトの姿を最後の最後まで見送り。
完全に閉まる寸前。ふと、彼女の頬が寂しげに緩んだ瞬間、
「そうだ、言い忘れてた」
見ていた隙間が一気に広がり、ベアトリスの瞳に出ていくはずだったハヤトが帰ってくる。帰ってこないと思っていた声が、自分の鼓膜を優しく刺激した。
呑気な声色と一緒に彼は、こちらへと太陽を思わせる満遍の笑みを浮かべると、
「また来るぜ。ベアトリス」
その言葉を聞いたベアトリスの心臓が強く跳ねたのは間違いではない。誰にも言われなかった発言を、会って一日にも満たない存在に言われて、ひどく動揺していることは間違いではない。
ただ、ベアトリスはそれに気づけない。気づけないほどに頭の中が真っ白になっていた。告げられた言葉から、訪れた温かさから、目を逸らそうとして。
「またって、どういう意味かしら」
「そのままの意味だぜ? また、お前の場所に遊びにくるってこった」
軽く手を振るハヤト。彼はそう言うと楽しげに笑声を口から漏らした。そうして言いたいことは言ったと彼女に背を向けると、
「ーーまた来るぜ。ベアトリス」
▲▽▲▽▲▽▲
扉が閉まり、空間からハヤトの気配が消え、僅かに彼の声だけが漂う。一人となったベアトリスは詰まった息を吐くと、膝上に広げた本を読み始めた。
「…なんて、自分勝手な奴かしら」
たった今、部屋から出ていったハヤトに嫌味を言ったベアトリスが本の中に意識を沈ませようと文字を目で追う。しかし、その内容が頭の中に全然入ってこないのはなぜなのか。
間違えなく、たった今部屋から出て行った男のせいだ。その男が部屋を出て行く直前に言ってきた言葉が頭に張り付いて離れてくれない。心に灯る淡い光が、朧げに光を発し始めている。
ーーまた来るぜ。ベアトリス。
「…なんて、勝手な」
自分の領域に軽々しく足を踏み入れて意味不明な会話を始める男が、また入ってくると発言したことがベアトリスには引っかかっていた。
普段から簡単に破れる事のない扉渡りを破る宣言をしたからもあるが。それ以外にも、なにか彼女の中で反応する部分があって。
ーーまた来るぜ。ベアトリス。
無意識に、頬が釣り上がる。
「勝手にするがいいのよ。次は豪快にぶっ飛ばしてやるかしら」
心の端っこで反応する温かい感情には気付かぬまま。ベアトリスは一人、悪戯っ子のように笑った。
後半の内容は昼食中に思いついて書き足したものなので、心理的な描写が上手くかけてるか微妙なところです。
評価バーに色がついたこと、お気に入りの数が増えていくこと、UAが1000を超えそうになることが朝起きて理解しました。それに相応しい物語を書けているか正直不安しかないですが。頑張ります。
評価をつけてくださった方、お気に入りに登録してくださった方、感想を送ってくださった方。ありがとうございます。