その時、テンは己の死を察した。
刹那の勝負。何度となく展開されてきた、時間の経過が曖昧になった空間の中で、テンは直感的に瞳に映る光景、その先を理解した。
最高だった。最高潮だった。全てを出し切った自分は、今までのどの自分よりも洗練された自分だった。命を賭け、魂を燃やし、全活力を注いだ——いわゆる、覚醒状態だった。
今の自分ならば、ロズワールにも一撃だけなら叩き込むことができるかもしれない。人外相手にも良いところまではいけるかもしれない。
自信のない自分が勝手にそう思うのだから、かなり極まっているのだろう。数々の苦難を乗り越えて、生死の境目を往復し、最後には命すらも削って、自分は覚醒に至った。
なら、この戦いにも勝てるはず。生きて、みんなのところに帰れる。
そう、思っていた。
ーー結局、ダメだったか
ひどくゆっくりと世界は動く。故に、テンは分かってしまった。どちらの剣速が勝っているか、どちらの鋼が刹那を上回ったか、どちらの手首が撥ねられるか。
受け入れられぬ事実を、しかし受け入れるしかないと。それら全てをこの刹那に理解した。同時に、自らの死亡絵図が脳裏に描かれる。見たくないのに、勝手に浮かんでは、焼き付く。
ーーごめん。ハヤト
落ちる鋼の速度はほぼ同等——『ほぼ』同等。同じ土俵に立つ両者が振り下ろした鋼は、しかし僅かながらに差がある。表すことすら不可能な差、コンマの差が二つの間には生じていた。
皮肉にも、その差は魔女教徒の鋼の方が僅かに速いことを語っている。見えるのだ。自分の手首に近づく鋼と相手の手首に近づく鋼、どちらの鋼が手首に近いかが。
大した差でもないそれは、しかし刹那の勝負には勝った者に勝利をもたらす。だから、テンは己の死を察した。
ーーごめん。ラム
一の太刀で手首を刎ねられ、斬撃の威力に手首が刀を巻き添えにして跳ね上がり、続く二の太刀で無防備な体が一刀両断——なんとも情けない終わり方。
これが本当の終わりか。全身全霊を尽くしても、命を対価にしても、自分の持ちうる全てを限界を超えて発揮しても、結局は相手の命には届きはしない。
ーーごめん。エミリア
なんだよそれ。完全に勝てる流れだったはずだろ。ここまで確定演出が入っておきながら負けるとか、ありえないにも程がある。そこがまた自分らしいというか、なんというか。
相変わらず世界は理不尽で、非情で、現実は残酷だ。揺らがぬ決意。折れぬ覚悟。整った心もろとも鋼は叩っ切る。意志だけでは届かない領域に来てしまった自分を、容易く殺す。
振り下ろす軌道はもう変えられず、刀は振り切るしかない。全てを賭けた一撃を、死を悟りながら放ち切るしかない。
ーーごめん。レム
想い、伝えられなかったな。
自分の中に溜め込んだまま、その想いと共に死んでいく。この騒動が終わったら、ちゃんと向き合おうって、そう思えたのに。時すでに遅し——遅すぎる。
自分が死んだら、みんなは泣いてくれるだろうか。もしそうなら、たくさん泣いてほしい。それで自分の死を乗り越えられるなら、気が済むまで泣き叫んでほしい。とは、勝手な願いだろうか。
ーーごめん。ごめんなさい
ロズワールが鍛えてくれたのに、無駄にしてしまった。
ベアトリスとも、もっと仲良くなりたかった。
パックに怒られるかな、娘の騎士になれなくてごめんね。
ハヤトに託されたのに、アイツの期待に応えれなかった。
ラムとの約束、五体満足どころか命すら満足に守れなかった。
エミリアと交わした三つの約束も、何一つとして果たせなかった。
レムとの約束も、結局は破ってしまった。
ーーもぅ、当たる
刹那が無限に伸び続ける世界で様々な想いが込み上げてくる中、脳裏に過る一人一人に感情を抱く間に鋼は当たる。もうすぐ、右手首が切断される。
今更どう足掻いても結末は変わらない。視線の先で血飛沫が弾けて、激痛の数瞬後に自分の命はこの世から永久に去る。全てを置き、たった一人で。
ーーごめん。本当にごめんなさい
謝罪が止まらないのは、見える腕輪が後悔を爆発させているからだ。レムが右手首に付けた、青色の腕輪が、今まで過ごしてきた記憶の全てを解き放っているからだ。
けれど、斬撃を刻む鋼はそれすらも断とうとしている。皮膚の前にレムとの絆の証を断ち切り、それから自分を殺す軌道を滑らかに描く。
その腕輪が切られた時が、自分の最期。絆が断ち切られ、命もまた断ち切られる。つまりは本当の本当に、生命の終わり。必死に手繰り寄せた意識は深淵に沈む。
ーーまだ、生きてたかったな
最期にそう思い、テンは刹那の終わりを悟る。
無限に引き伸ばされようとも刹那は刹那。時間は無感情に時を刻み、ついに右手首に飾られた腕輪と鋼がぶつかろうとしている。刹那が終わり、無限の時間が壊される。
そうなったが最期。テンの意識は暗転、深い闇の中に永久に閉じ込められる。今更後悔しても遅い、もう、全部終わったのだから。
ーーーー。
考えることをやめた。
考えたところで意味もない、抗いようのない事実があるから。鋼と腕輪がぶつかるから。思い残すことしかない世界から、強制退場するから。
ただ目は逸らさない。最期の最後まで、結果を見届ける。長く続いた死闘の終止符だ、折角なら見届けてやろうじゃないか。憎しみを持った殺意で、睨んでやる。
もう当たる。もうすぐ。ぶつかる。終わる。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死————、
ーーレムの心はテンくんと共に。刀を振るたびにレムのことを思い出してください。傷なんて構いません。
不意に。
腕輪を渡された時のレムの声が心に響き、テンは未来絵図が壊れた音を聞いた。
彼女の声が、命を優しく包み込む錯覚を得た。
正面。両手を広げ、自分を庇うような青髪の少女の背中が
その瞬間だった。
「ーーーっ!」
カン、と。
これまでには無かった音が両者の鼓膜に飛び込む。鋼と鋼の衝突とはまた違う、物理的な物体と鋼が衝突したような鈍い音。その音が反響した途端、テンは思わず感情が溢れかける。
音源は鋼と腕輪がぶつかった場所。容易く切断されるはずだった腕輪が鋼を受け止め、いっそ見惚れてしまうまでに美しい一閃が、微弱ながらに反発を受けて弾き返る。
ーー守ってくれた?
終焉を迎えるはずの刹那は終わらず、依然として緩慢とする世界で、テンはたった今起こった奇跡に思考が熱を帯び始める。ありえない出来事に、諦めていた勝機を本能が手繰り寄せる。
どうして腕輪が鋼を防いだのか。奇跡か、奇跡だ。この際なんでもいい。都合が良すぎる。知るか。勝手に言ってろ。レムが守ってくれた、それでいい。
ご都合主義万歳。奇跡最高。神様の気まぐれも、たまには仕事をする。どうせなら、オドを消費する前に働いてくれれば良かったものを。
ーーありがとう。無駄にはしない
込み上げる感情をグッと堪え、テンは歯を食いしばる。終わる、終わらせるために。体を動かした。
刀が、右手首を斬り落とす。
斬撃に巻き上げられ、腕輪と右手首が宙を舞った。
鮮血が赤の世界へと視界を誘い、右手首と共に青色の腕輪が宙を舞う——次の瞬間、決着はついた。
長剣の握る手首が神経から切断され、魔女教徒は己の獲物を完全に失う。狂気的に煌めいていた長剣が主人の意志を遮断され、手首と共に明後日の方向に跳ぶ。
故に、手首を断った感情を置いて振り上げられた刀を防ぐ手立てはない。闇に吸い込まれた長剣は二度と帰ってこない。
避けることすら叶わない剣速が魔女教徒の上体を一閃。光の軌跡が自分の真横を過ぎ去ったと肉体が気づいた時、事は済んでいた。
「ーーやっと」
肉の抵抗を一切受けない斬撃を振り抜き、テンは呟く。最後の一閃直後から動きを止めた魔女教徒を正面に、テンは死闘の終わりが形として成るのを待った。
数瞬遅れて事実に気付いた上体が血を噴き出し、生命活動を停止した肉体が倒れる。上半身と下半身が泣き別れになった魔女教徒が、完全に力を失いながら地に堕ちた。
眼下。あれだけ自分を圧倒していた化け物が、血と臓物を溢れさせている。眼下。勝てないと刹那だけ思った強者が、魂を死神に削り取られている。眼下。殺される事を覚悟した格上が、死んでいる。
眼下に映るものが全てだった。瞳に映し出された光景が、死闘の幕引きを告げて。
——形は成った。
そして、静寂は訪れる。戦闘後に決まって訪れる不気味な静けさが、空間に漂い始める。
熾烈な剣戟。飛び散る火花。爆発する火球。跳ねる足音。戦闘が終わった事で、それら全てが途端に消える。それは、大荒れだった海が静まり返り、波一つ立たなくなるような、そんな静けさ。
その静寂こそが、今宵の幕引きを意味している。テンの心に、戦いは終わったのだと知らせている。魔女の気配はもうしなかった。自分の存在しか、感じない。
やっと、終わった。
やっと、勝てた。
やっと、倒せた。
やっと、やっと、やっと——、
「やっと、届い……、た」
死した肉体を見下ろし、テンは掠れた声で喉を弱く震わせる。ノイズが走ったような粗い声が地に落ちると、彼は深く息を吐く。役目を果たした右腕から活力が抜け、ダラリと垂れる。刀の切っ先が地面に触れた。
最後の最後で、やっと命に届いた。どんなに頑張っても届かなかった命に、レムが届かせてくれた。彼女の想いが、自分を救ってくれた。
こんな時にまで、自分は彼女に助けられてしまった。今まで何度も助けられて、支えられて、救われて。また一つ、彼女にお礼を言わなければならないことが増え————、
「ーーーぅ」
考えていた途中、テンの口から熱が吹き上がり、彼の身体がゆらゆらと揺れる。流法を酷使し、オドを消費し続ける代償が吐血として現れたのだ。流しすぎた鮮血が、また流れ出る。
彼に時間は残されていなかった。今の彼は命が燃え尽きるまでの時間を延長しただけで、その分が終われば、彼は燃え尽きる。それが早いか遅いかの話だっただけのこと。
だから、テンに時間は残されていない。
戦闘の余韻にすら浸れないテンは、直後から全身を戦闘の反動に蝕まれる。外側からも内側からも、傷という傷が彼を蹂躙していく。血が、ゆっくりと、止めどなく溢れる。
痛みがないのは幸いだったのか、どうなのか。きっと感覚がおかしくなったのだろう。斬られすぎて麻痺している。
「……腕輪」
自らの命が燃え尽きようとしている中、ふと彼は脳裏にレムの姿が過る。過ぎって、彼は損失した絆を思い出した。
残り少ない体力を振り絞り、テンは声にした物体を探し求める。まだ倒れぬと踏ん張る二つの足で身体を支えながら、死よりも優先する光を手にするために、視線を彷徨わせた。
腕輪、腕輪、レムとの絆の証。断ち切られて何処かに飛んでいったはずだ。遠くには落ちてない、近くに落ちてる。どこだ、どこにある、レムに返さなくちゃいけない腕輪はどこに、
「あっ……」
見えた。自分の場所から少し先。月光を直で浴びる一本の樹木の根元に落ちている。光を反射させて、「ここにいますよ」とレムが言っている。
ーー行かないと
衝動に駆られるがままにテンは足を踏み出す——が、一歩目を踏み出した直後によろける。どうにか握った刀を支えに転倒は避けたが、流法を解いた以上はここから一歩でも踏み出せば倒れるか。
もう動いてくれない。次、踏み出せば自分は確実に地に倒れる。倒れたら、二度と立ち上がれない——否、立ち上がる必要はない。
ーー這いずってでも
再び一歩目を踏み出したテンは予想通り、崩れるように前に倒れる。倒れたら、両脚から活力が一気に抜け、代わりになけなしの活力が体を引きずる両腕に渡った。
歩く必要はない、体を引きずっていけばいい。動かないなら、動く部位で動かない体を持っていけばいい。意志の力は、無限なのだから。
気持ちで負けるな。折れるな。それで負ければ、お前は死ぬ。死にたくなかったら、絶対に心を折らすな。例え、死が確定した状況でも。死ぬ瞬間まで、抗え。
抗って、前に進め。想い人のところへ。
「レム……」
進む。
自分に光を与えてくれる人のところへ。行って、伝えなくちゃいけないことがあるから。好きだって、言わなくちゃいけないから。彼女と向き合って、心の整理をつけないといけない。これが終わったら、たくさん悩もうと決めたんだ。
「レム……」
進む。
生きて、生き延びて。彼女の心に真正面からぶつかると決意したんだ。やっと、自分の心とも向き合おうって思うことができたんだ。情けない自分はもうやめようって思うことができたんだ。
「レ、ム……」
進む。
死ねない、絶対に死ねない。まだ何一つとして始まってないのに、達成してないのに、死んでたまるか。志半ばすぎる。約束を何も果たせていない。
「レ……」
進む
約束、したんだ。必ず生きて帰ると。レムと、エミリアと、ラムと。生きて帰るって、やくそく。
「……ム」
進
やくそく、したんだ。
「ーーーー」
しなない、って。
それを最後に、テンの瞳から光が消える。
両腕から活力が抜け落ち、全身から力が抜け、肺の酸素が消失し、意識が闇に呑まれる。
燃ゆる炎が消えかかり、命の灯火が弱々しく点滅している。
意志すら消えた今、命を守るものは何もない。時間と共に、彼は死ぬ。
月光に照らされながら一人、寂しく死んでいく。
縋るように求めた腕輪には、届かなかった。伸ばした手は、想い伝わらず。
あと、数ミリだった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
——遠く、尾を引いて。レムの悲鳴が今宵の悲劇に響き渡る。
感情の爆発した彼女の心が喉を張り裂かんばかりに声を上げ、倒れる想い人の下へと金切り声が一直線に突き抜けた。
あらゆる人間の恐怖を一身に浴びたと錯覚したレムは恐怖と不安に表情を歪ませ、瞳の先に映る光景に悲鳴を重ねる。声を出すことしかできないから、ただひたすらに。
彼女の声が世界の時間を元に戻し、時間の硬直から解放された三人が反射的に地を蹴り上げる。進行方向とは別の方向——光の差す場所へと向かった。
「嘘だろ……。冗談じゃねぇよ!」
テンの下に辿り着くまでの数秒間にハヤトは叫んだ。両手を握りしめる彼は、戦慄が体を突き抜けた衝撃に歯を食いしばった。倒れ伏す親友の姿に心は許容してくれず、最悪の未来が脳裏に走る。
ありえない。そんなはずはない。テンが、自分の相棒が死ぬはずなんてない。託し、託されたのだから。彼がそれらを全部置いて逝くなんてことはない。
「ふざけんじゃ……っ」
戦慄するハヤトの隣で、ラムは静かに声を溢す。声量こそは小さいが言霊に宿る激情は隣の男を軽く凌駕している。レムの感情が心に雪崩れ込み、彼女自身も一瞬にして精神が乱れた。
約束した。必ず生きて帰ると、テンは自分達に約束した。彼は約束を破る人間ではない、なら、彼は生きてる。生きてるに決まっている。生きてなければ許さない。
「ーー! ーー! ーーーー!!」
もはや、レムは言葉として表すことが不可能な声で叫んでいる。恐怖に全身が震え上がり、小刻みに唇が揺れるせいで感情が声になっていない。音にしかならず、音は絶望しか耳に届けない。
愛している人が倒れている。燃え尽きてしまった人間のようにピクリとも動かない。たったそれだけの事実で、レムの心は凍りつき、次第に涙が溢れ出た。
「ーーーー」
その中で一人、誰よりも速く動いたのはベアトリスだった。走る二人よりも先行していた彼女は既にテンの下に辿り着き、既に治癒魔法をかけている。
ムラクを詠唱し、瞬間で彼の下に到着。うつ伏せの体をひっくり返すと傷の度合いを確認。心臓に手を当てて目を細めると「まだ間に合う……」と溢し、両手から世界一優しい光を発し始めた。
この工程を終えたのは二人がまだ駆け寄っている時のことだ。全員が目先の事実に支配されようとも、彼女だけは先を見据えて行動。非常時だからこそ冷静な彼女は誰よりも落ち着いている。
「ベアトリス、テンは! まだ生きてるよな! 死んでねぇよな! 心臓、動いてるよな!?」
「ゆっくりだけど、動いてるには動いてるかしら。けど、かなり危険な状態なことに変わりはないのよ」
駆け寄るハヤトが滑り込むように彼女の真横に膝をつき、テンの状態を見て戦慄に息が止まる。反対側に腰掛けたラムと、彼女の背から無理やり降りたレムも時が止まるように声が止まった。
どうしてか。彼の状態に死相が出ていたからだ。
全身に刻まれた斬撃の痕が惨たらしすぎる。数多の刃をその身一つに受け、引き裂かれた痕が体のどこを見ても目に留まるのはどう考えても異常。
武器を握りしめていた右手は赤く腫れ、幾度となく振るってきた右腕には紫色の痣がいくつも生じ、そのまま上に視線を辿った三人はその悲惨さに声も出なくなった。
右肩に、穴が空いている。刃物が貫通したような縦に長く横に細い穴が、小さいながらに肉体を抉っていた。いつ刻まれたのかも分からないものだが、その状態での戦闘は困難を極めたはずだ。
それだけなら三人は目を背けずに済んだ。それだけじゃないから三人は目を背けた。痛々しすぎる家族同然の男の姿に、思わず目を逸らしてしまった。
見えたのだ。頬に作られた打撃の痣が。右目の下、涙袋に走る一筋の赤い傷が。ドス黒く変色した口内が。重く閉じられた双眼が。
分かったのだ。ソラノ・テンという人間が、どれほど魔女教徒に凄惨な目に遭わせられたのかが。魔女教徒という集団が、どれほど最悪の集団かが。彼の体が奴らの残虐さを物語っている。
その腕で剣を振るっていたのか、その足で地を踏みしめていたのか。その身体で何十人も相手にしていたのか。
——その絶望を理解しながら、たった一人で、必死に戦っていたのか。
「クソが……ッ!」
やりようのない怒りが沸々と湧き上がるハヤト。彼は近くに伸びる樹木に拳を叩きつける。アクラを解いたとは言えどナックルを装備した彼の怪力は衝撃部をへこませ、軋ませた。
その拳からは血が滴っていた。爪が手の平にめり込み、生まれたばかりの血液が小刻みに震える拳を染めていく。感情も一緒に流れてくれるなら、この心も少しは落ち着けただろうに。
まだ彼は生きている。そんなこと分かっている。けれど、その形を見てしまっては最悪の未来が脳裏に焼き付いて離れず。捨て場のない感情は時間と共に次々と溢れ出る。
それでも泣かないのがハヤトだ。瞳の裏側がじわじわと熱せられ、唇が弱々しく震える。が、泣かない。男は簡単に涙を見せるものじゃないと、彼は生唾と一緒に熱を飲み込んだ。
が、
「やだ……。テンくん! テンくん!! テンくん!!!」
今、レムが泣き崩れた。
我慢してきたものが、ついに崩壊する。
これまでにも予兆はあった。テンと別れて以降、彼女の精神は不安定で、ラムの背中で何度となく嗚咽を飲み込んでいた。衝動を、必死に我慢していた。
今のレムは、きっかけさえあれば我慢していた感情が簡単に解放される精神状態。そして、そのきっかけは目の前にいるテンの姿となった。
心臓部に耳を当て、彼の命を確かめるレムは彼の名を何度も何度も何度も呼んでいる。遠のく背中を、呼び止めるように。薄れる影を、追いかけるように。
その鼓動も、今は恐ろしく遅い。規則正しく、時に高鳴る命の息吹は鼓膜を叩いてはくれない。求めるのに、聞こえない。もう彼は死んでしまったのではと思うと、一度だけ聞こえた。
ダメだ、そんなものでは自分は安心できない。もっと聞かせてほしい。生きている証拠を自分に教えてほしい——のに、ひどくゆっくりと心臓は脈を打つ。
「だめ……死んじゃ、だめぇ。レムを置いていかないで。いかないで……いかないで……っ。やだ、やだやだやだやだ。やだぁ!」
期待は叶わない。想いは伝わらない。声は届かない。
耳を胸元に当てた体勢から動かないレムが、滝のように流れる涙をその胸元に溢している。しかしテンは目を覚さない。瞼は開かない。
滴が含んだ期待も。体に寄り添わせた心の想いも、泣きじゃくる声も。レムの行動は、何一つとして結果に結びつかない。望んだ結末を実現してくれはしない。
その事実が、レムを絶望させる。
「死なないで! 死なないで……! 死な、ないでぇ。息をしてください。目を開けてください。声を聞かせてください。ーーレムの名前を、呼んでください」
生死の境目、ほぼあの世に体が傾いているテンの心にレムは声を絶やさない。必死に、がむしゃらに、彼を引き戻す。死んでしまわないように。死ぬ理由なんてないのだと叫ぶ。
生きる理由しかない。理由は自分だ。貴方を想う人がここにいる。彼の生きる理由はそれ一つで十分だ。それ以外に要らない。自分の存在が彼の生きる理由だ。
もっと他にもあるかもしれない。けど、一番は自分にしてほしい。彼の生きる理由の一番は、彼を心から愛する自分にしてほしい。だって、自分の生きる理由も彼なのだから。
ーーレム。
ふと、彼の声が聞こえた。求め続けていた声が突然、鼓膜の中で木霊した。
思わず顔を上げて彼の顔を見るが、依然として目は閉じたままだった。ならこの声はどこから。違う、鼓膜の内側から反響する声は、きっと心の奥底から。
ーー俺を信じて。
声は、自分に語りかけてくる。心に留められた音声が今、再び再生される。どうして今なのか、分からない。けど、口は動いた。
「はい。ずっと信じています」
ーーレムが俺のことを信じてくれるなら、俺も頑張れる。
「信じています。だから、帰ってきてください」
ーー信じて、俺の無事を心から願ってくれたら、もっと頑張れる。
「信じてます、信じてますから……! 帰って、帰ってきてください!」
ーーだから俺を信じて。必ず生きて帰ってくるから。生きて、ちゃんとレムを安心させるから。
「なら、安心させてください! レムのことを、あの時みたいに抱きしめて……心から、安心できるようにしてください……っ!」
ーー約束する。俺とレムの絆に懸けて。
「約束、したじゃないですか! レムの下に生きて帰ってくると、言ってくれたじゃないですか! なら、どうして、どうして……レムとテンくんの絆は、その程度なわけありません!」
声と同時に音声を記憶した瞬間の映像が脳裏に断片的に映る。抱きしめられて、頭を撫でられた時に、そう言ってくれた彼の姿が鮮明に描かれる。
その時の彼は、絶対に死なないと言っていた。生きて帰ると約束した。なら、目の前の彼は何なのか。今にも死んでしまいそうな姿を見せる彼は何なのか。
ひどい。こんなのあんまりだ。こんな結末、誰も望んでなんかない。誰一人として、彼の死を受け入れたりなんかしない。
死相が浮かび上がりつつあるテンから顔を背けるハヤトも。立ち上がり、テンの体に背を向けるラムも。額から汗を垂らしながら、治癒魔法をかけるベアトリスも。この場にいないエミリアも、パックも、ロズワールも、村の人たちも。
彼が死ぬことを許したりはしない。勿論、レムだって。テンが死ぬなんて絶対に許さないし、受け入れない。
だから、
「死なせない。絶対に死なせません」
嗚咽を飲み込むレムがテンの左手を両手で包み込むように握ると、彼女は接した手の平から青色の光を朧げに発する。残り少ないマナを使い、彼に治癒魔法をかけた。
いつまでも泣くな。彼はまだ生きているのだから。泣いてばかりじゃ彼は帰ってこない。
ベアトリスが諦めてないのが証拠だ。なら、自分も諦めるわけにはいかない。否、自分が一番、彼の命を諦めてはいけない。
好きならば、大好きならば、愛してるならば。泣くことよりも先にやることはあるはずだ。泣いてる暇なんかない。
「なぁ、テン。俺はよ、お前ほど仲の良いダチは今までにいなかった。気が合う人間は沢山いるが、ここまで真反対のくせして仲の良いダチは、お前以外にいねぇよ」
レムの正面に座るハヤトが、不意にそんな言葉をテンに掛ける。彼女の懸命な行動が心に響いたのだろう。彼の生還を信じるハヤトが、レムが治癒魔法を開始した直後に口を開いた。
声は震えていない。親友の絶望的な状態に、芯の通った声の彼は力強い目つきでテンの顔を見ながら、
「だから死ぬな。帰ってこい。お前は死んじゃいけねぇんだ。まだ生きてねぇとダメなんだ。俺は、俺一人じゃ頑張れそうにねぇんだよ」
軽く体を揺すり、ハヤトはテンの心に声を流し込む。深淵に沈み切った彼の意識を、引きずり上げる。
「俺にはお前が、お前には俺が。俺とお前が二人揃えば怖いモンなんざなんもねぇよ。ーーお前と俺が騎士になると誓った日に言った言葉だ。覚えてるよな? そうなんだよ。どっちかが欠けるなんざ、ダメなんだ。どっちもいないとダメなんだ」
遠い昔。二人が騎士として歩み出した日の言葉。騎士になる自信のないテンをハヤトが勇気づけた時に叩きつけた叱咤。
紛れもない本心だ。ハヤトとテンは二人で一人。どちらかが欠けるなんて想像したくない。二人で頑張ろう、二人で切磋琢磨しよう、二人で強くなっていこう。そうやって今までやってきた。
「死ぬな。生きろ。勝手に逝くな。約束したんだろ? なら突き通せよ。男だろうが。女に約束したこと守れなくて、お前はいいのかよ。何も心残りはねぇってか? ふざけんな」
「心残りはここにいるだろ」と、言葉を締めるハヤトの声が震え出す。話していて堪えきれなくなった彼は俯き、下唇を思いっきり噛み締めた。それでも堪えきれなかった滴が一滴、溢れる。
これでも頑張った方。これまで鍛えてきた鋼の精神を全く別の方向から崩される彼は『人間の死』という概念には耐性がなく、テンを前にして泣かないので精一杯。
それでもどうにか絞り出した。一番辛いはずのレムが諦めてないのなら、自分が諦めるわけにはいかない。彼女が頑張って、自分が頑張らないなど自分が許さない。
その思いは、ラムとて同じだ。
「王都に行った時のこと、
話の切り出しから思い出を話すラムがレムの隣に座り込む。顔を覗き込み、途端から込み上げる感情に僅かながらに唇を震わせると、
「あの時、テンはラムに「楽しかったか」と聞いてラムは「それなりには」と答えたけど。訂正するわ。ーー楽しかった。あの時間は、ラムには楽しいものだった」
いつの日だったか。ロズワールが書いた論文を近衛騎士団詰所に届けるために王都に訪れ、貴族街から出ることを禁止された時のこと。レムはハヤトと、ラムはテンと、別々で行動した時の記憶。
初めてだった。誰かと何かをして、ただ純粋に楽しいと感じたのは。想い人でも家族でもない、友人関係にある男と一緒に遊んで、楽しかったと感想を抱けたのは。
「また行きましょう。勿論、テンの奢りで。まだ行ってない店が沢山あるもの。だから、生きなさい。いつまでも無様に倒れないで。何度ラムに、らしくない言葉を言わせるつもり?」
言い、ラムも言葉を締める。彼女にしては優しすぎる声色は、彼女が見せた本心だった。
ハヤトが言い、ラムが言う。そして次は、
「な、何でベティーの番が回ってきたみたいな雰囲気なのかしら……」
治癒魔法に集中するベアトリスが腹部に走った一筋の裂傷に手を当てながら顔を顰める。葬式でもしてるのかと聞きたくなる雰囲気に彼女は戸惑いを表に出した。
確かに、そうなっても不思議でないほどに今のテンは危ない状態。だが、自分が診てる以上は絶対に死なせたりしない。だから、あまり深刻に考えていないのが今の彼女。
尤も、掛ける言葉ならある。ため息一つ、「仕方ない奴らかしら」と、
「お前が死んだらハヤトが悲しむ。その状態で禁書庫に来られても困るかしら。それに、ここまで来ておいて死ぬのはやめてほしいのよ。後味の悪い終わり方は勘弁かしら」
簡潔に終わらせるベアトリスはそう言い、口を閉じる。言ってやった感を出した割には感情が込められていたが、敢えて誰も触れない。
四人中の三人が己の胸に秘めた思いを伝え終わる。彼に伝えたいことを、彼を呼び戻すために、彼に伝える。きっと、届いているはずだと信じ。
そして。残ったのは、
「テンくんは、本当にひどい人です」
最後に一人。テンのことを世界で誰よりも愛する少女の言葉が、彼の心に贈られる。握った左手を額に当て、レムは話し出した。
「レムはやっと、テンくんに想いを伝えようって、思えたんです。一歩、踏み出すのは少し怖いですけど。でも、レムはテンくんと今以上の関係になりたくて」
とても長い間、レムはこの想いを胸に秘めてきた。想いを自覚してからどれほどの時間が経ったかは覚えてないけれど。ずっと我慢してきたのは覚えている。
けど、もう我慢できそうになかった。彼に抱きしめられて、伝えたい、伝えなくちゃいけないと、心が告げている。
なのに、
「それなのに死んでしまうなんて、テンくんはひどい人です。まだ何も始まってないのに一人で勝手に消えてしまうなんて、レムは絶対に許しません。レムを惚れさせて、それで終わらないでください」
ひどい人ーーそうだとも。テンはひどい人だ。自分自身の想いに蓋をして、自分の想いと正面から向き合おうとしないで。決意した時には遅く、二度と伝えられないかもしれない状況になった。
ひどい、本当にひどい。愛する人に置いていかれる寂しさをテンは知っているだろうか。知らないはずだ。自分だってたった今、知ったのだから。
「テンくん。レムは、テンくんのことが好きです、大好きです、愛しています。誰よりも貴方のことを愛しています。だから、だからーー」
その先を喉で止めるレムはベアトリスが治癒魔法を終えるのを見た。疲労感のある彼女の体が不意に揺らめき、倒れかけたところをハヤトに受け止められる。
察するに、テンの応急処置は終わったようだ。危険な状況に変わりはないが、命は繋ぎ止めてくれたらしい。なら、あとは自分が彼の魂を深淵から引っ張り出すだけだ。
握った左手をそっと下ろし、身体を動かすレムはテンの腹部に跨がる。それはまさに毎朝の習慣、レムが寝ているテンを起こす時の体勢で、
「ーー最期だなんて言わせません。早く目を覚ましてください。そのまま眠られてしまっては、レムは困ってしまいます」
伸びる右手がテンの頬に当てられ、人差し指が右目の下に作られた傷跡を撫でる。労わるように、寄り添うように。
この構図はレムにとっては慣れ親しんだもの。毎朝、熟睡するテンを起こすために彼の部屋に入り、決まった時間に決まった起こし方で、彼のことを起こす。見慣れた景色だった。
今回も同じ。深く沈んだテンの意識を自分が呼び覚ます。どんな時だとしても、それは変わらない。そのために自分はここにいる。
「テンくんを起こすのはレムの特権なんです。眠るテンくんを起こすのは、いつだってレムなんです」
ずっとそうだった。
恋心を自覚して以降、毎朝テンを起こすために自分は彼の下に行く。朝だけじゃない、仮眠の時もそうだ。眠りから目覚めるときは、必ず自分が傍に居る。
そして、彼は自分に声をかけられて起きるのだ。深い闇の底から、優しく引っ張り出されるのだ。今までも、これからも、それは決して揺るがない。彼の目覚めには、必ず自分がいる。
だから、
「ーーレムは信じています。テンくんがレムの声で目覚めてくれると。レムの声が暗闇に沈んでしまったテンくんの心に届くと。この想いがテンくんに伝わるとーーレムは信じています」
三人の祈りの全てを言霊に注ぎ。そこに溢れ続ける自分の想いを乗せて。眠り続けるテンの心に届けと願い。
レムは、いつものように言った。
「ーー起きてください。テンくん」