親友とリゼロの世界に飛ばされたお話   作:ノラン

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黄泉路に届いた想い

 

 

 

 

 ——音が、聞こえていた。

 

 

静かな音だった。心が落ち着いてくるような。目を瞑り、体の力を抜いて、寝転がり、ただ永遠と聞いていたくなるような。そんな音。

 

 

 ——音が、聞こえた。

 

 

水の流れる音に近かった。一つの流れに身を任せた水が、どこに行くわけもなく真っ直ぐに進んでいる音。ゆっくりと、ゆったりと。

 

 

 ——音が、聞こえる。

 

 

聞いていると、水が流れている音ではないことに気付いた。違う、水を掻く音だ。何かが水を掻きながら、水の上を流れている音。

 

 

 ——音は、聞こえない。

 

 

他の音は聞こえない。風が木々を撫でながら過ぎ去る音も、撫でられた木々が騒めく音も、生きとし生ける者達の息吹も、自分の命の音も。

 

聞こえる一つの音すら極小で。耳を澄ましていても鼓膜は拾い損ねる。響く全ての音が、その空間にはきっと不要で。無音に等しい世界が鼓膜の外側には広がっていた。

 

瞼の表には何が映ってるのだろう。そんなことを思う。目を開けたとき、自分の外側には何があるのだろう。無音の世界には、何があるのだろう。

 

 

 そんな衝動に駆られたように、

 

 

「ーーーー」

 

 

 瞼を開く。

 

俯いていた面を持ち上げ、重たい瞼を開き、瞳に世界を映し出す。朧げな意識で、世界を捉える。

 

世界は、ほんのりと明るかった。何を光源としているのかも分からない世界は、しかし弱くも明度がある。自分の知りうる景色で例えるなら夜明け前。

 

太陽が顔を見せ始めた時のような暗がりに包まれながらも、差しつつある光の筋に闇が晴らされていく。吸い込まれてしまいそうな空の闇に、僅かながらに青みがかかる——夜明け前だ。

 

幻想的な世界を満たすのは湖。透き通った水面が果てしなく続き、目を凝らしても無限に続く湖に終わりなどなかった。地平線の彼方まで湖で満ちている。

 

そんな世界には、自分しかなかった。『居なかった』のではなく『なかった』。自分という物体の他に何も——何もない。生命を宿す存在も、物理的な衝撃を齎す物体もない。

 

一人。否、独り。たった独り。独りぼっち。

 

 

「……黄泉路、というやつか」

 

 

その世界でポツリと呟く自分——テン。彼は己の置かれた状況を感覚的に察した。音が上手く反響しない世界では呟きすらも響かず、水の音が極小なのにも納得だ。

 

 

「亡くなった人が通る道だっけ」

 

 

定まらない意識。ふとした拍子にまどろみそうになる中、テンはこの空間の意味を記憶の引き出しから引っ張り出す。曖昧な記憶では明確な意味は分からないが、意味合いとしては間違っていないはず。

 

まさか。本当にあるとは思わなかった。個人的には、もっと晴れ晴れとして、お花畑とか、澄み切った青空とか、心地の良い草原とかを期待していたが。夜明け前の湖と。

 

そもそも、こんなにも早く来ることになるとは。まだ十八歳と、人生の四分の一も生きてないのに自分は死んでしまったらしい。これはあの世に行くまでの道筋だ。

 

 

「……船」

 

 

ふと思い。現実では絶対に見れない光景から自分の付近まで視野を狭めたテンは、ある事実に気付く。先程から眼下の水面が同じ方向に動いているが、動いてるのは水面だけではなかったらしい。

 

自分も動いていた。正確には、自分を乗せた小船が動いていた。小船に乗って、水の上を流れていた。人一人分の規模しかない小舟が無感情に前に進んでいた。

 

いや。前に進んでいるかは微妙なところ。

 

光景が全く変わらないのだから。自分としては前に進んでいるつもりでも、実は後ろに進んでいるのかもしれない。自分がそうだと思ってることなんて、大半は思い込みが原因だと思うのがテンだ。

 

 

「なんでもいいか」

 

 

苦笑。何をする気も起きないテンは背中から倒れ込む。縁に後頭部をぶつけたが、痛みはない。衝撃もない。ただ、『当たった』という事実だけが感覚を置き去りに伝わった。

 

 

 ーー感覚がない?

 

 

心の中でそう溢し、テンは何度か後頭部を縁に軽く打ち付ける。鈍い音は世界に響かず、しかし事実だけは伝えた。後頭部が縁に『当たった』という事実のみが、伝播していく。

 

やっぱり痛みも衝撃も感じない。事実だけが伝わる。なるほど。視覚と聴覚以外は既に機能を停止してしまったらしい。否、その二つも生きてるか怪しい。

 

なら今見ている世界は、音は、何なのかと思うが。黄泉路に立った人間の状態を正確に把握するなど不可能な話。考えるだけ無駄だ。

 

 

「ーーーー」

 

 

波紋してきた事実に数秒の間、テンは動揺を表情に彷徨わせていたものの。動揺が過ぎ去ったとき、彼は何もかも全てを悟ったような表情をしていた。

 

喜怒哀楽が抜け落ちていき、感情という概念が表情から欠落する。寝転び、星の浮かばない、ぼんやり明るい世界の天上を見る瞳には、生気が宿っていなかった。

 

 

 ーーそっか。もう俺

 

 

「死んじゃったんだ」

 

 

心の続きを小声で言い、テンは服の内側に手を入れて胸に手を当てる。地肌に手の平を重ね、聞こえてくるはずの鼓動と、人肌が発する確かな温もりを得ようとした。

 

が、何分待っても鼓動は聞こえず。温もりは感じなかった。皮膚感覚までも消失したか。あるいは、温度が消失し、鼓動も既に息絶えたか。どっちもどっちだ。

 

胸に手を当てただけで心臓の停止と温度の消失の事実。一つの行動で二つの事実が得られた。一石二鳥とはまさにこのこと。

 

どうせなら、死の事実を忘れさせてくれるようなものを期待していた。これでは逆効果である。

 

 尤も、

 

 

「船に乗ってる時点で抗えないとは、なんとなく分かってたけど」

 

 

普段からロズワールに似たような景色を幻視させられ、精神が行ったこともある川が自分の記憶には朧げに残っているが。これは、それとは違う。

 

いつもは自分の意志で帰ってこれるはずだ。意志の力が反映されて、自力で這い上がって現世に戻れるはずだ。「死んでたまるか」と、立ち上がれる。

 

けれどこれは、そうすることもできない。意志の力が完全に遮断され、抗えない。抗おうとも思えない。

 

それに、あの川を見ている自分は小船になど乗っていなかった。二本の足で立ち、死の淵から帰る選択肢がある。が、今は船に乗っている。これが何を意味するか。

 

もう、自分の意志ではどうにもならないということ。意志が絶たれた今、身体は思うように動かず、上体を倒す動作と起こす動作しかできない。このまま流れに乗って何処かへと流されるだけだ。

 

逆らうことはできない。降りようものなら溺れる。水面下から伸びた死者の腕に呑み込まれる。なら、行き着く先を待つ方が心としては楽に死ねるか。

 

 

「あーぁ。死んじゃった」

 

 

状況の把握が済んだところで、テンは独り言を口から発し始めた。呑気に、気怠げに、ため息をつきながら。

 

自分以外の物体が存在しない此処では、何を言っても独り言になるが。音を発していないと意識が沈みそうになるから、音は絶やさない。もう少しだけ死の余韻に浸っていたいから、意識は沈ませない。

 

 

「なにしてんだよ、お前」

 

 

自分自身に話す時、テンは己を『お前』と形容し、淡々と自問自答を繰り返す。己以外に語りかけるものがおらず、独り言の矛先は勝手に心に向けられた。

 

なにしてるーー本当に自分は、なにしているのかと問いただしたい。あれだけ言って、あれだけやって、その結果がこれだ。あと一歩のところで燃え尽き、結局は幾度も焚きつけた命も朽ち果てた。

 

約束したじゃないか、生きて帰ると。自分のことを信じて送り出してくれたエミリアに。最後の最後まで抵抗を見せていたレムに。無茶な要望を突きつけてきたラムに。

 

事あるごとに彼女達の姿が脳裏に過るが、過ると活力が湧いてくる気がした。相変わらず男として単純だと自分で思う。男は女の子に励まされると、どこまでも頑張れるのだ。

 

頑張れる——はずだった。

 

 

「俺を信じて……か。信じさせたのにこの体たらく。情けない野郎だな。男としてどうなんだよ」

 

 

培った絆に信じさせたのに、結末は最悪なものとなった。信じてくれたのに、その信頼を裏切って死んでしまった。

 

もっと頑張れたはずだ。無茶して無理して限界を何度も超えて、それでも、もっと頑張れたはずだ。否、頑張らないといけなかったはずだ。意地でも死ぬわけにはいかなかったはずだ。

 

そのはずなのに、今自分はどこにいる。黄泉路だ。黄泉の国に行くための道のりを、小船に乗って流れている。空っぽになった肉体を置いて、魂は離れていく。

 

 これが全てだ。

 

 

「もっと頑張れたはず……だよね」

 

 

何を言っても後悔にしかならない。今更どうにもならないのだから。けど、後悔が溢れるから後悔の念もまた口から言葉として溢れる。溢れた分だけ己が情けない奴だと思った。

 

終わらない自己否定。このままでは終着点に辿り着くまでに否定の山が積み上がる予感がしてきた頃合い、後悔の感情が沸々と熱せられた瞬間。

 

 ふと、

 

 

「……まぁ、俺にしては頑張った方だよ」

 

 

自己否定だけの口が肯定を刻む。順調に後悔が積み重なっていく中で、その言葉が確かな音と共に否定を消した。これまで一度も自分を肯定してこなかった自分が、初めて己を肯定する。

 

頑張った方。そうだ、自分は頑張った方だ。守りたい人達を守り通すために体を張って、頑張って戦い抜いた。これを頑張ったと言わずして何という。

 

 

「……頑張ったのは、今だけじゃない」

 

 

 時々、考える。

 

自分は、元はただの一般人で。普通に生きて、普通に学校に行って、普通に人生を歩んでいた、ただの一般人だった。武力など持たなくても普通に暮らせる世界で生きてきた、ごく普通の人だった。

 

それが今はどうだろうか。アニメの世界なんかに連れてこられて、生き延びるために必死にならねばならない人生を唐突に歩むことになった。

 

召喚にありがちの特典もなく。主人公設定にありがちなチートもなく。ただ、この世界で許された力しか許されない。理を壊すような力は、与えられなかった。

 

だから頑張った。頑張るしかなかった。他に生きる方法がないから。与えられた中途半端な補正を最大限に発揮できるように、器に見合った力を得るために、死に物狂いで己を磨くしかこの世界に存在する理由を得られなかった。

 

強くなることしか自分には道がない。それ以外に価値などない。屋敷の人達はそんなことはないと言ってくれると思う。けど、自分がそれを許さない。何もできない自分を、自分が見逃さない。

 

努力して努力して努力して努力した。努力の倍は挫折して、もうダメだって思ってもやれることを精一杯やった。自分は、とても頑張ったのだ。生きてきた中で一番頑張ったのではと思えるほどに。

 

そうやってく中で、考えることがある。

 

 

 ーーもう。いいんじゃない? お前はよく頑張った方だよ

 

 

と。

 

限界まで精神を擦り減らして、もう無理だと思わず考えた時に必ずその考えが浮上し、声となって聞こえてくる。自分の甘えを許す誘惑が鼓膜を舐めて、甘い誘いに心が傾きそうになる。

 

その度に自分は声を蹴散らした。「うるさい黙れ」の一言で黙らし、頑張ることから逃げなかった。逃げるわけにはいかなかった。

 

自分の弱さと向き合い続け、必死に頑張ってきた。少しずつでしか前に進めなくても、いずれ頑張りが実ると信じ。ずっと走り続けてきた。

 

 

「そうだよ。俺は頑張ったんだ」

 

 

だから、少しは休んでもいいんじゃないか。もう走り疲れたんだ。時には休むことだって大切。気を張りっぱなしだと人間はどこかで崩れる。

 

 

「休んだって文句は言われないでしょ。俺は今の今まで人一倍努力してきたんだし」

 

 

それが『死』という形だったという話なだけで、休養をとっても誰も何も言わない。自分だって、少しは自分のことを労ってくれるに違いない。

 

 

「別に、俺が死んだってハヤトがいる。アイツがいるから大丈夫だよ。俺がいなくたって、みんなとやっていける」

 

 

自分が死んだところで何も変わらない。悲しむ人は少しはいるかもだけど、それ以上はない。原作にいるはずのない人間が一人減るだけで、物語に影響はない。

 

 

「死んだって構うもんか。俺がいなくなったって……、俺がいなくなったってーー」

 

 

 俺がいなくなったって。

 俺がいなくなった。

 俺がいなく。

 俺が。

 。

 

 ーーーー。

 

 

「ーーダメだ」

 

 

そう本心で思えたら、どれだけ楽なのだろうか。全部投げ出して死ぬことができたら、どれだけ楽なのだろうか。

 

そうできないから、自分は死ねない。死ぬにはこの世界で大切な人ができすぎた。その人たちを残して死ぬことなんて自分にはできない。勝手に死ぬことなんて、そんなの身勝手だ。

 

ダメだ。そんなこと思ったら、

 

 

「くそ。考えないようにしてたのに……っ!」

 

 

一滴、涙が落ちる。

 

皮肉にも涙は流れるらしい。涙を流す程度の後悔は許してくれた。そのせいで、一度でも考え出したら感情が止まらなくなった。最悪だ。

 

喜怒哀楽の抜け落ちた表情に感情が戻り、覆った右腕の裏側で顔がくしゃくしゃに歪む。こうなるのは分かっていた。分かっていたから、適当な言葉で誤魔化していたのに。

 

自己肯定なんて慣れないことをしてまで、気を紛らわそうとしてたのに。

 

 

「そんな言葉で誤魔化せるわけねぇだろ……っ」

 

 

今更どうにもならない。抗えない。だから命は諦めるしかない。そうと決まっている。だから諦められるような言葉を心にかけていたのに。誤魔化していたのに。

 

誤魔化せなかった心が溢れる感情を涙として解き放つ。爆発する想いが弱音を吐き出させる。変えようのない事実に喉が震えて、

 

 

「まだ、死にたくない……!」

 

 

心の奥に閉じ込めていた本音が、

 

 

「生きていたい……っ! 逝きたくない!」

 

 

今、一気に噴き上がった。

 

勢いよく身体を起こす。寝ていると亡くなった人を思わせるから、跳び起きる。が、そこから先の動作には繋がらない。伸ばしていた下半身は動かず、小船からは降りられない。

 

 

「嫌だ、まだ死にたくない! だって、まだ……まだ何もできてない。レムに好きだって言えてないし、エミリアの騎士にもなってない。まだ俺は、やり残したことがいっぱいあんだよッ!」

 

 

 叫ぶ。

 

誰に聞こえていなくてもいい。感情を全て吐き出したいから、思いの丈を全て出し尽くす。後悔の念を涙と一緒に満足するまで叫び、『死』を受け入れんとする。

 

受け入れられるわけがない。表では色々と言い、考えていたが、本音は真反対だ。まだ生きていたいと心の底から思い、願っている。

 

どうしてか。後悔しかないからだ。思い残すことしかないからだ。命懸けで戦おうとも、本当に死ぬつもりなどなかったからだ。死んでいいだなんて、思わなかったからだ。

 

 

「もっと頑張れたはずだろ、なに死んでんだよ! 約束守れよ! 果たせよ! お前は何のために強くなったんだよ! こうならないために必死に努力してきたんじゃねぇのかよ!」

 

 

どうにもならない事実を前にした時、人間にできることなど限られている。打ちひしがれ、もうどうにもならないと全てを諦めるか。やり場のない感情を爆発させて子どものように叫ぶ。

 

人間は、自分の領分を超えた事態にはひどく無力だ。どんなに優れた存在だとしても手の届く範囲から外れた事が身に降りかかった時、対応は追いつかない。

 

今のテンはその最終形態といえる。『死』という人間がいずれは迎える事実を眼前にして、彼はどうしようもない。死んだ人間は生き返らない、当然の摂理だ。

 

そうなった時、テンはどうするか。

 

 

「約束も守れねぇのかお前は! つか、何回約束のこと口にすれば気が済むんだよ! なら、守れない約束はするべきじゃなかっただろ! それでも約束したんなら、意地でも守るのが筋だろうが!」

 

 

ただひたすらに叫ぶ。自分でも何を言っているのかよく分からなくなる咆哮を、独りの世界で悲しげに吐き散らす。戦ってきた中で自分の心を支えてくれていた約束事を、何度も心に叩きつける。

 

うんざりだ。嫌になる。聞きたくもない。

 

守れない約束を無理にでも取り付けて、最終的には守れなかった自分が大嫌いだ。そこは頑張って守り通したかったのに、やはり自分はその程度の男だった。

 

 

「守れ……まもれよ……まもってくれよ」

 

 

瞳から涙が溢れる。我慢してきた分が、今になって全て解き放たれている。死ぬ前に全部吐き出してしまえと思う心が、大粒の涙を短い間隔で次々と落としていく。

 

泣いて、泣き疲れて、眠る。まるで子どものような終わり方だと泣きながら思う。ひたすらに泣いた挙句、誰の温もりも感じれぬまま、死ぬ。泣く自分を置いて、小船は無感情に進む。

 

そう、思っていた時だった。

 

 

「なぁ、テン。俺はよ、お前ほど仲の良いダチは今までにいなかった。気が合う人間は沢山いるが、ここまで真反対のくせして仲の良いダチは、お前以外にいねぇよ」

 

 

不意に無音の世界に自分以外の声が反響し、鼓膜に流れ込む。聞き覚えのある親友の声がはっきりと音として心に聞こえた。

 

涙でぼやけた視界を拭うテンは反射的に首を回し、辺りを見渡す。しかし、依然として世界には自分以外は誰もいない。

 

なら、今の声はどこから聞こえて————。

 

 

「死ぬな。生きろ。勝手に逝くな。約束したんだろ? なら突き通せよ。男だろうが。女に約束したこと守れなくて、お前はいいのかよ。何も心残りはねぇってか? ふざけんな」

 

 

また聞こえた。しかし誰もいない————。

 

 

「心残りはここにいるだろ」

 

 

居ない。居ないのに聞こえる。自分にとってかけがえのない存在の声が聞こえる。独りしかいない世界でその声を理解した途端、孤独感が爆発的に膨らんだ。

 

涙がもっと溢れ出た。寂しい思いが、悲しい思いが、後悔の思いが、涙を溢れさせるありとあらゆる思いが自分の中で暴れ回り、感情の制御を完全に手放した。

 

 

「だってそんなこと言われても……俺は、もう」

 

 

「死んじゃってるんだよ」と、弱々しく震える声で言い、テンは耳を塞ぐ。外部からなのか内部からなのか分からない声を聞かないために。

 

自分の生存を信じる言葉なんて聞きたくない。今の自分にその言葉は刃物でしかない。聞いた分だけ泣いてしまう。事実を、受け入れられなくなる。

 

 のに。なのに、

 

 

「王都に行った時のこと、テンは覚えてる? ラムと二人で貴族街の繁華街を歩き回った日のこと。いえ、忘れてたりしたら殴るわ」

 

 

聞こえた。ラムの声だ。

 

彼女にしては優しすぎる声が、耳を塞いでいるのにも関わらず鼓膜に響く。一切のノイズもなく、彼女が発する音の全てが鮮明に鼓膜から心に入り込んだ。

 

 

「やめろ。やめろよ……」

 

 

感情の手綱が手元から離れたテンは溢れる涙を止める手段がない。だから、容赦なく届く言葉の数々に己の言葉を重ねることしかできない。聞きたくないから、掻き消す。

 

ラムの言葉(信頼)は、まだ終わらなかった。

テンの言葉(号哭)も、まだ終わらなかった。

 

 

「あの時、テンはラムに「楽しかったか」と聞いてラムは「それなりには」と答えたけど。訂正するわ。ーー楽しかった。あの時間は、ラムには楽しいものだった」

 

「やめろよ。ソイツに話しかけて何の意味があんだよ! 死んでんだぞ! もう、ラムが信じる男の心臓は止まってんだぞ!」

 

「また行きましょう。勿論、テンの奢りで。まだ行ってない店が沢山あるもの。だから、生きなさい。いつまでも無様に倒れないで。何度ラムに、らしくない言葉を言わせるつもり?」

 

「生きろなんて簡単に言うなぁ! 俺だって死にたくて死んだわけじゃない! お前にそんなこと言わせたくてこうなったわけじゃない!」

 

 

半狂乱し、泣き叫ぶ。ラムの信頼が心を優しく包み込む度に心すらも絶叫を上げ、胸が張り裂けそうになる。否、既に張り裂けた。感情が爆発した時に胸はもう裂けた。

 

尚も張り裂けるのは、他の部分が代わりに裂けているからだ。胸の奥にある心が無限に張り裂ける。心が崩れ切るまで裂けて裂けて裂けて、全てが裂けた時に、テンの心は崩れ切る。

 

 

「もう、やめーー」

 

「お前が死んだらハヤトが悲しむ。その状態で禁書庫に来られても困るかしら。それに、ここまで来ておいて死ぬのはやめてほしいのよ。後味の悪い終わり方は勘弁かしら」

 

 

追撃の嵐が止まず、聞こえたベアトリスの声色にテンの肩が驚愕に跳ねる。予想だにしない生存の呼びかけに呆気にとられ、処理の済んだ心が数秒の時を経て半狂乱を再開した。

 

あのベアトリスに「生きろ」と言われる——理由は何であれ、ハヤトを除いて他人に興味を示さない彼女が自分にそう言った事実は、不安定な心を揺らすには十分すぎた。

 

聞くに堪えない号哭が止めどなく無音の世界に響き渡る。救いを求めるような悲しげな声を聞き届ける者はおらず、孤独に叫ぶテンが救われることはない。

 

 

「もういい、十分だよ! それ以上、声をかけたところで意味なんてない。魂がここにいる。ソイツは抜け殻なんだよ!」

 

 

これより先を聞かされると心が完璧に崩れると感覚的に察したテンは、届くはずもない声を必死に荒げる。両耳に当てた両手が、耳を潰さんばかりの力を宿した。

 

口を閉じてほしい。ソイツには聞こえてなくても、自分には聞こえているから。黄泉路を進み続けるしかない魂には、ちゃんと届いているから。

 

 それに、

 

 

「やめろレム。お前だけは、何も言わないで。お前の言葉(気持ち)が一番辛い……」

 

 

ハヤト、ラム、ベアトリス。三人が順番に声をかけた時点で最後の一人が誰かなんて考えなくても分かる。やめろ、それだけはやめろ。耐えられないから。

 

自分の好きな人が、自分の抜け殻に、「生きて」と言ったら、その瞬間に崩れる。声と同時に半狂乱から狂乱に精神状態が変わり、発狂する確信がある。

 

だからやめろと思う。思う、思う——、

 

 

「テンくんは、本当にひどい人です」

 

「ーーーぁ」

 

 

瞬間、テンは声を失った。覚悟していた綺麗な声が鼓膜を撫でた途端に心が止まった。それまでは勝手に叩けていた声が止まったのは何故か、原因は左手にある。

 

左手が不意に熱を帯びた。感覚は無いはずなのに。温もりの感じない体は、しかし感じたことのある温度を微弱に感じ取っている。

 

思わず耳から手を離し、テンは左手を顔の前に持ってくる。凝視する彼は手の平を見つめ、ならばと思って右手で左手を触った。が、温度は伝播しない。

 

何だ、感じられないじゃないか。でも、感じているんだ。感じてるのに感じられない。なんなんだ。もうよく分からない。分からないことだらけで考えることを放棄した。

 

そして、テンは聞いた。

 

混濁した考えを全て取り払った、クリアになった頭と。全部嫌になって停止した心の二つで。

 

テンは聞いたのだ。

 

 

「レムはやっと、テンくんに想いを伝えようって、思えたんです。一歩、踏み出すのは少し怖いですけど。でも、レムはテンくんと今以上の関係になりたくて」

 

「ーーーー」

 

 

その発言を。

 

飛び込んできた声に、その二つが真っ白になる。言われた事が理解の許容を越しすぎて、言葉そのままの意味で『何も考えられなくなった』。

 

時が止まったように、思考もまた止まる。

 

 

「それなのに死んでしまうなんて、テンくんはひどい人です。まだ何も始まってないのに一人で勝手に消えてしまうなんて、レムは絶対に許しません。レムを惚れさせて、それで終わらないでください」

 

「ーーーー」

 

 

一音一音が心に深く刻まれる。刻まれた音は二度と消えないものとなる。一人の少女が抱き続けてきたまっすぐな純愛が、今この瞬間、本人に伝わる。

 

伝えようとして、でもできなくて。気づいてもらおうとして、でも気づいてもらえなくて。恋を実らせるために頑張ってきた行動の意味が、

 

 今、

 

 

「テンくん。レムは、テンくんのことが好きです、大好きです、愛しています。誰よりも貴方のことを愛しています」

 

「ーーーー」

 

 

 テンに伝わった。

 

 

 

 ——瞬間。レムとの思い出が溢れ出す。解らなかったことが、一気に解っていく。

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

密かに違和感に感じていた。その理由が、解った。

 

 

 

「…ほんと、早いとこ仕事に慣れないと。慣れて、余裕ができたら鍛錬に時間を使わないと。この屋敷から追い出されちゃうかもしれないからさ」

 

「…それは、困ってしまいますね」

 

「テン君がいなくなってしまうのは、少し困ってしまいます」

 

 

自分がいなくなって困る理由も。

 

 

「えっと…。もう一つとか、無かったの?」

 

「すみません、他にも探したんですが。今はありませんでした。なので、今回はレムとテン君が二人で入っても大丈夫そうな傘をご用意しました」

 

 

あの雨の日の相合い傘の理由も。

 

 

「レムは、テンくんが帰ってくることを信じています! ですから」

 

「絶対に、無事に帰ってきてください!」

 

 

中間試験の時、屋敷を出る寸前に贈ってくれた言葉の理由も。

 

 

「テン君はエミリア様と大変仲がよろしいんですね」

 

「エミリア様とテン君は毎晩お話をしているんですね。二人だけで」

 

「レムは気を遣ってお邪魔にならないようにと、お休みの日だけにしてるのに。エミリア様はいいんですね」

 

「でしたら、レムもお邪魔してもよろしいですよね? お話しするのが大丈夫なら、隣に居るだけならもっと大丈夫ですよね? そうですよね? そうに違いありませんよね? ね? ね?」

 

 

エミリアが鍛錬に遊びに来てると言ったときに、強く反応を示した理由も。

 

 

「これは。首飾り」

「はい! レムからの気持ちです」

 

 

ハートの首飾りの理由も。

 

 

「とても、すごく大切な人(好きな人)。レムにとってテンくんはそんな人なんです。傷付けば心配もするし、疲れていれば気にもかけます。ーー全部、大切な人だからですよ」

 

 

大切な人。そう言った理由も。

 

 

「テンくんにこうしていると、レムはとても心が落ち着くんです。こうしているだけで、心が温かくなってきて、安心するんです」

 

 

その温もりの理由も。

 

 

「いかないでください……! レムから離れないでください……! レムの傍に、レムの手が届かないところにいかないでください……!」

 

 

必死に呼び止めた、その理由も。

 

 

 

全部ーー全部解った。

 

 

 

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 

 

 

愛の告白を心が受け取った瞬間、レムによって記憶された思い出の引き出しが全て解き放たれ、彼女と歩んできた光景が走馬灯のように全て脳裏に過ぎった。

 

全て、全てだ。彼女と出会ってから——紅茶から始まった不思議な関係から今に至るまでの過程が余すことなく全て。思い出の一番古いところから一番新しいところまで。

 

それら全てが、テンに己の鈍感さを強く理解させ、彼女の言動の裏側に隠された想いに全く気付けていなかった心の未熟さを痛感させた。

 

レムという少女と正面から向き合ってこなかった己の罪が、心を殴りつける。勝手な考え一つで彼女が向けてくれた一途な想いの悉くを蹴散らしてきた心を、タコ殴りにする。

 

些細なことの一つ一つが想いの表れだった。彼女が自分に発した言葉、してくれた行動、常日頃から当然のようにレムは自分に想いを伝えてくれていたのだ。

 

レムはずっと前から好きになっていた。自分がそれに気付けなかっただけで、彼女はずっとずっとずっと前から、想いを寄せつつあった。

 

それに、やっと、テンは気付いた。

 

 

「俺、ほんとにクソ野郎だ……」

 

 

項垂れるテンが涙の混ざった声を口から落とす。心の底から自分の情けなさを知り、それ以外の言葉が浮かんでこない。クソ野郎——今の自分を表すのに最も適している。

 

身勝手な理由で自分の想いから目を背けていたつもりが、いつの間にかレムの想いからも目を背けていた。二つの想いと正面からぶつかる事を嫌がった。

 

そのせいでレムの好意的な心情を察せず、結局はレムの口から愛が溢れるまで分からなかった。きっとハヤトとラムは気付いていただろうに。

 

そう思うと。使用人四人が揃って食卓の用意をする時に、ハヤトが自分に好きな女性のタイプを聞いてきた理由に合点がいった。レムが自分のことを好きだから、手助けをしてたのだろう。

 

レムは自分のことが好き。その事実一つで、これまで見逃していた不自然な行動の全てに合点がいく。日常生活の中にある些細な言動の中に隠れたレムのアピールが、全て解った。

 

 

「解って……それでどうすんだよ」

 

 

狂乱せず、発狂もしないテンは、しかし拳を強く握りしめる。号哭寸前の口元を固く閉じ、嗚咽を隙間から溢しながらも歯を食いしばった。崩れた心の絶叫をどうにかして押さえ込む。

 

鈍感系男子は卒業——遅すぎる卒業。全てが終わった自分が気付けたところでどうなる。

 

 

「意味なんて……ないよ。死んだんだ。俺はもう死んでんだよ、レム。そんな男に、なんで告白なんてすんのさ。本人がちゃんと聞いてんだけど。一方的な告白じゃないんだけど」

 

 

もっと早く気付いてあげられたらよかった。彼女の心とちゃんと向き合っていればこうはならなかった。最低だ。最悪だ。クソ男だ。嫌われてしまえ。

 

自分せいだ、お前のせいだ。心の脆弱さが直向きな想いから目を背けさせたんだ。レムの想いを、押さえつけてきたんだ。

 

ダメだ、また後悔が溢れてきた。嗚咽が号哭になりそうな気配。

 

 

「最期なんだ。最期の最後は終わったんだ。レムの前にいる人は、もう空っぽなんだよ」

 

「ーー最期だなんて言わせません。早く目を覚ましてください。そのまま眠られてしまっては、レムは困ってしまいます」

 

 

呟きを拾い上げたような発言をレムがした。離れる心を手繰り寄せる声はきっと偶然だろうと、沈みつつある意識の中でテンは思う。

 

項垂れた直後からだ。不意に瞼に重みが加わり、意識が沈みかけてきていた。自分を乗せた小船の終着点、どうやら黄泉路の終わりがいよいよ迫ってきたらしい。

 

長いようで短い旅が、もうすぐ終わる。全てを置き去りにして、命は黄泉の国の住人となる。それなら、後悔の晴れない心はこの場に捨ててしまいたい。

 

 

「……乗ってる?」

 

 

不意に、腹部に命の重みを感じてポツリと呟く。

 

感覚を得る判定が曖昧な世界で、テンはその重みを感覚として得た。これは——レムの重みだ。彼女が腹部に跨っている時によく似ている。

 

もしや、意識のない自分を起こすつもりだろうか。永久に目を開けることのない空っぽの人間に、目を覚ますように呼びかけるとでも言いたいのか。

 

 無駄だ。

 

 

「もういいよ、レム。多分ソイツ、目ぇ覚まさないと思うから。起こさなくてもいい」

 

「テンくんを起こすのはレムの特権なんです。眠るテンくんを起こすのは、いつだってレムなんです」

 

 

またもや声を拾ったかのような発言。精神世界と現実世界の人間が共鳴し、想い合う男女の心が重なった。

 

二度の奇跡に初めて笑みを浮かべるテンが笑声を薄く鳴らす。ただ純粋に、自分とレムのシンクロ率の高さに、理由もなく場違いに嬉しくなった。

 

 

「そうだった……、ね。俺を、起こすのはいつだってレム……だもんな」

 

 

ずっとそうだった。

 

ある日を境に、毎朝自分を起こしにくるためにレムは自分の下に来る。朝だけじゃない、仮眠の時もそうだ。眠りから目覚める時は、必ずレムが傍にいる。

 

ふわりと微笑んで、「起きてください、テンくん」って言いながら腹部に乗っかっている。頬に手が添えられているオプション付きで、自分の意識を闇から引っ張り上げてくれる。

 

 なら、

 

 

「今の俺も…起こして、くれるのかな……。次、目を開けたとき、俺はレムを見ることができるの…かな。目を覚ますことができるのかな」

 

「ーーレムは信じています。テンくんがレムの声で目覚めてくれると。レムの声が暗闇に沈んでしまったテンくんの心に届くと。この想いがテンくんに伝わるとーーレムは信じています」

 

「そっか……。じゃあ、頼んだよ」

 

 

言い、テンは深く息を吐く。とても眠かった。

 

耐えようにも耐えられない睡魔が押し寄せ、瞼は既に閉じている。どうせなら小船が到着したところも見たいが、生憎とそれも、睡魔に負ける自分にはできそうにない。

 

開かないのだ。瞼が閉じてから固まってしまったかのように一切動かない。心なしか体の自由も利かなくなってきた。

 

本格的に黄泉の国に旅立つ時がきたのだろう。閉ざされた視界では周囲の光景も確認できず、様々な想像が膨らむ。

 

もしかしたらすぐそこで過去に飼っていた犬と、亡くなった祖母が待ってるかもしれない。それとも、青色の女神様が椅子に座って待ってるか。それはアニメ違い、どこの素晴らしき世界だ。

 

 

 ーーくだらねぇ想像してる場合かよ

 

 

浮上した想像を断ち、テンは考えることをやめた。いつの間にか聴覚と視覚も死んでしまったのか、もはや自分がどのような状況にあるのか分からない中で、意識は沈んでいく。

 

これからどうなるのか。次、目を開けた時に映るのは黄泉の国か、レムの顔か。前者の場合は死亡が確定し、後者の場合は奇跡にも生存が確定する。

 

圧倒的に前者の方が確率としては高い。けれど、レムの想いが命を繋いでくれたなら、僅かな確率で自分が目を覚ますことができたなら、彼女にありがとうを言わないといけない。

 

たくさんお礼の言葉を伝えて、事が落ち着いたら彼女と話さないといけない。モヤモヤしたままで終わりたくないから。

 

 

「レム……」

 

 

愛しい少女の名を呼び、テンの意識はどこかへと沈む。それが闇なのか、光なのか。死者の国なのか、生者の国なのか。テンには分からない。

 

 ただ、

 

 

「ーー起きてください。テンくん」

 

 

さいご。

 

さいごのさいごに聞き慣れたレムの声。自分ことを起こす時に優しく響いてくる声を聞いて、テンの魂は黄泉路から消えた。

 

 

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