初めに感じたのは温もりだった。
触れる人肌がじんわりとした温もりを優しく伝えている。これまでにも何度も伝わってきた、世界で一番心地いい温度が、命を包んでいる。
次に感じたのは腹部の重みだった。
意識を闇の底から引っ張り上げようとしてくる声の体重が、自分の腹部に乗っている。その正体が誰かなんて想像する必要もない。
最後に感じたのは命の音だった。
黄泉路では聞こえなかった鼓動が胸の内側で一定のリズムを刻んでいる。ドクンドクンと、生者の証明を何度としている。
その三つを受け取ったテン。彼は己の肉体が黄泉路にいた時とは全く異なることを理解した。死者であることに反逆する鼓動が意識を焚き付け、触れる温度が偽りでないことを示し、心が死んでないことを知る。
どうやら、死ななかったらしい。
黄泉の国の片道切符を勝手に使われ、終着点に到達するまで止まらない小船に乗らされていたはずが。切符を破り捨てた者がいたらしく、魂は肉体へと還ったみたいだった。
「ーーーー」
目を開き、瞳に世界を映し出す。
途端、夜空に浮かぶ満月の祝福をテンは受けた。見下ろす天体が「起きろー!」とでも言いたげに光を浴びせ、思わず目を細める。できればもう少し優しくあってほしかったと願うが、
「ーーおはようございます。テンくん」
光を遮る物体が眼前で見下ろしていたことで、光は届かなくなった。満月など見るなと主張する青髪が、穏やかな声と一緒に目覚めの知らせを教えている。
ボヤけていた世界が定まり始め、ピントが合わせられるように青髪の表情がはっきりと映っていく。物体の輪郭の曖昧な、色しか判別できない視界が元通りになっていく。
そして、世界が元の景色を取り戻した時。
「ーーおはよう。レム」
テンはレムの瞳と目が合った。
涙でいっぱいになった双眼と視線が重なって、沢山の感情が凝縮した表情を見た。安心したような、ほっとしたような——恐怖から解放されたような。
怖がらせてしまった。不安がらせてしまった。
彼女を見ているとそんな言葉が心に降りてくる。本当にそうかは曖昧だけれど、ポタポタと涙を垂らし続ける瞳は嘘を語っているようには見えなかった。
「生きて……ますよね? この鼓動は、嘘じゃないですよね?」
感情を我慢する口元が小刻みに震えて、レムの表情が歪み始める。目の前の想い人が目を開けた事実に、感情の大波となって心に押し寄せ、今にも爆発しそうな気配がレムにはある。
辛い心を必死に我慢したのだ。意識が戻ったテンを見て心が震えないわけがない。手の平を当てたところから波紋してくる鼓動に涙を堪えることなんてできない。
彼女をこんなにさせたのはテンだ。だから、テンには彼女の感情を受け止める責任がある。自分のせいで泣いてしまったのだから、自分が安心させてあげなければならない。
だからテンは「ふっ」と微笑み、
「嘘じゃないよ。俺は生きてる。多分、レムのお陰で黄泉路から還ってこれた。お前の前にいる人は、ちゃんと生きてるよ」
「ーーーー」
「ありがとう。レム」
「ーー! テンくんーー!」
その言葉をきっかけにレムの感情が解き放たれた。ずっと——テンを送り出した時からずっと我慢してきた激情の全てが今この瞬間、テンに叩きつけられる。
体を倒すレムはテンの表情を見る余裕もない。彼の胸元に額を押し付ける彼女は、力のあらん限りを尽くして彼の体を抱きしめた。自分の体を、彼の体に沈める。
もう二度と、どこにも行ってほしくないから。自分の傍から離れてほしくないから。あんな思いはしたくないから。抱きしめて、絶対に離さない。
感情の制御は利かせていない。否、利かせる必要もないレムは我慢など一切しない。泣きじゃくる姿は幼子のようだと言われてもいい、今はただ愛する人の命を喜びたい。
「心配かけてごめんね」
号泣するレムに一声かけ、テンはうっすらと痛ましげに表情を顰める。彼女の態度を見ていると本当に申し訳ない気持ちが心にどっと押し寄せ、自分の行動が彼女にかけた負担を痛感させていた。
その表情もレムは見れない。掛けられた言葉に顔を強く横に振り、
「生きてる。それだけでいいです。約束を守ってくれただけで、十分です」
乱れに乱れた呼吸の中で声を絞り出し、嗚咽混じりに話す。幾分かは勢力の弱まった感情の波に揉まれながらも、レムは精一杯の笑みをテンに見せた。
ひどい表情だとテンの瞳に映った自分を見てレムは思う。泣き顔と安堵の顔が乱雑に混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。
自分に見えて彼に見えてないわけがないが、別にいいか。これから彼は自分の様々な顔を見ることになるのだから。彼にしか見せない自分を、沢山見るのだから。
「心配したのはレムだけじゃないんだけど」
「そうだぜ。勝手にイチャイチャすんじゃねぇよ」
「時と場合を考えるがいいかしら」
そんな声と同時に二人の世界に三人が入った。声の方向に首を傾けると、見下ろすラムと、腕を組んでいるハヤトと、澄まし顔のベアトリスの姿が見える。
別にイチャイチャしてるわけではないのだが。ともく、テンは「レムの好きにさせてるだけだよ」と変に温かい視線に言葉を返すと、
「みんな生きてたんだ。良かった」
「一番死にかけておいてなに言ってんだよ。ベアトリスの治癒魔法が無けりゃ、今ごろあの世にでも逝ってたんじゃねぇの?」
「逝きかけてたのは否定しない。実際に黄泉路にも着いてたし。まさに死の一歩手前……半歩手前……半半歩手前だった」
「一歩の半分の半分……どんだけ手前なんだよ」
「もう一個くらい『半』付けてもいいよ」
「要らんわ」
割と洒落にならない冗談にからからと笑うテンの様子を見てハヤトは精神が安定、いつも通りの返しが返ってきたことに彼は死んでないのだと安堵した。
軽口を叩けるくらいには余裕があるのか、死の淵から還ってきた人間とは思いづらい態度に心配した自分がアホらしく思える。一滴の涙を返してほしい。
それがテンらしいというべきか、相変わらず読めない男の様子に釣られたハヤトも笑う。悲劇的な雰囲気に呑まれた自分がバカバカしくなった。
「それで? その
ハヤトとテンの話を黙って聞いていたラムが口を開くと、滑らかに動く彼女の体がテンの顔の横に座り込む。
真横で女の子座りされると色々と見えてはいけないものが見える気がしたテンは、咄嗟に反対方向に顔を背けた。今、目を合わせると潰されかねない。
が、
「ラムの目を見なさい」
声と一緒に顎に当てられた指で顔を強制的に向けさせられる。顔のすぐそばで見下ろすラムと目が合った。良かった、見えちゃいけないものは隠れていた。代わりに、すごく真面目な顔のラムと目が合う。
絶対領域のその先が目に入らなかった事に密かにテンは安堵。だが、ラムとしてはそんなことどうでもいいのか、彼女の視線がテンの瞳ではないどこかに揺れ動くと、
「約束は守りなさいと、ラムは言ったはずよ」
声のトーンが僅かに落ちる。付き合いの長い人間ですら聞き分けがつかない程に微小な変化が声に訪れたとき、テンの表情に困惑が浮かんだ。
ラムの瞳には何が映し出されているのか。瞳の先には何があるのか。今、自分を見るラムには自分がどう映っているのか。
困惑した頭の中でそんな疑問が一度に生じたテンは言葉に悩む。何を言えばいいのか分からず、結局は「ほぅ」と吐息するラムが声を出すまで黙ったままだった。
「五体満足で生きて帰ってこいーーそれは守ってくれたようだけど。目に見える傷跡を作らないことは守れなかったようね。右目の下を後で確認するといいわ」
「……傷跡。残ってる?」
「自分の目で確かめなさい」
それを口にしないところラムの気遣いが察せるが、向けられた瞳が事実を語っているせいで大した効果は発揮していない。目は口ほどに物を言うとは、意味がよく分かった。
いつできた傷か。否、目の下に受けたのは一度だけだからその瞬間にできた傷だろう。刻まれた斬撃は思いのほか深かったらしく、塞がっても跡は残ったようで。
治癒魔法は傷を治すだけで、傷跡までには至らない。傷跡に至る傷に関してはどうにもできず、結果として今のラムの発言にも繋がったと。
「で。何か言いたいことは?」
「ごめん。ほんとにごめんなさい」
即答。言い返す言葉が見当たらず、しかし謝罪の言葉はポンと口から出てきたテンは声を沈ませながら言い、目を伏せる。
事実として、約束を守りきれなかったのだから。自分はラムの信頼に応えきれず、彼女のことを裏切る形になった。
無責任な信頼を向けるに値すると思ってくれたのに、己の弱さが理由で守れなかったことに腹が立つ。なら、何を言われても甘んじて受ける。
そんなテンの思いは、
「……及第点、と言ったところね」
「ふっ」と。微笑を溢したラムに、予想していた言葉とは真反対の言葉を掛けられたことで砕けた。
中間試験の時のように情け容赦のないめった斬りが至近距離で降り注ぐと思っていたテンは、そのせいで反応に遅れが出てしまい、言葉を挟めない。
その間に、ラムは流れるように言葉を重ねていた。
「中間試験の時はラムの言ったことの一つも守れなかったけど、少しはあの時から進歩したようで安心したわ。仮に、四肢の一つでも無くなってたら許さなかったかもね」
「ということは、許してくれるの?」
「生きてるから大目に見てあげる。あの時と格好はあまり変わらないけど……。そうね。寧ろ、無様さに拍車がかかって悪化してるーーやっぱり取り消す。落第点よ」
「ぇ」
「見損なった、失望した。約束もまともに守れない男だとは思いたくなかったけど、これじゃ仕方ないわね。だってテンテンだもの」
「なんか、理由がすこく理不尽な気がする」
とんとん拍子で交わされるやり取りに、ラムの視線の温度が着々と下がっていく。テンに向けた赤の瞳がいつも通りの鋭さを取り戻し、軽快に叩かれ続ける言葉に毒舌が宿りつつあった。
やっとラムの調子が戻ってきたことに、言葉を受けるテンと、それを眺めるハヤトは心の中で一安心。屋敷を出た時の荒れ様は姿を消し、使用人四人の時間を過ごす時の雰囲気が纏われつつある。
「それと、顔面百五十発の刑。忘れないでね」
「増えた!?」
お陰で毒舌の矛先が見事にテンに向いた。死の淵から還ってきた人間に対して少しばかり辛辣すぎる態度は、きっと、ラムが安心していることを何よりも表している。
広がる光景。仰向けになって倒れるテンと、その胸に抱きつくレムと、その横に腰掛けるラム。この三人が並ぶと周りに厨房を幻視するハヤト。
男一人と女二人のわちゃわちゃを外から見るこの感じ。何故か、とても久しぶりな気がしたハヤトは「おいおい」と呑気に言いながら、ラムの反対側にどかっと座り込み、
「顔面百五十発って、もしかしてお前がラムを背負った時のやつか?」
「そうそう。始めは十発のはずが、それから増えたんだよ。途中経過の時はラムの分で四十発、レムの分で十発、計五十発だったけど。なんか百発も加算されたっぽい」
「当然に決まってるでしょう。ラムのかわいい妹を泣かせた分で一発、ラムに心配をかけさせた分で九十九発。始めのと合わせて百五十発よ」
「比率おかしくね、もっと均等に分けよ?」
「では、レムはその十一発分を抱きしめる時間に変えてもよろしいでしょうか。もちろん、『分』ではなく『時間』ですよ」
「ジュウイチじかん!?」
「いや。それ以前に、助けたのに顔面を殴られるという事実に疑問を抱け」
ハヤトで始まり、テンが淡々と話し、双子姉妹が乗っかり、ハヤトで終わる。殺伐とした空間に和やかな雰囲気の訪れを場にいる全員が感じ取った。
やはりこの四人が集まると、どこにいても『ほのぼの』が勝手に広がっていく。『シリアス』の侵入を一切許さない和気藹々とした空間が展開されて、自然と会話が弾んだ。
いつの間にかレムも衝動が静まり切ったのか、穏やかな表情になって会話に参加している。目を覚ましてから微動だにしないテンに抱きつく彼女は、テンのことしか見ていない。
テンの生存が確定して緊張の糸が緩んだか。今夜の悲劇に幕が閉じられそうな予感が和やかな雰囲気と一緒に漂い始め、
「お前たち、そろそろ行くかしら」
その雰囲気を、ベアトリスが元に戻す。張りのある声が四人の間を通り抜け、反応する四人が顔を向けると視線の先には空間の歪みがあった。
形容し難い歪みは、無理やり例えるならば『別次元への入り口』。ベアトリスが空間に歪みを生じさせ、彼女のマナが干渉した場所に、空間の中に手を入れて開いたような入り口があった。
目の前の現象にテン以外の三人が納得。話には聞いていた大規模な転移はあのようにして成されるのだろう。
陰属性の極致に達した者であり、大精霊という莫大な力を保持したベアトリスだからこそできる神業。次元の違う魔法を前にした三人は息を呑んだ。
そして、その前ではベアトリスがいる。それもただいるのではなく、若干不機嫌そうな態度を表に出していて、
「悪かったってベアトリスぅ。拗ねんなよ」
それ一つで彼女の心情を察したハヤトがニコニコしながら立ち上がり、駆け足でかまってちゃんな幼女の下へ。
使用人四人の雰囲気に溶け込めなかった彼女は、寄ってくるハヤトに「別に、拗ねてなんてないかしら」と鼻を鳴らすあたり、本当に拗ねている。
あまりハヤトを舐めない方がいい。ラムには馬鹿にされてしまったが彼の観察眼は人よりも鋭く、ベアトリスの澄まし顔の裏側に隠れた表情など簡単に見抜ける。
つまりどういうことか。
「ベアトリス」
「なにかしら」
声をかけ、膝をつく。
声をかけられ、膝をつかれた。
眼前。手を伸ばせば届く距離まで間隔を縮めたハヤトにベアトリスは顔を向けない。そっぽを向いた彼女にハヤトは「あのよ」と手を伸ばす。
そして、
「よしよし。仲間はずれにして悪かったな」
「わっ。あ、頭を撫でるのはやめるかしら!」
ポン、と。右手の平が小さな頭に乗っかり、小さく揺れる。薔薇の髪飾りの存在を見ながらハヤトはベアトリスの頭を撫でた。
途端にベアトリスは声を上げる。予想していなくもなかったことが実際に起きた彼女は、心構えはできていたのか、頬は赤くならない。が、焦りはする。
「蚊帳の外みたいにされて寂しかったんだよな。悪かった悪かった。一人にはしねぇよ」
「別にそんなこと思ってないかしら、その手を離すのよ!」
「そうか? 俺の目には「もっと続けろ」って言ってるお前が見えるが」
「やっぱりお前の観察眼は腐ってるのよ!」
言われて、ハヤトは「んー。そうか」と名残惜しそうにしながら手を離した。自分的には的を射抜いていたと思ったのだが見当違いーー見当違いということにしてやろう。
それが本当に見当違いかどうかは、ベアトリスが声のみでしか抵抗してこなかった事が雄弁に語っているが。今は見逃すことにして、ハヤトは呼吸を整えるベアトリスに笑みを浮かべた。
「え、なにアイツら。いつの間にあんなに仲良くなったの? 吊り橋効果ってやつ? つか、それ以前になんでベアトリスがここに?」
「ハヤト君がドラゴンと戦っている最中に助太刀に来てくれたんだとか」
「ふーん、ベアトリスがねぇ。それだけ関係値が高いってことか。……え? ドラゴン?」
いつの間にか距離がとてつもなく縮まっていたハヤトとベアトリスを見ながら、テンはレムの言葉を咀嚼。頭の中で何度か反響させて飲み込み、聞き捨てならない単語があったことに気付いた。
自分が魔女教徒と戦っている間、ハヤトはドラゴンと戦っていたらしい。滅多に見れない魔獣を見れたのは運が良いのか悪いのか、微妙なところ。
そう思うと、一度だけ聞こえてきたウルガルムとは違う咆哮の主に納得がいった。あの声はドラゴンが上げたものだったとしたら、身構えてしまうのにも頷ける。
「ドラゴンと戦ってたのか……よく生きてたな。やっぱすげぇなアイツ」
「テンテンも大概だと思うけど」
「レムもそう思います」
独り言を拾われたテンは、胸元と真横から流れた声に「それもそうか」とだけ。
必死すぎて断片的な記憶しかない死闘、熾烈を極めた戦いは今までのどの戦闘よりも危険なものだった。自分のことながらに、生きてたのが不思議だ。
それも、自分の力だけじゃなくレムの腕輪に助けられて——、
「ぁ。……腕輪」
不意に思い出した。意識を失う前、自分が何を求めていたのか。
声に反応したラムの瞳が動く。言われてみればレムが付けはずの腕輪が右手首から無くなっている。ならどこにあるのかと辺に視線を走らせ、その必要もなかったと知った。
あった。テンの頭の上。一部分が断ち切られて腕輪としての機能を果たせなくなった腕輪が転がっている。普通にしていればこうはならない。皮肉なことに普通の要素など一つもないが。
「どうしてこんなことに?」
「えっと……。俺の命を守った代わりに、斬撃をモロに受けて」
「こうなったと」
「はい」とおずおずと言うテンの表情に、途端に影が差した。彼なりに罪悪感を感じているのかもしれない。ラムからすれば別に要らない罪悪感だと思うけれど。
現に、話を聞いていた未だにテンの胸元に抱きつくレムは「よかった……」と安堵の吐息を深くこぼすと、
「それでテンくんが守られたなら、レムは嬉しいです。伝えたとうり、傷なんて構いませんでしたから。勿論、少しは悲しいですけど。こうしてまたレムの下に帰ってきてくれたから、それでいいです」
「……本当に?」
「はい。本当に」
迷いなく告げ、レムは小さく笑う。少しだけ残念に思わなくもないけど、自分の愛する人が腕輪と引き換えに救われたのなら、腕輪も本望だろう。
言われたテンの顔から一抹の影が消える。あまりにも真っ直ぐすぎるレムから、気にする必要などないという意志が一直線に向けられて、それ以上の言葉を口にはしなかった。
と、
「お前ら、早く行くぞ。ベアトリスもこの状態は長くは保てないってさ」
「早くしないと置いてくのよ」
急かす声にラムが立ち上がる。近くに落ちていたテンの武器を両手にすると、彼女はそそくさとハヤト達の下へと歩いていった。
置いていかれるのがとてつもなく嫌らしい。行動の迅速さが彼女の心をそのまま反映している。
レムもそれは勘弁したいところ。テンの目覚めからずっと保っていた姿勢を崩すと、彼女は立ち上がる。それからラムに渡された腕輪を大事そうに内ポケットに入れると、
「行きましょう。早くいかないとベアトリス様に置いていかれてしまいます」
「それなんだけど。実は、体がピクリとも動かなくてさ。首から下が全く動かない……です」
「ーーーー。ハヤト君! テンくんが体の自由を奪われてしまいました。担いでください」
「よっしゃ。任せろ」
腕輪を内ポケットに入れた体勢で固まった数瞬後。時間が迫られた中で動揺を切り捨てたレムがハヤトに状況の説明と指示を飛ばし、その一言で聞き入れたハヤトがテンを片腕で担ぐ。
二人の息の合った連携が完遂したときには、テンを担いだハヤトと、その隣を走るレムはベアトリスの下へと駆け出していた。
本当は自分がその役目を担いたいレムだが、今の自分に他人を担ぐ力は残っていない。鬼の力が奥に引っ込んだ、か弱い女の子本来の力では男の子の体重を支えるのは困難だ。
ともかく。
「ゆっくりしすぎなのよ! とっとと入るかしら!」
焦るように歪みの中を指差すベアトリスに促された面々が次々と中へと飛び込んでいく。ラムが入り、レムが入り、テンを担いだハヤトが入り、そして最後に、ベアトリスが入り。
「渡るかしら! 足元に気をつけるのよ」
術者が飛び込んだのを終わりに歪みが極限に至り、開けた空間が弾けるように消し飛ぶ。
視界にノイズが走るような違和が刹那の間だけ世界を席巻し、その直後には異次元の入り口はいずこにも見当たらなくなっていた。