春に咲く花のひとつ、クリンソウ。
花言葉は『少年時代の希望』『幸福を重ねる』だそう。

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笑えれば

 

 もうすぐ、桜の季節。

 

 最近はあまり外に出ることがなかったので、久しぶりに外界の空気に触れた途端に、そんな実感が湧いてきた。布団を何枚もかぶらなくてもいいくらいに暖かくなったかどうかでしか、引きこもりは春を判別できないのだ。多分。

 

 別に『春休みだから』といって、引きこもって昼夜逆転生活を謳歌していたというわけでもない。これにはダムよりも深いわけがある。

 

 気分になれなかっただけだ。いつもなら訳もなくハードオフ巡りをしたりするくらいには、土曜深夜に思い立って香川にうどんを食べに行くくらいには、そう、つまり普通の人よりは『旅欲』があるのに、だ。

 

 通学用という名目で免許を取ったのに、結果的に私の衝動的行動範囲を東海地方内から本州全域に広げることとなった原因にして、私の愛車は、桜の花びらをひとつかふたつ着けては、それを風に渡す。

 

 やはり、レーサーレプリカはいい。最近でこそ、原付のレーサーレプリカなんて滅多に見ることがなくなったが、私は大好きだ。現行車でも珍しいので同級生の目を引き、会話のデッキにもなる。

 

 NS-1の真っ黒なフルカウルは、今日も太陽を反射して光る。

 

 さて、今日は3月9日。春、真っ盛り。桜、ひらひら。花粉、ドバドバ。

 

 東京は緑が少ないから、そこまで辛くないと思っていたんだが、そんなことはなさそうだ。そこら中にマスクの人や、クシャミを連発する人を見かける。同情は逆にしない方がいいだろう。心のない優しさが一番その人にとって惨めなことくらい、高二にもなれば分かる。

 

 春は、昔から好きではなかった。嫌いかもしれん。やれ出会いの季節だ、やれ眩しいアオハルだ。みんな、その裏にある『別れ』から目を背けているようで、ひどく不気味なのだ。

 

 砂埃と花粉が舞い、好きな人との別れさえ思い出させ、周りは『春だからこんなこと始めてみよう!』とか言ってみたり。挙句の果てに、虫の多さ。なんなんマジで。蝶とか全ッ然キレイじゃないから。気持ち悪いわ普通に。虫も、春が好きな人も、春自体も気持ち悪い。

 

 私が荒んでいるからなのかは分からない。しかし、今は周りのもの全てがモノクロームのようで、薄暗く曖昧な思い出の中に閉じ込められたようで、気分が悪いのだ。

 

 正月からとっくに一年は始まっているのだ。なのに、なんで『はじまりの季節』『出会いの季節』とか銘打ってるんだよ。

 

 私が花粉症だったら、私は間違いなく地球温暖化を加速させ、ブタクサが繁殖できない環境にしていたところだ。

 

 頼んでもないのに人間関係をシャッフルさせて、無駄な心配や不安が増える。まだ仲の良くない奴のいる教室に向かう足は、どこか重く、どこか憂鬱で、どこか寂しい。人間関係を失った、その足で、また新しい悲しさを生み出しに行く。春とは、砂埃と徒労の季節だ。春の私とは、タンパク質と徒労の塊だ。普段はただのタンパク質だけの塊だが。

 

 旅をする気力さえ起きなかった私が何故、地元であるところの愛知県安城市からはじまり、9時間弱の旅路を経て東京都という遠い地にいるのかと言うと。気力が起きなかったからこそ、旅に出なければ。そう思っただけである。本当にそれだけ。

 

 楽しかったことが楽しくなくなる。好きで描いていた絵が、気づけば評価だけを気にするようになり、いいねの数でしか価値をはかれなくなる。そんな、かつて楽しかったことが思い出になる時に、悔しい思い出や悲しい出来事だけを最後に遺して界隈を去るようなことは、私は、なるたけ避けたいのだ。

 

 今が乗り気じゃあないだけかもしれない。大袈裟な心配かもしれない。しかし、私の『趣味』と呼べるものの八割か九割は、旅をすることなのだ。

 

 念には念を入れて、じゃあないが、今回は『私はまだ旅を楽しめるのか』という確認も込めた旅となっている。今となっては旅以外の、食事や通学などの日常生活もどんどんと億劫になってきている。せめて趣味ぐらいは楽しまなくっちゃあ損だ。

 

 そうは言ったものの、目的地であるところの東京都、その江戸川区に着き、1時間と少々。私は公園のベンチに座ったままだ。ああ、理由はお察し。私が『日常生活をする気力さえも無くしてしまった理由』について、少々考え込みすぎた結果である。

 

 あの日、私は『またね』と言えなかった。他人に言わせれば、その数秒だけの一言を、はや2ヶ月。ずうっと、この春休みまで引きづっているメンヘラ男である。メンがヘラってぴえんなのである。

 

 気を紛らわせよう。あと1時間ほどで、それができたらいいのだが。

 

 とうとう私は、イヤホンをつけ、外界の音を遮断した。近頃のイヤホン、何やらノイズキャンセラーだかなんだかの機能が搭載されているらしく、まわりの環境音を、ほぼほぼ消してくれるらしいのだ。私も今はじめてつけるから、どの程度のものかは分からないが。

 

 手始めに音楽を流そう。プレイリストのランダム機能を使い、最初に流れてきたのは、JUDY AND MARYの『KYOTO』。ジュディマリの中でも、私が特に大好きな曲だ。

 

 さすが東京、周りにそこそこ人がいるので、口ずさみはしないが、足でリズムを取りつつ、私は曲の世界に浸る。

 

 しかし、その曲の終わりと、次の曲までの間が、どうしようもなく空虚というか、なんだか寂しくて。私はため息をついた。お次の曲もジュディマリ、『クラシック』だ。

 

 曲が始まるとほぼ同時に、私の視界に手が現れた。正確には、私の右後ろ側、肩の向こうから飛んでくるように現れ、口の前で何かをつかまえるように手をギュッと握る。

 

 細い指だ。手首も、親指と人差し指で輪っかを作ればくっつきそうなくらいに細い。何かの拍子に折れてしまいそうな儚ささえある。

 

 数秒して、その手の指が、小指から1本ずつ開かれる。上に向けた手のひらには、小さな飴が乗っかっていた。そこそこ名の知れた商品だ、知っているぞ。CMも有名だ。

 

「…………ッ! ……」

「ン……?」

 

 なにやら、頭上から声が聞こえる。話しかけられている可能性もあるだろう。旅の者に話しかけてくださっている手前、音楽を聴きっぱなしで対応するのも失礼ってやつだ。私はイヤホンを外してみた。

 

「ため息をつくと〜〜!!! 幸せが逃げちゃうわよ〜〜ッ!!!」

「はァッ!?」

「もうっ、なんで聞こえないのかしら!?」

 

 鼓膜に、そんな高い声が刺さるように届く。脳まで直通してきたかと思ったわ。まさに脳が震えるくらいの、至近距離でのデカい声。

 

 ノイズキャンセラーの、ノイズをキャンセルする性能が、こんな形で証明されようとは。私はもう片耳のイヤホンも外して、彼女に『もう私はさっきまでの私と違うぞッ』アピールをする。

 

「はい聞こえたー! 聞こえた聞こえた! 聞こえまーしたー!」

「あらそう!! そのイヤホン、周りの音が消えてしまうの!!? 不思議だわ!!」

「もう大きい声で喋らなくっていいんですよ!?」

「そういえばそうね!」

「あっ、素がそこそこ大きい」

 

 先程までの流れをかき消さんばかりの、まばゆい笑みを見せる彼女。誤魔化せんぞ。

 

 振り向くと、春の美空と昼前の太陽を背に、少女が立っていた。ボーダーのTシャツにオーバーオール。無邪気な子供の休日、的な服だ。

 

 しかし、身体を見る限り、発育のいい中学生か高校生と推測する。大人でもおかしくない。童顔だが、身長も小学生って感じじゃあないな。寒くなくなったとはいえ、オーバーオールの丈は膝上10か15センチ。こんな大胆な小学生はそうそういない……はず。私の偏見だ。言い換えれば、個人の感想です、というやつだ。

 

 公園の桜を散らす、木にとっては無慈悲でもある風。観光客にとっては、桜吹雪を見せてくれる風。そんな風に、彼女の金色の髪が揺れ、1本1本が太陽を反射してキラキラと光る。季節的には夏のイメージだが、天の川を見ているような感覚に陥る。

 

「…………」

「ため息をついていなくても、そんな奥歯にネギが挟まって5日間取れないような顔してるのね」

「悪くない? 口」

 

 私が目を細めているのは、単に眩しいからだぞ。

 

「でも、さっき取れたわ!」

「え、ネギが?」

「ネギもいずれ取れるといいわね!」

「それは元から挟まってないんですが!?」

 

 なんなんだこいつは。春は変なものが増えるとは言うが、実際に会ったのは初めてだぞ。私はもう一度ため息をつく。

 

 そして、先程と同じく、彼女は私の吐き出した息を掴むように腕を動かした。勢いが良すぎたため、殴られるかと思ったが、そんなことは無かった。ただ、その握りこぶしを、私の目の前に突き出し、それを開く。

 

 するとどうだ、そこには飴玉が入っていた。さっきと同じ飴だ。

 

「何がしたいんです?」

「幸せが逃げそうになったでしょ? だから捕まえたの! はいっ、さっきのぶんの飴もあげるわ!」

「あぁ、これ逃げそうになった幸せだったんだ!?」

「甘くて特別な幸せよッ」

 

 なるほど。彼女が『取れた』と言っていたのは、私の歯の奥にあるとされている、非実在ネギあるいはシュレディンガーのネギではなく、私が吐き出した幸せ。つまるところ、ため息をつかまえたということだったのだ。

 

 子供や孫にあげるのはもちろんこれ、と言われがちな飴だしな。子供の幸せの象徴として相応しくはあるかもしれない。

 

 おじいちゃんから貰ったらテンション上がるし。甘くてクリーミィで、こんな素晴らしいキャンディを貰える私はきっと特別な存在なのだと感じなくもない。

 

「変なもの入ってないだろうな」

「あなたの幸せなんだから、あなたが一番よく知ってるでしょ」

「机上の詭弁」

「重複してるわね」

 

 地頭はいいっぽいな。

 

 私は飴をひとつだけ受け取った。

 

「あらっ? これは2つとも、あなたのものよ?」

「……ひとつでいい」

「せっかく用意したのにっ」

 

 言っちゃったよ。用意したって言っちゃってるよ。よく仕込んだなとは思うけど、設定があるなら貫き通してよ。

 

 私は、この身体こそ大人と遜色ないが、精神年齢は野原しんのすけと同級生くらいの少女を、全く傷つけない断り方を考える。

 

 即興に決まってるだろ。計算はあっても、打算はない。

 

「その……なんていうか、これは…………幸せの『おすそわけ』ッスよ」

「?」

「君が掴んだ幸せなんだから。私のモノであろうと、受け取ってほしいな」

 

 どうやら私には、アドリブ劇の才能があるかもしれないようだ。完璧な返し。どうだ、見てるか演劇部。帰宅部も本気を出せばこんなものよ。ちょっとクサイけどね。

 

 彼女は手のひらに載せられた飴を見て、しばらくぼうっと突っ立っていたが、そのうち大事そうにそれを握りしめ、顔をこちらに身体ごと近づける。

 

「ありがとうっ!!」

「ん……」

 

 声、でかいなぁ。こっちも演劇部には向いてる。腹式呼吸が要……どこかで聞いた気がする。

 

 無垢な笑み、という画像検索結果に最も相応しいような、明るい笑顔を見せる。それは同時に、私にとって彼女がそれほど害を及ぼす存在でないことを知らせていた。あまり危ない人じゃあない。むしろいい人寄り。不審者として通報するには無垢すぎる。そう思ったのだ。

 

「あなた、名前はなんていうのかしら?」

「私は、『律』。法律の律って字だ」

「旋律の律でもあるわね! 素晴らしい名前だわ!」

 

 その漢字の例、いいなあ。ギターも何もできないけど、音楽にそこまで詳しいってわけでもないけど、カッコイイので次からはその例を使おう。そう決めた私であった。

 

「キミは?」

「弦巻こころ! こころは平仮名よ!」

「こころ、さん」

「ふふっ、よろしく! 律!」

「これから冒険の仲間になるみたいな物言いッスど、ここだけの仲になる気はします」

「袖振り合うも多生の縁とは言うじゃない!」

「つまずく石も縁の端くれとは言いますがね。じゃあ何スか。一緒に食事でもするってんですか?」

「あら、いいわねそれ!」

「冗談です!!」

 

 女性とランチなんて、まだ数回しか経験したことないのに。話が続かなさすぎて、頼りっきりになる未来がありありと見えるわ。

 

「あたしは構わないわよ?」

「や、私、あんまカネないんで」

「あたしの家ならお金も必要ないわ!」

「余計遠慮しますゥ……」

「ずいぶん遠慮がちね?」

「あなたはずいぶんガツガツ来ますね!?」

 

 彼女の発言には、私を異性として狙っているといった意味合いは一貫して含まれていないように思えるものの、やはりこちらが一方的に意識してしまいそうで怖いものだ。こんな奇跡的な出会いで繋がってしまったら、もはやドラマだ。自慢げに同窓会で話せるレベルには奇跡だろ。

 

 それに、話しているうちに思ってしまった。

 

 こころさん、可愛いな? 

 

 一気に、こちらを見つめる、彼女のカナリヤ色の瞳を意識してしまう。いい意味で、作り物というか、ドールアイのように……輝いてて、くりくりとしている。

 

 いやいやいやいやいや。これは浮気になりかねない。私は『あの人』一筋なんだぞ。たとえ叶わずとも、離れていても。『あの人』へのこれまでの想いや、好かれるまでの努力、使った時間を裏切るようなことはしない。

 

 思いっきりビンタされるか、ファミレスで水ぶっかけられてフラれるまでは、な。

 

 こころは飴を口に放り込み、頬をおさえて美味しそうに口の中で転がす。

 

「ありがとう」

「……別に」

 

 急にこころは声のトーンを落とし、私に感謝を伝えてきた。なんだなんだいきなり。と思ったのもつかの間、さっきから立ちっぱなしでオーバーな動きを繰り返していたこころは、ベンチに座りっぱなしの私の横に座る。

 

 そして、首を軽く傾げて、こちらを向いて、こう言ってみせた。

 

「優しいのね」

「!!」

 ──『優しいんですね』──

 

 フラッシュバック。

 

 過去に見たもの、聞いたこと。つまり、過去の自分の体験・記憶が、無意識に脳から引き出されて、思い出してしまうこと。または、それらがあたかも現在目の前で起こっているかのような鮮明な錯覚を見ること。夢に見ることも、フラッシュバックのひとつである。

 

 主に、人に数ある感情の中でも『恐怖』に訴えかけてくるものが多い。そして、被害は五感のうちの視覚や味覚にも影響し、痛覚を伴うフラッシュバックもある。要するに、トラウマを思い出してつらたんになってしまうことだ。

 

 まさか、あれがトラウマになってしまうとは。私が今ここにいる原因、つまり旅に出ている原因が。

 

『アイツ』と、重なる。

 

 3年ほど前のことだっただろうか。湿度も極めて高い、イヤな暑さが最高潮だった8月中旬の、彼女の姿が蘇る。

 

 ──『いいんですか?』

『塩分補給は大事だろ』

『ふふ。ありがとうございます』──

 

 そうか。あれも、飴だったか。

 

 ──『優しいんですね。よければ、私のスポーツドリンクも、どうぞ…………』──

「ッ……」

「どうしたの?」

「いや……なんだ。そうだな……その…………」

「??」

 

 目が泳いでいるのが自分でも分かる。彼女の方に目が行く前に、彼女以外の何かを探して、それを見てしまう。しかし無意識では、彼女をじっくり見ることを望んでいる。

 

 遠のくことはできなかった。ベンチは──東京のくせに──私の地元の公園のものよりも狭い。少しでも彼女から離れようと動こうものなら、ベンチにケツが半分しか乗らないだろう。

 

 さらに不都合なことに、彼女は私の具合が悪そうなのが気になるのか、私にじりじりとにじり寄ってくる。

 

「なんでもないぞ」

「まだ何も言ってないわよ?」

「その……だな……」

「そうだ!! 分かったわ!!」

「うるさっ」

 

 今までに最大級に近づいてきたこころは、いい笑顔で叫ぶ。

 

「きっと! 飴だけじゃあ足りないのねっ!」

「えっ」

「もうすぐ昼ごはんの時間だわ! だから元気がなかったのね? そうに違いないわ!」

「そ、そう。腹が減って動こうにも動けないんだわ、これが……ハハ……」

 

 湿度0%の乾ききった笑いを漏らし、私は心の中で『よかった〜〜〜!!』と叫ぶ。地の文が心の中みたいなものなのだが、まあいいだろう。

 

 勝手に勘違いしてくれたのは、非常にありがたい。この精神状態では言い訳も直ぐに思い浮かばない。先程のようにはできない。常に演劇部の皆様方みたいにはならないものだ。いや、これは演劇部を信任しすぎか。

 

「そうと決まったら、あたしの家に行きましょ!」

「マジで遠慮しますッ! そこら辺のファミレスでいいッス! なんなら奢ります!」

「ふふっ。なら、歩きながら美味しそうなものを探しましょ! 探検隊よ!」

「案内はお願いしますね、ここら辺詳しくないんで」

「探検隊なんだから、案内じゃなくて探検よ? あたしもランダムに歩き回るわ!」

「地図ぐらいは探検隊も持ってるでしょうに!」

 

 気づけば、私の口角は上がっていた。自然と、だ。

 

 彼女は一度、私の中で『いつかの私の初恋の人』に重ねられたものの、それを跳ね返すほどに、はみ出すほどに、こころ自身の個性が強いのだ。

 

 私の心に一瞬でも浮かんできた、『彼女の代わり』なんて考えをズタボロに引き裂いてやりたい。

 

 誰かの代わりにされる側はたまったものじゃあない。分かっていたハズなのにな。

 

 ──『キミ、まるで弟みたいだねえ』

『やめろよ。マジに姉ちゃんって呼ぶぞ』

『呼んでください! お願いします!』

『頭を下げるな!』──

 

 弦巻こころ。彼女は、夏の精霊だったようだ。

 

 あわてんぼうのサンタクロースよろしく、私にいち早く夏のプレゼントに来たのだ。

 

 ──『あばよッ!! もう二度とぉぉぉぉ!!! 帰ってくるなよぉぉおおおおおおッ!!!』

『律ゥ─────ッッ!!!』──

 

「夏は嫌いだ」

 

 彼女についていきながら、私は上を向いてつぶやいた。入道雲が似合う青空。今は桜の花びらが舞っている。

 

「あら。そうなの? 夏はいいわよ! 青春の季節ですもの!」

「……好きじゃあないとも言っていない」

「?」

「嫌いだけど、好き」

 

 私は、独り言のように、頭の中の支離滅裂がちな言葉を紡ぐ。

 

 夏が嫌いになったのも、最近のことだけど。『あの人』と出会ってしまった季節だから。

 

「よく分からないわ! 律は難しい話をするのね!」

「人間関係で考えるんですよ。付き合う人の全てを好きになれるなんて、25mプールの中で時計のパーツを入れて、水流の力のみで時計ができる確率くらい低い」

「生命誕生と同じくらいなのね?」

「それは知ってるんだ!?」

 

 さっきから少しずつ、会話から隠しきれない知性が滲み出ている。東大生というよりかは、クイズ王的なベクトルの頭の良さが垣間見える。

 

「でも、あたしはパパとママの全部が好きよ!!」

「……そいつァ〜、プラチナいいことですね」

 

 どうやら、恋愛と家族愛の違いも分からないようだが。それでも、家族が好きだと、大きくなっても恥ずかしがらずに言えるのは、至極真っ当で真っ直ぐで、素敵な人間と言える。いい事である。私なら小っ恥ずかしくて、こんな風に堂々とは言えないな。少しは見習わないといけないかもしれない。

 

 こころはそれから、自慢のパパとママのことを話しながら、軽い足取りで狭い空の下を自由に歩き回る。私たちの腹を満たしてくれるものを探して。

 

 話を聞いていると、どうやらこの弦巻さんとこの家は、とても私の『普通の生活』に浸かりに浸かった脳ミソでは全てを鮮明に想像することは難儀であるほどに、財力があるそうだ。端的に言えば、金持ち。

 

 なんだ、野球場作るって。なんだ、豪華客船貸し切りって。それをあたかも普通ですよって感じに話してくるのも、クソ金持ちな匂いがする。もしくは東京都民がほぼ全員こんな感じかの2択だ。

 

 そんな奴の娘のことだが、こいつはどうやら『家柄にとらわれないタイプ』らしい。私みたいな一般人を毛嫌いし、お嬢様学校と家とテニスコートとバレエ教室にしか居ないような、私のイメージする『金持ちの娘』とは違うらしい。自分がどれだけ社会の中での地位的に上なのかを自覚していないという点においては、ある意味お嬢様っぽいけど。

 

「それでね、それでね!」

「はぁ〜ん? で、その時にいたのがミッシェルってやつなんですかね?」

「そうなの! ミッシェルはね!」

 

 金は持ってても、今のところ悪いヤツじゃあないってことぐらいは分かってる。

 

 こいつ、何かを話している時の大概が、ベイブレードやクラッシュギアの話をする小学生のように、目がキラキラとしていて楽しそうなのだ。

 

 気づけば、私は『笑いながら』話を聞いていた。

 

 私は『ココロから笑っていた』のだ。ここ数週間、ろくにM-1で笑えなかった私が、だ。それもこれも誰のおかげかというと、笑えなくなった原因の子に雰囲気の似た、こころという少女のおかげである。

 

 こころは、『アイツ』と出会った夏休みの雰囲気をまとっている。夏を全身から漂わせているのだ。街路樹たちが春の訪れを祝うように、沈丁花や木蓮が花を咲かせ、銀杏並木が風に新緑を揺らし、公園の桜の下ではそろそろ宴会のひとつでも行われそうな、春真っ盛り。

 

 彼女の半径85cmだけは、猛暑日だった。暑苦しいという意味もあるが、彼女は、一回の暦のうちでいちばん、地球に太陽が近づいているんじゃあないかってくらいに明るいのだ。眩しく、熱い。熱くて暑い。

 

 こころが来たプールや海水浴場は冬至でも問答無用で開かれ、ラーメン屋は冷やし中華の準備を始め、ビアガーデンは酒の蚊は血を吸ってやろうと人間の住む街へと羽ばたく。こころと一緒にいると19時を過ぎても明るく、花火職人がハチマキを締め、街ゆく人々は冬でも浴衣に着替えはじめるのだ。エブリデイ・夏至。夕立ザーザー。

 

 さて、そんな夏の擬人化であるこころは、東京のド真ん中でお上りさんになって歩いている私の前を、見知った建物ばかりだと言わんばかりに私の方だけを見て歩いている。上機嫌だ。

 

「それからあたし、驚いちゃったの! 彼岸花には毒があるんですって! それも花の全体よ!?」

 

 興奮気味に話しているところ悪いが、お前の後ろから元気そうなおじいちゃんがルンルンでチャリを漕いで、こちらに向かってきているところだぞ。お前がそれに気づかないことを察して、つい2秒前に青ざめたところだが。

 

 おじいちゃんが青ざめて3秒。私はこころの手を引き、自転車が向かってきている、路側帯の中でも車道側から彼女を引き離す。

 

 東京のくせに、ここは歩道が狭い。頭で考えるよりも先の行動だったもので、私は手だけでは素早く回避させてあげられないと思い、とっさにこころの背中に手を回す。そして、抱き寄せるように、こちらへと退かせた。

 

 無事、おじいちゃんは私たちのそばをギリギリで通過。ため息ではなく、安堵の息を漏らす。

 

 おじいちゃんもホッとしているところだが、お前が5割は悪いんだからな。そうじゃあなくても、乗り物に乗っているお前の方が加害者になるんだからな。

 

「じいさん! 私じゃなくてよかったな! ぶつかっていたら、その自転車ごとひしゃげていたところだぜ!」

「えッ!? 自転車ごと!?」

 

 ウソに決まってる。

 

 大丈夫か? 泥でもはねたら、お前のパパンとママンに半殺しにされちまう。私はそう彼女に尋ねようとしたが、どうにも離れない。私の身体から、彼女が離れない。

 

 こころは、そのやたらと整った顔を私の胸にうずめて、深く息をしている。くすぐったい。

 

 私が困惑したままこころとくっついているところ、こちらへ歩いてくる人がいた。第一印象は、スパイ。後ろにまとめられた髪、黒スーツに黒ネクタイ、おまけにサングラスときた。

 

「あのォ〜、弦巻さん家の者でしょうか」

「この度は対応が遅れてしまい、誠に申し訳ございませんでした。こころ様」

「あっ、やっぱり?」

 

 今度は誘拐かと思ったわ。

 

「……もうちょい早く来てくださいよ……こころが無事でよかったッスけど…………」

「一同を代表して、感謝いたします。律様」

「えっ、名前知られてる。こわっ」

「我々は『こころ様の大いなる影』に住まう者。こころ様の知っていることは、我々も当然把握しております」

 

 はぁ〜ん。太陽の作る影は、これまたデカい……と。

 

 なるほど、先程まで高い建物が沢山あるもんで上ばかり見ていた私だが、よくよく至る所を見てみると、至る所にグラサン黒スーツたちが隠れている。SPっていうか、こりゃ令和の世に現れた『忍』だな。

 

 そのこころ様はというと、SPらの存在に気づいているのかいないのかは分からないが、変わりなく私にくっついたままである。

 

 当然だが、緊張している。私はまだ高校2年生。年齢の近い女の子に、身体に張り付かれれば、少しはハナミゾこと人中の横断自動車道開通工事が行われ、そういう気分にもなってしまう。つまり私は今、鼻の下が伸びに伸びているということだ。これでもまだ必死におさえているほうだ。

 

 伸びたらヤバい場所はまだあるからな。この状態で『律! ナニか当たってるわ?』なんて言われたら修羅場だろ。SPさん含めて。

 

 それなりに色恋を経験してきているつもりでも、所詮は青二才ということか。いま、必死に母の顔を思い浮かべて、私の中にあるすべての悶と淫の感情を鎮めているよ。

 

「…………」

「こころ、見られてるッス。そろそろ離してもらえると……」

「あと5分っ」

「えぇ〜……」

 

 SPは依然、顔の半分ほどをサングラスで覆っているので顔色が読めないが、ここで私とこころを引き離さないあたり、黙認してくれているということだろう。

 

 いや、来いよ。私、こころと会って1時間も経ってないだろーがよ。私が殴られても文句言えねーわ。

 

 そのこころはというと、くっついてそろそろ3分、周りから『なんだあのバカップル』『ドラマなの? ドラマの撮影なの?』といった旨のひそひそ話が聞こえてこないかの心配が、女子に身体を密着させられているという緊張感に未だ勝らない私に、一切躊躇せずに私のジャケットを掴んで、ひっつき虫になっている。

 

「素晴らしい対応でした、律様」

「様付け、慣れないなあ。まあ、その、あざッス」

「就職に困ったら、ぜひうちを頼ってください」

 

 まだ高2じゃ。

 

「こころ様も喜ばれるかと」

 

 そうか? と、こころを見てみると、いつの間にかこちらに顔を向けていた。

 

 ずっと顔をうずめていたから、暑かったのか。全体的に顔が赤い。特に頬。そして表情はというと、変わらず笑顔、と言いたいところだが、今までの明るい笑顔とは様子が違う。

 

 幸福。好きな人を三日三晩抱いて寝たあとみたいに、とてつもなく幸せそうな表情であった。目を細め、口角をゆるく上げ、こちらを見るこころは、なんだか……。

 

 なんだか、エッチですね。

 

「律」

「なんですか」

「敬語はナシよ」

「……なに、こころ」

「ありがとっ」

 

 今度はこころが、私の背中に手を回す。そして、強く、とても強く、抱きしめる。

 

「…………」

「こころ」

「律〜っ!」

「や、違くて」

「ん?」

「SPの方々に見られてる」

「いいのよ! 律はイヤ?」

「そうじゃあない……」

「ふふ」

 

 SPのほうを見てみても、やれやれって感じで眺めてるだけ。グラサンをしているはずなのに、またこれだよ、と言わんばかりのSPの呆れたような視線が分かるぞ。手に取るように。いや、視線を手に取るって分かりづらいか。

 

 これはなんだ、弦巻さん家公認なのか? こころが誰に対してもこういうことしてるって認識でいいのか? 

 

「なぁ、こころ……」

「ん?」

「…………」

 

 その旨を尋ねようとするが、彼女の幸せそうな様子を見て、どうでもよくなってしまった。私は中途半端な人間だ。だから初恋の人が県外に行っても『またな』の一言も言ってやれないような男になっちまうんだ。

 

 バカみたい。結局引きづってる。

 

「昼飯を食う店を探そう」

「ええ、そうねっ」

 

 初恋を忘れるいい機会だなんて思っちゃあいない。しかし、今、私がこころに惹かれているのもまた確かな事実。私の心の中にある、確かに芽生えた、好奇心のようなナニカ。

 

 あの初恋とは、また、違う心情だ。

 

「それとですね」

「なぁに、律」

「メアド、交換してください」

 

 思ったことをそのまま口にした。それまでのことだ。

 

 こころは、なんだかキョトンとしている。メアドが分からなかったか? 最近の子はSNSにそれ専用のアプリがあると聞いたが、そちらの方がよかったか。写メとか、バリ3とかも通じないって言うし。

 

 しかし、私の言葉が通じなかったわけではなさそうだ。彼女は、突然吹き出し、私の方を向いてただただ笑った。

 

「ふふふ。ふふっ、ふふふ! んふふ……」

「な、なんだよ」

「んへへ、ふふ……えへ、アハハッ!」

「笑うなっての! 真剣なんだからよ!」

 

 こころはそれでも、私に抱きついて離れないまま、笑っていた。肩をふるわせて堪えようとするも、我慢できないようす。

 

 そんなにおかしいのか。

 

 それとも、まさかまさかの、嬉しいとか。

 

 ないか。

 

「クク、ククク」

「んふふふ」

 

 自分の中で色んな理由を考えてみた。しかし、どうでもよかった。こころが心地よさそうに笑っているのを見たら、そんなことは、どうでもよくなってしまった。

 

 つられ笑いとは、またちょいとばかし違う。先程まで、会って少ししか経っていない人間相手だったのか、ついつい顔色を見ていたのが馬鹿らしくなった。

 

 こいつの前で何を隠しても、それを全て笑い飛ばしてくれそうで。そんな気がしてならなかった。

 

 SPの方は、そんな私たち2人を、ずっと見ていた。そして数分経った頃、こちらへ何かを持って歩いてきた。よく見てみると、それは小さな鏡。女児向けアニメみたいな、キラキラとした装飾と持ち手のついたピンクの手鏡だった。

 

 それを私に突きつけ、SPさんは言った。

 

「こころ様の、『初対面の方が心から笑ってくれたらこうするように』とのご命令です」

「ねえ、律! あなた今、生きてるってカオしてるわよ!」

 

 顔、か。

 

「…………」

「笑えてくるでしょう? ふふっ」

 

 鏡に映っていた私の顔は、確かに笑えた。ヒゲを剃り忘れていただとか、朝飯のパン屑が口の周りにまだ付いていただとか、そんなんじゃあない。

 

 笑えてくるのだ。今まで悩んでいたことや、苦しんでいたことが。

 

 そう。貌。

 

 『貌が変わる』と書いて『変貌』。

 

「なるほど」

 

 自分自身に呆れたが。

 

 笑えるな。私。


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