大喜君がバドミントンに本気になるのを早くしてみた 作:もう何も辛くない
大喜くんのメンタルがある意味壊れます。
千夏先輩が猪股家へ来てから一か月と少しが経った。だからといって、千夏先輩が来たばかりの頃から何かが劇的に変わったかと言われればそうでもなくて。
ただ、少し変わった事といえば─────
「おはよう」
「おはようございます」
俺よりも早く猪股家の食卓にいる千夏先輩を見ても驚かなくなった事、だろうか。
まだ慣れたとは言えない。眠気眼で千夏先輩を見ると、何故か眩しく感じて仕方がない。ただ、俺の日常の中にこの光景が溶け込み始めたのは一か月と少しという時の流れ故なのだろう。
一か月と少し前の俺に今の猪股家の状況を教えても絶対に信じないだろうが。断言できる。過去の俺は絶対に信じない。そして今の俺の頭を本気で心配するだろう。
それ程に今の状況は現実離れしている。それは今でもよく分かっている。
それでも、その現実離れした状況を受け入れられるようになる毎に、千夏先輩もこの家にいる事を自然に思えるようになってくれれば、と思う。
居辛さを感じながら他人の家に住むなんて辛いにも程があるだろうし。
とまあ、千夏先輩との同居生活は何事も…まあ少し、体操服を間違えるというちょっとした事件が起きたりもしたが、
そうして時が過ぎれば当然、俺にとって大切なある出来事が近付いてくる。
─────そう、インターハイ予選だ。
「明日何時集合だっけ」
「七時だよ。遅刻すんなよ」
そんなこんなで、地区予選の前日まで時が過ぎていたりする。その間、さっき言った体操服の事件以外は本当に何も起こらなかった。
強いて挙げるなら、一昨日から針生先輩との練習メニューが軽くなったくらいだ。流石に試合が近いのに限界まで体を追い込む練習はしなかった。それくらいの情緒を針生先輩が持ち合わせてくれていて良かった。お陰で全身筋肉痛で試合に臨まないで済む。
「大喜ー」
帰り支度を終えて、丁度同じタイミングで帰ろうとしていた針生先輩と一緒に部室を出た所で頭上から声を掛けられる。
呼ばれた俺だけではなく針生先輩も一緒に声がした方を見上げると、バド部の真上、新体操部の部室の前で手すりに寄りかかりながら笑顔でこちらを見下ろす雛がいた。
「明日から地区予選なんだってー?張り切り過ぎてこけたりするなよー」
「余計なお世話だ。シングルスもダブルスも優勝するから期待だけして待ってろよ」
「ほー?大きく出たじゃん。匡くんに動画撮ってもらおーっと」
ニコニコしながら去っていく雛。あれは俺が優勝するなんて考えてないな。
「あの子と同じ事言うけど、大きく出たじゃん。どっちも優勝するなんて」
「そのくらいじゃないとインターハイに出るなんて口が裂けても言えませんから」
「…いいじゃん。そんじゃ、俺も期待させてもらうとしますかね」
「俺
あれは多分、負けた俺をどうやって励まそうか考えてる顔だった。まあ、県大会まで勝ち上がるくらいは期待してくれてるとは思うけど。
…してくれてる、よな?そのくらいは自意識過剰じゃないよな?
「…それよりも大喜」
「はい?」
「お前、ラケバは?」
「…あ」
左肩にある筈のいつもの重みがない事にようやく気付く。
「取ってきます!」
一番大事な物を取りに来た道を走って戻る。駆け出す直前に針生先輩が大きく息を吐いたのが聞こえた。
ラケットバッグを忘れるとか我ながら呆れる出来事の後、家へと着いた俺。夕飯を食べて、風呂に入って、そして今、明日の準備をしているのだが─────
「大喜!ちゃんとユニフォーム入れなさいよ!」
「今から入れる」
「シューズとラケットは!?」
「忘れてないよ」
「ウィダー買ってあるけどいる!?」
「いる」
実は緊張してる?なんて思ってた。というより、実際緊張しているんだろう。高校初めての公式戦なんだし、そこは当たり前だと受け入れるしかない。
ただ、母さんは俺以上に緊張してるのか?さっきからずっと動きっぱなしなんだけど。
「タオル何枚いる?」
「とりあえずそんなにいらない」
ずいっ、と何枚か重なったタオルを俺に向けながら聞いてくる母さんに首を横に振りながら答える。
てかそれ何枚あるの?五枚以上はあるよ、それ。一枚じゃ足りないだろうけど、そんなにいらないって。
「必要なものはもう入れた。ユニフォームはこれからだけど」
「そう?ならいいんだけ─────」
ばしゃり、と液体が飛び散る音がした。その正体は、さっきまで俺が飲んでいたポカリ。
まだ中身が入ったペットボトルをテーブルに置いていたのだが、ユニフォームを掴もうとした時に手が当たり、ペットボトルを倒してしまったのだ。
「…大喜?」
「た、タオル!早くタオルを!」
「あぁー!洗濯し直し!明日までに乾くかしら!」
まあ、ボトルを倒した結果どうなったのかは今の俺と母さんの会話を聞けば分かるだろう。
零れたポカリはユニフォームを汚し、俺と母さんが慌てふためく。とにかくタオルで水分を出来るだけ吸ってから、選択し直すべくユニフォームを母さんに手渡した。
(…なにこれ)
とりあえずユニフォーム以外の準備を終えてから、部屋のベッドに体を投げ出し顔面を枕に埋めながら自分に対して呆然とする。
自覚は全くない。だが、いつもならラケバを忘れたりユニフォームにポカリを零したりなんて絶対にしない。つまり今、俺は緊張しているんだろう。
「─────」
自覚した途端、思い出したかのように心臓が激しく鼓動する。背筋に寒気が奔り、なのに額から一筋の冷たい汗が流れる。
(嘘だろ。高校最初の試合とはいえ…、何でこんなプレッシャー感じなきゃいけないんだ)
そう。たかが高校生の一大会だ。回数が限られてるとはいえ、選手としてお金をもらってる訳でもあるまいし。
プレッシャーに感じる事なんて─────
ない、と心の中で呟く直前に、インターハイに行くと言い合った時の千夏先輩の顔が思い浮かんだ。別にその事がプレッシャーに感じるような、そんな出来事だったとは思わない。
それでも、何も背負うものなんてないという考えは間違いだったと思い直す。
「…あー、くそっ!」
これ以上じっとしていては駄目だと感じ、ベッドから起き上がる。すぐにベッドの足下に置いてったバッグからラケットを取り出して部屋を出る。
うるさい、と母さんに怒鳴られるのにも構わずどたどたと足音を立てながら勢いよく階段を下り庭へ出る。
こうなったらもうあれしかない。練習だ。流石に夜も更けたこの時間帯にランニングに出るのは危ないので…本当は走った方が頭を空っぽにしやすいんだけど我慢して、素振りをする事にする。
でもやっぱり外で体を動かす選択をしたのは正解だった。スッキリした訳じゃないけれど、少なくともベッドでじっとしてた時よりはマシになった気がする。
それでも、まだ胸に燻る不安は消えてくれない。
「こんな時間まで練習?」
頭の中で相手コートから飛んでくるシャトルを思い浮かべながら再度ラケットを振るおうとした時、家の中から声がした。
動きを止め、ラケットを下ろしてから声がした方へと振り向くと、少し寒そうに体を縮ませた千夏先輩がそこにいて、俺を見ていた。
「ちょっと体を動かしくなって」
「そっか。…そんな事よりも大喜くん」
「はい?」
「シャツ、裏表だよ」
俺の中で一瞬、時が止まった。両手を裾の左右に触れる。シャツの外側に確かにタグがあった。
「…」
もう俺はだめかもしれない。ラケットバッグを部室に忘れ、ポカリをユニフォームに零し、シャツを裏表に着る。
いや、ここまでやらかせば逆に明日は何もやらかさないかもしれない。そうだ、そうに違いない。これは逆にポジティブに考えられるのでは?
そんな事を思い、自分に言い聞かせながら裏表のシャツを脱いで裏返し、着直そうとする。
「え」
「え?」
千夏先輩が驚いた様に声を上げ、俺も思わずそちらに視線を向けた。
千夏先輩が目を丸くして、何故か恥ずかしそうに頬を染めながら俺を見ていた。
何だ?何をそんなに恥ずかしがる必要が─────あ。
「えっと…。大喜くんって、腹筋割れてるん、だね…」
「…すみません。見苦しいものをお見せしました」
今までの人生の中で一番素早く動けた気がする。
すぐに袖に腕を通し、襟に頭を通してシャツを着る。間違いなく、猪股大喜の人生の中で最も速くシャツを着た。タイムを計ったら分かると思う。
絶対にそんなタイムを計る事はないと思うけど。
「緊張してる?」
「─────」
本当に、自分のメンタルの弱さと間抜けさに内心溜め息を吐いていると、千夏先輩が口を開いた。
その口から出てきた言葉は、正に今の俺の心情を情け容赦なく言い当てる。
俯いていた視線を上げ、千夏先輩の方へ向ける。真っ直ぐに俺を見ていた千夏先輩の視線を交わり、数秒見つめ合う。
「…どうして?」
「ごめんね。さっきの由紀子さんとのやり取り、見ちゃったんだ」
「あぁ…」
どうやら俺は勘違いをしていたらしい。千夏先輩は偶然近くを通りかかって俺に話し掛けたんじゃない。
「…大丈夫ですよ、これくらい。緊張は、まあ…多分明日もするんでしょうけど、試合になれば切り替えられると思います」
今言った言葉は半分本当で半分嘘だ。緊張は多分、明日まで続く。そして、試合になっても切り替えられる自信は、少なくとも今の段階ではない。
ただ、千夏先輩ももうすぐ大会に入る。だから、同じ目標を志す同志として、俺の事にこれ以上気を遣ってほしくなかった。
「…大喜くん。ちょっとこっち来て」
「?はぁ…?」
でもまあ、千夏先輩には俺が吐く下手な嘘なんてお見通しなのだろう。
俺の名前を呼んで手招きする千夏先輩に従ってそっちに歩いていくと、千夏先輩は人差し指を立てた。
そして─────
「ひゃくえ」
謎の言語を発しながら俺の頭のてっぺんを立てた人差し指でグッ、と押した。
「!?」
いきなり異性に頭を触られた驚きに思わずびくりと体を震わす。
「な、何ですかいきなり!?」
「百会って頭のツボで、リラックス効果があるんだって」
…あぁ、ひゃくえって
「前日に慌てたって仕方がないし、頑張って来たのは確かなんだから。余計な事考えないで、ただそれを発揮してくる事」
分かった?と言いながら微笑む千夏先輩の笑顔が、少し眩しくて。でも、百会を押してもらった効果か、それとも千夏先輩の言葉が胸に染み込んだからか。
さっきまでの不安が嘘のように今は消え、落ち着いたのが分かる。
「大喜くんには来年も再来年もあるんだし」
落ち着いたはずの心に、ハンマーで殴られたかのような衝撃が襲う。
さっきまでどこかに行っていた不安と緊張が、たかだか数秒で俺の中へと帰ってくる。
来年と、再来年。違う。千夏先輩、それは違います。
「今年と、来年」
「え?」
「チャンスは二回しかないんです」
さっきの千夏先輩の言葉で思い出す。
そう、チャンスは二回しかないんだ。
「千夏先輩と一緒にインターハイに行けるチャンスは、今年と来年しかないんです」
「たいきく─────」
「再来年じゃ、もう駄目なんですよ」
俺をリラックスさせようとしてくれた千夏先輩には悪いけど─────でも、お陰で割り切れた。
別に
それでいいじゃないか。何を迷う必要がある。不安になろうが緊張しようが、体は動く。心が何を感じていようが、練習と同じ動きは出来るんだから、何も問題はないじゃないか。
「おやすみなさい」
そうと決まれば、もう素振りなんてする必要はない。明日に疲れを残すような真似は、もうするべきじゃない。
普通、不安や緊張を感じていれば眠れないんだろうが、自分でも良く分からないけど、今ならぐっすり眠れる気がした。
それって本当に緊張してるのか、と聞かれるだろうけど、我ながらバッチリ緊張している。だってそうだろう?今年のチャンスを逃せばもう来年しかチャンスはないんだぞ。緊張しない筈がない。
でも…、それでも、やるしかないんだ。俺が出来る事全部を使って、足掻くしかないんだ。
次の日。思った通りぐっすりと眠れた俺の体に疲れは微塵も感じず、勿論遅刻なんてせず集合場所である総合体育館前で針生先輩と合流する。
「よし。行きますか」
「おう。緊張はしてないみたいだな」
「いや、してますよ」
「…は?」
針生先輩の笑顔が固まる。そして、何言ってんだこいつ、といった表情になった針生先輩に向けて口を開く。
「緊張してようがやる事は変わらないんで。大丈夫です」
「─────何だそりゃ」
俺の言葉を受けた針生先輩は一瞬呆けた顔になってから、小さく笑みを零す。
「お前、それ本当に緊張してんのかよ」
「当然です。心臓バクバクです」
「真顔で言う台詞じゃねぇぞ、それ。…でさ、大喜。さっきから気になってんだけど、お前それ何してんの?」
「百会を押してます。リラックス効果があるんで」
「緊張してようがやる事は変わんないんじゃないのかよ…」
「いや、ここを押すと無駄な緊張がなくなって程良い緊張になるんで」
「程良い緊張って何だ!?」
という事で、大喜くんのメンタルの成長具合がぶっ壊れてるお話でした。
トッププロが実践してるスポーツメンタルを平然と実行しようとしてる大喜くん。
タグに魔改造ってつけておいて良かった…。