前回と比べたら比較的短期間で投稿できたかと思います。
そして今回は…読んでいただいた方が早いとは思いますが、かなり重めの回です。
構想を始めた約二年前からどう表現するかを練りに練りまくり、8パターン程考えた末にこの結果になりました。
あえてあまり多くは語りませんが、無理やり一話に収めようとした結果また相当長くなってしまった事をお詫び申し上げます。
それでは、お読みください。どうぞ。
※pixiv版は同一作者です。
「――よって運動前の準備運動は怪我のリスクを減らし、故障を防ぐことに繋がるのです。」
四時間目の保健の授業。
昼休み間近の副教科の時間となれば、生徒の集中力も下がって来る。
そういう事もあって、教室の後ろの方からは授業を聞かずにひそひそと話す声も聞こえてくる。しかしこの授業の担当は私達の担任の片淵教官。当然そんなことをしていたら…
「貴女たち、ちゃんと聞きなさい!」
話していた子達がびくっと震えた。
「…これはとても重要な事です。成績云々ではなく、貴女たちの為にもどうか真面目に聞いて下さい。」
しんと静まり返った教室で、教官は再び話し始めた。
「本格化期のウマ娘の身体能力は人間の比ではありません。しかし同時に本格化には身体成長を伴います。即ち、ウマ娘は成長期のデリケートな身体に強烈な負荷をかけてレースに挑むことになるのです。…その結果が、ウマ娘の異常なほど多い故障発生率です。デビューから引退に至るまでの間に、約八割のウマ娘が何らかの故障を発生すると言われています。そうした故障が軽度で、かつ走る前に見つかるならばまだいいのですが…最悪の場合が、重度の故障がレース中に発生する事です。靭帯断裂や骨折、心房細動等…そして何より、それらによる転倒が最も危険です。最高時速約60キロメートルで走るウマ娘がひとたび転倒すれば無事では済みません。良くて大けが、悪くて競走能力喪失、最悪…命を落とした例もあります。」
教室の空気が張り詰める。
「こうした事故は避けようのない物もありますが、未然に防げるものもあります。無茶な走りや過負荷なトレーニングを避ける事、走る前の準備運動をしっかりする事、身体に不調がある時に走らない事等です。これは皆さん、また他のウマ娘を巻き込まないことに繋がる大事な事です。心得ていて下さい。」
「ひるやすみだー!」
授業が終わるとともにミライちゃんの明るい声が響いた。
「お疲れ。食堂行こうよ。」
「うん!きょうはなにたべようかなー?」
「私は日替わりで良いかな~。アオは?」
「うーん、私はラーメン食べようかな。高菜多めで。」
「え~、アオまたラーメン?太らない?」
「食べた分だけ動けばいいもん!それに食堂のラーメンってスタンドの所と同じ方が作ってて飽きない美味しさだし。」
「え、そうなの?だからどっかで食べたことがある味だったのか~。」
「まあ混む前に行こうよ。ニシノちゃんも起きて…る!?」
いつも授業終了後にはぐっすりと眠っているニシノちゃんが、少し眠そうながらも起きていた。
「すみません~、ちょっとわたくし先生からお呼び出しを受けておりまして~。先に食べていてくださいませんか~?」
「分かったけど…なんでまた呼び出しを?」
「数学の伊都先生から授業態度について話したいことがあると~。」
「あ、授業態度…そういうことね…」
「申し訳ありませんがそういう事で~。」
ニシノちゃんはぺこりと一礼すると廊下を職員室の方へ歩いて行った。
「本来あの成績なら優等生扱いされてるはずなのにね…」
「何で毎回寝ててあの成績獲れるんだろう…」
「あ、ミライもこのまえよびだされたよ!ミライもゆーとーせいってことかな?」
「ミライ、呼び出しは優等生の証じゃないから。そして赤点取らないようにしなさい。」
「はーい…」
そして食堂で昼食を食べ終えた辺りで、ニシノちゃんがやって来た。
「お疲れ~長かったね。」
「えぇ~。『いくら成績が良くてもそんな調子じゃこの先苦労するぞ』との事ですわ~。」
「あ~、あの先生なら言いそうなセリフ…」
「ねえねえそれよりっ!こんどのどようびってみんなあいてる?よつやまじんじゃにおまいりにいきたいんだ!」
「私は空いてるけど…急にまたなんでお参りに?」
「こんどのレースでかてるようにかみさまにおねがいしたいなーって!」
「え、今までレース前に神社なんて行ってたっけ?」
「いままではいってなかったけど…かみさまにパワーもらったらかてるようになるかなって。こんどのレース、ぜったいかちたいんだ。」
ミライちゃんはいつになく本気の目をしていた。
「ごめんミライちゃん、私家の用事があって…今回は行けないかな。」
「そっかー。じゃあニシノちゃんは?」
「ご一緒できればいいのですが先ほど伊都先生から追加課題を渡されまして~。量が多いので行けたら行きますわ~。」
「じゃあカナちゃ…」
「私もパス。トレーニングするから。」
カナちゃんはどこかぶっきらぼうに言った。
「えー!じゃあケイちゃんだけかぁ。」
「まあそんな時もあるよ。じゃあ十時に正門前集合でいいかな?」
「…うん!」
少し寂しそうな顔をしていたミライちゃんだったが、すぐに切り替えてにっこり笑った。
そして土曜日。
朝は空を覆っていた雲が昼を前にして消え去り、梅雨らしくもなくからりと晴れたその日の気温は、夏が確実に近づいている事を否応なしに感じさせた。
動きやすいようにサマーパーカーにショートパンツを合わせてみたコーデだったが、帽子もかぶればよかったと後悔しながら四ツ山の長い階段をミライちゃんと登りきると、対岸までくっきりと晴れ渡った有明海の風景がに広がった。
「ミライちゃん、少し休憩いいかな?」
「いーよー!」
遊歩道を逸れた展望所のベンチに腰掛けると、持ってきた水筒を喉に流し込む。
群青に染め抜かれた空と強い日差しに青々と照らされた辺りの草木はその色を輝かせ、蝉の声があれば八月だと言われても信じてしまいそうな彩度の高い風景の中に、少し遠くでレース場の砂が真っ白に光り存在感を放っていた。
「やっぱり綺麗だな、この景色。」
「ねー!ミライもここすきなの!ここにくるとなんかあんしんするんだ!」
「あはは、アオも言ってたっけ。やっぱりみんな惹かれるものがあるんだなぁ。」
ふと、ミライちゃんと二人だけで話すのは初めてじゃないかと気づいた。どうせだから、普段は聞かない事を聞いてみようか。
「そういえばミライちゃんって、カナちゃんとは昔から一緒なんだっけ?」
「そうだよー!しょうがっこうでとなりのせきになってからずっとともだちなんだ!」
「そうなんだ。だからミライちゃんの部屋あんなにカナちゃんとの写真が多かったんだね。」
「うん!カナちゃんとは『かぞくぐるみのおつきあい』ってやつでね!キャンプとかいっしょによくいったんだ!」
「そっか~…でも今だとカナちゃんとはちょっぴり喧嘩が多い気がするんだけど、何かあったの?」
「うーん…ミライもよくわかんない…ろくねんせいのあたりからカナちゃんがすこしいじわるになっちゃったの。なにかミライしたのかなぁ。」
「どうなんだろうね。私がカナちゃんに聞いてみようか?」
「ううん、だいじょうぶ。ミライももうおとなだもん。じぶんでなんとかしてみる!おかしあげたらなかなおりできるかな?」
「お、お菓子じゃ…どうだろうね。」
ミライちゃんはやっぱりこういうところに幼さを感じる。まあそれが可愛げがあってみんなから愛される所以なんだろう。
「よっし!じゃあケイちゃんそろそろいこっ!」
「うん。」
私は駆け出した小さな背中を追う。
灯篭が並ぶ木々の間の道を通り抜けると、手水所と石造りの鳥居が見え、一段上がったその奥に四山神社の社殿が見える。
どういうわけか脇に大きな五円玉の石像が鎮座した参拝所でお賽銭を投げ入れお祈りをする。
私はレースがもう少し先なのもあって、とりあえずは直近の期末テストの為学業成就を祈り、顔を上げるとまだミライちゃんは深々とお祈りをしていた。
いつもはあどけなさが残る顔も、こうして真剣にお祈りをしてると少し大人びて見える。
「…よし!おいのりおーわり!」
戻った。
「これからどうする?」
「うーんおみくじひいて…あ!そのまえにちょっとたんけん!」
「どこいくの?」
「すぐそこ!まだいったことないんだけど、じんじゃのうらにこふん?ってのがあるんだって!おたからとかないかなー!」
「えっと、古墳ってただの昔のお墓で…ま、待ってー!」
ミライちゃんは私の話を聞き終えない内に神社の裏に駆けだしていった。
「ちょ、待ってって…速っ!」
ミライちゃんは瞬く間に建物の陰に隠れて見えなくなった。
今気にする事なのかは分からないが、レース前らしく仕上がった速さだ。
これなら火曜日も勝てそう…じゃなくて追わないと。
私もミライちゃんに続いて社殿を曲がり、すぐにミライちゃんの姿が…
見えなかった。
「…あれ!?」
ミライちゃんが言っていた古墳とやらが見えるかと思えばそこには鬱蒼とした森が広がっていた。
それどころか、横にある筈の社殿がない。
「なにここ…」
後ろを振り返ると、私が曲がって来た筈の角すら見えない。
私はどういう訳か森の中に立っていた。
「…ミライちゃーん!?」
友の名を叫ぶが返事がない。
真昼だというのに薄暗い森には気味の悪さを感じる。
まるで状況がつかめない。
ともかくはミライちゃんを見付けないといけない。そう思って右往左往していると、
「…」
「ミライちゃん?」
どこかで声がした。
辺りを見渡すと、遠くにほんのりだが明るい場所が見えた。
「…」
そちらの方向からまた微かな声が聞こえた。
「ミライちゃん!そこなの?」
私は一刻も早くここから抜け出したい一心で、声の聞こえた方へ走る。
木々をよけて、枯葉を踏みしめ必死に光へ向かう。
しばらくすると、森の切れ間が見えた。
夢中で飛び出す。
急に明るい場所に出たからか光で目が眩んだ。
瞬きをして前を見ると、そこには小さな花園のような場所が広がっていた。
「綺麗…だけどここもどこ…?」
その花園の中心には苔むした大きな像が立っていて、地面には黄色と青の鳥のようなな形をした花が生えている。
像の方へ近づいてみると…
「これってよく見たら…三女神像?」
間違いない。水瓶を肩に担いだ三女神の像だ。
しかし表面は苔で覆われ、崩れている部分もある。
「こんなに傷んだ三女神像、初めて見た…」
荒尾にも小さなものが置かれているが、そちらは小さくともいつも綺麗に掃除が行き届いている。
思わず三女神像を労わるように触れる。
すると、
ドクン。
「っ!?」
心臓が耳にも聞こえるくらい大きく動いた。
きたんだね。
「誰!?」
周りを見渡すが誰もいない。
でもまだ、だめ。
声が続けざまに聞こえた。
「駄目って…何が?」
その声は、初めて聴くはずなのにどこか懐かしく、それでいて一人の様にも複数人の様にも聞こえた。
まだ、やれる。
あなたなら、できる。
おねがい。
だからたくすね。
わたしたちの、想い。
「えっ!?えぇぇ!?」
そのとき胸が熱くなると同時に、身体に力が漲って来る感じがした。
そして目の前が真っ白になると、まるで地面が無くなり宙に浮いている感覚になった。
またね。
そう声がすると、私の前に誰かの影が見えた気がした。
その影を見た途端、わたしは思わず口が動いた。
「 。」
自分で発したはずのその言葉は、何故か聞き取れなかった。
「…あれ!?」
気付いたら私は先ほどと同じ四山神社に居た。
辺りを見渡しても木々は見えても森も女神像もどこにもなかった。
「何?今の…」
余りにも奇妙な出来事だったのに、何故か心が温かかった。
「ケイちゃーん!おたからなかったー!」
ミライちゃんが角の向こうから顔を出した。
私はそちらに駆け寄る。今度は周りの景色は変わらなかった。
そこには、和風の門とその奥に大きな石があり、近くに説明書きの板が置かれているだけだった。
「へえ…この神社がある場所自体が古墳でご神体なんだ…」
「ミライよくわかんないけどおたからはないってことでしょ?」
「いや、副葬品が出たって書いてあるよ。だからお宝はあったんだね。」
「えー、さきこされちゃったってことかあ。つまんない~。」
「ミライちゃんが見つけてても自分の物にできたかは分かんないけどね…」
そんな他愛のない事を話しながら、本殿の前へと戻る。
さっきの出来事は…夢だったのかな。
余りにも現実味がない出来事だったので、私はミライちゃんには話さなかった。
本殿の前に出ると、二人のウマ娘が居た。
「あ、ケイちゃんとミライちゃん。」
一人のウマ娘が、私たちを見て声をかけた。
「あ!カノンちゃん、むっちゃん!」
ミライちゃんが嬉しそうに駆け寄る。
二人は私達の同期のシークレットカノンちゃんとムツミゴールデンちゃんだ。
二人ともこれまでのレースで二回とも一緒に走っている。
「やあやあ二人ともご機嫌麗しゅう…おや、ケイ君珍しい物を持ってるね。」
「え?」
ムツミちゃんに言われてふと自分の左手を見ると、知らない間に花を一輪握っていた。
「ほんとだ!きれいなはな~!ケイちゃんそれどこでみつけたの?」
「あれ!?いつの間に?」
「確かにきれい!だけどこれなんてお花?」
「ストレリチアだよ。カノン君。極楽鳥花ともいうね。」
「たしかに鳥みたいな形!でもなんでケイちゃん持ってるの?」
「分からない…何でだろ?」
「ふーむ自分で持っておいて分からないというのは中々不可解だが…まあ既に採ってしまった後なのだから仕方ない。部屋に飾っておくといい。花言葉も素晴らしく縁起が…おや、肝心の花言葉を忘れてしまったよ。後で調べておこう。」
「そういえば二人はなんでお参りに?」
「あ、私たちも火曜にレースに出るから祈願に…ミライちゃんと一緒の。」
「そうそう!こんどもライバルだよ!」
「ケイ君は未勝利から一抜けしたから今度は被らないが…なに、またすぐ共に戦う日が来るさ。今度勝つのはボクだからね!」
「ちがうよ!こんどはミライがかつの!」
「わ、私だって負けないもんっ。」
「み、みんな落ち着いて!」
未勝利脱出という目標を賭けた三人の間には見えない火花が散っているようだった。
「そ、そうだおみくじ引かない?そこで売ってるよ。」
私は三人にそう促し、本殿の脇で売っているおみくじを四人で買う事にした。
結果は…
「ボクは大吉だね!やっぱり神様は見てる!」
「ミライちゅうきちー!」
「私も中吉…ケイちゃんは?」
「吉…これって良いんだっけ悪いんだっけ?」
「ふむ…大吉の次に良いとされる場合と小吉の下とされる場合があるのだがこの神社では…分からないな。まあ好きに解釈して良いんじゃないかい?」
「えー曖昧…まあポジティブに捉えとこうかな。」
「そういえばレースのうんせいってどこみればいいのかな?」
「うーん…争事じゃない?直接は書いてないし。」
「願事でも良いんじゃないかな?勝ちたいという思いは紛れもない願いだしね。」
「そっか!じゃあミライだいじょうぶそう!」
「そういえばおみくじって結ばなくても良いって話聞くよね。私は大吉以外は結んじゃう派だけど。」
「そうだよ。おみくじの内容を見返すのも大事だと言われているからね。」
「じゃあ私持って帰ろうかな。」
「ミライもー!」
そして私たち四人は集まるのが珍しいメンバーだからという事もあって、もっといろいろ話をしようという話になり、レース場から少し行った場所にあるチェーンのハンバーガーショップで昼食を共にしてから帰路に就いたのだった。
そして、三日後。六月二十八日。
その日は朝からあいにくの雨が降り注ぎ、朝の時点でバ場状態は不良が発表された。
レース開催日は半休になるが、二時間目までは授業はしっかりある。
レースに出るのだから当たり前ではあるが、ミライちゃんが居ないといつもの元気が足りなくてどこか寂しい感じがした。
「ねえねえ、十一時から雨10ミリだってよ。」
「え、それやばくない?バ場どろっどろでしょ。」
「1レース荒れそうだよね~。」
一時間目の休み時間に、クラスメイトの何人かがそんな会話をしていたのを耳にした。
ミライちゃんは大丈夫だろうか。
…いや、もっとどろどろの干潟であれだけ速いんから心配無用か。
そして二時間目の授業が終わると同時に、私たちはミライちゃんを応援しに急いでスタンドに向かった。
まだパドック入りが始まる前だったので、職員さんに頼んで控室に入れてもらえることになった。
「ミライちゃん緊張してるかな?」
「うーん、まああれだけ天真爛漫なミライちゃんの事だし、気負ってはいないんじゃない?」
「みなさま~、今スマホで確認しましたら、ミライさん二番人気だそうですわよ~。」
「ほんと!?すごいねミライちゃん、確実に評価上がってきてる。」
私と走った前走でもミライちゃんは三着まで上がってきていた。
今日のメンバー的にも、勝機は十二分にあると言っていいだろう。
…あれ。
ふと、私はカナちゃんの表情が暗く口数が少ない事に気づいた。
「どうしたの?カナちゃん体調悪い?」
「あ、いや平気。…大丈夫。」
「そう?ならいいんだけど…あ、ミライちゃん。応援に来たよ。」
控室の扉を開け、少し奥の方に居たミライちゃんに声をかける。
「わー!みんなありがとう!」
「調子は大丈夫?」
「ぜっこうちょー!きょうはまけないよ!」
「自信満々だね、ミライちゃん!」
「うん!けいちゃんといっしょにかみさまにもおいのりしてきたし!ぜったいかてるよ!」
ミライちゃんがそう言ったとき、今まで口を閉ざしていたカナちゃんの表情が少し険しくなった。
「…違うでしょ。」
「カナちゃん?」
「そうじゃないでしょ、ミライ。」
「どーしたの?カナちゃん。なにかミライへんな…」
「なんでいつもそんなことばっかり言うの!ミライ!」
「か、カナちゃん!?」
「なんで勝てるかの根拠が神様なの!?おかしいじゃんそんなの!」
普段見てきたカナちゃんとは思えないほど、まるで以前私を叱責した時のように…カナちゃんは取り乱していた。
「本当に勝つならさ!勝つ気があるんならそんな神頼みなんかに行くんじゃなくてトレーニングしなよ!ほんとに子供だよねミライは!」
「…ミライ…ミライこどもじゃないもん!」
「落ち着いてカナちゃん!神社にお参りに行くなんて別に何も不思議じゃ…」
「アオは黙ってて!」
アオはびっくりした様子で黙り込んだ。
「ずっと…ずっとそうだよミライは!やることなすこといつも周りとずれてて!一々子供っぽくて!側にいるとこっちが恥ずかしいんだよ!」
駄目だ、そんなこと言っちゃ…
ミライちゃんは今にも決壊しそうな程目元に涙を浮かべて目尻を赤くしていた。
ほんとうにどうしちゃったんだ、カナちゃんは。
どうして突然、こんなひどい事をずっと昔からいるはずの親友に言っちゃうの。
それでいて、…なんでそんなにも声が震えて、辛そうな表情をしてるの。
「そんな調子じゃ、どうせ今日も勝てないよ。…この前みたいに先頭争いに負けて。同じ結果になるんじゃないの。」
「その辺になさいなさい、カナさん。」
ニシノちゃんがカナちゃんの肩に手を載せた。
「ニシノも関係な…」
「冷静になりなさい。今の貴方、少し変ですわよ。」
ニシノちゃんもいつになく真剣な口調でカナちゃんを咎めた。
「…っ!」
カナちゃんは我に返ったような顔で、まるで今自分が言ったことが信じられないように目を丸くした。
そしてミライちゃんも、堪忍袋の緒が切れたように、遂に叫んだ。
「ミライぜったいかつから!!ぜったいにげきってかつから!!こどもっぽいなんて、もうぜったいいわせないもん!!」
ミライちゃんがそう言った直後、職員さんが私たちに控室から出ていくよう通告した。
控室から追い出された直後、カナちゃんが震える声で絞り出すように言った。
「ごめん…私、ちょっと頭冷やしてくる。」
そう言い終わらない内に、カナちゃんは駆け出した。
「カナちゃん!」
アオがその後を追おうとしたが、ニシノちゃんが肩を掴んだ。
そして、私の方を見て、行くように促した。
「私で良いの?二人の方が…」
「私たちではだめですわ。多分今は…ケイさんが行った方が宜しいかと。」
「…分かった。」
私は頷くと、カナちゃんの後を追った。
レース前で少し混んでいるスタンド内を走り抜け、彼女が居る場所を探す。
頭を冷やせる場所。今一人になれる場所。
だとしたら恐らく…
私は雨が降る外に出て、パドック脇の外付け階段を駆け上がる。
そして三階への入り口まで上がった所に、うずくまる彼女の姿を見付けた。
「よく…ここが分かったね。」
「…レース開催日で、人通りがない場所なら、ここかなって。」
「そっか。…荒尾にも慣れて来たね、ケイちゃん。」
そして彼女は顔を上げた。
彼女は…泣いていた。
「あはは…変だったよね、私。…ばかみたい。」
「カナちゃん…」
私は彼女の隣に座り込む。
時折入り込んだ雨が髪に当たるが、気にしない。
「私さ、知ってるかもしれないけど、ミライとはずっと昔からの友達なんだ。小学校に入った時、人見知りだった私に初めて話かけてくれたのがミライ。」
「うん。」
「ミライはあのころから明るくてさ、誰とでもすぐ仲良くなっちゃうし。…レースクラブに誘ってくれたのもミライだった。どんなことにも好奇心旺盛なあの子が…私羨ましかったんだ。」
彼女はゆっくりと話す。
「だからかな、私少しずつあの子に劣等感を感じるようになって。何か自分が勝っている部分を探すようになって。…あの子の子どもっぽい部分を馬鹿にするようになった。…私もあんまり変わんないのにね。そしていつからかあの子がすることが全部幼稚に感じるようになって、…もっと大人になればいいのにって、思うようになってた。」
「カナちゃん…」
「でも全然違うんだよ。…逆なんだよ。私の方が子供。ミライを馬鹿にすることで自分の方が大人なんだって思い込んで。むしろ…まだデビューできてない私よりもミライの方が大人なのに。」
「カナちゃん、それは違うよ。…本格化は個人差があるって、先生も言ってたでしょ。」
「そうだね。…そうだよ。だけどさ、アオも、ニシノも、ミライも、そしてケイちゃんも。みんな私よりも早くデビューした。私はまだ目途も立ってないのに。だからさ、焦っちゃうんだよ。置いてきぼりにされちゃいそうで。」
「…」
「私はどれだけトレーニングしてもスタートラインにも立てなくて。なのにあの子はもう走れる。そんな中でさ、勝つ為にトレーニングじゃなくて神頼みに行ったって聞いてさ。…なんだかすごくイライラしたんだ。私は休日返上でトレーニングしてるのに、それで勝とうとしてるって、それなら私が今している事って何なんだって。」
カナちゃんは頭を抱えながら話し続ける。
「本当にばかみたいだよね。自分の出来が悪いだけなのに。普通の事を、あの子をばかにして自分を正統化する材料にするなんてさ。」
…カナちゃんが言っている事はよく理解できた。
私も今までしてきたことを子供っぽいからと言って蔑むことで、自分は大人だと思い込もうとすることがよくある。
ほんの些細なことがまるで人生を左右してしまうような重大な事に感じてしまう事がある。
思春期、と言ってしまえばきっとそこまでなのだろうが、今の私たちにとってそれは余りにも大きく、どう接せばいいのかも分からない漠然とした不安なのだ。
現実として、カナちゃんの悩みに私はどう答えてあげればいいのかもよく分からない。
対等だからこそ、私は無力だった。
「…とりあえず、ミライちゃんが帰ってきたら謝ろう。そして、ミライちゃんと二人で話してみなよ。」
「そうだね…うん。」
今の私に言えることは、これが精いっぱいだった。
気付けばもうパドックからの移動が始まるところだ。
「レース、見に行こ。…結果はどうか分かんないけどさ。どんな結果でも、おかえりって言って迎えてあげようよ。」
カナちゃんは無言で頷いた。
そして二人で並んで観客席の方へと歩いた。
降りしきる雨は予報通り勢いを増し、掲示板には「不良」の文字が煌々と灯っていた。
先に来ていたアオちゃんとニシノちゃんに合流すると、カナちゃんは二人に先ほどの事を詫びた。
二人は快く謝罪を受け入れてくれて、またいつもの皆に戻った。
しかしこの雨は本当にひどい。
向こう正面にあるスタート地点は霞んでしまいはっきり見えない。
詳しい状況は実況を聴いて判断するしかなさそうだ。
『さあ荒尾レース場第1レース「混合」、ジュニア級800m戦7人のウマ娘で争われます。…さあ最後に大外7番ユウワブルボン収まって、係員離れます。…態勢完了!――スタートしました!』
始まった。
はっきりとは見えないが、向こう正面をウマ娘達が雨を切り裂きながら駆けていく。
『さあまず先頭に躍り出たのは一番人気ハクコウハヤガケ、二番手に二番人気ミライエイゴウ、三番手三番人気ユウワブルボンという体勢。上位人気三人が先頭集団を固める形…』
「ミライちゃん良い場所についてるんじゃない?」
「そうだね、番手追走…あのペースなら抜け出せると思う。」
『さあ各ウマ娘第三コーナーに差しかかります…おっとここで動いたミライエイゴウ!それを追うようにユウワブルボンも動いたぞ!さあ第四コーナーカーブ!さあミライエイゴウぐんぐんとペースを上げていく!』
「来た!」
「ミライちゃん!がんばれー!」
ミライちゃんは確実に今まで見た中で最高の速さで上がって行き、あっという間に先頭に躍り出た。
軽快なリズムで脚を動かしながら不良バ場をものともせず駆け抜ける。
最終直線入り口に差しかかってもペースは全く緩まない。
決まった。
私も、そしてこの場に居た多くの人がそう確信したはずだ。
ここから彼女の夢が始まる。
母の夢を受け継ぎ、レース界に名乗りを上げる。
そして、まだ誰も見た事のない未来へと漕ぎ出していく。
そう、思っていた。
だから、
信じられなかった。
彼女の小さな身体が崩れるように倒れ――
泥飛沫を上げて地面に打ち付けられる様を。
私の脳はその光景を現実として受け付けず、
まるで自分とは関係ない、映画でも観ているように、
ただその一部始終を眺めている事しか出来なかった。
それが実際にはどれ程の間の出来事だったのかは分からない。
しかし、倒れた彼女の体が後続の二人を巻き込み、泥飛沫の向こうに隠れて見えなくなるまで、
私にはまるでスローモーションのように長く感じた。
「ミライ!!!」
私を現実へ引き戻したのは、カナちゃんの悲痛な叫びだった。
周りの観衆から悲鳴が上がり、一瞬で動揺が広がる。
「ミライちゃん!!!」「ミライさん!」
アオとニシノちゃんが口々に叫ぶ。
「救護班急げ!」
職員さんの叫びが聞こえたのと同じくらいに、カナちゃんが柵を飛び越えコースへ駆け出して行った。
レース中の観客の侵入は当然ながら固く禁じられているが、最早関係ない。
私はアオちゃんとニシノちゃんに続いて策を乗り越え、コースへ駆け出す。
同じように巻き込まれて転倒した二人の友人と思われる子達が観客席から飛び出した。
最悪だ。
ラストスパートの最終直線、トップスピードだった。
『最高時速約60キロメートルで走るウマ娘がひとたび転倒すれば無事では済みません。良くて大けが、悪くて競走能力喪失、最悪…命を落とした例もあります。』
この前の片淵教官の言葉が脳裏に浮かぶ。
駄目だ、考えるな。
私は最悪の想像を振り払い、必死に倒れた彼女の方へ走る。
「ミライちゃーん!!!」
私は彼女の名前を声の限り叫んだ。
事故現場に辿り着くと、一番手前に倒れていたのは三日前に一緒に話したシークレットカノンちゃんだった。
側に誰もいなかった彼女にまず呼びかける。
「カノンちゃん、大丈夫!?」
「あ…ぁ…ケイちゃん…私は大丈夫…多分打撲と擦りむいただけ…それより…ミライちゃんの方に…」
「…分かった。」
私は彼女の側を離れるとミライちゃんの方へ駆け出す。
もう一人転倒したのはユウワブルボンちゃんのようだが、こちらにはすでに友達と思われる数人が介抱しに来ており、意識もはっきりしているようだった。
私はそれを横目に一番後ろで倒れているミライちゃんへ駆け寄った。
既に皆が到着している。
近寄った途端、微かに血の匂いがした。
「ミライ、ミライ!しっかりして!ミライ!」
カナちゃんがあおむけに倒れたミライちゃんに必死に呼びかけていた。
「アオちゃん!どう!?」
「心音は大丈夫…息も弱いけどある…だけど意識が…」
「…っ!」
私も座り込んでミライちゃんをのぞき込む。
服は泥で見えないほど汚れ、顔や腕や足にも泥がまとわりついている。
ミライちゃんの両目は閉じられ、頭から少し血が流れていた。
恐らく転倒した時に打ったか後続の子の足に当たってしまったのだろう。
「脳震盪かも。とにかく動かさないで救護班を…」
「――さん…」
「!?」
よく見るとミライちゃんがうっすら目を開けて何かを喋ろうとしていた。
「ミライ!大丈夫なの!?」
「おか…さん…」
「…!」
「おかぁさん…みらいね、おかーさんのゆめ……ごめんな…さい…」
ミライちゃんはうわごとのようにそう呟くと、また意識を失った。
「ミライちゃん!…あっ。」
その時私はようやく気づいた。
ミライちゃんの右足が…明らかにあり得ない方向に曲がっている事に。
やがて救急車が到着し、ミライちゃんは救急隊の手に預けられた。
付き添いとしてアオが救急車に同乗し、降りしきる雨の中救急車はサイレンを鳴らしながら走り去っていった。
コース上には俯いたまま何もしゃべらないカナちゃんと、私とニシノちゃんが残された。
『お知らせ致します。荒尾競バ第一レース、四番シークレットカノン、六番ミライエイゴウ、七番ユウワブルボンは、最終直線において
六番ミライエイゴウが他のウマ娘に関係なく躓いて転倒し、巻き込まれる形で後続の二人が転倒した為、競走を中止しました。なお、この件につきましては、後ほどパトロールビデオを放映します。』
レース自体は一番人気の子の大差勝ち…だったのだが、レース場は素直にそれを祝福できるムードではなかった。
雨音に交じって、レース場のアナウンスだけが虚しく響いていた。
カナちゃんの背中を押しながらスタンド内に戻ったのはそれから少ししてからだった。
スタンド内はまだ騒然としており、パトロールビデオが流されているテレビに観客の視線は集中していた。
最終直線を前から写した映像には、事故の瞬間が捉えられていた。
直線入り口付近、スパートをかけたミライちゃんの足が不良バ場に上手く着地できず、ずるりと滑って体勢を崩しそのまま前のめりに転倒、後続を巻き込んで…という形のようだ。
その間に軽い現場検証が行われたものの、レース施行に問題は無いと判断され、トラクターが跡を均すと第二レースからは予定通りに行われた。
しかしこの日は第八レースでも競走中止が発生し、一日に四人のウマ娘が競走中止となるという事態になった。
そのせいかウイニングライブも盛り上がりに欠け…レース場全体がどこか暗い雰囲気の中その日は終わった。
ニシノちゃんがカナちゃんを連れて先に寮に帰るのを見届けると、私はミライちゃんの荷物が控室に置かれたままだったので代わりに回収していく事にした。
控室の隅に纏められたミライちゃんのバッグを手に取ると、小さな紙が床にはらりと落ちた。
拾い上げるとそれは、三日前に行った四山神社で引いて持ち帰ったおみくじだった。
〇願事 念ずれば必ず叶う。
「嘘っぱちじゃん…」
思わずつぶやいてその下を見る。
〇争事 慎め。焦りは禁物。
寮に戻り、自分の部屋に入るとまだアオは帰ってきていなかった。
制服から部屋着に着替え、ベッドに突っ伏すと深いため息をつく。
昨日まで当たり前のように話してた。
一緒にご飯を食べて、他愛もない話で笑いあってた。
あの子は見てるこっちまで笑顔になる程にっこり笑ってた。
なのに…
その時部屋の扉が開いた。
顔を上げると、アオがそこに立っていた。
「おかえり、アオ。」
「うん、ただいま。」
どうだった?とは訊かなかった。
アオの浮かない顔を見れば、概ね想像できたからだ。
アオは机に荷物を置くと、誰に言われたでもなく、語り始めた。
「…命に別状はないって。気絶も一時的な物だろうって言ってた。後からミライちゃんのお母さんが来たから詳しい診断内容までは聞いてないけど…」
「そっか。なら良かっ…」
「でも、救急車の中で隊員の人が言ってた。…何か所も靭帯が切れてて、多分骨折も起こしてるって。」
「それって…」
訊かずとも、なんて言葉が返ってくるかなんて、分かっていた。
「…もう今まで通り走れるかは、分からないって。」
言葉が見つからなかった。
ウマ娘の…私たちの身体は、自らが出せる力に対して、余りにも非力だ。
人間ならば走っていて転んだらせいぜい擦りむく程度で済むのだろうが、自動車にも匹敵する速度で走る私たちの転倒は、交通事故並みと言っていい。
当然そんなことは分かりきっている。
そんな万一をが起こることを覚悟した上でこの世界に入って来たつもりだった。
だが実際にそれが起こった今――私はまだ現実を受け入れられなかった。
だって、それが自分の周りで起こるだなんて、
思ってもいなかったのだから。
翌日。
普段と変わらぬように始まったかのように見えた朝だったが、教室の雰囲気は沈んだままだった。
三…いや四つの席が、ぽっかりと穴が開くように空いていたからだった。
「――みなさん知っていると思いますが、昨日の事故の件でシークレットカノンとミライエイゴウはお休みです。ユウワブルボンに関しては軽傷だったので三時間目から登校予定ですので、授業関係で連絡があれば伝えてあげてください。では、皆さんからは何かありませんか。」
一人が手を上げる。
「あの…二人は大丈夫なんですか?」
「シークレットカノンについては精密検査が終わって、大事をとって明日まで入院すると聞いています。ミライエイゴウについては…まだ連絡が入っていません。これで良いですか。」
「はい。あと…カナちゃんはどうしたんですか?」
そう、カナちゃんが座っているべき席も、ぽっかりと空いていた。
「体調不良と聞いています。詳しくは分かりません。」
「はい、分かり…ました。」
「では他に何かありますか。…ではアイドルロッチ、号令。」
「起立、礼。」
「「ありがとうございました。」」
「…はあ。」
職員室に帰った片淵はため息をついた。
「どうでしたか、一年生。」
「やはり精神的なショックが大きいようです。…彼女たちにとっては初めてでしょうし。」
「まあそうなりますわなぁ…」
「タカキカナチャンについて寮から連絡はありましたか。」
「寮母さん曰くずっと部屋に引きこもっていると…食事も昨日から摂っていないようです。」
「それ大丈夫ですか?無理やりにでも…」
「極力彼女で解決するのを待ちましょう。…それにしても今年は早かったですねぇ。」
「ええ。例年二年に上がってからとか、早くても秋になってからなんですけどね。」
「ある意味で洗礼でもありますけど、入学三か月の彼女たちにとっては酷ですわなぁ。」
「そういえばミライエイゴウの件は生徒には?」
「伝えていません。…これ以上は彼女たちにはショックが大きすぎるでしょうし。」
「まあ、我々が伝えなくとも、自然にどこからか広まるでしょう…」
「どうしたんですか、橿原トレーナー。」
トレーナー室の裏で、うずくまって泣いている影を菅原は見つけた。
「うっ…ひっぐ…すがわらとれーなぁ…」
「大の大人がこんなところで何やってるんですが。こんなところ生徒に見られたらどうするんです。」
「うう…今は朝だから生徒は来ませんよぉ…」
「それはそうですが。ともかく何でそんな情けない顔をしているんですか。」
「だって…だって…私の教え子が…」
「教え子?あぁ…貴方のチームは…『ロータス』でしたね。ならミライエイゴウですか。」
「ひっぐ…私が悪いんです…私がもっと気を付けて走るように言ってあげていれば、こんな事には…」
「不良バ場の事故なら仕方が無いでしょう。ほぼ回避不能と言っていい。」
「でも、でも…自分を責めずには…」
「貴方がずっと泣いててどうするんです。貴方のチームには他の生徒も居るでしょう。泣いている間、誰がその子達を指導するんです。」
「うぐ…はい…」
「分かったら早く泣き止んで業務に戻ってください。…貴方の泣き声、中まで聞こえてはっきり言って仕事の邪魔です。」
「ぐずっ、うう…」
橿原が中に入っていくのを見届けると、菅原はため息をついた。
「…泣きわめいて悲しむのと変わらず冷静にいるの、どっちが正しいんだろうな。」
菅原は空を見上げる。
「これに慣れるっていうのも、逆に異常なのかもしれないな…まあ新人には、」
踵を返してトレーナー室に戻りながら、ぽつりとつぶやく。
「あの現実は、簡単には受け入れられないか。」
「カナちゃん…来なかったね。」
「うん…」
昼休み、私たちはいつも通り食堂に来ていたが、同じテーブルに座るのはアオとニシノちゃんだけだった。
ミライちゃんの無邪気な笑い声と、カナちゃんの落ち着いた声が無いとまるで火が消えたように寂しげな空気だった。
「カナさん、昨日連れて帰った時も青い顔をされていて目もどこか虚ろでしたし…やはり親友がこんなことになってしまってかなり心に来ているようですわね…」
「わたし、カナちゃんのあんな姿初めて見た…こんな時どうすればいいんだろ…」
「カナちゃんもだし、ミライちゃんもやっぱり心配だよね…」
どんよりと沈んだ雰囲気の中で、私たちは黙り込んでしまう。
誰もこんな事を経験していないのだ。友人として、何をするべきなのかもまるで分からない。
「…とりあえず、わたし今日の練習お休みさせてもらってお見舞い行って来る。ケイちゃんに取ってきてもらったミライちゃんの荷物もお母さんに預けて来なきゃだし。」
「分かった。じゃあ私はカナちゃんの所に行ってくる。うちのトレーナーさんの事だから練習休ませては貰えなさそうだけど…」
「ニシノちゃんはどうする?」
「わたくしは…アオさんに同行しますわ~。ミライさんの事ですから、お見舞いの人数は多いほうが良いでしょう~。」
「分かった。じゃあまた後でね。」
「うん。」
私たちは食器を返却すると、各々の役目の為動くことになった。
トレーナーさんに掛け合ってみたが、案の定というかトレーニングの休みの許可は下りなかった為、いつも通りのトレーニングをすることになった。
だが…
「…ケイちゃん、なんか走りが冴えないね。」
「ああ。レース二週前でこれだと不安材料が大きい。…ケイ!こっちに来い。」
「は、はい!」
「…どこか体調が悪いのか?」
「いえ、それは大丈夫です。」
「ならもっと走りに集中しろ。…次はブルーアラオと再戦だ。他の面子もデコトラをはじめ実力者揃い、今の走りだと厳しいぞ。」
「はい…すみません。」
「走り込みは一旦止めだ。外周を一周周ってこい。」
「はい。」
ケイウンヘイロ―が走り去るとブラックキャッスルが菅原に話しかける。
「…理由、分かってるんでしょ?あれは二年の間でも結構話題になってたし。」
「ああ。」
「ならこんなに集中そがれるくらいなら休ませてあげれば良かったじゃん。多分お見舞いに行きたかったんだろうしさ。」
「あくまでも他人の事だ。それでいちいち自分のレースに影響をきたすようでは今後が思いやられる。」
「冷たいなぁ…トレーナーさん仮にも何年も中高生相手にしてきてんだろうしさ、もう少し配慮を覚えようよ。」
「配慮で強くなるならするが、そうじゃないならトレーニング第一だ。」
「考え方古すぎ。最近はメンタルヘルスとかだって大事だって言われてるじゃん。…トレーナーさんって優しかったり冷たかったりではっきりしないよね。一体どっちが素なの?」
「素なんてない。俺は俺だ。ブラックもいつまでも休んでないで一本行ってこい。」
「はいはい…」
俺を冷たいと評した教え子はコースへと駆け出して行った。
冷たい、か。
今まで担当して来たウマ娘にもよく言われた。
もっと優しくしてくれるトレーナーが良い、と。
そのせいだろうか、俺が担当した教え子たちは三か月もすれば他のトレーナーの下へと移籍していった。
中津に居た頃はこんなことは無かった。
俺を昔から知る知り合いは、俺の事を「変わった」とよく言う。
俺自身は特に変わったつもりはないが、どうやら周りからはそう見えているのだろう。
生徒と接する時に果たして優しさを持つ必要はあるだろうか。
トレーナーは指示を出して、生徒はそれを遂行する。
結果が出れば彼女たちは喜ぶ。それだけで良いじゃないか。
トレーナーは監督する立場であり、関係は指導者と生徒。それ以上でも以下でもない。
そこで留めておけば、稀に聴くトレーナーとウマ娘の関係が行き過ぎて不祥事に発展するような不純な事案も起きるわけがない。
いちいち他人の動向で一喜一憂するのも分からない。
そもそもがライバル同士の筈なのにどうして振り回される必要があるのだろうか。
同情も、なれ合いも、所詮は表面上だ。
結局人間は本質的に利己的で、自分の為に動くのだから。
いざという時に、自分を救ってくれる事なんかない。
だって、そうだろう?
俺の脳裏に、いつか見た一人の少女の姿と声がよぎった。
『まさくん。』
――この世界は、所詮残酷なのだから。
トレーニングが終わってから、私はカナちゃん達の寮へ向かった。
寮母さんに事情を話すと、カナちゃんの部屋を教えてもらった。
初めて知ったが、カナちゃんは定員割れの都合上一人部屋なのだそうだ。
三階の一番右端の部屋の前に立つと、私は恐る恐る扉をノックした。
「カナちゃん。…いるんでしょ?」
部屋の中からは返事がない。
しかし、私は話し続ける。
「…辛いよね。苦しいよね。…私も悲しいし、まだこれが現実だって受け入れられない。…受け入れたくない。だけど、私はミライちゃんと幼馴染じゃないから、カナちゃんが今どれだけショックなのか分からない。どんなに同情しようとしても、多分同じ苦しみは感じられない。でもね、だからって目をふさいじゃ、…殻の中に籠っちゃだめだよ。…みんな心配してるよ。」
部屋の中から微かに動く音がした。
そしてこちらへ歩いてくる足音がすると、扉と擦れるような音がした。
おそらく、カナちゃんが扉にもたれかかっているのだろう。
扉の前に立っていた私も、同じように扉にもたれかかった。
体温は感じられないけど、扉を挟んで私たちは背中合わせになっていた。
「私…自分が嫌い。」
それは、普段の彼女からは想像できない、昨日の物とも違う、余りにもか細い声だった。
「ケイちゃんさ…見てたでしょ…?昨日のミライ、明らかにスパートが早かった。それに…干潟で遊ぶのが大好きで、あのくらいの不良バ場なんて何てことないはずのミライが…転んだ。」
「…うん。」
「私の…せいだ…。」
「え…?」
「私のせいだ…」
絞り出すように、彼女はそう言った。
「私がレース前に勝てないなんか言ったから…ミライを焦らせたんだ…私の…せいだ…」
「カナちゃん…」
「私のつまらないエゴが…何より大切なはずのミライを…ミライの夢を…」
憔悴しきった声の彼女は、私に話しているようで、その言葉で自分を責め続けている様子だった。
私は彼女にかける言葉を探していた。
どれだけ考えても、模範例は出て来ない。自分の言葉で紡ぐしかない。
「カナちゃん、昨日の事故の原因は分かってないよ。不良バ場だったのが一番大きいんだろうけど…少なくとも、カナちゃんは直接原因じゃない。だから、その…」
その時、話の腰を折るポケットの中のスマートフォンが鳴った。
私は慌てて画面を確認する。
「…アオからだ。ちょっとごめん。」
私はカナちゃんに断ってから、通話を繋ぎ、スピーカーをオンにした。
『ごめんケイ、今大丈夫?』
「あ…うん大丈夫。どうしたの?」
『えっとね、今ミライちゃんの病室の前なんだけど、とりあえず分かったことを伝えようかなって。』
「あ、うん。その…どうだった?」
『えっと、もう意識は戻っててね、やっぱり気絶は一時的だったみたい。MRIでも脳に異常はなかったって。』
「そっか、良かった…身体の方は?」
『右ひざの骨が折れてるのと、転んだ時に打っちゃったみたいで左腕の骨に少しひびが入ってるみたい。あと右足の靭帯が切れてるって。』
「それって…治るの?」
『うん。時間をかければ治るって。リハビリすれば前と同じように歩けるようにもなるみたい。だけど…また走れるかは、まだ分からないって。』
「そっか…」
『あ、でもミライちゃんは元気だよ。びっくりするくらい。動けないから退屈だってふて腐れてるけど…あ、それと。』
「なに?」
『ケイちゃんとカナちゃんにも、お見舞い来てほしいって。』
私も、恐らくはカナちゃんもその言葉に息をのんだ。
「…カナちゃんの事、何か言ってた?」
『うん。…「なんでかはわかんないけど、おこらせちゃったからなかなおりしたいな。」って。…それと、カナちゃんが今日学校来てないって言ったら、すごく心配してた。』
「……そっ…か。」
『そうだ、カナちゃん近くにいる?良かったら…』
「いや、大丈夫。…分かった。じゃあまた後で。」
私はそう言うと通話を切った。
扉の向こうから涙の混じった声が聞こえてきた。
「なんで…なんでなのミライ…どうしてそんなに簡単に…許そうとするの…なんで…そんなに…優しいの…」
私は何か言葉を掛けようとしたが、やめた。
私がつたない語彙で毒にも薬にもならない言葉を掛ける必要は、多分ない。
そんなことしなくても、彼女はきっと立ち上がる。
二人の絆は、お互いが思っているよりもずっとずっと強く、途切れる事はないって分かったから。
私は立ち上がると、ドアの前を離れて歩き出す。
階段への角を曲がると、人影があった。
「…片淵教官!?」
腕を組んで佇む教官が、そこにはいた。
「…タカキカナチャンは、どうでしたか。」
「…完全に立ち直るのには、もう少し時間が必要だと思います。だけど、絶対立ち直れます。…自分の力で。」
「そうですか。ありがとうございます。」
教官は、私の言葉をあっさりと受け取った。
「あの…教官、カナちゃんを心配してここに?」
「生徒のメンタルケアも私の仕事です。もっとも、今回は私が全く把握できていなかった部分が原因だったようですが。」
「あ…すみません、私が勝手に話しちゃって。先生が話した方が良かったですよね。」
「いえ、全く問題ありません。…恐らく私が事情を聴いても、核心までは迫れなかったでしょう。彼女が自責の念で自分を壊してしまう前にまだミライエイゴウの気持ちに気づけたのは、貴方のおかげです。ケイウンヘイロー。」
「え…そんな、私何もしていません。カナちゃんを立ち直らせようとしたのに、結局きっかけは私の言葉じゃなくてアオの電話でしたし…」
「それでも、あの電話を彼女が聞けたのはあなたがここまで来て、彼女を立ち直らせようとしたからです。あなたがそうしなければ、彼女がそれを聞くこともなかった。後から聞いても、嘘だと言って受け入れなかったかもしれない。貴方がここに居たお陰です。」
「そう…ですかね。」
「ええ。…さあ、課題もあるでしょうしもう寮に帰ってください。明日は一時間目から保健ですよ。」
「…はい。」
教官に促され私は外に出る。
夏至を過ぎたばかりで、東京よりも西にある荒尾の夕刻の空はまだまだ明るく、時間感覚が狂いそうになる。
…今度の土曜日にでも私もお見舞いに行こう。
未だ問題は解決していない。
ミライちゃんがこれからどうなるのかも、まだ部屋に引きこもったままのカナちゃんの事も心配だ。
だが、同時に私は私のレースの為に立ち止まるわけには行かない。
二週間後に控えた次走。
そこで私は、もう一度アオと競い合う。
今度は――負けない。
私は決意を新たに寮への道を走る。
太陽を見送ったばかりの西の空に、ぽつりと宵の明星が輝いていた。