初投稿から一年と五か月、やっとこさここまで辿り着きました。応援して下さった方々に心より感謝申し上げます。
同時に、これは一つの通過点に過ぎず完結までの道のりから見ると四分の一も終わっていないのが現状です。
先はちょっと絶望的なくらい長いですが、これからも応援して下さると幸いです。
また、一区切り付いた記念と言ってはなんですが小説の内容や作者に関する質問も受け付けていますので気軽にコメント頂けるとストーリーのネタバレや作者の個人情報以外はお答えいたします。
またあとがきを兼ねた番外編を近日中に投稿いたします。読まなくても本編には一切関係ないので興味が無い方は読み飛ばして下さい。
それでは、本編をご覧ください!
時勢は霜月を迎え、九州とは言えど朝方は冷え込むようになってきた。
夜明け前、薄明の空の下の頭が冴えるような空気を胸いっぱいに吸い込む。
「行ってきます!」
「本当に気を付けてよ!?まだ暗いんだからね!」
「沖には行かないんで大丈夫です!」
そして私は走り出す。
水しぶきを上げて、重い脚を引き抜くように、干潟の中を走っていく。
話は九州ジュニアグランプリ後まで戻る。
普段よりも華やかなライブが終わった午後八時ごろ、私とトレーナーさんはチームの部屋に居た。
「こう言うのは何だが……俺としては今日のレースのお前は合格点の走りだったと思っている。展開も向いていたし少なくとも力は出し切っていた。相手がそれ以上だったのが敗因だろう。……お前からは何かあるか?ケイ。」
「私は……」
今日のレース、私としてもやれることは全部やった。それでも勝てなかったのは。
「最後の加速が足りなかったと思います。アオが失速してたのにそれを捉えきれませんでした。」
「ふむ。」
「あと一歩、最後の詰めが出来るようになりたいです。トレイルランのトレーニングをもっと増やして……更にウェイトを増やして負荷を上げるとか。」
「それは駄目だ。」
「えっ……」
「お前には伝えていなかったが、トレイルランを取り入れたのは今日のレースまでの間の一か月で能力を底上げする為の速成トレーニングだった。そもそも毎日するだけで負荷がギリギリだったんだ。これ以上負荷を増やせば膝を壊す可能性が高い。トレイルラン自体もしばらく中止して通常トレーニングに戻そうと思う。」
「そんな、私もっと……!」
「落ち着け。今のお前は成長期の段階だ。お前の身体は大きく変わろうとしているがその分とても脆い。これからの競技人生、長いんだ。不必要な無理は禁物。分かったか。」
「……はい。」
「よし。ところで次走なんだが年内にもう二戦出そうと思う。まずは来月二十二日の『ファイナルガール』だ。順当に勝利を重ねれば今後の選択肢も増えてくる。確実に勝つことを目指すぞ。」
「はい。」
こうして私としては少し不完全燃焼だったが、今後の予定が決まったのだった。
あれ程九州ジュニアグランプリに必死に取り組んできたのに、翌日からは拍子抜けしたようにいつも通りの日々だった。
一番の大イベントを終えて一年生の教室からは昨日まで張りつめていた緊張感のようなものが消え、どこかゆるい空気が流れていた。
「学食行こ~」
「うん、ちょっと待ってね。」
いつも通り授業を受け、いつものようにみんなとご飯を食べる。
そりゃ常に何らかの出来事が起きるのは忙しなくて落ち着かないけど、私は少しモヤモヤしていた。
「アオは次走どこになったの?」
「えっとね、園田に遠征して『兵庫ジュニアグランプリ』に出る事になったよ。」
「えっ!それG3じゃなかったっけ!?」
「うん。九州地区の代表で出る事になったの。責任重大だよ~」
「ひゃ~すごいね……」
アオの飛躍は止まらない。次は中央勢も交えたグレードレースにまで駒を進めるらしい。
来年まで荒尾で出られる重賞が無いというのもあるが更にアオとの距離が開いていくのをひしひしと感じる。
「となるとアオが居なくなるからお客さんの入りも寂しくなりそうだね。ケイちゃんは?」
「私は二十二日のファイナルガールだよ。」
「ああ、それならわたくしも出走しますわ~」
「私も。この前勝ったから出るよ。」
「本当?じゃあ二人ともライバルだね。」
「みんな良いな~。ミライ復帰のめど立ってないもん。」
「早く走れるといいね。」
「だね……」
ミライちゃんは恐らく自分がもう走れそうにない事を私にしか話していない。
もしかしたらみんな察しているのかもしれないが、直接口にすることはしない。
ミライちゃんのへの気遣い……というのもあるが同時にカナちゃんへの気遣いでもあるのだ。
ミライちゃんもあえて言わない辺り気配りが出来るように成長したのだろう。
みんな少しずつ変わっていく。
私は、どうなんだろう。
トレーニングの前に、ふらりとレース場のスタンドへ行ってみる。
今日はレースの開催日ではない。スタンドは普段と比べるとずっと静かだった。
昨日走ったコースを眺める。
コースはもうすっかり整地されて昨日の面影は無かった。
足元には昨日のライブで舞っていた紙吹雪が残っている。私はその一つを手に取った。
その時、スタンドの中から男性の三人組がレース情報誌を片手に話しながら出てきた。
「え、ブルーアラオ園田行くってまじ?」
「おう、さっきネットニュース出てたぞ。」
「まじか~。じゃあしばらく見ごたえ無いな。」
「おいおいお前アオちゃん一筋かよ。ジュニア級にももっと他の子いるしシニア級なら重賞まだあるだろ。」
「とはいってもよ~、今年のジュニア級パッとし無い子ばっかじゃん。有望株はもう他に転入しちまったし……今のシニア級もこれと言って強い子が居るわけでもねえしよ。」
「まーたしかにそうよな。中央はあんだけ盛り上がってんのに荒尾もだけど今の地方はなんか面白くねえっていうか。もっとド派手な勝負が見てえんだよな。」
「あー出てきてくんねえかな。推せる娘!」
そう言い残すと三人はスタンドの反対側へと歩いて行った。
「ど派手な……勝利。」
その言葉は、私の心の中にぴたりと張り付いて離れなかった。
「……」
軽く外周を流しながら考える。
今のファン層には、派手な勝利をもたらすウマ娘が求められている。
レーススタイルは色々あるけど、周りに迷惑を与えない範囲で派手な物と言ったらやはり大逃げか追い込みだろう。
この内追い込みはすぐに候補から外れる。荒尾は比較的差しや追い込みが決まりやすいと噂で聞いたことはあるが、私の得意戦法ではない。となると現実的なのは大逃げ。
だがこっちにも問題がある。仮に次のファイナルガールでやるとして、1300m戦のファイナルガールでは直線半ばからのスタートとなり、十分加速する時間が無いまま荒尾の少し急な第一第二コーナーに突入する事になる。となると加速開始は向こう正面からとなり恐らく大逃げになるほど後ろを離せない。ただの逃げで終わってしまう気がする。
私がもっと加速力を高められれば良いだけの話なのだが、昨日アオを捉えられなかったように加速力は今の私の課題だ。これをどうするか……
ひとまずはトレーナーさんに相談してみようかな。
「却下だ。」
トレーナーさんは恐ろしいほどに即答した。
「で、でも大逃げで勝てれば注目が……」
「そもそもそれは全体の意見でもない得体の知れない一人の男の意見だろ。耳を貸す価値すらない。そもそも大逃げを打てばペース管理を間違った時勝てるはずのレースに負ける可能性すらある。リスクがあまりに大きい。百歩譲って大逃げをしようにもお前が言った通りそこまで加速力を上げる手段がない。トレイルランは昨日言った通りしばらくお預けだ。素直にいつも通りのレースをすればいいだけだ。大体な……」
「分かりました。分かりましたから!……もう言いません。」
「それでいい。今回は勝つことが目的なんだ。そこを履き違えるな。」
「はい……」
結局トレーナーさんの力を借りる事は出来なかった。
うちのトレーナーさんは相当不器用だが比較的私たちに親身な方だ。それは分かっている。だが、同時に融通が利かず頑固なところが大きい。もう少し私の意見にも耳を貸してほしい。もう少し私を信じてくれても良いのに……
とぼとぼと寮へと帰っていると、ふと私は数学の宿題のワークを教室に忘れてた事を思い出した。すぐに校舎へ引き返す。
まだ教室の鍵開いてるかな……そんなことを考えながら校舎の中へ入る。
もう生徒は大半が帰った後だからか廊下の電気は消されてほとんど真っ暗だった。
いや別に断じて本当に幽霊とかを信じる気は無いけど流石に不気味で心細いな……
消火栓の赤い光が反射してうっすら床が見えるだけの暗い階段を上がって二階へ行く。
同じく真っ暗な廊下。一階は職員室の光があったけど二階は本当に何も明かりが無かった。
幸いにして教室の鍵は開いていて、中に入り自分の机へ向かう。中をまさぐるとちゃんとワークがそこにあった。
早く帰ろう。そう思って立ち上がった瞬間。
「何をされているの?」
「ひいっ!?」
真後ろで不意に囁かれて私は二メートルほど後ろへ飛びのく。
「ああ、ごめんなさい。驚かせてしまったわね。」
そこに居たのは理事長秘書のコウザンハヤヒデさんだった。
「あ……あのワークを忘れたので取りに……」
「ああ、そうだったのね。見回りをしていたので声を掛けさせて頂きました。……あら、貴方ケイウンヘイローさんね。先日のレース、拝見しましたわ。」
「え、そうなんですか?ありがとうございます。」
「結果は少し残念だったけれども、まだまだ次がありますから。頑張ってくださいね。」
「はい……頑張ります。」
「どうされました?元気がないご様子ですが……」
「いえ、何でも……」
「そうおっしゃらず。私は生徒とは身近な存在で居たいのです。それに私も元競走ウマ娘。何かお力になれるかもしれません。」
どうしよう。いっそ相談してみようかな。
「実は……」
「なるほど、トレーナーさんが。」
「トレーナーさんの言う事も一理あるなって分かってはいるんです。ですけど、派手な勝ち方をやっぱりしてみたくて。」
「そうですわね……」
流石にこんな質問をしたら迷惑だっただろうか。
「派手な勝ち方と言えど、大逃げだけしかできないとは限らないと思いますわ。例えば、早めに仕掛けて後続を突き放すとかでも見た目には派手になるかと。」
「でも、多分私の脚じゃそんなに離せません。加速力が課題で?」
「あら、貴方が入学してきた時はそのパワーからくる加速力が持ち味の様に見えましたが、今はそうでは無くて?」
「いえ、全然……」
「……少し、脚を見せて頂いても宜しくて?」
「え、ええ構いません。」
コウザンハヤヒデさんはしゃがみ込むと、
「失礼。」
とだけ言って私の脚を軽く触った。
……これ、傍目から観たら結構やばい光景なんじゃ?
「良く鍛えられてますね。よほど激しいトレーニングを積んだのでしょう。これなら加速力は問題にならないはずだけど……」
「でも昨日のレースでも最終直線でアオ……ブルーアラオとの競り合いに持ち込めなくて。」
コウザンハヤヒデさんは少し考え込む。
「でしたら、恐らくパワーを十分に生かし切れていない……フォーム面等に問題があるのではないかしら。」
「でも、トレーナーさんから今のフォームが最善だって言われてて。」
「どんなフォームかしら?真似で良いので見せて頂いても?」
そう促されて、私は走っている時のフォームを真似る。
「……ああ、なるほど。これでは無理ね。」
「そうなんですか?」
「良い?ケイウンヘイローさん。貴方の脚に付いている筋肉は蹴り、つまり推進力を生む筋肉よ。その筋肉で地面を蹴ると力を加えた方向と真反対の方向へ推力が生まれる……作用反作用の法則は知ってるかしら?」
「はい、分かります。」
「なら、その直立に近いフォームで走ると力はどっちの方向に働くかしら。」
「前……じゃないんですか?」
「いいえ、正確には斜め前。前へ進む力もあるけれど力が上方向にも逃げている状態よ。じゃあ理論上、力を最大限前への推進力だけに使うならどうすればいい?」
「……身体を水平にする?」
「ええ。実際には絶対にできないけれどそれが正解。本当にやったらそもそも蹴る物が無くて推進力が生まれないからただのうつ伏せになるけれど。まあでも『限界まで身体を地面と平行に近づけたフォーム』が貴方の力を最大に引き出すフォームよ。」
「いえ、あの……それは。」
やったことがある。
デビュー戦の時、ゲートで危うく転倒しかかった原因。そしてあれ以来一度もやっていない。
「以前やって大失敗して、それ以来やってないんです。」
「ああ、なるほどそれで……」
コウザンハヤヒデさんは何か合点が行った様子だった。
「確かに荒尾のバ場でそれをやるのは難しいわ。でも、コツさえ掴めば可能よ。」
「そ、そうなんですか!?でもどうやって……」
「それは教えられない……というより教えられる事ではないわね。一人一人の体格からくる重心の違いとかが関わって来るから。」
「そうですか……」
私が少しがっかりしていると、コウザンハヤヒデさんは窓の外を見て話した。
「以前この荒尾で走っていたあるウマ娘は、あそこで練習する事でその走法を会得したそうよ。……試してみて。」
コウザンハヤヒデさんが指差した先には、毎日呆れるほど眺めた――海が広がっていた。
そして私は今夜明け前の荒尾干潟を走っているわけだ。
トレーナーさんに相談したら100%止めさせられる自信があったから朝練の時間にやろうと思い、先輩にだけその事を話したら一人じゃ危なすぎると言われてわざわざ付き添って貰えることになった。
しかし久々に干潟に来たが相変わらず走りにくい事この上ない。足を地面に着くたびに泥が纏わりついてきて脚が重くなってくる。
実質負荷ありつきトレーニングだから悪くはなさそうだがこれでどうやって走法を会得するのか。トレーニングを始めてもうすぐ一週間……答えはまるで見えない。しかし次走までの期間は一か月を切っている。時間が無い。頑張らなきゃ……
その日の昼、会議室に重役たちが詰めていた。
「結局、北見と岩見沢は決定を覆さなかったか……」
「ええ。両市とも今年度限りで開催終了。各レース組合に生徒の受け入れを要請しています。」
「うちにも話は来てますが……『あれ』に対応したレース設備なんてうちにはありませんのでお断りの連絡をしたところです。」
「心苦しいが、旭川と帯広に頑張ってもらうしかないな……」
会議室には気まずい空気が流れる。
「これで何ヶ所目ですかね。中津以来……」
「北関東が消えてからもう数えとらんばい。俺は。」
「どこも苦しいですからな。南関東すら赤字だって言うのに、他の地方が楽なわけがない。」
「岩手なんて赤字になった途端廃止なんちゅう厳しい条件でやっとりますけんなぁ。」
「うちも
皆が大きなため息をつく。そんな中、ただ一人だけが毅然として発言する。
「何をそんなに落ち込んでいるのです。生徒の上に立つべきものが情けない。荒尾はまだ生きているのですよ。」
「そうは言ってもだな、コウザンハヤヒデ君。分かっているだろう?炭鉱が潰れてから売り上げは低迷。中央のネット配信事業が加速してからはレース場に足を運ぶ人自体が減少。娯楽の多様化と折からの不況で娯楽自体への出費だって減っている。……君が走っていた時代とはもう違うのだよ。」
「それでも、ここ荒尾が担う役割を思い出して下さい。ここが消えれば、夢を追うウマ娘達を受け入れる場所が一つ無くなる。レース場に関わる多くの関係者が職を失う。レース場ありきで作り上げられてきた地域経済が崩壊する!いいですか。ここは今や日本最南端のレース場です。競走ウマ娘を志す南九州のウマ娘にとって、一番身近な場所がここなんです。レースを初めて直接目にして、夢が出来る子だって居るんです。その場所を、これ以上北にしてはいけない。可能性の芽が育つ場所を減らしてはいけない。……ここが踏ん張りどころですわ。」
「そんな事は我々だって分かっている!……だがどうすればいいというのだね。人気は中央にとられ、慢性的な赤字構造。君が言っていた計画だって一向に成果が上がらんではないか。」
「簡単な話です。中央から目をこちらに奪い返せばいいのです。それにその計画ですが、恐らく次で一定の成果を出します。……ご期待ください。」
そしてトレーナー室の一角では菅原が資料を片手に思考を巡らせていた。
「ブラックはまず来週のレースに向けて最終調整、その後は……中一周は流石に厳しいか?いやだがここで勝たなければ……」
そしてコーヒーを一口含むと資料をめくる。
「ケイはとりあえず年内二戦……年明けにも一戦入れるか。その後は戦績次第で考えて……ダービー出走を最大目標にしてあわよくば……いや、高望みが過ぎるか。」
そして資料を置いて軽く伸びをする。
「菅原トレーナー、ローテ決めですか?」
同僚の一人が話しかけてくる。
「ああ。もう少し融通が利くと楽なんだが、こうも色々事情を抱えてると考慮しなければならない物が多い。」
「ああ、外れくじひいちゃいましたもんね。」
「俺はそこまでは思っていない。実際状況がひっ迫しているのは確かなんだ。だが、」
「大人たちが取るべき責任を子供たちにまで背負わせているのはつくづく頂けませんよね……で、どうなんですか。計画は。」
「計画達成には遠いな。まあ計画外でも顔を張れるレベルのウマ娘が出てきたのは複雑だが喜ぶべき事だろう。だがここで成功させなければ。あいつの為にも、荒尾の為にも。」
「ですね……」
「きゃっ!」
干潟にうっかり脚を取られ、バランスを崩した私はそのまま倒れ込んだ。
「ケイちゃん!」
すかさず先輩が駆け寄ってきて私を助け起こしてくれた。
「大丈夫!?足挫いてない!?」
「だ、大丈夫です。すみません、もう一回行ってきます。」
「何言ってるの!こんなに泥冷たいんだから風邪ひいちゃうよ!すぐに寮に戻ってシャワー浴びるよ!」
「でも!」
「良いから!早く!」
その勢いに気圧されて渋々私は従う。
二人で寮に向かって歩きながら先輩が私に訊いてきた。
「ケイちゃんはなんでこんな無茶までして……一体何のためにやってるの?」
「理由、ですか……」
……それを思い出す為、なんて変だよね。
いつの間にか忘れてしまっていた私が走る理由。荒尾ジュニア級の二番手という宙ぶらりんの今、それを変える為に、私は藻掻いている。
「何かを見付けたいんです。……きっと藻掻き続ければ、何か変われる気がして、がむしゃらにやっているんです。」
「それで何か、見つかりそうなの……?」
私は、その問いに答えられなかった。
その頃、ブルーアラオが一人の部屋に佇んでいた。
空っぽのもう一つのベッドを一瞥すると、カレンダーに書かれたしるしを見つめる。
二十二日のケイウンヘイローが走る翌日、二十三日に「兵庫JG」とマーカーで書かれている。
「私が頑張らなきゃ。私が荒尾を……」
そう自分に言い聞かせる声は、暗い部屋に薄く反響し、やがて壁に吸われて消えた。
――トレーニングを始めてもう三週間が経つだろうか。
季節は更に冬へ近づき、器官と肺を冷えた空気が満たす度否が応でも私の意識は冴えさせられる。
空は東から順に白み始め、時間帯が夜から朝へと変わる今、風は止み干潟に薄く張った海水は空の色を鏡の様に映しだす。
そんな鏡に波紋を落とすようにして私は走る。
また一段と足のパワーは鍛えられたと思う。なのに、一向にその走り方が分からない。
レースはもう三日後なのに。私は結局何も得られないまま次のレースに挑むことになるんだろうか。
同時刻、防波堤の上から海を眺める一人の影があった。
そしてその影に、もう一つの影が近づく。
「コウザンハヤヒデ秘書……?」
「あら、片淵教官。おはよう。」
「おはようございます。あの、こんな時間にこんなところで何を?」
「私は海を眺めていただけよ。そんな貴女こそ、何をしに?」
「私は生徒指導の一環です。地域の漁師の方から、早朝に干潟を走っている生徒がいると連絡を受けて。本当なら危険ですので指導しに行こうかと。」
「ふふ、私が現役だったころには結構居たけれど、もう指導の対象なのね。」
「時代が変わったのですよ。満潮時に干潟に取り残されて海難事故につながったなんて話も聞きますし、安全に気を遣うに越したことはありませんから。」
そういって片淵は双眼鏡を片手に干潟を監視し始めた。
「わっ!」
また干潟の柔らかい所を踏み抜いてしまい、脚がめり込み体勢を崩す。
そのまま倒れ込みそうになるところで、ずっと前にみんなで干潟に来た時にアオが言っていた事が頭によぎった。
『体低くして片手もついてみて。体重を分散すれば抜けやすいよ。』
身体を低くして――
身体が倒れ込みそうになった時、両手をついて沈んでない方の脚を思いっきり前に出してそのまま思いっきり踏み切る。
ズボッ!
「抜けた!」
そしてその刹那、私の身体は予想よりもずっと速く前へと飛び出た。
「えっ!?」
そして勢いそのまま思いっきり干潟に突っ伏した。
「うぷっ!」
「あーケイちゃん!も~急いでシャワーに……ケイちゃん?」
私はすぐに立ち上がらなかった。
「どうしたの?まさか怪我した!?」
「……あ、いえいえ大丈夫です!」
私は急いで立ち上がる。
今の身体がぎゅんって前に出た感覚って……
その瞬間、遥か彼方の山の稜線から顔を出した朝日が私たちを照らした。
「……先輩、シャワー行く前にレース場のグラウンドで一本走っても良いですか!?」
「え……えぇ!?その泥んこの格好で!?やめた方が良いって!」
「確かめたいことがあるんです!一本だけなので!」
「ちょ、ちょっと待って!だれか~!ケイちゃんが転んでおかしくなった~!」
「……あっ!見つけた!」
丁度その時片淵がケイウンヘイロー達の姿を捉えた。
「あの子達……!ちょっと私行ってきます!」
「行かなくて大丈夫よ。多分自分からここに来るわ。」
「え?まあ確かにあの汚れ具合なら絶対に来そうですが。」
「それもそうだけれど。……やっと見つけたわね。ケイウンヘイローさん。」
口元に微笑みを浮かべたコウザンハヤヒデを、片淵は少し怪訝な顔で見つめていた。
――初めて生徒指導室に入ることになったその日から三日後。
昼から良く晴れたその日は潮風が心地よく頬を撫でるように吹いていた。
既にパドックを終えた私たちは本バ場入場へ向けてバ道を進んでいた。
「ケイちゃん。」
ふと、カナちゃんが話しかけてきた。
「あのさ、実は私今日が来るのすっごく楽しみにしてたんだ。」
「そうなの?」
「うん。……六月にさ、私ミライとのいざこざケイちゃんにすっごく迷惑掛けちゃったじゃん。それからデビューも遅れてさ、私どこか後ろめたい思いがずっとあったんだ。」
「いやいや、私なんか……」
「ううん。ケイちゃんがあの日私の部屋まで来てくれなかったら、私あのままミライと仲直りできなかった。ケイちゃんのお陰だよ。ありがとね。……それでずっと、ケイちゃんは私の中で『恩人』のポジションだったの。だけどさ、勝ち上がって来れて今日やっとケイちゃんと対等の立場で、同じレースで『ライバル』として走れる。……それが嬉しいんだ。」
「カナちゃん……」
「だから、今日はライバルとして、手加減無しで走ろう!私も負けるつもりないから!」
そしてカナちゃんは私に拳を差し出す。
「うん!」
それに私は拳を突き合わせ……ようとしたところで横から別の拳に割り込まれた。
「わたくしも忘れないでほしいですわ~」
「ニシノちゃん!?」
「わたくしだって、小学校以来の友人と同じレースに立てるのを、とても楽しみにしていたんですわよ~?それと、ケイさんが一番人気なのはともかく後からデビューしたカナさんに二番人気を持って行かれたの、ちょっぴり悔しいですわ~」
「それはやっぱり私の方が魅力的だって事で……」
「うふふ~言ってくれますわね~叩きのめして差し上げますわ~」
「いやどこのラスボスのセリフ!?」
そうこうじゃれあっていると、係員の人が声をかけてくる。
「お~い、はよ本バ場入場してくれんね。発走の人たちもお客さんも待っとらすばい!」
「あ、ごめんなさーい!」
そして私達は慌てて光の方へ駆け出す。
『さあただいま入ってまいりましたのが、一番人気ケイウンヘイロー、続いて五番人気ニシノシャダイ、さらに二番人気タカキカナチャンです。これをもって出走十二人全員の本バ場入場が終わりました。発走まで今しばらくお待ち下さい。』
「ケイちゃん入場結構時間かかったね。何かあったのかな?」
「それは後で聞かないと分からないな。……それより。」
「どしたの?トレーナーさん。」
「……いや、あいつまた何か企んでいる気がしてな。」
「さ、さあそんな事無いんじゃない?」
そしてブラックキャッスルは小声で呟いた。
「……うまくやるんだよ、ケイちゃん。」
十一月も下旬に差し掛かり、レース場の風景も少し彩度が落ちたように感じる。
アオは明日のレースに向けて今朝早く園田レース場へ向けて出発した。またクロカゲバクシンちゃんも明日がレースだからか早朝から元気よくコースをバクシンしていた。
嘘か誠か分からないが三強と呼ばれているらしい私たちは、一堂に会した九州ジュニアグランプリを終えて各々別々のレースに駒を進めた。その三人のレースが今日明日の二日間に集中したのは何の因果だろうか。
そしてその中では私がトップバッター。このレースでもみんなライバルである事は確かだが、正直特別注視すべき相手がいないというのは幾分か精神的に楽だ。
今日は思う存分……あ、そう言えば。
結局先月クロカゲバクシンちゃんが言ってた「視野狭窄」って、どういう意味なんだろ……
「奇数番オッケー!偶数番の子入ってー!」
そして係員の声に導かれ、ゲート内に入る。
『最後に十二番のナガノコバン収まって、係員離れます!――スタートしました!さあまずは先行争い……おっと、一番人気ケイウンヘイロー今日は先頭を進むと思われましたが二番手で様子を伺います!』
「あれっ、ケイウンヘイロー行かねえぞ!」
「ブルーアラオ居ねえから今日は逃げると思ったんだがな。」
「てか事前インタビューでも逃げ宣言してなかったか?何かあったんじゃね?」
前はヤスノカミカゼちゃんが行った……確か一回走った事があったっけ。
事前に逃げ宣言しておいたからか皆私が二番手にいるのに驚いて積極的に前に来ない感じかな……なら、
“行ける。”
『各ウマ娘第二コーナーに差しかかっていきます。依然先頭は五番ヤスノカミカゼ、少し離れて六番ケイウンヘイロー、カツイチハマムスメ、差が無く二番サチノエンプレス……』
向こう正面に入る。一瞬だけ後ろを確認。三番手はすぐ後ろ、カナちゃんとニシノちゃんは……やや後方か。
じゃあ、始めよう。トレーナーさんにも言ってないのはあの時と同じだけれど、今度は一味違う。
誰もをあっと言わせる。この走りで!
姿勢をぐっと落とす。そして右脚を深く地面に踏み込み、大きなストライドで……踏み切る!
『おっとケイウンヘイローここで動いた、ここで動いた!直線半ばですが早くもケイウンヘイローがロングスパートに入った!これは作戦か、はたまた暴走か!?』
一瞬でスタンドがざわめきに包まれる。
「よしケイちゃん行った!」
「あいつ……!嫌な予感が当たったか!ブラックお前、知ってたな!?」
菅原がブラックキャッスルに問い詰める。
「まあ落ち着いてよ、トレーナーさん。あれをよく見て。」
菅原は双眼鏡を取り出しケイウンヘイローを見る。
「あの前傾で……何故走れる……?」
「ケイちゃんずっと研究してたんだよ。ケイちゃんに一番合ったあの走りを、荒尾で実現する方法を。」
地面が近い。スピード感が段違い……!
私は超前傾姿勢でまるで地面に沿うように走る。
干潟に嵌った時に見つけた、この走法。
体勢を低くしつつ、荒尾のダートがきめ細かく柔らかい事を利用し、足首を使って地面に対し足を垂直に近い角度で食い込ませ、身体全体を前に押し出すようにして加速する。水泳の“けのび”と同じ原理だ。
これなら、これを使えば私の脚のパワーを限界まで引き出せる……!
『第三コーナーカーブ!さあケイウンヘイロー、ヤスノカミカゼを一瞬で抜き去った!』
「おおっ!」
「止まらねえぞ!?」
『ケイウンヘイロー先頭のまま第四コーナーを過ぎ去り最終直線へ!しかし後方勢が動き始めたぞ!特にニシノシャダイの動きが良い!ケイウンヘイロー逃げ切れるのか!?』
ちょっと息が苦しくなってきた。
行ける。きっと勝てる。だけど、派手な勝ち方に出来るか……!
その時。
「ケイちゃーん!」
「っ!」
スタンドの方を見る。そこには、ミライちゃんと……数十人の人たちがスタンドの柵から身を乗り出さん限りにして声を出していた。
「がんばれ、ケイちゃーん!」
「あとちょっと!行けるばい!」
「ファイトファイトー!」
あれは、九月のレースで私に声をかけてくれた人たち!
「ケイちゃん!
あれは……!四月に初めて荒尾に来た日に声をかけてくれたおばさん!
みんな一丸になって、私を応援してくれている。
こんなに、こんなに居たんだ。私を応援してくれる人。
私、見えて無かった。皆が皆、アオを応援してて、アオ以外眼中にないんだって、思い込んでた。
ああ、やっと分かった。これが「視野狭窄」か……
絶対的一番じゃなくたっていい。
圧倒的力が無くたって良い。
そうだ思い出した。私が走る理由――あの日、あの有馬記念の日、ナイスネイチャさんが私にとってそうであったように、
一番じゃなくていい。私を応援してくれる誰か一人にでもに希望を与えられる、
“誰かにとっての
その時、風向きが変わった。西から吹き付けるように吹いていた
ああ、行ける。どこまでも。
「っ!?」
「何、この風……!ていうか今空気が、震えた……?」
『ケイウンヘイロー、次第に後続が……いや、落ちない、落ちない!ケイウンヘイロー加速した!差が縮まるどころかどんどん開いていく!』
「うおおっ!?」
「なんだあれ!」
「後続全くついて来ねえぞ!」
『ケイウンヘイロー独走!何と言う強さだ!差が六バ身、七バ身……更に開いていくー!』
「ケイちゃん……!いけ、いけぇっ!」
ブラックキャッスルは思わず拳を握りしめて叫ぶ。
『二番手サチノエンプレス、その後ろニシノシャダイが猛烈な追い込みを見せるがケイウンヘイローとの差は全く縮まらない!後ろからは何にも来ない!後ろからは何にも来ないっ!』
「ふふ、やっぱり貴方には“素質”があったわね。……ケイウンヘイローさん。貴方はどんな可能性を魅せるのかしら。その力は、どんな運命を導くのかしら。……楽しみね。この序章から始まる、運命の行く末が。」
『ケイウンヘイロ―圧勝!今ゴールイン!……二番手ニシノシャダイは今ゴールイン!三番手はサチノエンプレス!ケイウンヘイロー凄まじいレースを見せました!』
あっ。
勝っ……た?
はっきりしない意識の中で私はスタンドの方を振り返る。
「「「うおおおおおおおおおおおっっ!」」」
その瞬間、大歓声が沸いた。
万雷の拍手が私に向けて降り注いだ。
「おいやべえだろあれ!」
「後続全くついて来れなかったぞ!?」
「あれ下手すりゃブルーアラオ並みだろ!」
「なんだよ今年のジュニア級やっぱ面白れぇな!」
「ははっ……」
居るじゃねえか。ブルーアラオ以外にも。
推せる娘が……!
勝った……出来た、私にも!“派手な勝利”!
私は大きく、大きく観客席へ手を振る。
着順掲示板の着差を示す欄には、“9”の数字が煌々と点灯していた。
その日のウイニングライブは、私が登場すると普段よりもずっと大きな歓声が起こった。それはメインレースのライブよりも大きいくらいで、私は完全に今日の主役となっていた。
まるでそれは夢のようで、念のため頬をつねってみたが、ちゃんと痛かった。
ああ、何か今更だけど。
競走ウマ娘って、楽しいな。応援してもらえるって、気持ち良いな。
私――荒尾のこと好きだな。
華やかなライブをどこか遠巻きに眺めるように、菅原が立っていた。
「……俺が間違っていたのか?あいつの言う事を聞いてやれば、良かったのか?」
菅原は目を伏せる。
「……分からない。だが、これは良い傾向である事は確かだ。高望みだと思っていたあの目標も、もしかしたら射程内に出来るかもしれないな。」
「やあ、相変わらず辛気臭い顔をしているねぇ。また何か間違えたのかい?菅原クン。」
不意に聞こえたその声を聴いて、菅原は一瞬凍り付いた。そして、ぎこちなく、短く言葉を発した。
「お前、何故。」
「フゥン?言葉足らずが過ぎて意味が通じないよ。まあ、『何故ここに居る』の意だとするなら、面白い研究対象を見付けたから、と答えるべきだろうねぇ。息抜きに地方のレースでも眺めるかと思って付けた配信画面であんなに面白い物を見られるとはネット万歳だねぇ。」
「バカを言うな。お前は今関東で……まさか、それだけのためにここまで来たというのか。」
「今は便利な世の中だよ、菅原クン。交通機関を駆使すれば思い立ってから五時間足らずで関東から荒尾まで来られる。……それにしても変わってないねぇ、キミも荒尾も。……あの子がケイウンヘイローかい。」
「そうだ。……お前、何をする気だ。」
「おお怖い怖い。そんな睨むような顔をしないでおくれよ。何、今日は下見さ。着の身着のまま来たから着替えすら無いんだ。こんな所ではロクにホテルも無いから、今日の所は福岡まで戻って明日を待って飛行機で帰るとしよう。……全部はこれからだよ。」
「お前、本当に何をする気だ!」
「何も怪しい事なんてしないよ。ただちょっと、ウマ娘の可能性に関する研究をするだけさ。」
「何だそれは……というか、お前そんな口調じゃなかっただろ。何があった。」
「フゥン、そんなことを気にするかい。何、私が敬愛する研究室の上司の口調が移っただけさ……」
『モエレソーブラッズ一着!今年は北の大地から来た地方勢が制しました!二着争いはジョイーレとユーワハリケーン!今年は上位人気の中央勢は地方勢に完敗!荒れた結果になりました!』
「おい、ブルーアラオ……」
「中央勢相手じゃ分が悪いとは思ってたけど、ここまで……」
翌日園田レース場で行われた兵庫ジュニアグランプリは、地方勢が中央を降す結果となった。
しかし、他の地方勢が健闘する中で、九州地区代表として挑んだブルーアラオは見せ場なく十着に大敗した。
カメラに背を向け俯いたブルーアラオの表情を窺う事は――遂に出来なかった。
こうして、プロローグは歓喜の声と一筋の不穏と共に終わりを迎える。
同時に、これはケイウンヘイローというウマ娘にとっての競走人生という名の長い長い旅路の始まりであり、とあるカウントダウンがその数字を確実に減らしていく事も意味している。
ともかく一つだけ言えることは、
彼女達の未来のレース結果は、まだ誰にも分からないという事である。