前回のラストで書いた通り、今回は彼女の物語となります。実は彼女をキャスティングしたのはこの話を書くためだったりします。本音を言えばもう少し年上のウマ娘の方が良かったかなと思ってたりしますが、その分その経歴を生かして第二章プロローグを思いつけたので結果オーライと考えています。
そして次回からは新キャラの登場、新たな展開に向けた掘り下げも始めるつもりですのでご期待ください。
ここからは筆者の近況報告です。
先日大学の期末テストが終了しまして、春休みに突入いたしました。後期は実験レポートに追われてまともに小説に手を付けられませんでしたが、ようやくまとまった執筆時間が取れそうです。それと、ウマ娘5thライブ大阪公演に両日当選致しましたのでまたはるばる九州の辺境から参戦します。出費が膨らむので春休みはバイトと執筆に明け暮れる事になりそうです。
そして実は番外編としてある登場人物の過去偏を今書き進めているのですが、本編にも関わってくる話なのでやっぱり本編として投稿しようか迷っています。
……実は本編でほとんど扱ってこなかったラブコメ要素と同時にちょっとというかかなり人を選ぶ展開を織り交ぜる予定なので本編として扱うと世界線が重くなりすぎるんですよね。
とりあえずまだ三分の一程度しか書いてないので後々詳細がまとまったらアナウンス致します。
それでは、本編をお楽しみください。
狭いチームの部屋に、沈黙が流れた。
「なっ……」
私は何かを言いだそうとしたが声にならず、その沈黙を破ったのは他でもない先輩の声だった。
「最近、ずっと考えてたんだ。うちが競走ウマ娘になった理由。子供の頃に見た、スターウマ娘達みたいになるのが夢だったんだって。それを目指して、ただそれだけのためにずっと走って来た。どんなにきついローテだって頑張った。……でも、結局うちにそんな力はなかった。それに気づくまで二年も掛かっちゃったけど、決めた。もう、これ以上うちに走る意味はない。」
トレーナーさんはそれを黙って聞いていた。
「もうすぐ三年生になるし、進路を決めなきゃいけない時期だから丁度良かったんだ。夢を追いかけるのは、ここで終わりにする。」
それだけ言うと、先輩はトレーナーさんの前を離れて、私の肩をポンと叩いた。
「ケイちゃんごめんね。一人にしちゃうよね。でも、ずっと悩んでたんだ。これ以上頑張る意味があるのかなって。でもここまできても踏ん切り付かなくってさ。昨日ケイちゃんと話して、ようやく決心できた。」
「……!」
昨日の話は、それが……!
「んじゃごめん。事務の方にも話通してこなきゃいけないから。ケイちゃん先にやってて。それじゃ。」
そしてそのまま先輩は部屋を出て行ってしまった。
「トレーナーさん!」
トレーナーさんは脱退届を手にしたまま立っているだけだった。
「っ!」
私は先輩を追いかける。
「先輩!」
部屋からそう離れていない場所に、彼女は居た。
「困った子だなぁ、ケイちゃん。うち先にやっててって言ったじゃん。」
「本気なんですか?先輩……」
「冗談で脱退届渡す人なんてそうそう居ないでしょ。」
「でも!なんで……」
「さっき言ったことが全てだよ。うちにもう走る理由はない。現実を見る時が来たんだよ。」
「そんな事……!まだシニア級入ってすぐじゃないですか!諦めるなんて早すぎます!」
「そうだよ。シニア級になったばっかりなんだよ。それなのにもううちの身体には衰えが来た。気づいてるでしょ?」
知らないなんて、言えなかった。並走の度に息が上がるのが早くなる先輩。それは体調不良なんて言葉で片づけられるものではない、明確なウマ娘としての衰えだった。
「でも……でも前走は勝てたじゃないですか。力を全て失ったなんて、思えません。」
「そうだね。ここずっと負け越してたから、あれには救われたなぁ。でもさ、」
先輩は低いトーンで絞り出すように言った。
「楽しくないんだよ。うちは、もう走るのを楽しめなくなった。もう、辛いだけなんだ。いつ自分の力が尽きてしまうのか、足元が後ろから崩れていくのに追われながら走るなんて、うちには出来ない。」
私は昨日の先輩を思い出した。
『ねえ、ケイちゃん。ケイちゃんは、走るのって楽しい?』
あれは、ある種の最終確認だったんだ。自分の選択に決着をつける為の最後の判断材料だった。いや、あるいはもうあの時点で決まっていたのかもしれない。もっともそれは彼女にしか分からないが。
「ケイちゃんは賢い子だからさ、ここまで来てまだ引き留めるなんて、しないよね?」
もう私に彼女を引き留められる材料は無かった。
「まあそんな悲しい顔しないでよ、ケイちゃん。次のラストランまでは全力でやるからさ。今日も手続き終わったらトレーニングするから。
先にやって待ってて、ね?」
私は力なく頷いた。
そのまま先輩は校舎の方へと歩いて行った。
私がチームの部屋に戻ろうとした時、トレーナーさんが部屋から出てきた。
「トレーナーさ……」
「ケイ、すまないが用事だ。トレーニングメニューはホワイトボードに書いておいたからその通りにやってくれ。ブラックにも同じように伝えろ。」
「……はい。」
そしてトレーナーさんも足早に歩き去って行ってしまった。
周りには練習へ向かうウマ娘達が何人か歩いていたが、私の心は孤独で、大きな穴がぽっかり空いたようだった。
「そっか。辞めちゃうんだ、ブラックキャッスルさん。」
その夜、私はアオにそのことを話した。
「うん。……でもやっぱり急すぎるよ。ラストランって言ってももう一週間後だし。」
「ケイにとっては急なのかもしれないけど、ブラックキャッスルさんにとってはきっと悩みに悩んだ上での決断なんだよ。簡単じゃなかったと思うよ。」
「でも先輩、この時期に辞めるなんて何か理由あるのかな?」
「それは進学のためでしょ。トレセン学園のカリキュラムって基本中高六年で終わるようになってるから普通の学校に比べて少し遅れてるもん。高校進学するってなったら早めに進学のための講座取らないと高校受験に間に合わないでしょ?」
「そっか……そうだよね。」
私は今まで、競走ウマ娘とは“目標”だと思っていた。
競走ウマ娘になって、色んなレースを走って輝くことが目標なのだと。
でも、それは違った。競走ウマ娘とはほんの一握りの人達を除いて“通過点”でしかない。
結局は義務教育や、高校、大学と同じ。そこで何かを得て次へ進む場所だったんだ。
先輩はそれを、その背中をもって教えてくれようとしている。
「ねえ、アオ。アオは……将来について考えた事、ある?」
アオは少し悩んだ顔をした。
「うーん、沢山考えてるけど、選べないっていうのが現状かな。女優とかタレントみたいに人前に出る仕事に転向して、積極的に荒尾の事をPRして行こうか、お父様の会社を継いだりレース組合に入って裏方から荒尾をバックアップしていく立場になろうか悩んでるの。そういうケイは?」
その質問の答えにはかなり窮する。
アオのそんな具体的な回答を出されたら、まだないなんてそうそう言えないじゃん。
「わ、私もまだ考え中……かな。」
「そっか。確かにケイは勉強できるから選択肢は多そうだけどね。」
私はその言葉に私の耳がピクリと動くのを感じた。
「……勉強は今は関係ないよ。アオと違って余裕ないから、私は今に精一杯だもん。」
そう言ってから、私は少し棘のある言葉を掛けてしまった事に気づいた。
「……ごめん、ケイ。」
しかもアオに先に謝らせてしまった。
どうやら存外私は先輩の引退と将来がはっきりしない自分という二つの問題の前で焦っているようだ。
落ち着け、私……
それからは出来るだけトレーニングに集中して、授業も普段通りに聴いているように――振舞った。
だが、心の中にはまだ“そのこと”が渦巻いていて、いまいち身が入らない。
先輩が辞めたら、来週からチームには私だけだ。少なくとも新入生が入って来る四月まではそれが続くだろう。
それは、あのトレーナーさんと二人きりという事も同時に示している。
中央ではトレーナーがウマ娘と専属契約を結んで一対一で指導する事も珍しくは無いらしいけど、こと荒尾では本当に珍しい部類になるだろう。
これが普通のトレーナーなら良かったのだが、“あの”トレーナーさんとならば話は別だ。
先輩というある種の緩衝材が居たからこそまだコミュニケーションは何とかなっていたが、二人きりとなっては会話が止まる気しかしない。そもそもあのトレーナーさん何考えてるの?
仕事は真面目にやってくれるし指導もちゃんとしてくれるけど、基本積極的に私達と関わろうとしない。私的な会話なんて数えるほどしかしたこと無いし、「どんな人」と言われても多少容姿が良いくらいしか引き出しが無い。チームに入る前はそのハンサムさにちょっと期待したのだが、それが蓋を開けてみれば常時仏頂面のロボットみたいな人だ。そもそも笑った顔すら見たこと無いような……
「これからどうなるんだろ……」
私はそう漏らさざるを得なかった。
「ブラック、もう一段ギアを入れる感覚で走れ!」
「はーい!」
私の次走は一月以上先になっているので、トレーニングの主役はラストランを控えた先輩中心の物になっている。
トレーナーさんも最後は勝たせようとしているのか、いままであまり課してこなかったハードなトレーニングを中心としたものに内容を変えた。
私は側で筋トレしつつ呼ばれたら並走要員として一緒に走る。そんな日々が続いた。
――そして、あっという間に先輩のラストランの前日まで来てしまった。
「はぁっ、はぁっ……どうですか?」
「……ああ、悪くない。」
そうトレーナーさんは答える。
しかし私はストップウォッチの数値が、シニア級の平均タイムと比べると少し劣るものである事に気づいていた。
これはトレーナーさんなりの優しさのつもりなのだろうか。
「よし、今日はこれで終わろう。ブラックは明日の話があるから残ってくれ。」
「はい。……お先に失礼します。」
私は二人がチームの部屋へと歩いていく後姿を見送った。
明日から……正確には明後日からはもう私は一人だ。歩き去る先輩の後姿が、届かないほど遠くへ向かっているように見えて仕方が無い。
先輩が決めた事なんだから受け入れるしかない。どの道どんなウマ娘にだって訪れる事じゃないか。
これは当たり前のこと。……受け入れるしかないんだ。
部屋に戻って来たブラックキャッスルが、辺りを見渡す。
「いや~ここも今日でおわりかぁ。実質一年だったけどやっぱ感慨深いね。」
その様子を、菅原は黙って見つめていた。
「改めてありがとね、トレーナーさん。私をここまで担当してくれて。お陰で良い思い出がいっぱい出来たよ。……子供の頃思い描いてたのとはだいぶ違ったけど。うん、楽しかった。」
それを聞いて菅原は、閉ざしていた口を開いた。
「なあ、ブラック。……考え直さないか。」
ブラックキャッスルは意外そうな顔で振り向いた。
「今更どうしたの?あの時もう脱退届を……」
「俺は一度も受け取ったなんて言ってないし、お前が辞めると言ったことに否定も肯定もしていない。」
「……トレーナーさんなら、『そうか、じゃあな』って塩対応すると思ったんだけどな。でもごめん、うちは――」
言いかけたブラックキャッスルの前に、菅原は書類を置いた。
「これは……?」
「園田トレセンへの紹介状だ。俺の弟が居る。いい加減な所もあるが、腕はあると思ってる。」
ブラックキャッスルは書類に目を落とす。
「上手くいかないなら、環境を変えるのも手だ。俺の指導が合わなかったのかもしれない。なにより俺はお前に、夢を諦めて欲しくない。」
二人の間を、しばし沈黙が支配した。そして、ブラックキャッスルが笑いながら話し出した。
「ほんとトレーナーさんって、不器用だよね。うちらに興味が無い振りしようとして、ぶっきらぼうを演じようとしても、結局優しさを隠せない。どっちが本当のトレーナーさんなんだろうね。……でも。」
ブラックキャッスルは書類を菅原につき返した。
「ごめん、やっぱりうちの考えは変わらない。」
「……何故だ。お前はまだやれる。きっともう一度やり直せる。俺なんかじゃなくて、他のトレーナーの手にかかれば、きっと――」
「トレーナーさん。……うち、決めてたんだ。笠松からこっちに移って来た時に、もうここで結果が出せなければ、レースは最後にしようって。結構真剣にそう考えてたんだよ。でも、そこでトレーナーさんが声をかけてくれた。最初は『何だこの人』って思ったけど、接するうちにどこか天然で、不器用で。面白い人だなって思った。何より、今までのトレーナーと違って、私を見ても失望した目を、『どう扱うべきか』って悩んでる目をしてなくて、本気で私を勝たせようとしてくれてるって分かった。だからうち、トレーナーさんを選んだんだよ。」
「ブラック……」
「そして結果的には荒尾で三勝!いままで一度も勝てなかったウマ娘が三回も勝ったんだよ?――本当に、本当にうれしかった。諦めなくて良かったって、心から思った。」
「……」
「そしてケイちゃんって言う可愛い後輩も出来た。可愛くて、ちょっぴりめんどくさい所もあって、うちよりずっとキラキラしてる後輩。ジュニア級で辞めてたら、あの子とも出会えなかった。だから、」
ブラックキャッスルはにっこりと笑った。
「うち、トレーナーさんに会えてよかった。トレーナーさんから、いっぱい大事な物を貰っちゃった。だから……これ以上貰っちゃったら、うち欲張りになっちゃうよ。」
「……」
「トレーナーさんが最後までうちの事考えてくれて嬉しいよ。でも、もう十分。うちの最後の担当はトレーナーさんが良いの。その思いやりは、他の子に使ってあげて。」
そして、ブラックキャッスルは菅原の手を取った。
「ありがとう。トレーナーさん。あなたが最後の担当で、良かった。」
菅原は一瞬だけ悲しそうな顔をすると、ゆっくりと頷いた。
「……分かった。」
そしてブラックキャッスルに向き直った。
「ブラックキャッスル、お前の脱退届を受理する。二年間の競技生活……よく頑張ったな。」
「……はい!」
ブラックキャッスルは、にっこりと笑った。
翌日。
私は先輩のラストランを見届けようと、午前の授業が終わるとすぐにスタンドへ飛んで行った。
埋まる事なんてまず無いけれど、フェンス前の一等席を確保するためだ。ところが事務棟から連絡通路を伝ってスタンド二階に入った所で、上級生のウマ娘が私に話しかけてきた。
「えっと、ケイウンヘイローちゃんであってるかな?」
「はい、そうですけど……」
「私、くーの……ブラックキャッスルのクラスメイトなんやけどさ、ちょっとあの子がケイウンヘイロ―ちゃんを呼んでて……行ってあげてくれん?」
「えっあっ、はい!わかりました!」
私は踵を返して事務棟内に戻る。
レース前は電子機器が使えないから伝言で呼び出したんだろうけど、何があったんだろう。
事務棟内の階段を駆け下りて、パドック裏の控室へ向かう。
「失礼します。」
扉を開けると、部屋の中に人は一人しかいなかった。
「ああ、ケイちゃん。やっほ~。」
そう言って振り返った先輩の顔には、綺麗な化粧が施されていた。
「先輩……珍しいですね、しっかり化粧してるの。」
「そうでしょ?友達がラストなんだから精いっぱい可愛くして走りなって、やってくれたんだ。」
「ああ、さっきの……」
「うん。あの子と他に三人がかりでがっつりやられちゃった。」
「ふふ、でもよく似合ってますよ。」
「そう?ありがと。」
「あの先輩、何か私に御用ですか?」
「ああ、えっとね……ケイちゃん。」
先輩はくるりと後ろを向いて椅子に座った。
「ヘアアレンジって、出来る?」
「えっ?ああ、はい少しなら……」
「じゃあさ、ケイちゃんちょっとうちの髪やってくれないかな。」
私は少し驚いた。
「いや私そんな大層なやつは……もっと上手な人呼んできましょうか?」
「ううん、ケイちゃんにやってほしいの。」
何も私じゃなくても……と思ったがこう言われては断る方が申し訳なくなる。結局私は先輩の頼みを引き受けた。
鏡の前に座った先輩の後ろに立つ。
背中まで伸びた彼女の黒鹿毛の髪には丁寧にヘアオイルが馴染ませてあって、艶やかな輝きとふんわりと良い匂いがした。
どんな髪型にしようかちょっと悩んで、とりあえず比較的簡単な三つ編みを作ってハーフアップにするのにしようと決める。
サイドの髪を後ろに分け取って、ゆったりとした三つ編みに編んでいく。先輩のポーチからゴムを取り出して仮止めしたら、反対側も編んでいく。
「ねえ、ケイちゃん。北海道って来たことある?」
先輩が話かけてきた。
「今の所ないです。行ってみたいなとは思うんですけど。」
「そっか。……うちさ、今までたくさんのレース場見てきたんだよ。札幌レース場ってさ、夏しかレースやってないんだけど、すっごい賑わうんだ。札幌記念なんかG1にしようなんて話があるくらいでさ。うちもちっちゃいころ何度も行って、目の前でエアグルーヴとかセイウンスカイの優勝を見たんだ。すっごいわくわくしたっけ。」
「へぇ、そうなんですか。」
「門別レース場はとんでもない田舎にあってさ。遊ぶとことか周りにぜんっぜんないの。みんな退屈してたっけ。でも近所にウマ娘の子供たちが多くってさ。その子達と遊んであげるのは楽しかったな。何にもない原っぱを走ってるとなぜかすっごく落ち着くんだよ。」
私は先輩の話を聞きながら編み終わった両方の三つ編みを真ん中で結び合わせる。
「旭川は道営に居た頃のうちの主戦場でね。結構思い出もあるんだけど……あそこもちょっと街中から離れててさ。レース終わった後トレセンに帰るまで自由時間なんだけど結局あんまりレース場から出れなくて。仕方ないからスタンドでレース観たり屋台でご飯食べたりしながら暇つぶししてたよ。あげいもが美味しかったな。……ほかにもばんえいの子達と話したりしてなんやかんや退屈はしなかったなぁ。あの子達同じウマ娘とは思えないくらいムッキムキですごいんだよ?」
「あ、聞いたことあります。嘘かほんとか分からないけど車とか持ち上げちゃうとか……」
「いや~あの子達だったらトラックくらいは持ち上がるんじゃないかな。後はね、笠松も色々衝撃だったな。まだオグリキャップのグッズバリバリ売ってるの。オグリ饅頭とかオグリ焼とか……もう引退して何年経ったよって思うけど、歴史に名を残すってああいう事を言うんだろうね。」
「あはは……そこまで言われると逆に行きたくなっちゃいますね。」
「名古屋は二回だけ走ったけど結局あそこが一番都会だったな~。レース終わった後こっそり抜け出してさ。水族館まで行ってシャチとかイルカとか眺めたっけ。後でトレーナーに滅茶苦茶怒られたけど……」
髪のセットの方は佳境に入る。三つ編みの下の髪を掬い取ってさっき結んだ三つ編みの毛束と結び合わせてハーフアップを作る。
「そして、荒尾に来て……九州だと桜がこんなに早く咲くんだってすっごく驚いたし、夏の暑さにはやられそうになったけど、やっと勝てるようになって、ファンの人たちがすっごい近くで応援してくれて。そして何より……ケイちゃんに会えた。」
最後、ハーフアップをくるんと回して整えようとしたところで、私は手を止めた。
「ねえ、ケイちゃん。うち一杯走ったよ。北から南まで、色んなとこ走って、たくさんの人に会ったよ。結局荒尾に居たのが一番長かったけど、三か月しかいなかった笠松とかでもしっかり覚えてる。辛いことも悲しいこともあったけどさ。……今思い出すと、全部楽しかったって思えるんだ。」
「先輩……」
「うちより強いウマ娘なんてたくさんいるけど、うちくらい色んなとこ行ったウマ娘は珍しいよね。折角だから海外とかも走ってみたかったな~……なんてね。あはは、何言ってんだろ、うち。」
「……」
「……先輩としてケイちゃんに教えられることは全然無いけどさ、これだけは言える。――世界は広いよ、本当に。どこに行っても、見たことないもの、知らない人で溢れてる。そして知らない事、知らない場所を知るたびに新しい縁が広がっていく。だってさ、北海道から来たウマ娘と東京から来たウマ娘が九州で出会って、チームメイトになるんだよ?……ケイちゃんがこれからどれだけ続けるのかは分からないけどさ、もし知らない世界に興味があるなら一度荒尾を飛び出して、色んな景色を見に行ってみなよ。もしかしたら、思いもよらない出会いがあるかもよ。」
「せんぱい……」
「……なぁ~んてね!ちょっと説教臭くなっちゃったかな!うちらしくないな~。ところでケイちゃん、そろそろできた?」
「ぜんぱぁい……」
「……うぉっとぉ!?どしたのケイちゃん!」
「やっぱりわたし寂じいでずよぉ~……」
「待て待て待て!ケイちゃんキャラ崩壊してるって!ほら泣かないの!」
先輩がハンカチをくれた。
「ひっぐ……すみません、我慢してたんですけど……」
「全く……寂しいならそう言ってくれたら良かったのに。」
「だってそしたら先輩に迷惑掛けちゃうかもってぇ……」
それを聞いて先輩はくすっと笑った。
「もっと素直になりなよ。ケイちゃん大人ぶろうと頑張ってるのは分かるけど、普通の女の子みたいにしたって誰も責めないよ?それとさ、うちは卒業するまでは学校には居るんだから、寂しくなったらいつでも会いに来ていいんだよ。」
「でも……チームメイトとしての先輩はこれが最後じゃないですか。」
「それはそうだけど……うちだよ?名のある有名なウマ娘が引退するんじゃなくて、無名の競走ウマ娘が競走ウマ娘からただのウマ娘に戻るだけだよ?そんな泣かなくたってさ……」
「私にとっては……私にとっては無名なんかじゃありません。先輩は私にとって、たった一人のチームメイトで、面倒見が良くて、優しくて……!無名なんかじゃない、“競走ウマ娘”ブラックキャッスルです!」
先輩は少し困ったような顔をした。
「でも……私の名前なんて、歴史に残らないよ。何の実績も残せなかった、地方の片隅でキャリアを終えたウマ娘なんて……」
「なら、私が憶えています。先輩が居たことをみんな忘れ去ってしまっても、私だけは最後まで憶えてます!」
先輩はきょとんとした顔で私の方を見ていた。
「……あはは、本当に困った子だなぁ……うちの事なんて本当にどうでも良いのに……でも、嬉しいなぁ。」
そして、先輩ははにかむように笑顔を見せた。
「じゃあ、そんなに言ってくれるならお願いしよっかな。――うちがここにいた事、忘れないでね。」
「……はい!」
私は先輩に笑い返しながらそう答えた。
その時、ドアが叩かれる音がした。
「ブラックキャッスルさん、そろそろ準備お願いしまーす!」
「あっ、いっけない!ケイちゃん髪終わった?」
「えっと、最後の仕上げがまだ!何か髪留めか何かあります?」
「え~っとね……これ使って!」
先輩はポーチの中をガサゴソとまさぐって、髪留めを一つ取りだした。
ホワイトゴールド色の雪の結晶の形で、真ん中に碧い宝石が埋め込まれた綺麗な髪留めだった。
「いつか大事なレースの時に付けようって思ってたんだけど、結局使わずじまいでね。最後だから付けてみようかなって。」
「……良いと思います。じゃあ、付けますね。」
私は髪の結び目にその髪留めのピンを差し込んだ。
「出来ました!どうですか?」
「……うん!めっちゃ可愛い!ケイちゃん、ありがと!」
先輩はそう言ってはにかんだ。
「じゃあケイちゃん、行ってきます!」
「うん、いってらっしゃい!……あっ。」
私は無意識にため口が出てしまった事に気づいて焦ったが、先輩は気づいたのかそうでは無いのか、そのまま行ってしまった。
部屋の中には私だけが取り残された。
「……私もスタンドに行こ。」
そして、彼女の最後の雄姿を目に収めよう。
最後くらい晴れ晴れしく、という私の願いとは裏腹に、空にはどんよりと雲がかかり、その天気をそのまま映したようにバ場は稍重の発表がされていた。
これと言って大きなレースも無い今日はお客さんの入りもまばらで、全くもってラストランには相応しくない様相だった。
だが、これが普通なのだ。全国約2万人と言われる現役競走ウマ娘には等しくラストランの時が訪れるが、注目されてお客さんが集まるウマ娘の方が稀だろう。そのほとんどは誰にも目を当てられる事も、決して話題になることも無くひっそりと身を引いて行く。
あるいは、ラストランを意図して決行できるのすら珍しいのかもしれない。あらゆるスポーツの中でも屈指の故障率と言われるレースの世界では、自分の意志とは裏腹に怪我でレースに出る事が出来なくなり結果的に前走がラストランになった、なんて事は日常茶飯事だ。
誰にも知られる事無く姿を消す虚しさ、道半ばで終えざるを得ない無念。きっと私たちが知らないだけで、数えきれないほどのそんな思いを積み重ねながらレースの歴史は紡がれてきたのだろう。
そしてそこに、また一人ウマ娘が加わる。
ブラックキャッスルという名を持ったウマ娘が、レース界から姿を消す。
レース界の中でも日陰である地方レースの、最南端の小さなレース場の、メインレースでもなく、ちゃんとした名前すら付けられず事務的に文字と数字が振られただけのレースで。
一人として彼女に注目する人はおらず、カメラを向ける人も居ない。
それどころか一枚の写真だって残るか分からない。
だが、彼女は間違いなく実在した。
他の幾万もの“無名”のウマ娘たちと同じように、私の前に確かにいる。
きっと彼女の名前は数か月もすれば有耶無耶になり、数年もすれば存在すら忘れられて、書類の中にしか残らない存在になるのだろう。
だから、私が憶えておこう。
彼女がどのようなウマ娘だったのかを。
私の大好きな先輩がどんなラストランを迎えたのか、その全てを。
『さあ荒尾レース場5Rは「シニア級Cー1組」。出走ウマ娘、九人です。天気は変わらず曇り空、対岸の雲仙岳は依然姿を隠しています。さて本レース一番人気は六番クラギンリュウ、続いてタニノノスタルジー、ウォーターシドがそれぞれ差のない二、三番人気で続きます。』
先輩は落ち着いている。少なくともここから見る限りは、だが。
先輩が主戦場としてきた距離は1300から1400m。前走の1300mは勝利してるし、今回の条件も1400mで勝機だってゼロじゃないはず。
だが、先輩の人気は六番人気。大外枠なのも相まってか観客からの評価は甘くなかった。
私も……昨日並走して先輩の今の状態を知っているからこそ、内心厳しいのではないかと考えている。
でも、もしも奇跡が起きるなら、私は祈る。
三女神様、どうか最後の花道を飾らせてあげてください!
「……あっ、トレーナーさん。」
気付いたら、トレーナーさんが隣に立っていた。
「祈っているのか、ケイ。」
「はい。私にできる事はもうこれしかないので。」
「違うな。出来る事はもう終わっている。見守る側が出来る事はもう何もない。後は道中次第だ。」
「……トレーナーさん、それは冷たすぎます。祈って、応援してあげるのも大事です。」
「それで勝敗が決まるなら俺は滝行でも百度参りでも行ってやる。だが結局祈ってもどうにもならないし、“どうにもならなかった”。……俺の経験則だ。」
意味ありげにそう語るトレーナーさんの目はずっと遠くを見ているようだった。
「前に何かあったんですか……?」
その質問にトレーナーさんは答えてはくれなかった。ただ、それ以上追及するのは気が引けて、やめた。
枠入りは順調。先輩は最大外の九番ゲートへと歩みを進める。
やがて全ての枠入りが終わる。――態勢完了。
ガシャン!
ゲートが開いた。
「あっ!」
先輩が少し出遅れた。先行争いに加わることなく八番手に付ける。
「がんばれー!」
目の前を走り抜けるバ群に向かって私は声をかける。砂塵を残して各ウマ娘は一丸となって第一コーナーへと突入していった。
荒尾の小回りの第一第二コーナーは遠心力の為追い抜き難く、バ群は激しくは変動しない。先輩は順位を一つ下げ最後尾に移った。
向こう正面に入り先頭集団は変わることなく走り続ける中、先輩は再度八番手に戻るも一団となったバ群を捌き切れずこれ以上順位を上げられないようだ。
先輩は基本先行型。しかし前走は後方待機からの差しで四コーナーから抜け出して勝利してるからまだ分からない。
レースは向こう正面中盤から第三コーナーに差し掛からんとする所。一二コーナーと比べて緩やかな三四コーナーはロスなく競り合いが展開できる。ここから先頭争いが激化していくが、先輩は八番手のまま動けていない。そんな中五、六番手を走っていた二人が競り合いでバテたのかずるずると後退していく。それに巻き込まれて先輩を含めた以下のウマ娘も後退してしまった。
「いけない、このままじゃ!」
第四コーナー、各ウマ娘スパートに入り始めるが依然先輩は八番手、前が開かないためかなり苦しそうだ。
最終直線、残り220m。四コーナーから激しく先頭争いを始めた先頭集団と後方集団で四バ身から五バ身の差が開いている。
現実的にこの差を詰めるのは上り最速で追い込んでも届くかどうか……
先輩の表情がバ群の隙間から見えた。歯を食いしばって懸命に走っているが目が泳いでる。進路を見出せなくて焦っているようだった。
やがて、彼女は落胆した表情で目を伏せてしまった。まるで、これこそが自分の運命なのだと、受け入れたかのように……
先輩。
私が見てきたブラックキャッスル先輩。
飄々としていて、ちょっとめんどくさがりだけど根は優しくて、幼い日の夢を胸に泥くさく頑張る先輩。
私の練習でもいつもそばに居てくれて、心配して付き添ってくれる面倒見のいい先輩。
身内びいきかもしれないけど、エゴなのかもしれないけど、
そんな先輩の競走生活が、
こんな形で終わるだなんて……
「絶対に、ありえない!」
私は柵から身を乗りださんばかりにして声を張り上げる。
「せんぱい!がんばれ!走れぇぇぇぇええ!!!」
周りの人たちの視線が集まっているのを感じるが、関係ない。
「大外一気だ!いっけええええええ!」
私の声が、届いたのだろうか。先輩はこちらを見た。
そして進路を外に取ると、先団めがけて加速し始める。
もう理屈なんかじゃない。合理性が云々じゃない。
ただ私は、彼女に後悔して欲しくなかっただけだ。
例え届かなかったとしても、最後は全力で走ったのだと思って欲しかったんだ。
私の前を先輩が走り抜ける。
その横顔を見て、私は思わず笑った。
……先輩、嘘つきです。
『走るのを楽しめなくなった』だなんて。
だって先輩、今。
今までで一番、楽しそうに走ってるんだもん。
『三番ウォーターシド、七番タニノノスタルジー並んでゴールイン!これは接戦、写真判定です!最後一気にタニノノスタルジーが追い詰めたがどうか!三着にトーホーレインボー、一番人気クラギンリュウは五着に沈みました!』
レースが終わった。着順掲示板に三つのウマ番と写真判定の文字が躍る。
――そこに、九番の数字は無かった。
結局先輩は掲示板をわずかに逃し、六着で入線した。
彼女は息を切らしながら空を見上げている。
流れた汗でメイクは落ち、私が整えた髪も少し乱れてしまっていた。
そして私に気付くと、先輩はどこかばつが悪そうに笑った。
「……終わっちゃったぁ。」
その言葉にはきっといろんな思いが込められていたのだろう。
だがその表情は晴れやかで、もう後悔はないのだとはっきり分かった。
私はその言葉に、何度も何度も頷いて答えた。
先輩は息を調えると、スタンドに向き直る。そして、観客に向かって深々と一礼して……
それは、今ここにいる人たちだけに向けられたものでは無かったはずだ。
きっと今まで彼女が出会い、関わり、縁が出来た全ての人々に。
届くように、力の限り彼女は叫んだ。
「ありがとう、ございましたぁー!!!」
――その声はスタンドにこだまして海へと広がり、
そして空へと、消えて行った。
丁度その時、がらんとしたスタンド三階の有料席に佇む一つの人影があった。
「フゥン……これで“彼女”の人間関係にニッチが生まれるねぇ。ようやくアプローチを開始できる……」
その人影は踵を返してその場を離れる。
その顔には、不敵な笑みが浮かべられていた。
「さぁ、共にこの閉じた運命とやらを変えようじゃないか。……ケイウンヘイロー君。」