ウマ娘の小説なのにここまでレースシーンが殆どないという異常さをもった今作でしたが、遂に走ります。そして普段に輪をかけて文字数が膨大になってしまいました。
反省しております。
前後編に分ける事も考えましたが、良い区切り方が思いつかなかったので結局そのままです。皆様お読みになる際はくれぐれも適度な休憩をとってお楽しみください。
第6話の方も3割まで進んでおりますのでそこまでお待たせしないと思われます。
それでは皆様お楽しみください。
※pixiv版は同一作者です。
唐突だが、私は朝という物に比較的弱い。
何も何度起こしても無反応だとかそういうレベルでは決して無いのだが、早起きともなると大の苦手である。頭が滅法働かない。
その為朝は一秒でも長く惰眠を貪りたい気質であるのだが、荒尾トレセンに入ってからというものの、必ず決まった時間になると一時的に目が覚めてしまう。
それこそが愛すべき私の同居人、アオちゃんの足音である。
大体五時ごろになると、決まって起きだして何かをしているようだ。
何をしているのか。それは確認したくても体が即座の二度寝を所望している為試したことがない。真面目なアオちゃんの事だから予習か復習でもしているのだろう。
私が起床するのは大体七時ごろ。
はっきり言ってもう少し寝床に居たいところなのだが、それで過去にアオちゃんに随分と迷惑を掛けたため、体に鞭打って何とか体を起こす。
「おはよう、ケイちゃん。」
机に向かっていたアオちゃんがこちらに顔を向けて朝の挨拶をしてくれる。
「おはよう…ふわぁ。」
「今日も眠そうだね。昨日は何読んでたの?」
「ああ、そこにあるやつ…」
私が指さした先には机の上に置かれた文庫本があった。
京都が舞台の、大学生たちが少し奇怪な日常を送る物語だ。
これが私が朝が弱い理由と言ってしまえばそれまでなのだが、最早これは数年来の私の習慣となってしまっている。
時に小説、時に詩集。ごくごくまれに科学の本といった具合に寝る前に本を読み進めるのだ。
「私も本は好きだけど、読むのが遅いんだよね。ケイちゃん二日置きぐらいで読んでる本変わってるしすごいよ。」
「いやいやそんなことないよ…顔洗ってくる…」
「はーい。もうすぐ朝ごはんだからちょっと急いでね。」
そうアオちゃんに告げて私はポーチを手に取り共同洗面所へ向かう。
まだ眠く向かう途中で思わずあくびが出た。
洗面所には数人いたが幸いにして全員同級生だ。互いに気さくな挨拶を交わす。
洗顔料で顔を洗い、化粧水をつけてから髪を調える。私の髪はややボリュームのある方だから少し手間取る。前髪の流星が少し伸びて来たなぁなどと考えながらドライヤーをかけて何とか身だしなみは整った。
自室に戻り、アオちゃんと合流してから寮の食堂へ向かう。
「ねえ、今日の社会の小テストって競走法の何章だっけ?」
「二章だけど…え、ケイちゃんもしかして勉強してないの?」
「あはは…お恥ずかしながら。数学の宿題やった後本読み始めちゃって。」
「もう。二章はまだ短いからいいけど三章からはすっごく長くて難しいんだよ。ちゃんとやろうよ。」
「はーい。あ、そうだアオちゃん。競走法第二章十五条は?」
「えーっと、『勝負服の規定』。『自己の勝負服を着用してURAの競走に出走しようとする者は、URAが行う勝負服の登録を受けなければならない。』だったかな。」
「お見事。じゃあ十六条は?」
「『競走ウマ娘の訓練及び出走』。『農林水産省令の定めるところにより、URAが行う免許を受けた…』…ってケイちゃん全部言わせるつもりでしょー!」
「ごめんごめん!でも全文覚えてるのはすごいよ。もっと聞きたいな~。」
「おだててもだめー!じゃあケイちゃん!第十六条の続きは!」
「『URAが行う免許を受けた指導者でなければ、URAの競走のため、ウマ娘を訓練し又は出走させることができない。』」
「覚えてるならなんで聞いたのー!」
「いやーちょっと確認をね。…ってアオちゃん、そろそろ出ないとやばいかも。」
食堂の壁掛け時計の長針は四分の一を過ぎようとしている所だった。
「わっ、大変!戻ろう、ケイちゃん!」
「うん!」
私は残っていた牛乳を飲み干すと、自室に駆け戻った。
「ケイちゃん!早くしないと遅刻だよ~!」
「はいはい、分かってるって!」
バタバタと朝の準備を終えた私は改めて自室を見渡す。
ちょっとだけ私物が増えて賑やかになった私たちの部屋。
誕生日に先輩から貰った未使用の香水の瓶が朝日に輝いている。
ふと、窓が少しだけ開いているのに気づいて閉める。
その時シェルフの上に置いてある卓上カレンダーが目に入った。
明後日はダービーか、という事と同時に私はもう一つの事が気がかりだった。
最後の週の水曜日に赤丸が付けてある。
「…よし!」
私は自分に気合を入れるように呟いた。
「ケイちゃーん?」
「ごめんごめん!今行くー!」
私は鞄を手に取り友の元へ走る。
「「行ってきま~す!」」
二人で寮母さんに挨拶をしてから校舎へ走る。
私たちの寮と授業を行う校舎は端と端の関係にあり、急いで登校しようとするとさながら短距離走のようになる。
今の時間は二十五分に差し掛かろうと言うぐらい。走れば十分間に合うだろう。
その時、デビュー戦前のどこか浮ついた気分の為か、いっそ校舎まで全力疾走で行ってやろうという考えが浮かんだ。
「アオちゃん、お先っ!」
そう言うと私は身体を最前傾にして襲歩の構えを取った。
準備運動をしてないから本当はあまり良くない事だが、脚を目いっぱい踏み込んで地面を蹴る。
この瞬間が好きだ。一瞬だが風と音を置き去りにする。視界には誰も…
「ふふっ、負けないよ!ケイちゃん!」
「…ッ!」
アオちゃんが食らいついてきた。でも私の方が。
…いや、速い!確実に私より後から走り出したのに並びかけてくる勢いだ。
「「うおおおおおおおおお!!!」」
アオちゃんがぐんぐん迫る。抜かせまいと粘る私。勝負の結果は…!
「全く並んだゴールイーン!これは接戦!写真判定です!」
「「えっ!カナちゃん!?」」
私が校舎を見上げると、二階の窓からカナちゃんが顔を出していた。
「二人とも朝っぱらから何やってんの。ムキになっちゃってさ~。」
「はぁ…はぁ…カナちゃん、結果は…?」
「言ったでしょ、写真判定って。私には分かりませーん。それより早く上がってきたら?」
「あ、うん分かった…」
アオちゃんと顔を見合わせ苦笑いする。
ローファーを毎度の如く靴箱にやや乱雑に押し込んで階段へ向かう。
…アオちゃん思ってたよりもずっと速かったな。
そう思いながら、二人で階段を駆け上がるのだった。
「えーふたりであさからレースしてたのー!?ミライもやりたかったー!」
「いやそこの二人は遅刻未遂だから。真似しちゃだめだよ。」
二時間目の休み時間にみんなで談笑をしていた。今日の最大の懸念だった社会の小テストは先ほど終わり、私は比較的良い点が取れた。
ミライちゃんが回答をほとんどひらがなで行った事が果たして先生の裁量で得点となるのかというのが議論の中心である。
「そういえばみんな、もう五日後はメイクデビューだね。」
「うん!ミライいっちゃくとっちゃうよー!ケイちゃんもいっしょにいっちゃくとろうね!」
「ミライはケイちゃんと同じレースでしょうが…一着とれるのは一人だよ。」
「あ。そっかー!じゃあまけないよー!」
五日後の六月一日から荒尾レース場でジュニア級のメイクデビューが始まる。
レースの祭典たる日本ダービーが終わった後から始まるのが慣例で、時期にズレはあるものの全国各地の地方レース場もこれに倣う。
そして今年の荒尾におけるその第一回目のメイクデビュー、「ストロングガール」に私は出走する。
第一回目は必然的に仕上がりが早い実力者同士がぶつかるのが慣例で、実際今年も荒尾のエース候補級が集まった。
スカウトでとてつもない数のトレーナーが集まったという噂のデコトラちゃん、マイペースながら堅実な走りを見せるニシノちゃん、チーム決めに苦労したものの、小柄な身体を活かした軽快な走りが持ち味のミライちゃん。
そして…地元からの圧倒的支持を受け、それに見合う確かな実力を持ったアオちゃん。
デビュー前から既にファンクラブとも言える団体が作られ、トレーニングの最中でさえ通りかかった地元のファンから熱い声援を送られているというレベルだ。
その他同等レベルのウマ娘達と私を含めた十名が「ストロングガール」に出走する。
「いやー本当に羨ましいよ。私は今度のには間に合わなかったからさ~。」
カナちゃんはチームに所属したのは良いものの、思い通りに仕上がらなかったので初回は見送ることにしたらしい。
「カナちゃんも大丈夫だよ!すぐに一緒に走れるようになるって!」
「まあ皆の走りを見て活力にさせてもらうよ。それにしてもこのグループの中から四人も同じレースでデビューなんてねぇ。皆で譲り合った挙句仲良く失格なんてしないでよ?」
「しないよ!みんな大切な友達だけど、レースは真剣勝負だもん!」
――そうだ。私が上を目指す以上、ここで皆を打ち負かさなければならない。
「はいはい、ごめんごめん。でもやっぱり今回の本命はアオだろうね~。何たって知名度が違うもん。流石大問屋の娘は違うね。」
「そ、そんなことないよ!もちろん恥ずかしくない走りの為に練習はしてるけど!ケイちゃんだっているし、二人も他の子達だっているんだよ!」
「まあね~。特にケイちゃんは実力が結構ベールに包まれてるしね。」
「そ、そんな事ないよ~。」
そうは言ったが、カナちゃんの言ったことは間違いではなかった。私はこの二か月間、意図的にあの走りを封印してトレーニングしていた。トレーナーさんには相談しなかったのだが、私はここで注目され、上へ進む為には何が必要か考えた。そして思いついたのだ。
意外性。
極限まで自分の秘密を隠し、本番で発揮して観客をあっと言わせる。
荒尾レース場にはレース専門紙が二社存在し、レース予想の記事を書いている。当然その際には、トレーニング風景も参考にされる。
そこでレース前から走りを分析されて注目を集めるのも良いのかもしれないが、観客的には予想外の展開を見せたほうが注目度は増すのではという読みだ。そのため先輩との並走でも前傾はそこそこに、力も八割ほどしか発揮しなかった。
「あ、次家庭科だったよね。移動は?」
「今週は無いよ。来週は調理実習だから向こうの棟だけど。」
「そっか。あ、私家庭科はロッカーに入れてたんだった。取って来るね。」
そういって皆の元を離れる。
ロッカーまで行って教科書を取るとふと皆の方を振り返る。
カナちゃんがからかって、ミライちゃんが頬を膨らませて、アオちゃんが宥めて、ニシノちゃんは相変わらず寝ている。
いつも通りの日常。そしてきっと皆にとっては何年も繰り返してきた風景なんだろう。
そんな中に受け入れて貰った私はきっと幸運なのだ。転校生や出身地が違う子がはぶられるなんて珍しくない。
本当に、皆いい友達だ。
その友達を負かさないといけないとは、レースとは何と残酷なのだろうか。
それどころか、
上を目指すなら、皆とお別れする日も決して遠くはないのかもしれない。
「ケイ!もっとスピード上げろ!」
「はい!」
いつの間にか呼び名がケイに変わったトレーナーから檄を飛ばされながら、私はコースで最終調整のトレーニングに入っていた。
相変わらず力は八割。全力は見せずに走ることを心がけている。
「うーむ…」
菅原が手元のストップウォッチを見る。
「どうしたの?トレーナーさん。」
ブラックキャッスルがそう尋ねると、トレーナーは口を開いた。
「足りないんだ…」
「え?」
「あいつの基礎能力とこの二か月のトレーニングで上がる筈だった能力の計算が合わない。想定量に足りてない。」
「えー?でも十分速くない?この前の並走も普通に私負けちゃったし。ジュニア級としては十分すぎるでしょ。」
「いや…そもそも初めて見たあいつの走りと今の走りは…いや荒尾に適合したと考えても…」
「もートレーナーさん。そもそも期待しすぎなのかもよ?仮にでも地方のそれもここのウマ娘にさー。」
「…」
菅原達が見つめるコースの反対側では、ケイウンヘイローがゴール板を駆け抜け減速を始めた所だった。
「まあ良い…次、ブラック。全力でゴール板まで一本。お前も同日にレースなんだから頑張れ。」
「はいはーい。仰せのままに~。」
そういってブラックキャッスルはスタート地点に走っていく。
菅原は手元の資料を睨んでいた。
そこには――「ブルーアラオ」と書かれたページと、各種の数字が並んでいた。
トレーニング後、更衣室で珍しくニシノちゃんが私に話しかけてきた。
「ケイさま~。明日大牟田のモールに行きませんこと~?」
「え、明日?大丈夫だけど。何で?」
「夏物のお洋服を見に行きたいんですわ~。それとカフェでレース前の景気づけに一杯どうかと思いまして~。」
「あ、良いね。本屋も寄っていい?好きな作家さんの新刊出てて。」
「あー!いいないいな!ミライもいきたいー!」
「ふふ、ではミライさんもご一緒に~。カナさんとアオさんもいらっしゃいます~?」
少し離れたところで着替えていた二人にニシノちゃんが問いかける。
「私は大丈夫だけど。アオは?」
「私は…」
アオちゃんは一瞬目を伏せると、
「…やめとくよ。ごめんね。」
「え、アオちゃん何か用事あるの?」
アオちゃんが断るとは珍しい。思わず聞いてしまう。
「うん。ちょっとやることがあって。また今度ね。」
それを聞いて、カナちゃんが少し表情を変えた。
「…ごめん、私も用事あるんだった~。三人で楽しんできて!」
「あら~それは残念ですわ~。では三人で参りましょう~。明日九時に正門前で~。」
「うん。でもニシノちゃん寝坊しないでよ?」
「だいじょーぶ!ミライがちゃんとおこすから!」
「ミライの目覚ましは効きそうだね~。あ、三人とも先行ってて。ちょっとアオと話あるから。」
「あ、うん。お疲れー。」
そして私達は二人を残して先に戻ったのだった。
次の日は五月にしてはびっくりするほど暑い日だった。
三人で小走りで北にあるショッピングモールに行くと、それぞれの用事を楽しんだ。ミライちゃんがおもちゃ屋で子供向けアニメのグッズに釘付けになってたのは流石に苦笑いしたが。
各々用事を済ませて一階にあるチェーン店のカフェに三人で入る。
「えーっと、私はキャラメルフラッペのトールのはちみつトッピングと…あ、アメリカンワッフルで。」
「えっとミライはー、バニラクリームフラッペのトールのはちみつ!」
「わたくしはダークモカクリームフラッペのグランデのエクストラホイップエクストラパウダー、チョコソースとエクストラチップとミルクをブレベに。はちみつダブルマシマシでお願いしますわ~。」
「えぇ!?何そのカロリー爆弾みたいなの!?」
「ふふ、ここに来たらやっぱりこれですわ~。」
「ニシノちゃんすごいよね!じゅもんとなえられるの!」
そして三人分の飲み物と爆弾が揃い、三人でテーブルに落ち着いた。
「いよいよつぎのすいようびだねー!」
「うん。やっぱりドキドキするよね。」
「ケイさんはどのような作戦で行かれるのですか~?」
「いやいや教えないよ!」
「あら~残念ですわ~。」
「それとあしたダービーだよね!みんなでテレビでみようよ!」
「あ、いいね。二人も呼んで観たいね。」
「賛成ですわ~。折角ですし明日はスタンドの大型ビジョンで観ましょう~。」
「アオちゃんもカナちゃんもダービーはきっとみにくるよね!あしたはだれがかつのかなぁ?」
「やっぱり『あの娘』じゃない?実力抜きんでてるし、アグネスタキオン以来の無敗の皐月賞ウマ娘なんだし。」
「勝てばミホノブルボン以来の無敗二冠ですわね~」
「『にかん』も『さんかん』もかっこいいよね!来年はミライも出たいなー!」
「あはは…そうだね。出れるといいね。」
ニコニコしているミライちゃんの気分を害さないようにあしらったが、同世代中央地方合わせて約7000人強の中からダービーへの切符を得るなど限りなく不可能に近い。その上私たちは地方に居る時点で既に可能性は0と言っていいぐらいだ。
でも…ダービーもG1も無理かもしれないけど、私だってあの東京レース場の晴れ舞台にくらい一度でいいから立ってみたいな。
…いつか叶うといいな。
翌日。
今日はアオちゃんもカナちゃんも私たちの誘いに乗ってくれたので皆でダービー観戦をすることになった。
寮のテレビで観戦する生徒たちも多かったが、私たちは別の場所で観ることにした。
私たちが向かった先は荒尾レース場のメインスタンド。
私にとっては四月の入学以来久々のスタンドだ。
各所に昔ながらの雰囲気を残した建物には、普段よりもずっと多い人々が集まっていた。
人々のお目当ては一つ。スタンド各所に設置された大型ビジョンと、そこに映る煌びやかなトゥインクルシリーズのレース風景だ。
テレビ中継もネット配信もあるというのに、今でもこれほど多くの人が集まるのは、やはりレース場特有の雰囲気が人を呼び寄せるからだろうか。
スタンド一階、観客席の裏側に設置された一番大きなモニターの前に私たちは陣取った。古めかしい周りの風景から少し浮いた真新しいモニター。アオちゃん曰く前はブラウン管のモニターがあった場所に急ごしらえで据え付けたそうだ。
老若男女が食い入るように見つめる中、前のレースのリプレイを流していた中継映像が切り替わった。
画面端に「東京10R」の文字が映る。
『さあ、東京レース場第10競走、日本ダービーG1のパドックです!無敗の二冠ウマ娘誕生の瞬間を見届けようと、現時点で14万人以上のお客さんが押し寄せています!それでは出走各ウマ娘のパドックを見ていきましょう!まず入って来たのは一流ウマ娘の子、一枠一番…』
「すごい…14万人だって。」
「あらおよりなんにんおおいの?」
「えっと…13万9000人くらい?」
「もうちょっと多いよ!13万7000人差くらい!」
「変わんない変わんない…」
「でも一割くらいこっちに来てくれたらなぁ…」
「まあそれは…あ、来たよ!」
周りの人々がざわめく。
『さあ!本日の主役はこの娘を置いて他にいない!ここまで四戦四勝!支持率73・4%の圧倒的一番人気!三枠五番、無敗の皐月賞ウマ娘二冠なるか…』
凄まじく精悍な顔つきのウマ娘だ。透き通った光沢を放つ流れるような鹿毛の髪。極限まで無駄を省いた身体には、薄い皮膚の下に確かな筋肉を感じさせる。競走ウマ娘の理想形をそのまま形にしたような、ある種の芸術かと思わせるいでたちだ。
「綺麗…」
「うん…」
私もアオちゃんも思わず見惚れてしまう。
彼女もクラシック級という事は即ち私たちも来年にはあれ位になってないといけないのか…
そう思うと些か気が重くなる。
『…以上出走各ウマ娘、これより本バ場入場へと向かいます!』
「わードキドキして来た!」
「いやいやアオが緊張してどうするの。」
「だってきっとみんなそれぞれの夢をもってあの舞台に居るんだよ?それなのに勝てるのは一人なんだもん。…残酷だなって思うんだ。」
「それがレースってもんよ。水曜のアオ達もそうでしょ?」
「それは…そうだけど。」
「ほら、本バ場入場始まるよ。」
華やかな入場曲と共に誘導ウマ娘に率いられてウマ娘達が地下バ道から出てくる。画面に流れる空撮映像からは改めて夥しい数の観客が集っているのが見て取れた。
出走ウマ娘が揃い、スターターが赤旗を振ると聞きなじんだ関東G1ファンファーレが響き渡る。
やっぱりこのファンファーレは特別だ。
次々と各ウマ娘のゲートインが始まる。カメラは「あのウマ娘」を映しているが、よく見ると表情が少し険しくなっている。完璧そうに見える彼女でさえ、やはり緊張するのだろうか。
そして全ウマ娘のゲートインが終わると、
レースの祭典、日本ダービーのスタートが切られた。
――レースは皐月賞に続いて「あのウマ娘」がやや出遅れる形でスタートした。
スタンドの大歓声に送られて18人が駆けていく。
「あのウマ娘」は中団やや後方に控える形。向こう正面で隊列は縦長に変わっていく。
そして第三コーナーを前にして「あのウマ娘」が動き出す。
大欅を超えると大外からグングンと先頭を目指して突っ込んでいく。
横に大きく広がって最終直線へ突入すると最大外から軽やかに、されど力強く上がって来る。
そしてレースを引っ張って来た逃げウマ娘を残り200であっという間に捉えるとそのまま止まることなく突き放していく。
『内ラチ一杯!残り200を切りました!さあ上がって来た!二番手は離れた!大勢全く変わらない!このスピード!そしてこの強さー!!!』
向こうの観客が沸くと同時に、荒尾で中継を見ていたファンたちも大喝采を上げた。
『遂に決めた!久々の無敗の二冠ウマ娘誕生!そして!秋の京都へ「衝撃」は引き継がれます!』
「すっごぉぉい!!!」
荒尾レース場のスタンドに沸く大歓声に負けない強さでアオちゃんが叫んだ。
「うるさっ!急に叫ばないでよアオ!」
「だってあの走り…すごかった!今まで見たことない…すごかった!」
「語彙力消えてるし…」
「でも分かるよ。なんか走ってるというより飛んでるみたいだったよね。」
画面ではレコードタイの記録を示す掲示板が煌々と灯り、全く醒める気配のない興奮にレース場が満ちている。
ウィナーズサークルに一人の女性が現れる。名手と名高い「あのウマ娘」のトレーナーだ。
「あのウマ娘」は近づくと、トレーナーと固く握手をした。そして観客席に向き直り少し微笑むと、
指を二本立て、府中の空へと高々と掲げた。
刹那、スタンド全体がもう一度歓喜に沸く。
「いやーすごいね。あそこまで多くの人を盛り上げられたら気持ちいいだろうな~」
「だね。凄まじいカリスマ性だよ。あの調子だと三冠は確実だろうし。」
「いいなー!ミライもあれやってみたい!」
「あはは…確かに憧れるよね。ねえアオちゃん、荒尾にも三冠ってあるの?」
「あー…荒尾単独じゃないけど荒尾ダービー、九州ダービー栄城賞、ロータスクラウン賞で九州三冠ってのがあるよ。」
「ロータスクラウン賞は結構最近出来たんだよね。前の佐賀菊花賞時代なら一人だけ三冠獲った人が居たはずだけど。」
「そうなんだ~…ふーん…」
「…お、まさかケイちゃん狙ってる?三冠。」
「え!?いやまあやるからには狙ってみるのも悪くないかなって…」
「きついよ~?争うのは荒尾だけじゃなくて佐賀の子もだし、高知からも来るんだから。」
「そうかもしれないけど…でもやってみないと分かんないかなって。」
「ふふ、それならケイちゃん、まずは水曜日に勝たないとね。…でも、負けないよ。」
「アオちゃん…」
「私だって三冠獲りたいもん。ここは真剣勝負だよ、ケイちゃん。」
「ミライもー!ミライもゆびたてたい!」
「それならわたくしも欲しいですわ~」
「はは、皆すごいな~…私は出れるかな~」
「カナちゃんも目指そうよ!一緒にまずは『荒尾ダービー』で走ろう!」
「あはは…そうだね。…うん、考えとく。」
「よし!じゃあみんなでデビュー戦、がんばろー!」
「「「おー!」」」「お~」「おー。」
まだまだ騒がしいスタンドの中に、私たちのちょっぴり不揃いな掛け声が響いたのだった。
――そして、三日後。
まだ薄明の中、私たちは起き出す。
「ケイちゃん、起きた?」
「うん。昨日は早く寝たから大丈夫。」
「じゃあ着替えたら荷物持って行こう。」
「うん。」
手早く支度を済ませると、昨日から用意していたスポーツバッグを担いで電気を消して部屋を出る。
まだほとんどの生徒が寝ているこの時間の廊下は、いつもの賑やかさはなく静まり返っている。
暗い廊下を消火栓の赤と非常口の緑の明かりがぼんやり照らしていた。
あまり音を立てないように歩いて外に出る。
風が顔を撫で、潮騒が微かに鳴っている。今は満潮の時刻なのだろう。
別の寮から歩いてくる人影が数人見える。皆今日出走するウマ娘だろうか。
アオちゃんと並んで歩く。いつもと違い、言葉少なげだ。
まだ暗いレース場の中で、唯一明かりが点いている建物へ着く。
中に入ると職員の人が待っていた。
「本日の第三競走に出走するケイウンヘイローです。」
そう言って学生証を手渡すと職員さんは注意深く学生証と私の顔を見比べ、一回頷くと手元の紙のチェック欄に〇をつけた。
そして促されるまま奥へ向かうと、袋を持った別の職員さんが立っており、その人に携帯を預けた。
その後小部屋に通され、持ち物検査と軽い身体検査が行われる。
持ってきた検尿などもここで渡す。
そして医師の人からいくつか軽い質問を受け、終わると何かの書類に判子が押された。
特に問題も無かったようで、荷物も無事に返却され奥に通された。
そこはいくつかソファーが置かれた少し広い部屋だった。テレビや本、飲み物やお茶菓子なども揃っている。
その日に出走するウマ娘は、レース前に楽屋に移動するまでここで過ごす。
少し遅れてアオちゃんがやって来た。
「あ、アオちゃん。大丈夫だった?」
「うん。特に問題なかったよ。」
「そっか。それにしてもやっぱスマホとられちゃうと暇だね。」
「仕方ないよ。外部との連絡はご法度だし。」
「そうだね。あ、ニシノちゃん、ミライちゃん。」
アオちゃんの後ろから二人が入ってきた。
「おっはよー!きょうはよろしくね!」
「お手柔らかに…お願いしますわ…くう。」
「ニシノちゃん立ったまま寝ないで…」
「ほんとに!おこすのたいへんだったんだよー?」
「ミライちゃんは朝から元気だね。」
「うん!きのうからずっとわくわくしてたんだもん!はやくはじまらないかな~」
「12時だからまだ結構あるね。何かして遊ぶ?」
「うん!なにがあるかな~」
「アオちゃんもそうする?」
「うん。…そうだね。」
「…?」
アオちゃんの様子がいつもとは違う。元気がない…とは少し違った不思議な雰囲気を纏っていた。
ボードゲームで遊んだりテレビを見ながら過ごしていると、10時くらいになって待合室が騒がしくなってきた。
第一レースの出走ウマ娘達が移動を始める。外ではバ場を均すトラクターが動いていたり、音声テストが行われたり職員さんたちが準備を始めている。ちらほらとお客さんも集まり始めているようだ。開催日は授業は半休になるのでまもなく観戦の生徒たちも現れるだろう。
レース場全体がまるで動き始めたかのようだった。
「いよいよだね。」
「うん。」
相変わらずアオちゃんは言葉少なげだった。
「第一レースまで見れるかな?」
「丁度終わるかの辺りで呼ばれると思うからギリギリじゃないかな。」
「ああ、じゃあうちのレースは見れないんだ。」
「そうだね…って先輩!?」
気付いたら横にブラック先輩がいた。
「ケイちゃん忘れてたでしょ~。うちのレースはケイちゃんの一個前の第二レースだよ。」
「す、すみません。挨拶も忘れてて…」
「良いの良いの。そっちがケイちゃんが話してたアオちゃんかな?はじめまして。」
「初めまして。ブラックキャッスル先輩ですよね?」
「おお、まさか名前を憶えられてるとは。」
「先日の五月のレースを拝見したもので。」
「そっか~すごい記憶力だね。うち全然知名度無いのに。」
「荒尾で行われるレースは欠かさず確認しておりますので。」
「あ~じゃあ知名度自体は変わってないか。まあ、」
先輩はぎゅっとその手を握りしめた。
「うちは今日のレースから有名になって見せるけどね。…今日は行ける気がするんだ。」
「先輩…」
その時、第二レースの出走ウマ娘の招集が掛かった。
「うち行かなきゃ。多分三レースは見れると思うから。応援してるよ、ケイちゃん。」
「は、はい!お気をつけて!」
先輩は私に親指を立てると、振り返らず楽屋へ向かった。
「先輩今日こそ勝てるといいんだけど…」
「そうだね。…でもケイちゃん。…他人もだけど自分の事も心配したほうが良いと思うよ。」
「えっ?」
「ごめん、何でもない。そろそろ一レースのパドックだね。見えるとこ行こうか。」
「あ、うん…」
何でだろうか。
アオちゃんからこれ程のプレッシャーを感じるのは。
まだまばらなお客さんの中で、第一レースのパドックが始まった。
荒尾レース場のパドックは中心に大きなクスノキが生えた楕円形で、楽屋の出口に小さなステージが置かれそこでお披露目をする。
私たちは建物の三階からその様子を遠目に見守る。
羽織ったジャージを脱ぎ捨てそれを自分で回収する謎の文化はここでも健在だ。
さっきから流れるどこか昔ながらの威勢のいい音楽は、荒尾レース場の入場曲である「田原坂行進曲」だ。
何十年前に録音したのかは分からないが、かなりノイズが入ってお世辞にも音質は良くない。
出走ウマ娘が姿を現すとともに拍手と数人からの歓声が上がる。
しかし観客も少なければ出走ウマ娘も少ない。第一レースは八名立てだ。
そして全員のパドックが終わると整列して観客に一礼し、スタンドと私たちが居る控室のある管理棟の隙間のバ道を通って本バ場へ向かう。
「あ、行っちゃった。移動して見る?」
「いや、多分…」
アオちゃんがそう言った途端に、職員さんが控室にやって来た。
「第三レースの『ストロングガール』に出走する子~!楽屋行かんね~!」
「あ、行かないとね。」
「うん。」
私はソファーに置いていたバッグを手に取り階段を下り始めた。
着替えなどを行う楽屋棟はパドックに面した場所にある。管理棟の一階とも繋がっており、そこでレース前、レース後に公正を期すため検量を行う。
楽屋棟には少人数用の部屋が一つと大部屋が二つあり、招待競走などのウマ娘は小部屋に行くが私たちは大部屋だ。
廊下を歩いていると丁度先輩が出ていくところだった。
声を掛けようかと思ったが、いつになく真面目な表情を見て止めておく事にした。
外の方で歓声が上がり始めたので恐らく第一レースが始まったのだろう。
適当な席を見付けてバッグを置き、着替え始める。
トレーニングで使うものではない、レース用の色分けされた体操服。事前に伝えていたのでサイズはぴったり合う。
シューズもトレーニングでは滅多に使わないアルミ製の蹄鉄付き。やっぱりレースともなると何もかも特別だ。
ふと隣のアオちゃんの方を見ると、珍しく髪を結っている。それもアオちゃんが滅多に身に着けない赤色のリボンだ。
「アオちゃん、赤なんて珍しいね。」
「うん。これはクラブに居た時地域の人たちから貰ったんだ。荒尾と私をつなぐ、大切なリボン。」
そのリボンは夕日のように燃えるような赤に染め上げられ、柔らかなな光沢を放つ、巷で売っているような物とは明らかに違う逸品だった。普段のおしとやかで優しいアオちゃんのイメージとは対極に近い、情熱的な雰囲気を感じさせる。
私のリボンと同じ、大切な物なのだろう。
アオちゃんはそのリボンで普段はワンサイドアップにしている髪をツーサイドアップにした。
それなら私も気合を入れようと思い、荷物の中から一本白いリボンを取り出す。母親に貰った物で、私の宝物であるネイチャさんのリボンと比べたら特に何てことない物だ。
手早く肩まで伸ばした髪をポニーテールに纏める。
「よし!」
私は自分の頬をパチンと叩いた。
その時、扉が開いてウマ娘達が入って来た。同じ楽屋を使っている第一レースの出走ウマ娘達だ。
一着のウマ娘はまだインタビューやら色々あるので、今帰ってきているのは負けたウマ娘達。
明らかに悔しそうな顔をする人、意に介さずという顔で早々に着替え始める人、涙を流して他の人に心配されている人と千差万別だ。
スペースを空ける為私たちは廊下に出る。すると、そこにはトレーナーさんが立っていた。
「あれ、トレーナーさん。先輩見に行かなくて良いんですか?」
「いや、顔を見に来ただけだ。すぐにブラックの方へ行く。どうだ、緊張はしてるか。」
「少ししてますけど、大丈夫です!一着を獲って帰ってきます!」
「そうか。…ケイ。お前に伝えておこうと思う事がある。」
「はい!」
「おそらくお前はこのレースで色んなことを学ばされる事になる。結果とは関係無くだ。だからレースが終わったらその事を冷静に分析しろ。自分だけでなく、このレースに関わる全ての事象についてだ。そして次に繋げ。決して考える事を止めるな。それだけだ。」
「…はい。」
レース前の激励にしては余りにも消極的な物だった。それどころか私の勝利を信じていないような節さえある。トレーナーとしてはウマ娘を信じるものでは無いのだろうか。
「じゃあ後は頑張れ。俺はスタンドで観ている。」
「…ありがとうございます。行ってきます。」
トレーナーさんはそのまま行ってしまった。
何だかパッとしない送り出しだ。それに髪型を変えている事に少しは触れて欲しかったとも思う。
「第三レースの子達!準備の出来とらすけん検量室行かんね!」
「はい!」
そう言われて管理棟の方へ向かう。これが終わればいよいよパドック、そして出走だ。
『さあ続いて荒尾三レース「ストロングガール」、ジュニア級メイクデビュー、800mで争われます。出走ウマ娘10名のパドックをお伝え致します。まず入ってまいりましたのは一枠一番ムツミゴールデン。八番人気、チーム「アゼリア」所属です。――続いて入ってまいりましたのは二枠二番デコトラ。二番人気、チーム「ヤマフジ」所属…』
パドックでお披露目があっている間、後ろで待つウマ娘はどうしているのかという些細な疑問を、私自身が身をもって知ることになるとは思わなかった。こんなにも退屈だったのか。
私たちは縦一列になってパドックに出るのを待っていた。
私の枠順は八枠九番。即ちほとんど一番最後だ。後二、三分は掛かるだろう。
次がミライちゃんの番だ。
『その次三枠三番ミライエイゴウ。四番人気、チーム「ロータス」所属。』
「やぁー!」
ミライちゃんは笑顔で出ていくと元気いっぱいにジャージを脱ぎ捨て…勢いあまってパドックの外まで投げてしまった。
その様子を見て観客の人々は微笑ましそうに笑っている。
「あ、おかーさーん!ミライがんばるねー!」
ジャージを拾ってもらった直後に母親を見付けたらしくミライちゃんは笑顔で手を振る。
観客側で少し恥ずかしそうに手を振り返すウマ娘がきっと母親なのだろう。
「何だかミライちゃんらしいね。」
「そうだね。」
結局アオちゃんの口数が増えることは無かった。どうしてなのか聞きたいような、聞いたらまずいような気がしてもどかしくしていると、
「…ねえケイちゃん。」
「何?アオちゃん。」
久々に向こうから話しかけてきた。
「――私、『本気』で行くからね。」
「え?…うん。」
「それだけ。良いレースにしようね。」
「…うん!頑張ろうね!」
アオちゃんはそれ以上何も語らなかった。
『続いて七枠八番ブルーアラオ!圧倒的一番人気、チーム「ハナフブキ」所属!』
そう紹介されると、アオちゃんは堂々と歩きだし、ふわりとジャージを投げるとポーズを決めた。
途端に観客が今までにないほど湧きあがり、次々に声援を送った。
「アオちゃーん、がんばらんねー」
「みんな応援しとるけんねー!」
アオちゃんはニコッと会釈して歓声に応えるとジャージを拾って段を下りる。
メイクデビューだというのに凄まじい人気だ。流石は地域から愛されて育ったというだけはある。
でも、私は負けるわけには行かない。一番人気は要らない。一着が欲しい。
タイミングを見計らって遂に私もパドックに出る。
『続いて八枠九番ケイウンヘイロー。五番人気、チーム「ヤマザクラ」所属。』
観客からはまばらに拍手が上がる。
これは想定内だ。なにしろ私はここではまだ無名に等しい。これからあっと言わせて見せるのだから。
何かパフォーマンスでもするかな。
そう思った私は、パッと思いついた右腕を高く掲げ人差し指を立てるポーズをとった。
一般的には一着予告を表す為よっぽど自信が無いと行わないのだが、このレースなら行けるという自信が後押しした。
ジャージを拾ってそそくさと段を下りる。
『最後に、八枠十番シラヌイヒメ。同率二番人気、チーム「サツキ」所属。以上10名で争われます。発走まで、今しばらくお待ちください。』
こうして全員のパドックが終わり、本バ場入場まで待機となる。第三レースともなるとお客さんも増え、ようやくパドックの周りには人垣と呼べる物が形成されてきた。辺りを見渡せば精神統一しているニシノちゃんのような子もいれば観客に愛嬌を振りまくミライちゃんといった子もいる。ここでも個性が出るものだ。
アオちゃんの方を見れば応援の声に少し照れくさそうに手を振っている。私にもいつかあんな風にファンが付くのだろうか。
改めて人気順を確認する。パドックの隅の二階建ての小屋の二階に黒板が出され、そこに私たちの名前と人気、所属チームが書かれている。一番人気はアオちゃん。今でさえこれ程の歓声を浴びているのだから当然だ。
二番人気が同率で二人、実力トップクラスと噂されるデコトラちゃんとシラヌイヒメちゃん。
三番人気が無くて四番人気がミライちゃん。アオちゃんと同じくこちらも前評判が効いているようだ。
その次が私。無名の割にはわりかし人気した方では無いだろうか。その後はニシノちゃんが七番人気などで続く。
このメンバーに勝つ為にはやはり逃げしか無いだろう。地方レースに共通した事であるのだが、地方レースは大体逃げ先行決着で終わることが多い。単純なスピード勝負になって差し追い込みが決まることが少ないのだ。大外枠で多少不利なのもあり、序盤から飛ばして逃げ切るしかない。ここまで秘めに秘めた私の本気を見せつけるんだ。
そうこう考えていると、腕時計を見ていた職員さんが大声を上げた。
「入場用~意!」
私たちはすぐに観客の前で一列に並んで礼をすると、観客の拍手と入場曲に送られて本バ場入場を開始する。
建物の間の狭いバ道では私たちの足音が幾重にも反響する。どこか四本足の生き物の足音のようだった。
まるで縦長の窓の様に空を切りとったバ場側の出口へ、私たちは進んでいく。
ここから私の戦いが、始まる。
『先日のダービーは、皆さまご覧になりましたでしょうか。昨年デビューしたまだ無名だった若駒が、見事歴史に名を刻む英雄となりました。どんな運命をたどるウマ娘であっても、この瞬間、このスタートラインだけは平等です。この舞台からも、未来を担う新たな伝説が生まれるのかもしれません。なればこそ、今ここに居る者として、その幕開けを見守ろうではありませんか。さあ、荒尾レース場第三レース、URA認定ジュニア級メイクデビュー「ストロングガール」、今年度最初のメイクデビューに挑む10人の若駒達の入場です!』
「「ワアアァァァ……」」
少ないながらも確かな歓声が、荒尾レース場から有明海へと響き渡った。
「トレーナーさん、ここにいたんだ。」
観客席の最前列に居た菅原の下に、ブラックキャッスルがやって来た。
「ああ。やはりレースを見守るならここに限る。…そうだ、初勝利おめでとう、ブラック。」
「ありがと~。一年かかってやっとだよ。二回も転校しちゃったしさ。」
「関係ないさ。未勝利と一勝は大きな違いがある。一勝さえすれば未来があるんだ。」
「まあそうだけどね。それにしてもみんな初々しいね~。思い出すな。うちは旭川だったけど。――ケイちゃんは行けそう?」
「…バ場は良だが枠順は外枠、800mの超短距離戦。スタートダッシュ次第になるだろうな。」
「でも荒尾って3、4コーナーは結構広いからまだチャンスはありそうじゃない?実力だってあるんだしさ。」
「ここに出てきている以上全員現時点で戦えるレベルに仕上がってるという事だ。実力は拮抗と考えていい。」
「じゃー結局どう転ぶか分かんないって訳か。」
「ああ。…あいつが妙な事をしない限りはな。」
ブラックキャッスルが怪訝な顔をして菅原の方を見たが、彼はそれ以上何も語ることは無かった。
『――七枠八番ブルーアラオ、一番人気です。クラブ時代からここ荒尾の人々に絶大な人気があり、「勝って、感謝を皆さんに伝えたい」と事前インタビューでは応えてくれました。見事、期待に応えられるでしょうか。所属チームは「ハナフブキ」です。』
『続いて八枠九番ケイウンヘイロー、五番人気。はるばる東京から荒尾にやって来た来訪者。「たくさんの人に愛されるウマ娘になりたい」と答えた彼女は、その第一歩を踏み出せるでしょうか。所属チームは、「ヤマザクラ」です。』
コースに入った私はスタート地点までウォーミングアップを兼ねて返しウマを行う。相変わらずさらさらした砂質だ。始めて走った時はびっくりしたものだ。先に入った子達も、続々とゲート裏に集まり、思い思いのアップや精神統一をしている。
ゲート周りでは発走委員や発走担当の職員さんたちがたむろして声掛けをしあっている。ゲートが開かなければ最悪競走中止になるので慎重に最後の確認をしているようだった。
「そっち大丈夫かー!?」
「問題なし!」
「パトロールタワーから準備完了の連絡!」
「はーいオッケー!枠入り始めるよー!」
「奇数番の子から入ってきてー!」
職員さんに促されて奇数枠の私たちがゲートに入る。
何度入っても思った以上に閉塞感がある。もうちょっと何とかならないものなのだろうか。
時を同じくしてなんだか偉そうな恰好をしたスターターが乗ったゴンドラが上がり、赤旗を振った。
観客席の方から明らかにシンセサイザーで構成された、なんだか安っぽい印象を受ける荒尾レース場の一般ファンファーレが鳴り響いた。
『各ウマ娘、順調に枠入り進んでおります。偶数番の四番ディアブロオーカン入って、六番のラジャーカナも収まります。続いて八番ブルーアラオ。最後に大外十番シラヌイヒメが入れば、ゲートイン完了です。』
改めて前を向く。
一瞬開いた曇り空から漏れた初夏の陽光に照らされ、白く輝いたダートが真っ直ぐに続いている。
私の未来へ続く、最初の道。この先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない穢れ無き純白の道。どんな色にだって染められる。
作戦は逃げ。誰も来ないようなら大逃げで行く。
鼓動が高鳴る。闘志が漲る。スタートダッシュに備え思い切り重心を低くして、つま先をダートに踏み込む。
『10番シラヌイヒメ、ゲートに入って係員離れます。…体制完了!』
その時、潮風が吹いた。
南から吹いた潮風が、私の体を押すように、耳元で囁くように、吹き抜けた。
重い金属音と共に、視界が開ける。
体勢を最前傾に持って行き、踏み込んでいた脚で思い切り大地を掻き込む――
筈だった。
「えっ。」
力んだ脚がダートにめり込む事無く表面で滑り、
視界一杯に地面が映り込んだのは、その瞬間だった。
『スタートしました!ややバラついたスタート、まず飛び出していったのは二番のデコトラ。続いて八番のブルーアラオが続いて先頭争い…』
「えっ!?ちょっとトレーナーさんあれ大丈夫なの!?」
スタートの瞬間、ケイウンヘイローは大きく体勢を崩してあわや転倒という所まで行った。
「失策だな。あんな前傾姿勢で走ろうとしたのが裏目に出た。」
「えっ…どういうこと?」
「荒尾レース場のダートは非常に粒が細かく固いバ場だ。他のレース場のダートとは訳が違う。分かるか?」
「そりゃ走ってるから分かるけど…それとどういう関係が?」
「今までダート界で名バと呼ばれてきたウマ娘には共通項と言ってもいい物がある。それが走法だ。まるで水を掻くように脚を深く地面にめり込ませ、体勢を極限まで前傾に持って行き、脚のパワーを限りなく全て前方向への推進力に変換する。並外れたパワーと体の柔軟性が可能にするダート走法の究極形だ。」
「じゃあさっきのケイちゃんの姿勢はむしろそれに近いじゃん。なのに何で…」
「あいつは形を真似ただけだ。恐らく過去にどこかで目にしたんだろう。だがそれを可能にするパワーがそもそも足りていない。そして更にここで荒尾の特徴が関わって来る。きめ細かく固い砂はグリップ力が低く脚がしっかりめり込まない。前傾で走ろうとすると表面を掻くだけになるんだ。…本来は自分で気付いて最適な走法を見付けるものだが。ブラック、あいつは練習中にどんな姿勢で走ってた?」
「…どちらかと言うと直立に近かった。」
「そうだ。あいつはあの走りを試していない。秘匿して本番で披露するトリックスター気取りだったのかもしれないが、テストもせずに本番で行けると自分の力を過信しすぎた。慢心だな。」
「そんな…ならトレーナーさん、何でケイちゃんに言ってあげなかったの…?」
「俺自身この結論に辿り着いたのはここ数日だ。再調整するには手遅れだったし、あいつの無根拠な自信を壊すにはこれくらいが丁度いいと踏んだ。」
「…」
「どっちにしろ、スタートダッシュに失敗してハナを奪えてない。動きも悪いし大外なのに今の時点であの位置。それに…ライバルが強力すぎる。あいつの勝算は…もう、無い。」
そう言うと、菅原は再び黙り醒めたような、でもどこか悲しそうな目でレースの行方を見守った。
「ケイちゃん……」
失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した!
かろうじて脚が前に出たため、転倒を免れた私はどうにか身体を立て直し走り始めた。
どうして!?なんで踏み込みが上手くいかないの!?
もう一度やり直そうとも思ったが次やったら転倒するかもしれないと考え、同じようには出来なかった。
まずい。作戦が完全に破綻した!ハナを切る筈だったのに全然前に行けない!
それどころか私…一、二、三…四番手!?
これじゃ逃げどころか…先行だ!
先頭を突き進むのはデコトラちゃん。噂には聞いていたが信じられない快速だ。まさかあんなに速いなんて。
そして二番手を追走するのは…アオちゃんだ。凄まじく軽やかで綺麗なフォームで走る。それでいて、こんなに速いなんて想定外だ。あの謙遜は何だったのだ。
そして三番手はシラヌイヒメちゃん。デコトラちゃん以外は大外の三人で先団を形成している。
とにかく前に行かなければならないが、肝心の速度が全然出ない。
直立姿勢で走っているため、練習でやった通りの八割の力しか出せないのだ。
あっという間に第三コーナーの緩やかなカーブに差し掛かる。外側のシラヌイヒメちゃんが切り込んでくるので迂闊に前に出れない。みるみるうちにスタンドと歓声が近づいてくる。まずい、荒尾の最終直線は200m強しかないのに!
私がまごついていると、前方で動きがあった。
「やあああぁぁぁっっ!!!」
アオちゃんがもうスパートをかけた。コーナー中間で外側からデコトラちゃんに並びかけ…ない!抜き去った!
先頭が変わった。アオちゃんはそのまま遠心力に抗って最短のロスで美しい弧を描くように内ラチ側に切り込む。
なんてスムーズな軌道なんだ。手慣れている。コースの特性を完全に熟知している。
――そうだ、当然だ。荒尾で生まれ、荒尾で育ち、あまつさえ名にまでその字を刻むブルーアラオ。
子どものころから数百数千と走った経験が脚に刻まれてるんだ。
何がメイクデビューだ。こんなの…ベテランとビギナーの戦いじゃないか。
為すすべもなく最終直線の入り口に突入する。完全にアオちゃんが先頭に替わり加速を止めようとしない。私はまだ四番手だった。
その時、前を進んでいたシラヌイヒメちゃんの進路が小さく外に膨らんだ。
遠心力に抗えず外に弾かれたようだった。
進路が開いた。ここしかない。すかさず切り込む。
「うらあああぁぁぁ!!!」
どうにかスパートをかける。脚は空転気味だが無理にでも前傾にする。
まだだ。まだ終わってない。残り220m。まだ敗北が決まったわけじゃ…
そう思って前を見ると、そこには、
「うそ…でしょ…」
二バ身程前を行くデコトラちゃんと、その遥か先を進むアオちゃんの姿があったのだった。
『さあ最終直線!ブルーアラオだブルーアラオ!完全に抜け出した!脚色は全く衰えない!二番手デコトラ、必死に追いすがるもグングンと突き放されていくー!』
「ケイちゃん…もう…」
ブラックキャッスルが諦めの声を漏らし、菅原はそっと目を伏せた。
『差が五バ身、六バ身と開いた!これは一人モノが違う!二番手がデコトラ!二バ身離れてケイウンヘイローか!』
必死に追う。今までにないほど全力で脚をひたすら回す。しかし、届かない。差は全く縮まる気配すらない。
「くそっ!くそぉっ…!」
いやだ。負けたくない。なのに、届かない。
甘かったんだ。見通しが全然出来てなかった。それどころか…私はアオちゃんの、他のウマ娘の走りを一度でも真剣に見たことがあっただろうか。速いと聞いていたのに実際のデコトラちゃんの走りを一度でも見ただろうか。
二か月もの間アオちゃんの一番近くにいたはずなのに、私は一体何を見ていたのだろう。
二番手にすら競りかけられない。それどころか三番手をキープするのでやっとだ。
残り50を切った。もう絶対に届かない。
観客の割れんばかりの歓声は、前を行く後姿にのみ注がれる。
何が一着を獲るだ。散々啖呵を切って結局何も出来なかったじゃないか。
これが、荒尾のウマ娘か。
悔しさと不甲斐なさと恥ずかしさで泣きそうな今の私はきっとひどい顔をしているだろう。
遥か遠くを行く友の背中を見る。躍動した栗毛の髪が陽に透けて金色に煌めく。
その時アオちゃんが一瞬後ろを振り向き、私と目が合った。人形のような童顔と、南国の海のような色をしたまるで宝石のごとく輝く双眸が向けられる。それはまるで見たもの全て一撃で恋に堕とすような、危険なほど穢れ無く美しい碧だった。
私は釘付けになった。そして、
「綺麗だ…」
私の口から咄嗟に出たのは、そんな言葉だった。
その瞬間、彼女は会場を完全に支配した。誰もが見惚れ、彼女の虜になった。
空を薄く覆っていた雲に切れ間ができ、まるで彼女の為かのように蒼空を見せ、その色を海は映し吸い込まれそうな群青に染まった。
三つのアオが織りなす刹那の芸術は、まるで奇跡のようだった。
『八番ブルーアラオ、先頭で今ゴールイン!二着デコトラ、三着はケイウンヘイロー!』
そしてその美しき輝きの影に呑まれるように、
私は敗北したのだった。