長らくお待たせしました!
次回、おそらく未完最終回です。読者の皆さんには本当にお世話になりました。ありがとうございました
物が焦げた匂いは、あまり好きじゃない。不快なものに包まれるというのは堪らない屈辱にも似ていた。隆二は煙を吸い、立つこともままならないまま這いずってヒノマルの許へと進んだ。そして残る体力で携帯電話をかけた。
そしてツーコールもしないうちに彼は出てくれた、
「もしもし僕だ。リュージ、何かあったのか?」
悠一は心配の声をあげた。だが返事は返ってこない。声を大きくしても隆二は何も喋らない、いや喋れない。ただ上げるのは咳き込む音だけ。悠一も只事ではないとすぐに悟った。
「リュージ、家にいるのか? 僕が今すぐ向かう!」
「いや、待って……」
やっと隆二は声を絞った。本当に弱々しく、老いぼれのような枯れた声だった。
「俺よりも、ヒノマルだ。もし俺に何かあったら、その時はって頼んだから」
「リュージ、まさか……ッ諦めるな!」
だがリュージは悟ったような目で電話を切り立ち上がる。せめてヒノマルが火の手に晒されないように、遠くに運びたかった。だが力が入らない。視界もぼやけている。それでも動こうとした。
だから彼はぎゅっと抱きしめた。我が子を守るために力いっぱいに、わがままに抱きしめた。
「こんなところで、か。ごめんね。ちょっと疲れて眠るだけだから……一緒に、生きたいから」
それが最期の言葉になった。そしてヒノマルの耳に、奥底にべったりと焦げついた。
◆◆◆
父の最期の言葉は忘れられないもの、忘れてはいけないものだった。いつしかそれは呪いに転じてヒノマルを閉じ込めてきた。「一緒に生きたい」という言葉は父を求めさせ、彼をその許へ行かせる死へ近づけさせるには充分だった。
だがある日、それはヒノマルの原点となるレースで綻び始めた。そして今に至り、生きたいと体が、魂が叫んでいる。ゆえに彼は外の世界へと飛び出して己の名前を残したいとまで欲求を取り戻すことができた。やっと歩き出すことができたのだ。
焦げついた思念は簡単には剥がれなかった。だがあの日のことを思い出し、そして今を積み重ねた。もう縛るものなどない。あとは魂の思うままに進むだけだ。
「そうか。俺は愛されてるいたのか」
不思議と涙は出なかった。代わりに笑みが溢れた。ヒノマルはなんだかおかしくなってぷくぷくと笑い出した。
「うん。ありがとう父さん、俺を守ってくれて。この傷は罰なんかじゃなかった。父さんの最期を思い出すための、鍵だったんだ」
窓を開けて風を浴びる。もう湿っぽい匂いはしなかった。山の香りを連れた実りを感じる風だった。
そして数日後、ヒノマルはジャージに着替えて砂浜に立つ。
「センジンヒノマル、復帰しました! 迷惑かけてすみませんでした!」
「おう、ほんと心配させやがってよ」
「全く怪我を嘗めるなと言っただろう」
「暴走しないか心配デース」
「んっ」
お出迎えをしたのは総スカンだった。
それはともかく、驚異的な回復力により脚の怪我もおおむね治り復帰宣言が出た。やっとみんなと一緒にトレーニングできる。そう思うと心が躍って仕方なかった。ヒノマルは笑顔でチームメイトの許に走り出した。
「それじゃあヒノマル、遅れを取り戻すぞ」
そして徹底的な扱き。トレーニングに次ぐトレーニング。遠泳に砂浜ダッシュ、筋トレにビーチフラッグときどきクイズ大会。必要性を問いたくなるメニューもあるがこれをより濃くされたメニューをヒノマルはなんとかこなした。
それが終える一週間後、彼は最初の元気はどこへやら。すっかり消沈していた。
「すっかりやられてしまってるねぇ。ちゃんと休息はとっているかい?」
「も、もちろんです、タキオンさん。言われた通りのストレッチもやってます」
「過不足は?」
「ありません」
「よろしい」
そして現在タキオンによる健康診断が行われていた。結構圧がすごくて謎の薬も飲まさせるため人気はないが、怪我をしたヒノマルには拒否権がない。渋々、というほどではないが抵抗を残しながら彼はそれを受けた。
しばらく検査をしていると前の戸が開いた。現れたのは見知った段ボールの謎の被り物、エレジーだ。
「いや突然入ってきてなんのようですか」
「ヒノマル、君は一皮剥けたようだ。目を見ればわかる。約束通り、私の全てを話そう」
すると被り物はタキオンに預けられ、隠された素顔はあらわになった。そこには短く切り揃えられた髪に左頬にある大きな傷、そして剃刀のような目が美しい端麗なウマ娘がいた。
「エレジーさん、その傷は……」
「私が初めてレース中に転倒した時の傷だ。二度と消えないらしい」
そして彼女は左頬を撫でた。その時の瞳は虚。なにも映さずそこにはなにがあるのだろうか。タキオンもヒノマルもただ沈黙を守っていた。
「そろそろ話そうか。あれは──」
「待ってください!」
「ん、ヒノマル?」
「まだ、大丈夫です。その傷のこと、話してくれてありがとうございます。俺もエレジー先輩と同じで傷があって」
そして彼はトレセンに来て以来初めて誰かの前でずっと来ていたインナーを脱いだ。あらわになった傷に二人は目を見開く。そしてエレジーの顔色が青くなった。
「まあ、見て気持ちいい物じゃないですよね。すみません。でも知って欲しかったんです、俺の原点。みなさんを心から信頼した証として、本当にいつもありがとうございます」
ヒノマルは二人へ心からの笑顔を見せた。
それからいくつか日にちは進み、夏合宿も終わりが見えた。練習は終わったが今日という日はまだ終わらない。
「ヒノマル、着付け手伝ってくれ」
「任せてくれ、きつくないか?」
「大丈夫だ。まだそんな腹は出てねぇ」
私服の甚平に着替えたヒノマルは木場の帯を締める。彼の私服には和服も何個かあるため手慣れた作業だ。
なぜこのように着替えているのかというとそれは近くで夏祭りがあるからだ。合宿で頑張った分、学園関係者の何割かはそこに行き、パーチももちろん楽しむタイプだ。
「これで終わりだ。うん、似合ってるよトレーナー」
「ありがとな。おまえも良いもん持ってんなぁ。若いのにそんな服、まあまあ高かったろ」
木場は甚平の裾を持ち上げて聞く。
「そうだな、一万円とちょっとだった」
「そうか……出してやろうか?」
「いやいらない。レースの賞金で買った物だしあんまり痛くはなかった」
レースに勝つと当然のことながら賞金が出る。とはいえ学生身分にとってはあまりの大金のためほとんどがトレーナーに支給される。だがパーチのメンバーは普通のウマ娘よりも多くの金額を渡されている。これは木場の計らいで彼曰く「走ったのは本人だし、そりゃ報酬出さなきゃやってらんねぇ」とのことらしい。
それもあってヒノマルは割と手軽に服を買い足せるほど懐が暖かった。甚平も何着もあり人にも貸せるほどある。
「そろそろ女子陣もいい頃合いだろ。見てきてくれ」
そう言われたのでてくてくと女子部屋に向かう。やはり夏祭りに行く者が多くすれ違うウマ娘たちは色とりどりの浴衣を着ているものもいる。中にはジャージのままやただ私服の子もいて、ヒノマルは「それも青春か」と横目に流した。
部屋の前に行くと不思議な緊張に包まれる。目の前にはチームのみんながいる。だが普段とは違う姿で……などと妄想するとやはり緊張する。女性に対する免疫はできたつもりでもやはり接してきた時間が短い、要するに不安だ。
意を決して戸に触れて呼び出そうとする。
「ヒ、ヒノマルですが。入っていいですか?」
裏返って変な声が出た。我ながらなんと気持ち悪いかとヒノマルが自己否定に入りそうになると奥からどうぞと呼ばれる。一安心するとそのまま戸を開けた。
すると目の前にすぐ入ったのは太陽のように明るい赤。
「どうだいヒノマル君! なにか一言かけてあげなよ」
おめかしをされたエルだった。真っ赤な浴衣に相性のいい帯を可愛く結び髪も普段とは違いお団子に結われている。他の二人は特に何もない状況からおそらく、囲まれておめかしをされたのだろう。ヒノマルはそう結論づけた。
頭の中でそんなことをしているとエレジーが寄ってきて誰にも聞こえないくらいの声で耳打ちをした。「早よなんか言えや」と。そして彼は思い出しかのように言葉を紡ぐ。
「あ、えっ、その……」
だが彼はめんどくさい。ここで素直に褒めていいのかと邪推してしまう。だがその姿を賛辞したい。心が二つある状態での結論は──
「と、とても似合って綺麗だ!」
逃亡しながらの褒め言葉であった。
そしてヒノマルが知るよしはないがこのあとエルの顔は着物に負けないくらいの色になったのだ。
◆◆◆
逃げる様に戻ってきたことを木場に問い詰められ弄られ、女子陣と合流してもまた同じこと。若干気まずい空気の中、パーチの五人は夏祭りへと向かった。
ヒノマルにとっては初めての祭囃子だった。五感全てで味わうそれらは彼を酔わせるには充分だった。
「祭りだっつーのに体調崩しちゃ世話ねぇな」
「はぁ、すまんトレーナー」
ひとまず人気のなさそうな神社の階段前に移動して彼を休めていた。
「いいって、いいって。それじゃエル、悪いけどこいつの様子見といてくれ。なんか買ってくるわ」
「は、は、ハイ! 了解デス!」
さっきから会話の一切なかった二人が並んでもどうすることもできない。ただエルはヒノマルの隣に座りじっとしている。雑踏の中で消え入りそうなこの空気は、なんとももどかしい。
「エル」
「あの」
二人の声が重なった。きっと譲り合うことになるだろうからヒノマルはおもむろに声を出した。
「もしかして怒っていたりする?」
「……ケ?」
「いや、俺があの時──呼びに行った時に発言したことが気に触れたかなぁ、なんて思って。実際どうなのかわからないから」
思いっきり逃げてしまったあの瞬間。もっと正面からむかえればよかった。その
「アハハハ! 違うデスよ、ヒノマル。エルは怒ってませんし、むしろ嬉しかったです」
「本当か!? よかったぁ……でもごめん。褒め言葉の一つや二つぐらい、ちゃんと言えばよかった」
「ッ、べ、別にエルは構いませんよ! だって、だって──」
顔を真っ赤にさせていた。なんて言えるわけもなくまたもどかしい雰囲気になる。数秒が十秒にも感じる、そんな感覚だった。そこにたけを割ったようにエルは声を上げた。
「どうかしたか?」
「ヒノマル、やっぱりエルは怒ってるデス」
「えっ、そんな……でも何に?」
「アタシ以外のチームの人にはありがとうって言ったのにアタシだけは何もないなんて、どういうことデスか!? それは許せないデース!!」
「あ、それは……」
ど忘れ。完全など忘れである。これほどまでに失礼な男がいて良いのか、いや良くない。だが言うタイミングがなかったといえばなかった。
彼は遅れを取り戻す為にかなり忙しかった。タキオンとエレジーも偶然隙間ができたから話せたのであって、そう言う意味では仕方ないとも言える。
「これにはワケが……!」
「ワケがあっても許さないデス!」
とはいえ失礼なのはそうだ。ヒノマルは言い訳をやめて向き合った。
「そうだなぁ。エルには私生活でも世話になったし、同期ってことで仲良くしてきたし、本当に。ありが──」
だがここでヒノマルは止まった。
「ヒノマル?」
本当に言うべき言葉はそれなのか。そうではない、きっと別の言葉だ。それに気づいた彼は頬を叩き、立ち上がった。
「俺は、あえてありがとうを言わない! きっとこれからも感謝するだろうし、それにこんな関係じゃない。『負けてなんてやるものか』! きっとこう言うのが正しい。
俺はエルと違ってGⅠ取ったりしてないけど、目指すところも違うけど、負けたくない! 同じバ場を走ることが無くても、ライバル同士だ! だから負けてなんてやるものか! これが正しいんじゃないかって、思うんだ」
心の底からの闘志だった。轟々と燃えるそれはまさしく
「だからエル、悪いけどありがとうは言えない。本当にごめん」
「……いいえ、ヒノマルがアタシのことをそこまで思ってくれていること、とっても嬉しいデス!」
思わず頬がほんのり朱に染まる。普段は見えないようなその顔を見たヒノマルに電撃が走った。頭にハグが発見されたような気持ちになった。そして暴走した彼はエルを抱きしめた。
「──ッ! ヒノマル、なにしてるの!?」
そして良いのか悪いのか、彼が帰ってきた。
「おー、盛大にいちゃつきやがって。こりゃほっといていいんじゃねぇか」
「ちょ、トレーナーさん助けて! トレーナーさん!」
エルの可愛い絶叫がこだました。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎は黙って見ていた。
「ふふ、どうやらいい方向に舵が向いたか。流石は──」
彼は大人しく沈んでいった。