天皇賞・春の翌日、遂に叶えたGⅠ勝利。その栄光を祝して鍋パーティーが行われる。
ヒノマルはこの団欒の時間が嫌いではないがいつも疑問に思うことがある。
「いつも鍋をするが……なぜ?」
「なぜって、君ぃ、鍋は野菜、肉、炭水化物も食べれる完全栄養食だからじゃないか」
「どんな季節でも美味い」
「いやそうじゃなくてですね、先輩方」
「まあ、あれだよ。一品料理よりこう、囲むのがいいだろ!」
それぞれ口々にあーだこーだとがやがやする。こういう空気になれば必然的に論争もヒートアップするが、そこに嫌悪などの悪感情はない。ただ無遠慮に語り合う。
ヒノマルはそんな雰囲気が大好きになった。昔の彼ならこのように他人と話せるなんて思いもしなかった。きっと寂しいとも思いもしなかった。それを変えてくれたみんなには感謝してもしきれない。
とはいえ、なにも言わないのは筋が通らない。彼は咳払いをわざとらしく二回繰り返した。
「では改めてだが……みんな、本当にありがとう。自分に迷ったこともあったけど、みんなの助けでGⅠという一握りの栄光もつかめた。
俺のやりたいことがこんなにも実現したこと、うれしく思う。本当に──ッ」
言葉が喉に引っかかる。別に感謝を言いたくないわけではない。目の前に自分より感動してるトレーナーに驚いてしまったのだ。
これにはエレジーもタキオンも呆れて手を上げてしまう。
「コノヤロー! ほんとに心配させやがった野郎だぜチクショウ!」
鼻水たらして泣きじゃくりながらヒノマルに迫るその姿、いくら信頼しているトレーナーといえど恐怖が勝ってしまう。
「うおおおお! 離れろー!」
「やだね!」
「なんであんたがここまで」
「そりゃあ! 走った時も勝った時も憑きもん取れねぇ顔してた奴が、こんなに立派になりやがって! こんなにうれしいことは無い!」
「……うん」
今思えば、デビュー当初のヒノマルはだいぶ根暗というか、必死がすぎたという感じだろう。そんな手強い彼を一番近くで支えてくれたのは木場というトレーナー。
そこまでしてくれた彼を無理に引きはがすのもいささか無礼だろう。ヒノマルは木場の背中に手を置いて、彼をこう呼んだ。
「本当にありがとう。父さん」
◆◆◆
「ところでだが、君はこれからどうするんだい?」
「ああ、重要な問題だよな」
ヒノマルは夢を見ている。というよりも自分の中の魂と向き合っている。
「君は、人々の記憶に残るという目標も、その先の勝利もした。これ以上何を望む?」
「わかってる……俺は燃え尽きたかもしれない。でも走りたくないわけでもない」
「だからその炎に薪をくべてほしい、そうだろう」
「うん」
「安心しなよ。君、走るから」
「へ?」
「僕は君の未来も結果も知ってるから。それじゃあまたね」
「おい、急すぎ!?」
それから目が覚めた彼は会話の内容を思い出す。自分の片割れの話すことはやはり不思議だ。どうもまだまだ謎は多く、ヒノマルは頭を抱えた。
それにしても『未来も結果も知っている』。この言葉は大きく彼を悩ませる。自分の道が誰かの軌跡をたどっているだけならば、ヒノマルの成してきたことは何なのか。まさか再び自分の存在に悩むとは思ってもいなかった。
朝焼けが眩しく感じる。本来こういう日差しは嫌いではない。好きなぐらいだが今は少し間がくらむような感じだ。
トレセン学園のジムに向かいながらこう思う、「手にした勝利が約束されたものならば」。つまりは宿命論というやつだ。
「励ますつもりなら言葉を間違え過ぎだろう」
筋トレで雑念を払おうとする。それでもセンジンヒノマルの言葉が頭に残る。いい迷惑だと思いながらトレーニングをこなす。それは八つ当たりとも取れて、若干動作が乱暴になってきた。
そして力み過ぎたのだろう、唐突に腕の筋肉が緩んだ。
「あっ」
現在、ヒノマルはベンチプレスを行っていた。あとは言わなくても理解できる。
一気にのしかかる重量に肺の中の空気が吐き出される。
「痛い……! きつい……!」
なんとか持ち上げてシャフトをどかすと何度か咳き込む。どうも集中が散漫だ。このままトレーニングをしていても意味がないと切り上げようかと思ったときである。グラスワンダーと目があった。
「トレーニングが重なるのは久しぶりだな」
「ええそうですね。もうお上がりですか?」
「まあ」
少し会話がたどたどしくなる。それも仕方ない。ヒノマルは今、軽い燃え尽き症候群というやつだ。走る目的を失っている状態に対してグラスはまさしくレースにおける求道者。常に勝利を求めて燃える彼女に、今の自分は話すことにためらいすら感じてしまう。
とはいえ、日常会話は問題ない。レースに関することが引っかかるのだ。
会話が続かなくて互いに気まずい。次にどう切り出せばいいのかを探りあっている。ヒノマルは少なくとも無理に会話する必要があるとまでは思ってない。そのまま帰ろうとしたが相手はそれを許さなかった。
「ヒノマル君、少し走りません?」
◆◆◆
二人が走った結果、ヒノマルの惨敗だった。彼の心の迷いも相まってベストコンディションで走れたとは言いがたく、先行策で前に出たがあっさりグラスワンダーに差された。
そして彼にとってなによりショックだったことが、距離はそこまで長くなかったのに、想像以上に疲れていることだった。走りが下手になっている、よっぽど答えたのかターフに仰向けに倒れた。
「まずい。散漫すぎる」
「そうですね。ヒノマル君、あんまり集中できてませんでしたね」
「わかってるよ。そんなに見ないでくれ」
グラスは立ったままだから目線が高い。見下ろされるのはヒノマルにとって嫌なことに感じた。だがグラスは目線を変えてはくれたものの、合わせはしない。そしてそのまま会話を続けた。
「なにか。迷いが?」
「まあ。でも、お前に話しても仕方ないことかな」
「……そうですか。ところで、今走った距離お分かりですか?」
「ん?」
「いえ、なんでも。そういえば宝塚記念の人気投票も始まりましたね」
「そうだな。割と俺も人気上位来るかもしれないな」
他人事のようにヒノマルは言う。あまり興味がないようだ。
グラスはその姿になにかを感じた、あるいはなにも感じなかったのか。別れを口にするとターフから去っていった。
一人取り残されたヒノマルは、さっきまでの態度を顧みた。流石に無関心がすぎたと反省した。自分の抱える異常、何かに気づけていない。そう思いながら立ち上がる。
すると後ろから足音が聞こえたので振り返ると木場がいた。
「おう。たぶん、お前も話したいことあるだろうが、先、いいか?」
彼はグラスと走っている時から見ていた。だからこそ、もうこの言葉をかけるべきなのだとやっと決心したのだ。
「引退してもいいんだぞ」
「は?」
「えっ」
いきなりすぎて、ヒノマルには寝耳に水だった。どうしてそうなるのか、それが疑問だったがどうやら自分の不調にも関係ありそうだと察した彼は大人しく言葉を聞くことにした。
「すまないトレーナー。続けてくれ」
「いや、お前もう走ってて楽しくないのかなってよ。うちのチーム、楽しくが大事じゃねぇか。だから……走って楽しくないなら一線を退いてもいいと思ったが違うな」
──楽しむ。
久方ぶりに思い出した言葉だった。ヒノマルは最近、良くも悪くも「勝利」の二文字に執着していた。しかし、よく振り返ってみると楽しむことがあまりできていなかった。ゆえにヒノマルは気が付いた。なぜ自分は不調だったのか。
簡単な話だ。「勝利」に欲があるうちはそれを目標にできるがゴールに立った。言わば目的あらずの状態だったが、執念はなくなれど楽しむ心は失われていない。一つまた。ヒノマルに目標ができた。
「そうだな。俺は楽しむことを忘れていた」
顔がくしゃっと崩れる。
「トレーナー! 次の目標は宝塚記念、楽しみたいレースができた!」
ヒノマル、ここにて再点火。彼はうちに秘めていた火種を再び爆発させることになる。