「ただいまデス! いやー、半年もフランスにいると時差ボケもあってちょっと眠いデース」
「おつかれ。んじゃ車内じゃゆっくり寝とけ。トレセンに戻るぞぉ」
「……あのトレーナーさん!」
「ん?」
「私、トゥインクルシリーズ引退しようかと思ってまして」
「は!?」
──某空港にて、衝撃の告白とともにエルコンドルパサー帰国。
「あ、そうだ……ヒノ、マル?」
エルはヒノマルに声を掛けようとした。だが彼女はそれができなかった。なぜなら、彼の自分に向ける目線が途轍もなく冷ややかに見えたから。
◆◆◆
『センジンヒノマル一着! 京都大賞典を制しました!』
凱旋門賞から数日後、ヒノマルは淀にて勝利した。ただし、コンディションは最高とは言えない中で、だ。いささか無理して走ったものだから疲労感も大きく控え室につくなりドカッと椅子に腰かけた。
こうなった原因は間違いなく凱旋門賞だ。日本では毎日王冠以外のレースは一着、その毎日王冠ですら二着と誰もがその実力を疑わなかった。海外でも全てが連対圏内。間違いなく最強。ヒノマルもそう思っていたが、凱旋門ではモンジューに敗れた。
絶対に勝ってくると思った。しかしそうはならなかった。
先日、チーム全員で空港にエルを迎えた。彼女は努めて明るくチームメンバーも同じような態度で話していた。その中でヒノマルだけが何も会話できなかった。たまたま目があったとき、得も言われぬ気まずさはレース中も脳にこびりついていた。
「俺は、何を思ったんだ……?」
「それ俺に聞いてんの」
同じく控室にいる木場は早い所ミーティングをして帰りたかったが、ヒノマルがこうも黄昏始めたせいで何もできない状態にある。
彼はヒノマルの不調については察しが付いている。彼もエルの勝利を信じていた者の一人だ。気持ちは同じであるが己の不調だけでなくチームの和が乱れてくるとかなり困る。
「なあヒノマル。飯、食いに行くか?」
「ん、あ……行く」
トレーナーとして木場のやるべきことは見えた。腹を割って話すべきだと。
◆◆◆
二人はトレセン近くの焼肉屋にきていた。
まだ網は冷たく肉が焼けるまでは時間がかかりそうだ。
「お前、エルと喧嘩でもしたのか?」
「いやそういうわけじゃない。ただ」
「ただ?」
「負けると思わなかった」
網の温度は上がり焼ける音が大きくなる。
「それがショックで、不調か」
「いや。それだけじゃない」
「ほお」
「もっと、なんだろう」
そして肉の脂が融解して落ちる。炎が上がる。
「あの強がった感じが気に入らなかった」
「そりゃ、エルの態度の話だよな」
「うん」
空港に迎えに行った日。確かにエルは無理した態度を取っていた。それはチーム全員、いやヒノマルだけは違っていた。エルはその時は土産話や自分のしてきたことを嬉々としていた。それがいかに無理だったことかなど言うのは木場も分かっていた。だがエルに合わせてやらなければ互いの感情が決壊してしまいそうだった。
でもヒノマルはそうはいかないらしい。彼はエルのその態度に合わせるどころかむしろ怒りにも似た感情を宿した。
「何が気に入らなかった」
「エルコンドルパサーは最強だ。それなのに取り繕ったあの姿、納得できない」
こじらせているな。木場は最初にそう思った。同時に納得もした。エルコンドルパサーの道筋を間近で見たことがヒノマルの解釈をゆがめた。少なくとも彼にとってエルは最強、自然体での最強が染み込んでいるのだろう。
だが自分の理想を押し付けるのは不躾甚だしい。それに木場は知っている。ヒノマルが知っているエルコンドルパサーは最強だけではないことを。もっと等身大の少女であることを。それを見失っているというのならば、正してやるのは自分の務めである。
「ヒノマルよぉ。そりゃ横暴だぜ。エルにだって弱いところはある。もっと身近な存在だったはずだぜ? それとも個人としてのエルじゃなくてウマ娘としてのエルコンドルパサーが強がっているのに納得いかないか」
「──!」
「そうか……だいたいわかった」
木場は確信した。ヒノマルはあくまでもエルの今に不満があるのではない。同じ競技者としてのエルコンドルパサーが、最強を高らかに宣言していた彼女が曇っていることが許せないのだ。それはヒノマル本人にもわかってなかったことだ。
そういうことならば、木場もヒノマルに協力してやれるかもしれない。競技者としてのエルを再び焚きつけてやりたいのは同じ思いである。帰国からの引退宣言はあまりにも急でちゃんと処理できてなかったが、正直彼は納得していない。まだくすぶりがあると見ていた。
トレーナーとしてヒノマルとエルに何ができるか。木場は思考を巡らせる。そしてふと思いついた。ヒノマルの秋のローテーション。まだどうするかは決まっていないが、こうしてみるのも面白い。木場は賭けに出た。
◆◆◆
その日、エルは適当に、無意味にぶらぶらしていた。一度木場にトウィンクルシリーズから引退するといったがそれも正式に受理されていない。ではまだ走るのかといわれても、チームメイト、特にヒノマルに対しては気まずさまさって本気も出せない。だから無意味な時間を過ごすほかなかった。
曇り空の中で歩くのは気分が良かった。暑さもなく過ごしやすい。少し風が強くて小鳥が飛びにくそうにしているが、今のエルには大変快適に思えた。
すると前からこつこつと地面のタイルをたたく音がする。それを鳴らす人影は彼女のトレーナー、木場であった。その手には一枚の紙が握られていた。
「|引退の件
「ケ?」
「あの野郎はお前を待ってる」
「あの野郎」というのは、エルには一人しか想像できなかった。だが彼の、あの時の冷めた目を思い出すとどうも億劫になる。
しかし目の前にいる彼女のトレーナーはどう言っているだろうか。彼は目をそらさずにこちらを見つめる。そこには誠意が感じ取れた。これを無下にするのも違う。エルは大人しく木場に従った。
ターフのその手前で彼女は立ち止まる。厚い雲が太陽に重なって一層辺りは暗くなるが、彼はそれをものともしない態度で走っていた。
彼の口角は少し上がっていた。ただ走ることが楽しいと、全身でその事実を受け止めているような、そんな走りだ。そしてゴール板を駆け抜ける。ゆっくり速度を落として、そして彼はエルの方を見た。
「俺、センジンヒノマルはチームパーチ最強だ……たぶん」
なぜ「たぶん」を付けた。その疑問を口に出せないほど彼女は唖然とした。
「いや、お前が引退すると、な。相対的にそうなる」
「な、なるほど……」
「いや違うな。今は俺のほうが、お前より強い」
「──ケ?」
「なんなら走ってもいい。どうする」
ヒノマルは敢えて言い切った。もう後戻りはできない。もし走ることになったら絶対に勝たなくてはならない。だが、その覚悟は一瞬にして意味を無くした。
「いいえ。その通りデス」
声が震えていた。そしてエルは自らマスクを外した。
「アタシは、結局世界最強にはなれなかった……エルはやっぱり最強じゃ……ないんです。そんなこと、自分が一番──わかってたのに」
やっとヒノマルはエルの本質が理解できた。自信が全然なく、自分の最強像を演じ続けた、本当はただの女の子。
それが分かったこの瞬間、彼は何の感情を抱いたのだろうか。失望、憤怒、侮蔑。そのどれでもなく──。
「すごいな。俺はそういうのは隠せないから」
尊敬。
「いつもエルたちには見透かされたけど、俺はできなかった。すごいよ」
「そんな! だってエルは、アタシは!」
「でも、やっぱり俺の中ではエルコンドルパサーは最強なんだ」
「それはヒノマルがアタシを知らないだけ──」
「俺は! 悪いがもう一度最強のエルコンドルパサーを見てみたい!」
ヒノマルは強く言い返す。エルコンドルパサーがきっと力強い翼を持っていることを信じて。
「お前の最強をもう一度証明してくれ! 最強になった俺を超えてくれ!」
「最強の、ヒノマル?」
「まずは天皇賞で日本最強だ。そしてジャパンカップ、お前を下した相手も来るはずだ。そこで世界最強だ。いつか言ったよな、負けてやるかって。そうなった俺を超えてみろ、エルコンドルパサー!」
ヒノマルの魂の叫び。最強になった自分を超えてもう一度最強になれと、叫んでいる。無茶なことは目に見えている。それでもなお、挑まなければならない。
それほどまでに見たいのだ。最強のエルコンドルパサーを。
「だから、いつでもいい、マスクをまたお前が着けてくれ。そしてまた聞かせてくれよ。お前の最強って叫ぶ声を」
マスクをしっかりと握らせる。
今すぐじゃなくても構わない。
ヒノマルは彼女を最強にするために最強になるのだ。
天皇賞・秋、センジンヒノマルは七着。彼は掲示板にも入ってなかった。