この小説が完成したのは読者の皆様がいてくれたおかげでもあります。
最後までお読みいただきありがとうございました!
彼は使命にレースを燃えていた。だが走る楽しさを見つけることができた。
誰にも未来はわからないとは誰かが言った。だが彼は自分の未来を知った。
最強を目指すと誓った。だがそれも破れ彼は挑戦者のままだった。
◆◆◆
中山レース場、二五〇〇メートル。GⅠ有マ記念。
ヒノマルが走る今年最後のレースである。出走するメンバーの中にはグラスワンダーとスペシャルウィークもいて、まさに同世代同士でぶつかるにはおあつらえ向きだ。
彼は出走登録されたウマ娘の名前を睨みつけていた。ここで気合を入れても仕方ないのではあるが、最初からせめて想いだけは勝ちたいとのことだ。
いちいちそれをするのだから、チームメイトももはや気にしないという段階まで来た。
「それも重要だがトレーニングしろよ」
木場の声が聞こえるとヒノマルから眉間のしわがなくなる。
顔を上げて髪を結ぶ。ジャージのファスナーを思いっきり上げて外に踏み込む。
「寒い!」
ヒノマルの皮膚に厳寒が突き刺さる。寒空に曇天は重苦しく、足の運びが悪くなる。
だが、しばらく歩いた先のターフは青くそれを見るだけで気分が上がるものだ。
ヒノマルはすぐさまアップを始めた。
芝の上をジョギングする。足の裏で感じるこの柔らかさと走った時の硬さへの初めての感動は忘れたことがない。
また、競い合うことで削られる精神、燃え上がる心根。レースは楽しいだけじゃなかった。
それでも彼は走って分かった。自分は走るために生まれてきたのだ。
長いコースをヒノマルはそろそろ一周しようと坂路を上がっていた。走り出した地点に近づくとチームのメンバーたちが見える。
「久しぶりにそろった。なあ、エル」
そこにはエルもいた。ヒノマルは坂路の上の方から若干位置の低いエルを見下ろすようにして立っていた。タオルで汗を拭いながら、彼は手を伸ばす。
「併走、付き合ってくれよ」
◆◆◆
ドンっと力強くターフが蹴られる。エルは飛び上がる土を避けると三バ身ほど前にいるヒノマルを睨む。
正直言って、前線を離れていた彼女にとっていきなり併走は重たかった。
しかし誘われたとき、思考を挟まぬ間もなく承諾した。いま走りながらその判断を少し後悔もしていた。ブランクのある脚では前の彼に追いつけない。どうしても走る度に発生する負荷に負けそうになる。
なぜアタシは走っているのか。フォームが崩れそうになる。
「走るのって、勝つのって気持ちいいな!」
ふとヒノマルが叫ぶ。後ろからはその顔は全く見えないが、筋肉の躍動を見れば分かる。全力で走ることを噛みしめている。誰かよりも先に行くことを楽しんでいる。これ以上の喜びなど存在しないかのように全力だ。
その喜びに理由などあるものか。
「お前もそうだろう、エル!」
エルは強く地面を踏みこんだ。
その通りだ。走ることに勝つことに、そこに喜びがあることに理由など無くていい。
エルの最強の証明という大義は一度崩れた。それからというもの、走ることすら億劫になったものであった。
だが今は本能で、走ることを理解した。走る理屈などもっと単純でも構わない。
「アタシは負けたくない!」
歯を食いしばって脚を前に進める。付随して痛みがやってくるが彼女の口角は一ミリたりとも下がらず、その目線は確実にヒノマルを捉えている。
全盛期ほどの力はなくとも、その末脚はヒノマルにとって充分に脅威であった。
「負けてやるものか!」
「アタシだって!」
「はああぁぁああ!!」
二つの影がゴール板を通り過ぎる。
今回は、なんとかヒノマルに一本上がった。
「もう一回! もう一回お願いデース!」
「はっ!?」
「負けられないデス! もう一回」
「の前に休憩しろ!」
木場は二人に拳骨を食らわせた。しかし、ため息をつきながらもその表情は明るかった。
「ったくよ。元気有り余り過ぎだぜ」
「いいじゃないか。まだまだ走ってもらうわけだ」
「ああ、私もぜひ走りたい」
「タキオン、エレジー……」
木場が振り返るとトレセン指定のジャージに着替えた二人がいた。
エレジーはともかくタキオンまで着替えていることは彼には信じがたい光景であった。
タキオンの脚を見下ろす。木場の失敗の象徴とも言えるそれは、今でも直視できないものであった。
トレーナーの木場ですらこれだからタキオンはもっと、そう思っていたが──。
「トレーナー君。やはり私は走らなければならない」
「そりゃあなんでだ」
「どうも私はウマ娘だ。同じ道を行く君ならわかるだろう」
彼はもうタキオンの走る姿を見れないとばかり思っていた。彼が初めて担当した、最も脳裏に焦げ付いたウマ娘。
彼は片時も忘れることができなかった光の道筋を壊した罪を背負っていたつもりだった。しかし、それは今日でおしまいである。
今のタキオンはもう一度、走ることができる。
「そっか……よかったなぁ、おまえ。本当に……」
彼は人目も構わずに大粒の涙を流した。
「ああ。だからトレーナー君ももう気にするな」
しばらく待ってから、木場はサングラスを外す。赤く腫れた目がさらされるが彼は気にしてない。
むしろ、その目からは真摯な思いがにじみ出る。
「じゃあ、今日は記念だ。全員で走れ!!」
「おう!」
ヒノマルの返事をきっかけにチームの全員が走り出す。
深く刻まれたその蹄跡は湿った芝の水を反射して輝いていた。
◆◆◆
『さあ四コーナーにさしかかる! グラスワンダーに続くようにスペシャルウィークとセンジンヒノマルが上がってくる!』
今回の有馬記念、センジンヒノマルは出遅れが出たために後方からのレースになってしまった。これにはさすがのチームメイトたちもヤジを飛ばすが、もともとヒノマルは後方からのレースをしていた。
不幸中の幸いに助けられながら、彼は道を進めた。
そして一団は最終コーナーを過ぎ、直線に入る。宝塚記念と打って変わって、グラスがスペの前方に位置していた。さらに言えばヒノマルが二人の後方に位置する。
『負けません!』
『勝つ!』
両者の鬼気迫る様子に萎縮する者もいた。だが、ここで
「行くぞ、相棒!」
「もちろんだ、ヒノマル!」
三者三様に、それぞれの走りをぶつけ合う。
お前ではなく自分こそがと譲れない我を競い合わせる。
そして無限にも感じる刹那を走る三つの影が同時にゴール板を横切った。
三人とも息が絶え絶えでまともに立っていることが不可能になっていた。
「誰だった?」
「わかりません、でもスペちゃんかと」
「わ、私かな!?」
確定の文字はまだ出ていない。
ヒノマルは芝の馬場に座り込み、空を見上げる。
出来ればこの時間が続いてほしいと願った。
この僅かな時間は、勝利の可能性に酔うことができるから。
だがそれから覚める時間がきてしまった。
『確定です。一着グラスワンダー! 二着はスペシャルウィーク、三着はセンジンヒノマルです』
「これは残念だ……相棒来年は、どうなる?」
『走るさ。君は』
「上等」
そうしてセンジンヒノマルの最初の三年間は幕を閉じた。
◆◆◆
「で、将来どうすんの?」
「どうしようかな」
「そりゃあ自分で考えてくれよ」
現在ヒノマルはトゥインクルシリーズから引退して、一般トレセン学園生徒になっている。
放課後はもっぱらトレーナー室にこもり木場の手伝いをしている。
そして今は、トレセン卒業後の進路について悩んでいるところだ。
とはいえ、彼もなりたいものがないわけではない。そしてその決心をしようと木場のもとにきたというわけだ。
「俺はトレーナーになろうと思うんだ」
「へぇ。やるじゃねぇか」
「うん。その夢の手伝いをしてほしい。よろしくお願いいたします!」
「おう、任せろ! ノウハウとか色々教えてやっからなぁ~!」
かくしてセンジンヒノマルは軌跡を描き続ける。
軌跡は決して美しいとは言えず、見るに堪えないとも言われたこともあるだろう。
それでも彼は進み続ける。
そしてこれから先のことはもう誰にもわからない。