8R 『光速』の夢
また,夢を見ている気分だった。君も前にいるやつを追いかけていた。ああ,でもここは負けてしまうのか,この前は勝っていたけど。俺がそこに辿り着くにはまだまだほど遠い気がするよ。君は俺より先に言っているんだな。いや,違うのかもしれない。俺はこの景色を見たことがある気がする。先頭に立ててなかったこの景色を。
朝起きてしまえば君のことは曖昧になり、また君も俺のことを覚えてないのだろう。なんて不思議なんだ。顔を知らない君のことは誰よりも近くに感じてしまうのは,不思議なんだ。名前すらわからないのに、誰なんだろうね。
──俺は⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。おまえの名前は、
◆◆◆
早朝からヒノマルは調子が悪かった。別に寝付けなかったとかそんなことじゃなかった。ただ,教えてもらったことを全く覚えてなかったような気がした。その事実が心を陰らせていた。
「まあ,夢の話だし記憶にないこと気にしても今はどうしようもない。次のレースに気を向けろ」
「すまないトレーナー」
次に出走予定のレースは札幌二歳ステークス,重賞レースだ。そのため確実にデビュー戦よりもレベルが上がりその分勝った時の報酬は大きいのだ。その日のパーチには程よく緊張が走っていた。
「トレーナー,勝算はあるのか」
木場は首を縦に振った。しかし,サングラス越しに伝わるほど難しい目つきをしていた。今回のレースは1800でマイル,一応ジュニア級の中では少々長めではあるもののヒノマルが出るには,短いと判断している。
「とはいえ,おまえの体はまだまだ未熟だし本当に足りないなんてことはないと思う。札幌に行くまでにはなんとかやっておくが期待はしないでおく」
トレーナーとして今の発言はよろしくないがヒノマルは肯定した。だから今回はひとまず,掲示板入りが目標。入着できれば御の字というところだ。今年の最終目標は年末のGⅠ「ホープフルステークス」。ここに出走するためにも成績を残しておきたいのだ。
「それじゃ,今日はタキオンがおまえを見るからそれで頼む」
◆◆◆
ヒノマルはかつては採血や機器をつけながらのトレーニングなどはやったことがある。たまに薬品投与もあったはずだが安全性に問題がないことを伝えてられていた。
しかし,どうだろうか。今椅子に縛りつけられよくわからない色をした液体を経口摂取させられそうなこの状況は。施設にいた時よりも人権がない気がする。
「ほら,飲みたまえ。わたしだって時間を無駄にしたくない」
「なら,やめてくださいよ!」
これには誰でも人権思想を語りたくなってしまう,木場を除いて。それにしても不思議な部屋だ。半分はタキオンの性格を映し出したような空間なのにもう半分は落ち着いていて、しかし何かが出てきそうな雰囲気だった。今いる空間はあたりになぜか光る液体があり散らばった資料,器具,そして弁当箱。よくこんなので生活できるな,とヒノマルは呆れた。
「もう諦めたまえ。君のマイル適性を高められるかもしれないんだから」
「たとえそうでも,トレーナーみたいになるのは嫌です!」
このまま水掛論で進展がないまま数分経つと
「……何してるんですか」
もう一人の部屋の主がやってきた。その黒髪を靡かせながらこつこつトレーナー足音を立てている。
「嫌だなぁカフェ。そんなに睨まないでおくれ……はぁ,わかったよ。ヒノマルは解放する」
何かが圧があったわけでもない。それなのに妙な重みがある。ヒノマルはそれを正面から受け止めることしか出来なかった。
ようやく,自由になったヒノマルはタキオンを連れてさっさとコースの方へ向かった。タキオンも渋々それについていった。
「………初めて見ましたが,あれは一体?」
不穏な言葉が空っぽの中に降りかかった。
それからはなんともなく普通のトレーニングをこなした。課題の最高時速やスパートまでの遅さの改善に尽力していた。
「少しきついですね。マイルはあと少し走れたらないいのに」
「この時期でそんなことを言うのは君ぐらいだよ。クラシックディスタンスをこなすにはまだまだ時期が早すぎる」
タキオンは一通りデータを閲覧した。ヒノマルはチーム加入時より確実に強くなっていた。おそらくまだ成長の余地があると考えてもいい。しかし,そのレースの決定打となる末脚の発動までが遅いのは大きな弱点だった。
「まあ,そこはトレーナー君に任せよう」
タキオンは寝そべっているヒノマルの隣に座った。ヒノマルは思い出したように声を上げた。
「そういえば,タキオンさんは現役時はどんな感じだったんですか」
「おや,トレーナー君から聞いてなかったのかい?」
「タキオンさんがすごかったってことは聞きましたけど、もっと詳しい話がほしくて,」
かつての木場が話したのはタキオンの残した功績。五戦四勝、とある故障が原因で即刻トゥインクルシリーズから身を引いた。それだけだった。だがその故障こそがタキオンの身体の特性を物語っていた。
「すみません。話しにくいことでしたか」
「いや,別に構わないよ。わたしには一つの目的があった。そしてわたしの脚はそれを成し遂げるには充分速かった。しかし成し遂げるには脆かった。その脆さゆえわたしはクラシック期の半ば引退,今はこうやって過ごしているわけだ」
ウマ娘に置いてもっとも恐ろしいとされているのが怪我,故障だ。精神的なことはまだ乗り越えられる余地がある。しかし怪我や故障は著しく能力を下げる。それだけではない。レース中に発生すれば最悪命の危険だってある。それはGⅠウマ娘も例外ではない。そんな世界でウマ娘たちは走っているのだ。
「タキオンさんがこの前話していた嫉妬って他のウマ娘の身体にですか?」
ヒノマルは察したようにつぶやく。
「ああ,そうだ。いつか辿り着きたいところに行くにはわたしは器ではなかった。わたしはウマ娘の限界が見たいのだよ。そしてその謎を解き明かしたいのだよ。君もその例外ではない。
わたしが始めた研究は二つのプランがあった。自らを実験体としたプランAとより確実に進めるためのプランB。しかし,プランAは完全に失敗した。もうわたしの脚は小走りすらもままならない,あっても仕方ないものになったのだよ」
タキオンはそう言ってあらゆることを諦めたように地平を見ていた。しかしウマ娘の限界の話をしていたタキオンの目は誰かのように輝いていた。同じく夢をみる誰かをヒノマルは知っている。
「タキオンさんとトレーナーって似てますね」
木場は一人では夢を語らない。誰かと一緒に夢を持たなければ彼はただの優秀なトレーナーに過ぎない。彼は夢に駆ける時はどこまでも輝き狂気を宿す。それはタキオンだって同じだった。同じくらい狂った二人の瞳はどこまでも深く、むしろ輝かしい。
「ふふ,確かにわたしも彼も狂っているとも。なんたって彼はいきなりわたしの作ったクスリを飲み出したんだ」
「……バ鹿じゃすまないですね」
「そこで彼は大声で宣言したのさ,『人権も尊厳もいらない。モルモットでいい。おまえと契約させてくれ』とね。流石にわたしでも驚いたねぇ」
そう言ってタキオンは優しく微笑む。木場とタキオンを見ているとつくづく似ているなと感じさせるような笑顔だった。
「今のわたしにはもう一つやりたいことがある。このチームの誰もが怪我をしないようにすることだよ。だから君たちは安心して走りたまえ。わたしたちがそんなこと絶対にさせないからね」
最後の調整のために照らされながら二人立ち上がった。
その日の夕日はどことなく眩しかった。
タキオンに狂気が足りないって思う方もあるかもしれませんが、わたしの宇宙ではそんなことないです。タキオンだって優しい時があっていいじゃないですか。