春の天皇賞から半年が過ぎようかという頃だった。
すっかり街路樹も色付き始め、午前中から吹き付ける木枯らしにタイシンは顔を顰めた。鳥肌の立つ腕をさすりながら忙しなく地面を転がる落葉を踏みしめ、彼女は今日何の料理が出てくるのか考える。
ポトフには少し早いし、甘い物を食べたい訳でもない。何なら大して空腹でもない。
でもマスターならなんかいい感じの出してくれるでしょ、そんな漠然とした信頼感が彼女にはあった。無意識に尻尾を揺らしながら角を曲がる。
そこにはいつも通り営業している喫茶エベレストの姿が──
『本日休業』
なかった。
普段期間限定メニューなどについて書かれている黒板には、チョークで描かれた申し訳なさそうな顔のイラストと共にその文字が記してある。
何となく諦めきれず、照明の消えた店内をガラス越しに覗き込んでみる。特に前来た時と変わりない内装が広がっている様に安堵感を覚えながらも、仕方なく小石を蹴りながら帰ろうとした時。
タイシンの肩にぽん、と手が置かれた。
咄嗟のことに背筋が伸びるのを感じながらも、ごつごつとした掌の持ち主に彼女は振り返りざま警戒心の篭った眼差しをぶつける。
すぐにその怯えの混じった警戒心は、安心感を孕んだ怒りに変わった。
可笑しそうに笑う店主を軽くどつく。小柄なウマ娘と一回り歳上の男という異質な組み合わせでありながら、その様子はまるで気の置けない友人同士のようだった。
「や、久しぶり」
「ちょっと本当にやめてよ……っていうか今日休みだったんだ」
驚かせた事について謝罪すると、苦笑いしながら店主はその経緯について話す。近頃、定休日にも営業し続けていたのを常連達が「どうせ俺達しか来ないんだから休め」と半ば脅すように説得されたのだという。
「一応前から告知はしてあったんだけど、君にとっては久しぶりのご来店だったしね」
「ふーん……なんでそんなに働いてるわけ?」
「これにもお金がかかるんだよ」
シャッターを切る素振りをしてみせる彼に阿呆臭いという視線をぶつけながらも、彼女は何だか少し嬉しく感じた。が、すぐにその耳はへたりと座る。
「じゃ、休みならアタシ帰るから」
何でもないような口振りでそう言うと、タイシンは踵を返そうとした。そんな彼女を見て少し考えた後、彼はにやりと笑って提案する。
「良かったら一緒にどう、デイキャンプ」
「デイキャンプ……?」
タイシンの耳がぴくりと揺れた。
「そうそう、日帰りでキャンプに行くつもりだったんだけど。暇なら相手してくれないかな、どうせ一人だから」
そう言って店主は車の鍵を指で回す。そしてタイシンは落ち葉焚きを好み、ソロキャンプの動画を熱中して見るような少女だった。
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「ちゃんとトレーナーさんに連絡した?」
「したって言ってるじゃん」
助手席に座って窓からの景色を眺めながら、タイシンは鬱陶しげに返事する。結局店主の誘いに乗る事にした彼女は、彼の運転する自動車で共にキャンプ場に向かっていた。
「そうは言っても未成年の女の子連れ回してる事に変わりはないんだから所在ははっきりさせとかないとね、後で親御さんにも連絡しとかなきゃ」
「え、マスターうちの連絡先知ってんの……?」
「当たり前でしょ、これだけ長い付き合いなんだから筋は通してるよ」
普段のぼけーっとした店主にはあまり似つかわしくない、物々しい六人乗りの乗用車の中をタイシンは興味深そうに眺めた。後部座席にはタープやアウトドアテーブルといったキャンプ用品が積んである。
「マスターって軽とか乗ってそうなイメージだったんだけど」
「昔は友達沢山いたからさ、このくらい乗れた方が便利だったんだよ」
「今は友達いないんだ?」
「君くらいしかいないな」
揶揄うような口振りのタイシンに軽口で返しながら、彼は空いた道路を快調に飛ばす。どこまでも伸びているんじゃないかと錯覚するほど高い空に、羊雲が暢気に流れていた。
「そういえば今日は何が食べたい?外だから簡単な物しかできないけど」
言われて考えてみるが何も思い浮かばない。定番はバーベキューとかなんだろうけど、と彼女は顎に手を当てる。
「……どうせならキャンプっぽいやつ」
下手にリクエストするより任せた方が結果的に満足できる事をタイシンは経験上知っていた。特に困った顔も見せず頷くと、車をそのまま走らせショッピングモールの駐車場に停める。
飲み物とか何か欲しい物があったらここでね、と言いながらも彼が足を運んだのは本屋だった。タイシンにとっては友人であるハヤヒデへの誕生日プレゼントを買う場所でしかない。
「一冊何か好きなの選んでいいよ」
「え、いや別にいらないんだけど……」
「郷に入っては郷に従えって言うでしょ」
そんな訳の分からない事を言いながら彼は小説の棚を吟味している。仕方なくタイシンも適当にページが少なめの小説を1冊見繕った。
本屋での用事はそれだけだったらしく、2冊の支払いを済ませた店主はそのまま食料品売り場に向かうと首尾よく食材を買い込んでいく。肉に野菜、適当な菓子などを詰めた袋を両手に提げて、彼はほくほく顔で車に戻る。
時刻はまだ正午を少し回った頃。否が応でも高まるキャンプの雰囲気に、タイシンは何だか童心に帰ったように自分の胸が高鳴るのを感じた。
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平日という事もあってかキャンプ場には殆ど人がいなかった。受付にいる管理人と顔見知りなのか、店主が和やかに談笑しているのを横目に外に出ると深呼吸する。目を瞑ると遠くで名も知らぬ鳥が鳴き、色付いた葉がそよ風に擦れる音だけが聴こえる。
清涼な空気で満ちた森の中は、いつもいる学園とは違った静けさを湛えていた。
川沿いの涼しげな場所に陣取ると、彼は慣れた手付きでタープを張る。アウトドアチェアやテーブルを並べるのをタイシンも手伝いながら数十分、無事設営が完了した。焚き火台に持参した薪をセットして、特に手こずる事もなく店主は火をつける。
「さて、完成です」
「……へえ、悪くないじゃん」
幼い頃に段ボールで秘密基地を作り上げた時のような、そんな満足感があった。音を立てて燃え盛る熱が、秋の冷え切った風を和らげてくれる。
店主は伸びをするとアウトドアチェアに腰掛けながらスマホの電源を切り、テーブルの上に投げ出した。
「君もたまにはスマホ置いてみたら良いんじゃないかな」
そう言う彼にタイシンは露骨に嫌そうな顔でもって応えた。
やる事ないし、と言いながらスマホに目を落とす彼女へ店主はショッピングモールで買った小説を手渡してくる。
溜息を吐きながら、自分が選んだ一冊を彼女は受け取った。
「電源は切らなくていいよ、急な連絡があったら不味いし」
「そういう妙に気配りする所ほんとムカつく」
仕方なくスマホを同じようにテーブルに置いて、タイシンはページを捲る。本来であれば突っぱねている筈の彼女が比較的素直に応じているのは、やはり今回全て店主に委ねている負い目があるからだろう。
そんな性格を見抜かれているようで、尚更苛々としながらも黙って小説を読み進めていく。他愛もないミステリーだった。
どれだけ耳を澄ましても聴こえるのは、川のせせらぎと時たま薪が爆ぜる音。
気付けば夢中になって物語を追っている自分がいる事にタイシンは気付いた。
「……少し休憩しようか」
そう店主に言われて顔を上げると、彼は焚き火台の上に乗せた厚手のフライパンに鷹の爪やにんにく、オリーブオイルを入れて熱し始めている。香りが立つと鶏肉やブロッコリーといった具材を加えて更に火を通していく。
「何作んの?」
「アヒージョ、意外と簡単なんだよ」
その言葉通り、二十分もしない内にくつくつと食欲を唆る音を立てながら辺りに芳しい香りを漂わせた。店主は木匙で軽く味見すると、胡椒で味を整える。
「お待たせしました、鶏肉と野菜のアヒージョです」
彼は机の上の鍋敷きにフライパンを置くと、小振りの籠に入れたバゲットを添えて出した。
軽く手を合わせるとタイシンは木製のスプーンでブロッコリーを口に運ぶ。芯まで柔らかく煮られている野菜が口の中でほどけるようだった。
「……バゲット取って」
食べやすいように切って手渡されたそれで、皿に残っているオイルを掬う。ぎゅっと詰まった野菜と鶏の旨味が固めのバゲットによく合っている。
タイシンが一滴も残さず完食する様を彼は嬉しそうにずっと眺めていた。
「あんまり普段と変わらない気がするんだけど、何かキャンプっぽい事とかしなくていいの?」
「何もしない、をしてるんだよ」
「変なの」
自信満々に言う店主に思わず吹き出す。空きっ腹が満たされると、二人はまた小説に取り掛かる。
満腹感とページを捲る時に擦れる音が、その内に彼女の眠気を誘ってきた。瞼が落ちてこようとするのを懸命に耐えていると、その様子を見たのか彼がブランケットを取り出して掛けてくる。
「寝てていいよ、帰る時には起こすから」
返事をする間もなく、タイシンは微睡みの中に落ちていった。何だかとても暖かい夢を見た事だけは覚えている。
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バニラのような甘い匂いでタイシンは目を覚ました。どれくらい眠っていたんだろうと空を仰ぐと、日はだいぶ傾いている。伸びをしながら身体を起こすと、彼が焚き火台に何か鉄串をセットしている姿が目に入った。
「おはよう、よく眠れた?」
「まあまあ、それ何してんの?」
言われて店主は串の一本を掲げてみせる。白く丸みを帯びたそのフォルムは紛れもなく。
「マシュマロ……アタシあんまり好きじゃないんだけど、ベタベタするし甘ったるいし」
「人生損してるとは言わないけど騙されたと思ってちょっと食べてみなよ、得するかもしれないから」
そう言うと彼は焚き火で炙ってとろけたマシュマロを、そのまま間髪入れずに2枚のビスケットで挟んだ。魔法瓶からカップに注いだコーヒーと共にタイシンに出すと、店主は恒例の薀蓄を語り始める。
「アメリカの方じゃスモアと言いまして、こうやってビスケットに挟んで食べるのが定番なんだよ。間に板チョコを挟むのが一般的なんだけど、君には少々甘過ぎると思って抜いたんだ」
一口かじってみると、とろりとしたマシュマロの甘さが口の中に広がる。思ったより歯切れがよくベタつく感じはない。何よりほんのり塩味の利いたビスケットと苦いコーヒーがいい塩梅に後味をすっきりとまとめてくれる。
「少し歩きたいんだけど」
「腹ごなし?いいよ、そろそろ帰る準備もしなきゃだから」
一息ついたタイシンがそう言うと、店主はゴミを手早くまとめ始めた。設営した時以上の速さで後片付けを行う様子に思わず舌を巻く。荷物をひとまとめにしていつでも帰れるように準備すると、ふたりで川沿いを下るようにしてのんびりと歩き始めた。
たまに家族連れが遊んでいる所に出くわす事もあったが、流石に秋という事もあって泳いでいる人はいなかった。店主は近くにあった石を拾うと、スナップを利かせた綺麗なフォームで水面を切るように飛ばす。
小気味良い音を立てながら三度跳ねると、石は川底へと沈んでいった。
彼の自慢げな顔が癪に触ったのか、タイシンも同じように石を投げていると何の気なしに店主が尋ねてくる。
「そういえば次に出るレースって、やっぱり秋の天皇賞?」
「ん、まあそう。そこで良い結果を出せたら……」
有馬記念。
昨年は菊花賞での不調を考慮して、出走を取り止めたレースだった。一年を締めくくるグランプリであり、今年こそはナリタタイシンの出走を見たいというファンは少なくない。
「一度くらいは観に行ってみたいんだけどね、君のレース」
「勝手にすれば」
「店を閉めるのも何だか我儘かなって」
「山登りするために何ヶ月も店空けた奴が何言ってんの」
それを言われると弱い、と呟きながら店主は鞄から一眼レフを取り出した。しばらく黙ってファインダーを覗いていたが、特に撮る様子もなくまた鞄に収める。
「撮らないの?」
「やっぱり山以外は撮る気になれなくて、もうそういう
タイシンは写真を撮られる事は好きではない。好きではないが、その行為が持つ何でもない日常やいつまでも残しておきたい一瞬を切り取る意味は理解できた。
だから好きとはいえ、それに取り憑かれたように他の物が色褪せて見えるのは少し寂しい。ぼんやりと彼女はそんな事を思った。
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秋の日は釣瓶落とし。そんな諺通りにみるみる藍色を増していく空を、窓越しにタイシンは眺めていた。自営業を営む両親の都合上、今まであまり車で遠出するような機会もなかった彼女には、何だか今日の全てが白昼夢のように現実味のないもののように思えた。
「本当に門限大丈夫?」
「大丈夫だって言ってるじゃん、心配し過ぎ」
キャンプ場からトレセン学園へ直接向かいながら、何故か店主だけが一人で焦っているのを彼女は可笑しく感じた。程なくして学園に近い道路脇に駐車すると、大役を果たしたと言わんばかりに彼は大きく息を吐く。
「今日は付き合ってくれてありがとね、またのお越しを……そういえば店じゃなかったな」
言われて気付く。今日は客と店主の関係ではなく、強いて言葉に表すなら。
「よかったらまた遊ぼうか、天皇賞応援してるから」
「うん、また」
歳も離れている。種族も違う。けれど確かに友達だ。
寮の部屋に戻ると、結局読み切れなかった小説を棚に差す。栞代わりに挟んでいた落ち葉をベッドの上で眺めながら、くすりと笑ってタイシンは目を閉じた。