窓の外に細雪が薄くちらついているのを、大鍋を混ぜる片手間に店主は眺めていた。相も変わらず閑古鳥が鳴いているものの、一年近く前の突然の休業から考えれば客足は大方戻ってきていると言えるだろう。
「しかしマスターもクリスマスに仕事って、少しは浮いた話とかねえのかよ?どうせ客も来ないんだし皆で飲みに行こうぜ」
カウンターに頬杖をつきながらの常連の誘いに、彼は笑いながらやんわりと断る。
「お誘いは嬉しいんですが、今夜は御予約のお客様が2名いらっしゃるので」
いやに畏まったその口調はどこか弾んでいるように思える。何となく合点がいったのか、それ以上常連は駄々をこねる事もなく静かに料理を口に運ぶ。
やっと見慣れてきた巨大な壁掛けテレビが流す年末の特番をBGMに、いつもと変わらない時間が流れていく。
そんな折に喧しくドアベルを鳴らしながら飛び込んでくる女性が一人。若いながらも華々しく実績を積み、将来を嘱望されているトレーナーである。担当を皐月賞バとして導き、他のGⅠでも掲示板入りはお手の物といった腕利きだが、その性格はクールビューティーと評される外見に似合わず人懐っこく熱血だ。
「やあ、いらっしゃい」
何かから逃げるように急ぎ足でカウンターに駆けてくる彼女に、店主は愛想良く微笑む。お冷を注ぎながら鍋の中をもう一度確認すると、彼はトレーナーの早口に興味深そうに耳を傾けた。
「マスターさーん、聞いてくださいよ!タイシンにクリスマスプレゼント貰ったんです、これこれ尻尾用の……」
「余計な事言うなっての!」
「いった!!」
そして私服に身を包んだトレーナーを蹴飛ばしながら、騒々しく店の中に入ってくるウマ娘がもう一人。
秋天の覇者、ナリタタイシンである。すっぽりと顔を埋めていたマフラーをほどくと、彼女は額にかかる鹿毛色の髪を鬱陶しそうに払った。
仏頂面で椅子に座る様子はいつもと変わらないようでいて、自信に満ち溢れている。その理由は推して知るべしだろう。
「この間のレース、一着おめでとう。やっぱり強いね」
「当たり前でしょ」
ケガで春の天皇賞にウイニングチケットが出走できなかったため、先々月行われた秋の天皇賞が菊花賞以来BNWが揃った初めてのレースとなった。
春天ではビワハヤヒデに逃げ切られる形となったが、今回のレースではバ群の間を縫って二人を差し切る理想的な展開運びで見事タイシンは勝利を飾った。
「って事は、今日の予約はやっぱり?」
「そう!有馬記念の激励会です!二人だけの、ですけど」
「そういうノリウザいからやめて」
二人だけの激励会という響きが
初めて彼女がトレーナーをこの店に連れてきた日の事を思い出す。実の所を言えば、店主は心の奥底でほんの少しだけ嫉妬していた。この子の満たされない胸の内を本当の意味で理解してあげられるのは自分の他にいないのに、と。
「お待たせしました、鶏肉と根菜のクリームシチューです」
決してそんな事はなかった。
木製の深皿になみなみと注いで、カウンターにそっと出す。添えて出すのはいつものバゲットではなく、それを押し縮めたようなパン。
「これはバタールと言いまして、バゲットとドゥ・リーブルのちょうど間を取ったフランスパン。クラム……内側の柔らかい部分がバゲットよりも多いからクリームシチューによく合うよ」
薀蓄を聞き流しながらタイシンはもっちりとしたパンを千切ると、シチューに浸して口に運ぶ。溶け出した人参の甘みに口元が綻ぶのを感じた。冬に出されるのはいつもポトフだったが、このシチューはそれよりもっと腹に溜まる。
けれど。
「お代わり」
皿に付いた一滴までパンの欠片で掬い取るように空にすると、タイシンは店主にそう告げた。目を丸くしている彼に怪訝そうな視線をぶつけながら、机を指で叩きながらもう一度言う。
「お代わり、欲しいんだけど」
「無理しちゃ駄目だからね」
「は?バカにしてんの?」
彼はそれ以上何も言わずにもう一杯シチューを注ぐと、タイシンが完食する様を眺めていた。初めて彼女の口から聞いた「お代わり」という言葉を反芻するように。
「……美味しい?」
「まあまあ」
何故だか涙が零れそうになるのを店主は不思議に思った。欠伸をする振りでそれを誤魔化すと、何でもない話に華を咲かせる。レースを数日後に控えているとは思えないほど和やかな時間だった。
店主は彼女の学園での話を聞くのが好きだった。そうは言ってもタイシンが中々自分の事について話してくれない事を彼はよく知っている。
「休みの日は最近何してるの?」
「別に。部屋でゲームしてるだけ」
「え、この間一緒に水族館行ったじゃん!デートだよデート!」
「そういう事言い出すから言いたくないんだっての!」
喧しく噛み付き合うトレーナーとタイシンを慈しむように一瞥すると、彼は冷蔵庫から何か取り出す。二切れのキャロットケーキだった。クルミとレーズン、チーズフロスティングだけがトッピングされているシンプルなケーキは薄い赤紫の花弁で飾り付けられている。
「これ、花ですか?」
「エディブルフラワー。いわゆる食用花ですね、味に癖はないんですけど栄養価が高いんですよ。薔薇やビオラなんかがポピュラーですけど色々な種類があって──」
店主がトレーナーに説明しているのを横目に、タイシンはケーキを切り分けると口に運ぶ。砂糖を少なめにしているのか、控えめな甘さが胃に優しい。
一心地付くと彼女はポケットに手をやった。その中に入っている物をどうしようか迷うように忙しなく視線を動かす。それに気付いたトレーナーは少し考えて、ただ背中をぽんと軽く押した。
「ねえ」
彼女がカウンターにぶっきらぼうに置いたのは、有馬記念の入場チケットだった。一年の総決算とも言えるそのレースは入場する事すら抽選であったりとかなりの難易度を誇る。
今ひとつ状況が飲み込めず、彼は助けを求めるようにトレーナーの方を見た。だが彼女は切れ長の瞳をにんまりと歪めてにやにやとしているだけで何も言わない。
「えっと、これは?」
「……って言ってんの」
タイシンが顔を背けて何か呟いた。
これは聞き直すと怒鳴られるパターンだな、と理解しながらも他にどうする事もできない。おっかなびっくり彼は「もう一度だけいいですか」とお伺いを立てる。
「だから、観に来いって言ってんの」
予想していたよりもずっと静かなトーンが、彼女の真剣さを指し示していた。
「前キャンプに行った時『一回くらい観に行ってみたい』とか言ってたから。どうせこうでもしないと理由付けて観に来ないでしょ、マスターは」
そう言われると彼はバツが悪そうに首筋を掻きながらチケットを手に取る。もごもごと何かを呟きながらも緩んだ口元は、まるでクリスマスにプレゼントを貰った子供のようだった。
「アタシはアタシだけの為に走る。これまでそうだったし、これからもそう」
「でもアタシのレースに勇気付けられてる人もいるって知ったから。だからこれは……お裾分け。来たけりゃ勝手に来れば?」
見に来いと言ったり、来たけりゃ勝手に来れば?と言ったり。
彼女の心は、まるで迷宮のように曲がりくねった言葉の奥底に隠れている。言いたい事は言ったとでもいう風に紙幣をカウンターに置くと、タイシンは席を立って一言告げた。
「じゃあ、また」
「……今度はレース場で」
チケットを胸ポケットにしまいながらそう返す。満足気に鼻を鳴らすと彼女は手を振るトレーナーと一緒に店を出ていった。
ほっと一息つくと、他の常連の接客や片付けを行いつつ「やっぱりバレてたかな」と呟きながら店主は皿に一枚だけ残った花弁を指で摘む。
ペチュニア。
貴方と一緒なら心が和らぐ、そんな場所でいつまでもあれるようにと願いを込めて。
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レース場に足を踏み入れるのは初めてかもしれないな、と店主は一人呟いた。テレビで散々見てきた筈の景色は、思っていたよりもずっと眩しくてつい目を細めてしまう。
お守り代わりに首から提げた一眼レフは、やっぱりそれで何かを撮る気にはなれなかった。自分にとって本当に心惹かれる景色は、きっともっと高い所にしか。
出ている露店にどこか祭りを思わせるような賑やかさを感じながら、レースまで店主が辺りを散策していた時の事だった。
「──あの」
「ああ、これはどうも」
話しかけてきた女性が帽子を取る。肩まで伸びた芦毛の中に、誰かを思い出す豊かな耳。
「マスターさんも観に来たんですね」
「チケットまで用意されたら行かない訳にはいかなくて。ずっと怖かったんですけど」
「……怖い?」
「いえ、何でも」
ナリタタイシンの母親だった。喫茶エベレストの近くで小さな花屋を営んでいる彼女の両親とは、頻繁に連絡を交わす仲になっている。トレセン学園に入学して以来あまり里帰りしていない彼女の話をいつも聞きたがっている、不器用な家族だった。
「この間はわざわざエディブルフラワーを仕入れて頂いて助かりました。やっぱりああいった物は信頼できる所で買いたいですから」
「いえ、こちらこそ態々声を掛けて頂いて……あの子にはあまり構ってやれなかったので、マスターさんにはずっと感謝しています」
感謝されるような事は何も、と言いかけて思い直す。それよりも伝えるべき事がある筈だと店主はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「僕は所詮、名前もない一人のファンに過ぎませんから。でもここにいる大多数の人もきっとそうです。そして皆自分ではない誰かの幸せを願っている」
デビュー前にピザトーストを振る舞った時の事を思い出す。食事とは、願いだと彼女にそう言った。二年は前の事だろうか、あれから随分経ったものだと思う。
「返ってくる物がなくても良い。きっと僕らはもう捧げてきた物以上に沢山のお返しを貰っていると思うので」
ちょっと格好つけ過ぎですかね、と首筋を掻く店主を見て彼女は安心したように微笑んだ。
「では夫を置いてきてしまっているので」
「ええ、また。旦那さんにもよろしくお伝え下さい」
話し込んでいる内に出走が近付いていた。押し寄せる観客に飲み込まれてパドックはよく見えない。ただあの子はウイニングチケットやビワハヤヒデ、ナリタブライアンを抑えての堂々の1番人気だった。秋の天皇賞での走りが評価されての事に違いない。
レース場に来るのが怖い、というのは嘘ではなかった。何の事はない、ただあの子が負ける姿を見たくないというちっぽけな理由。あれだけ戒めたのにまだあの子に自分を重ねている、と店主は苦笑した。ずっとカウンター越しに見てきた彼女が、いつしか自分自身よりも大事な存在になっていた事に今更ながら気付く。
だからこそ、今日だけは何があってもこのレースを見届ける。
菊花賞の雪辱をあの子が振り切ると信じて。
ファンファーレが鳴り響き、いよいよ有馬記念が始まろうとしている。店主は何だか自分まで喉が乾くような心持ちがした。
天候は薄曇り、しかし十分良バ場と言えるコンディションだろう。今にもスタートの合図が切られようとした時。
雲を散らすように風が吹いた。
一瞬だけ射した陽の光に目が眩んだのか、一瞬彼女が出遅れる。悲哀とも歓喜ともつかない溜息がレース場に放り出された。ほぼ誤差と言っても差し支えないレベルでの出遅れ、だがそれはこの最高峰のレースでは致命傷と成り得る。
彼女がバ群に取り付いた頃には既に強固な岩壁のように位置取りが決まっていた。あの子の走りはレース終盤に他のウマ娘の間を縫うようにして位置を上げていく、いわゆる追込だ。
逃げや先行といった作戦に比べればまだダメージは少ないが、それでも。
第二コーナーを回っても入り込む余地を見出だせず、彼女は最後方に甘んじている。
ビワハヤヒデもウイニングチケットも好位置を獲得し、ラストスパートに備えて脚を溜めている。いずれもGⅠウマ娘、誰が一番にゴール板へ飛び込んでもおかしくない。
だが一際目を引くのは。
『さあナリタブライアン、前方のビワハヤヒデを躱してここで抜け出した!!』
圧倒的なポテンシャルは、正しく怪物の名に相応しかった。ラストのコーナー手前から位置を上げながら、まだ余力を残しているように見える。
『ナリタブライアン、そのまま後続を突き放すようにさらに加速!三冠に相応しい走りを見せ付けるッ!!』
ああもう、分かってる。分かってるんだ、最初から。だってずっとあのカウンター越しに見てきたから。
君がどれだけ頑張ってきたかを。
──そして、君が誰よりも負けず嫌いだって事を。
『いや、その横から影がもう一つ飛び出してくる!
シャドーロールの怪物に、迫る影が喰らい付く。
驚いて振り向く周りの観客の目も気にせず、フェンスに齧り付いて叫んだ。切り立った岩壁へハーケンを突き立てるように君がターフを踏み締める度に、空気が揺れる。
どれだけ君の名前を呼んでもきっと届かない。ちっぽけな声援で変わるほど勝負の世界は甘くない。それでも必死に声を上げるのは。
ただ、君の幸せを願ってやまないから。
その日レース場にいた観客達は。中山の短い直線に、全てを置き去りにするかのように燃える蒼い炎を見た。
『ハナ差でナリタタイシン一着!!秋の天皇賞に続いてグランプリの栄冠をその手で掴み取りました!!』
拭っても拭っても視界が滲んでぼやける。もっとちゃんと記憶に焼き付けたい。あの子が勝ち取った物を、ターフに向けられる賞賛が全てあの子の為にあるこの日を。
無意識に自分がカメラを構えている事に気が付いた。本当にフィルムに収めたい物はずっと近くにあったのかもしれない。
全て放り投げて逃げ出してしまいたくなるような挫折も、それでも辿り着いた頂上の景色も、全ては君に。
初めて心の底から残しておきたいと思った一瞬に向けて、シャッターを切った。
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ウィナーズサークルに立ってもまだ震えてる膝を叩いて、背筋を伸ばす。
この観衆の中に、マスターはきっといる。誰も写っていない山頂からの写真だけを閉じ込めた一眼レフを持って。でもそんな同じような物ばっか撮ってもつまんないじゃん。
だから焼き付ける、アタシの姿を。大歓声に沸き立つスタンドへ、思いっ切り腕を突き出して無視できないくらい見せつけてやる。
そのファインダー越しに