今日も今日とてその店、『喫茶エベレスト』は閑古鳥が鳴いていた。ただその様相は普段と異なり、段ボールに詰められた荷物が所狭しと床に散乱している。
もう十年ほど前になるだろうか、タイシンはバレンタイン前に初めてこの店を訪れた時の景色を思い出していた。違うのは伸びた自分の背丈と、草臥れた彼のエプロンだけ。
あの日のアタシが今の自分を見たらどう思うんだろ、なんて取り留めもない事を考えながら彼女は古びたカップに口を付ける。コーヒーに砂糖を入れなくなったのはいつからだっただろうか。
「それで今はそのURAファイナルズってレースに出てる訳だ」
「次が決勝ね」
「時間作って観に行くよ」
秋の天皇賞に続いて有馬記念まで制したタイシンに世間は沸き立っていた。さらに新設されたURAファイナルズでも優勝候補の筆頭として名前が上がっている。走れる訳がないと哀れみをかけられてきた彼女を、最早誰も無視できない。
連日押し掛ける記者のインタビューに、街中を歩けばファンにサインをねだられ、息抜きのゲームセンターでも噂されて止まない。
すごい疲れる、と頬杖をつきながら愚痴を漏らす彼女に店主はコーヒーのお代わりを注いだ。立ち上る湯気にほっと一息つく。
「それにしてもわざわざオフに引越しの準備付き合わせちゃって悪いね、どうも片付けは苦手で」
「別に、来たついでだし。いつ移転するんだっけ」
「もう一月後くらいかな、大通りにね。トレセン学園にもっと近くなるから遊びに来てよ」
今の店を畳んで新しく大通りに喫茶店を構える、という移転案を店主は前々から考えていたらしい。資金面もスポンサーがついているらしく、問題ないと彼は言う。結局それが誰なのかをタイシンに教える事はなかったが。
「ただタイミングだったんだよ、ずっと迷ってただけで。やるなら何事も全力で取り組まなきゃ、頂上の景色は見られない。不安じゃないと言ったら嘘になるけど」
静かに呟く彼の後ろ姿には、何処か吹っ切れたような清々しさだけがあった。
「まあ良いんじゃないの、味はそれなりにちゃんとしてるし。今よりは退屈しないでしょ」
本音を言えば、少し寂しかった。店主と会えなくなる訳でもない、店が終わる訳でもない。それでもこの色褪せた喫茶店で過ごした十年が自分の血肉になっていると彼女は思っていて、けれどそれを口に出す事はない。
小腹が空いたな、と呟きながら彼は冷蔵庫を漁る。何か残り物でもないかという思いも虚しく、その中は気持ちの良いくらいに空っぽだった。
「何もないや、店屋物でも取ろうか」
「……ううん、アタシ買ってくる。何がいい?」
いつも自分が何を食べるか尋ねている側なのを思い出して、店主は少し可笑しく感じた。顎に手を当てて暫く考える。人にずっと料理を作ってきた癖に、自分が食べたい物なんて考えた事がなかった。
「そうだな……正直そこまで食べられる気はしないけどまだ寒いから、何か温かくて簡単な物がいいな。君に選んでほしい」
頷くと彼女は店を出ていった。それを見送ると、随分と寂しくなった店内を改めて店主は見て回る。珈琲と煙草の匂いが染み付いた壁紙を、カウンターに微かに残る白い引っ掻き傷を、とうに色の抜けた丸椅子を。
目を閉じて労うように、一つ一つそっと触れていく。思えばぬるま湯に浸かっていたような十年間だと店主は呟く。それはまるで気怠い夏休みの微睡みを思わせる、本当に長い長い休暇だった。
ドアベルの涼やかな音がタイシンの帰りを告げる。それに声をかけようとして、店主は目を丸くした。彼女がその手に提げていたのはパンや野菜、チーズの入った袋だった。
「キッチン借りるから」
それだけ告げると有無を言わせぬように彼女は厨房へ入っていく。慣れた手付きで山型パンを厚く切ると、トマトの水煮やにんにくを煮詰めてピザソースを作った。それと並行してマッシュルームやソーセージを薄切りにして、ソースを塗ったパンに散らすとたっぷりのチーズを乗せてトースターにセットする。
見惚れるほど鮮やかな手際だった。焼き上がるまでの短い時間すら楽しむように、店主はじりじりとパンを焼く音に耳を澄ます。
「はい、ピザトースト」
タイシンと料理を何度も見比べる店主に彼女は舌打ちした。
冷めるでしょ、と目で語る彼女に戦々恐々としながら手を合わせると、彼はトーストを手に取る。今にも滴り落ちそうなチーズを器用に回して戻すと、一思いにかぶりついた。バジルの風味が利いたソースが小麦の味を強く感じさせるパンによく合う。商店街の肉屋で買ってきたのかソーセージも余計な雑味を感じさせず、噛み締めるほどに肉の旨味がじんわりと広がる。
「ちゃんと読んでくれてるんだ」
「たまにだけど」
一年前の誕生日、彼女にあげたレシピ本通りだった。いや、多少のアレンジが加えてある。そんな何でもない一手間が店主にはたまらなく愛おしく思えた。一人の少女に何かを与える事ができたこの十年は、決して無益な休暇なんかじゃなかったと。
皿に垂れたチーズまでパンの一欠片で掬い取って胃に収める。
ふと視線が交差する。二人だけの店内、語ろうと思えば夜を明かせるほどの時間をお互いに積み上げてきた。
けれど。
「ご馳走様でした」
「はいはい、お粗末様」
彼女がそっぽを向く。それを見て彼が笑う。長ったらしい言葉なんてなくても、そんなやり取りだけで事足りる。
ふと思い立って、店主は段ボールの一つを荷解きすると三脚を取り出した。そのまま店の扉を開けるとタイシンを手招きする。
「写真を撮ろうよ、一枚だけ」
「……一枚だけね」
まだ春には遠い冷え切った風に、二人は思わず首を竦めた。店の前の開けた道路で懐かしむように店主は伸びをする。まだ小学生だった彼女に声を掛けた時の記憶をなぞりながら、彼は腰を屈めて振り返った。
「ここで君が転んでて、見かねて僕が声を掛けて。あれから僕も君も随分と変わった。だから不安ではあっても、今更何も怖くないよ」
変わる事は怖くない、と自分に言い聞かせるように嘯く店主をタイシンはじっと見る。
「ねえマスター、一つだけ言いたい事があるんだけど」
何?と聞き返す彼の近くに行って目を合わせる。日頃カウンター越しに見上げていた顔がずっと近くにあるのが、何だか新鮮だった。
「アタシも怖くなんてないし。でも、やっぱさ」
言い淀むように彼女は頬を掻く。しかしその瞳に迷いはなかった。
「寂しいじゃん」
そう呟いたタイシンの顔はどこまでも穏やかだった。弱音を吐く事を嫌っていた彼女が初めて口に出す事ができたその寂しさが、きっとこの店が此処にあった理由なのだと。
「ああ、寂しいね」
立ち上がると、店主も笑いながらそう返す。この寂しさもいつか優しい思い出に変わるようにと、そんな事を願いながら三脚に乗せたカメラのセルフタイマーをセットする。ずっと二人を見てきた喫茶店を背景に付かず離れず、そんな距離に並んで眩しいフラッシュに目を細めた。
「今度撮るのは新しい店の前でかな」
「気が向いたらね」
これからも彼女は走り続ける。数多の料理に込められた願いを宿しながら。
これからも彼はそんな彼女を見つめ続ける。掲げられた勝利を写真立てに納めながら。
寒いからココアでも作ろうか、いいけど勝手にマシュマロ入れないでよ。そんな会話をしながら二人は店内に戻っていく。冬の空はその前途を示すように、どこまでも高く晴れやかに広がっていた。
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ナリタタイシン、逆転のウマ娘。
その道程は決して常に輝かしいと言える訳ではなかったが。
これは彼女と。彼女の栄光と挫折の3年間を、温かな料理と共に場末の小さな喫茶店から見つめ続けた彼の二人のお話。
君に捧げた十二の料理と、君が掲げた勝利のお話。
完結までお付き合い頂きありがとうございました。
後書き、お知らせは活動報告にて。いつか縁がありましたら、またのお越しを。