コーヒーブレイクは終わらない
Cafe Everest。
トレセン学園近くの大通りに面しているその喫茶店──いや、カフェは多くの客で賑わっていた。
シックでありながらも茶目っ気のある意匠の外装は決して歩行者の目を遠くからでも引くようなものではないが、通り掛かるとつい足を止めてみたくなる。漂ってくる珈琲の芳ばしい香りに釣られてそっと扉を開くと、愛想の良い店主がカウンター越しに笑顔を見せてくれる。
真新しい内装に少しそぐわない年季の入ったメニューを開くと、気付けば飾り気のない軽食や拘りのコーヒーにゆったりとした時間が流れていく。
店主が一人で回しているような小さな店だが、学校終わりのウマ娘や学園関係者が足を運んでくれるお陰で閑古鳥が鳴く事はない。
そんな店だ。
そこそこ繁盛している方だろう。
閉店まであと僅か。恐らく今日最後の客を愛想良く見送るとぼんやりそんなことを考えながら、店主はほっとしたように大きく息を吐いた。いつの間にか外は既に夜の帳が下りている。
あの裏寂れた場末から大通りに移転して早くも一年が過ぎようとしていた。
慣れない環境に戸惑いながらも常連のサポートもあって何とか軌道に乗せる事ができ、貯金を切り崩すようにしてやっていたあの頃とは違って店の体を成している。
「とはいえ、山頂には程遠いな」
最近よく口をついて出るようになった独り言に、彼は自分の事ながら苦笑した。常連とのんびり話す時間もなくなって寂しいのだろうか。そう考えると客層も随分変わった。
前は近所の住民がぶらりとコーヒーを飲みにやって来ては、同じような相手を見つけて毒にも薬にもならない雑談をして帰るのをカウンターからただ眺めていた。回転率や客単価なんて言葉には無縁のおままごとのような時間。仕事なんて放り出して、古ぼけた店内には不釣り合いな大きな壁掛けテレビに齧り付くようにたった一人のウマ娘を応援し続けた懐かしい日々。
そんな時間がたまらなく好きだった事に店主が気付くには、少し遅かった。
スタンドに置いてある一冊を手に取る。主に学生向けの記事を取り扱ったカジュアルな雑誌だ。取材をさせてくれないか、という連絡に彼が二つ返事でOKしたのはついこの間の事だった。これで店の名前もそれなりに広まるだろうか、そんな事を考えながら彼はグラスを拭く。
夕飯は今日出した夏野菜のカレーをドリアにでもしようか、鍋の様子を確かめつつ明日について思いを馳せる。
順風満帆。
これ以上何も望む事はない筈なのに、どこか心の中には靄がかっている。
名前を付ける事もままならないその感情をどこにしまったものか、彼がぼんやりと考え始めた時だった。
楽しげな音を響かせながらドアベルが来客を告げる。疲労が滲んだ顔をいつもの微笑みに貼り替えると愛想良く入ってきた客に目を向けた。
「いらっしゃ……やあ、久しぶり」
「なに、その顔」
ナリタタイシン、URAファイナルズを制した皐月賞ウマ娘。
その小柄な体躯から想像もできない鬼の末脚は、レース場で数多くの観客を惹き付けて止まない。
他に客がいないかどうかきょろきょろと辺りを見回しながら店内に入ってくると、彼女はカウンターの最奥に腰掛ける。少しへたれたウマ耳は彼女が感じる一抹の居心地悪さを物語っていた。
「まだ慣れない?」
「ん、まあ……あまり来られなかったし」
「随分忙しそうだったしね」
タイシンのURAファイナルズと喫茶エベレストの移転時期が重なっていた事もあって、新しく『Cafe Everest』と名を変えて開いたこの店に彼女はあまり顔を出せていなかった。
マスコミからの取材や彼女自身が出るレースのスケジュールに追われる様子を液晶越しに眺めながら、人気者になるのもそれはそれで一苦労だと寂しく感じていたのを彼自身覚えている。
「慣れないけど、でもこのメニューはちょっと落ち着くかも」
「彼にはこっちでも働いてもらってるからね。使える小物はなるべく使い続けられるようにはしてるんだよ、一応」
メニュー表を彼と親しげに呼ぶ店主に可笑しさを覚えながら、タイシンはカウンターの上のシュガーポットを軽く撫でた。新しく引っ越した街で偶然昔馴染みに出会ったような、そんな心持ちがした。
「どうする? 何か食べていく?」
「ううん、今食事管理中だから。コーヒーだけ」
「はいはい、少々お待ちを」
豆を挽く芳しい香りが店内に満ちる。コーヒーは五感で味わう飲み物なんだと店主が力説していたのをふとタイシンは思い出した。
ぽこぽこと湯の沸く音に耳を澄ませていると、彼女は自分の中に溜まる澱のようなものが少しだけ溶けてゆくような気がした。
「それで、何かあった?」
「え、いや……なんで?」
カウンター越しに店主から投げ付けられた質問に思わず面食らう。ただ、答える事もなく泰然としている彼を見ると諦めにも似た思いがふつふつと湧いてきた。
「……変な夢を見てさ。これから先、どれだけ頑張ってもずっと勝てない。そんな夢。ふざけんなっての」
不機嫌そうにタイシンはそう呟く。彼女の性格からしてみればそんな夢を見る自分自身にも我慢ならないのだろう、そう予想できた。
「でも……たまに不安になる。もしかしたらあの"三年間"がアタシの人生の中で、一番最高の時間だったんじゃないかって」
店主にとってそれはこの一年を過ごす中でぼんやりと抱えていた靄に名前が付けられるような、そんな瞬間だった。
近頃、液晶越しに見る彼女の戦績は決して良いと言えるものではなかった。一着はなく、掲示板入りすら危うい時も出てくるようになった彼女に対して、世間はそれを「一時的なスランプだ」「いや、URAファイナルズで燃え尽きたんだ」などと好き勝手に騒ぐ。
自分だけ順風満帆では意味がない、見たいのは彼女が登り詰めた先にある景色だ。今更ながら店主はそう気付いた。
「マスターはさ。もしこの先、どれだけ頑張ってもあの三年間を越えられないとしたら」
少し上擦ったその声に、自分は何を返せるだろうか? 自問する彼にタイシンは呟く。
「それでも頑張る理由って見つけられる?」
店内を静寂が満たした。
何秒程だろうか、それを破るように靴音を響かせながら店主がカウンターから出てくる。以前よりずっと広い店の中をぐるりと回るようにして、壁に貼り付けられていた1枚の写真を彼は手に取った。
「これ覚えてる? 君にとって三年目の、あの春に送った富士山からの写真」
「覚えてるけど……飾ってたんだ、これ」
「良い写真でしょ」
ブレによってお世辞にも見栄えが良いとは言い難いその写真を、店主は大事そうに額に入れて飾っていた。
でも別に生きていく上で必要ないんだ、こんな事。そう付け足す彼を訝しむように見るタイシンに淹れ終わったコーヒーを注ぎながら店主は続ける。
「人生は生きて死ぬまでの長い長い仕事みたいなもので、こんな写真を撮ったり走ったりする事なんてほんの束の間のコーヒーブレイクに過ぎないのかもしれない。コーヒー一杯分の気休めだよ、でもね」
店主は慈しむように自分のカップに口を付けると、目を閉じる。どれほど淹れ続けてもきっとそれは至高には程遠いのだろう。しかし、だからこそ。
「どうせ飲むなら一番美味しいコーヒーが良い、頑張る理由なんてそんなものでいいんじゃないかと思うんだ」
僕らは他の人達よりも少しだけ欲張りだから、そう付け加えて。
ただそれでも納得が行かないのか、タイシンはカウンター越しに噛み付くように問い掛けた。
「なら……もうコーヒーが飲めなくなったら? どうしようもなくなったら、諦めるしかないじゃん」
ウマ娘の全盛期は決して長くない。そして求め続けてきた景色を断念しなければならなくなる恐怖を、店主は確かに知っていた。微かに震えるようにカウンターをなぞる彼の指を見て、タイシンは思わず口を噤む。だが、それに構わず彼は頬杖をついて答えた。
「そうなったら紅茶でも飲めばいいさ」
「……え?」
「その紅茶がいくら美味しかったからって、僕達が飲んできたコーヒーの価値が損なわれる訳じゃない」
それは決して強がりでも何でもなく、本心からの言葉だった。たじろぐように彼女は丸椅子に腰掛け直す。
「じゃあ、マスターにとっての紅茶って何?」
そう彼女が問うと、店主はほんの少しだけ顎に手を当てて考える素振りをした。ただ、その瞳は既に答えが決まっていると言わんばかりに悪戯っぽく輝いていた。
「君に料理を作る事かな」
それを聞いてタイシンがきょとんとしたように何度も瞬きするのを、店主は楽しそうに眺めていた。
その眼差しに、ふと彼女は自分のトレーナーといつか交したやり取りを思い出していた。
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ある日のトレーニング終わりの事だった。どうしてそんな話になったのか最早タイシン自身も覚えていない。
「私、『生きることは〇〇!』って言葉あまり好きじゃないんだよね。たまに『私は走るために生まれてきた!』みたいな子もいるけど」
実際そうでしょ、とクールダウンしながら返すタイシンにトレーナーはちっちっちと指を振った。
「生きることとは……生きることです!」
「何それ、バッカみたい」
「バカで結構、まあ私の仕事はタイシンを勝たせる事だけど」
本当はもっと色んな事を教えてあげたいんだよ。
普段の暑苦しい様子とは違ったその穏やかな風のような切望を、今でもまだ覚えている。
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「冷めちゃうよ、コーヒー」
店主の間延びしたようなその一言でタイシンは我に返った。まだ湯気を立てているカップを手に取ると、一口含む。少しだけ温くなったそれは雑味もなく、コクのある苦味の中にフルーティーな香気が鼻を抜けた。
「美味しい?」
そう尋ねてくる店主に対して少し考えた後、彼女は可笑しそうに笑いながらこう返す。
「ううん、アタシこんなんじゃまだ満足しないから」
「じゃ僕もまだ頑張らなくちゃ。次は料理も食べて帰って欲しいな」
「はいはい、分かったっての」
微笑を湛えて後片付けを始める店主に、タイシンは最後に一つだけ呟いた。
「マスターはアタシに走って欲しい?」
それを聞くと彼は何を今更、といったように眉を顰めた。
「僕は君のファン一号なんだけど」
それを聞いて安心したように彼女はカップを傾けた。
夜闇の中を煌々と照らす喫茶店の中で、もう少しだけこの束の間のコーヒーブレイクは続いていく。