ダービーの公開トレーニングといえば、マスコミも注目する大きなイベントである。近付くレースに向けてお互いがどれだけ仕上げているのか偵察する良い機会でもある。
だからこそその事件は多くの動揺を誘った。ウイニングチケットの公開トレーニング無断欠席。
憶測が更なる憶測を呼ぶ中。学園の一角、タイシンがチケットを問い詰める姿がそこにはあった。
「ごめん、でも足が動かなくて……」
「……っ、ふざけるな! アンタだけが怖いと思ってるの!? アタシだって怖くても、アンタやハヤヒデと一緒に……!」
「……君自身がケリをつけるべき事だ」
こんなにも怖いものだなんて、思わなかったんだよ。
一人取り残されてそう呟くウイニングチケットに、皐月賞での敗北が刻み込んだ恐怖は決して浅くはなかった。
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五月、葉桜から零れる木漏れ日に喫茶エベレストの店主は目を細める。
初夏の風が頬を撫でる中、定休日として彼は店を閉め久々に街に出てきていた。たまには新しい物に触れなければ、どんな清流も淀んでしまう。
そう嘯きながら店主は「リサーチは重要だから」と言っては最近流行っているカフェでランチを楽しみ、「散財は命の洗濯だし」ときっと使う事もない物々しい調理器具を購入するなど一人の休日を満喫していた。
「今度のダービーは誰が勝つかな?」
「やっぱり大本命はチケゾーだろ! でもビワハヤヒデも凄え強いし分かんないな、それに皐月賞はナリタタイシンが取ったし……」
足早に歩きながら熱を持って語り歩く、ウマ娘ファンであろう学生二人とすれ違う。やはり目下の話題はBNWで持ち切りらしい。
それに触発されたのか、ふと思い立って彼は街のゲームセンターに立ち寄った。真剣な顔付きの子供達がメダルゲームに興じたり、女学生がプリクラの前で睦まじく話しているのを微笑ましく思いながら店主は通り過ぎる。
「お、あった」
彼が探していたのはいわゆるぱかぷち、ウマ娘の小さなぬいぐるみだ。電子音を響かせるクレーンゲームの中にぽてんと転がるナリタタイシンとにらめっこすると、彼は徐に財布から100円玉を取り出した。手持ちの小銭で数回チャレンジしたかと思うと「やっぱり難しいねえ」と独り言を言いながらその場を後にする。引き際を弁える、それが大人の良識というものだろう。
が、すぐに1000円札を2枚両替機で溶かして戻ってきた。
その目は静かに燃えている。狙った獲物は逃さない、それが男の意地というものだろう。
しかし普段こういったものに馴染みのない彼が当然要領良く取れるはずもなく、両替機とクレーンゲームを行ったり来たりする内に、店主の財布には季節外れの空っ風が吹き始める。
彼は変な汗をかきながら震える手を見つめた。何だか笑えてくる自分に恐怖を感じながら、さらに硬貨を投入しようとした時。
「えーと、あの!」
後ろから突然声を掛けられて文字通り店主が飛び上がる。
恐る恐る彼が振り返った先には一人のウマ娘。カジュアルなストリートファッションにスポーツブランドのニット帽といった装いの彼女は、手をわたわたとさせながら口を開いた。
「それコツがあるんですよ、ちゃんとこうやって横から覗きこんだりして……」
「へえ……横から覗きこんだり……」
謎のウマ娘の指導を受けながら試行錯誤すること十数分、彼は見事タイシンのぬいぐるみを手に入れる事ができた。
店員に入れるための袋を貰いながら、礼を言う。かけた時間と金額には目を瞑る、それが勝者の見栄というものだろう。
「ありがとね、お陰で助かったよ」
「へへ、それ友達なんです。応援してくれる人には親切にしなきゃ」
タイシンの友人と聞いて彼は眉を上げた。彼女の交友関係はお世辞にもあまり広くないだろう、そんな確信を抱きながら改めて目の前のウマ娘に向き直る。真ん中で分けられた黒鹿毛、透き通るような珊瑚朱色の瞳。
「君……もしかして、ウイニングチケット?」
テレビ中継では勝負服姿しか見る事がなかったため、当たり前だが私服だとガラッと印象が変わるものだと店主は顎に手を当てる。
最高峰のアスリートであるはずの彼女は、そのウマ耳と尻尾以外は歳相応の少女でしかなかった。
客商売の端くれ、店主は人の感情の機微に聡かった。故にチケットの表情に、いつも画面越しで見ているものにはない陰が差しているのを彼は見逃さない。だからこそその言葉を投げ掛けるか迷った。
レースに向けて追い込みをかけているであろうこの時期に身体を休めるでもなく、恐らく目的もなしに街に出てきている。
考えられるのは皐月賞での敗北によるスランプ。だとしたら自分がかけるべき言葉は何もないだろう。
「一着、取ってやるから」
そんなタイシンの言葉が思い出された。
あの子がレースで語るなら、自分も言葉で語るのは無粋だ。
彼女が
「何か元気なさそうだね」
「……たはは、実は友達のこと怒らせちゃって」
アタシが悪いんですけど、そう頬を掻く彼女の言葉を聞いて店主はしばらく考え込む。
「君、時間ある? そんなに長くはかからないと思うけど、差し支えなければ一緒に店に寄ってくれないかな。お使いを頼みたくてさ」
「店、ですか?」
突然の誘いにチケットは身を強張らせる。初対面の男にいきなりそんな事を言われれば無理もないか、と店主は思案しながら言葉を紡ぐ。
「喫茶エベレストのマスターからナリタタイシンへ。お菓子のお届け物をお願いしたいなって。不安だったら何か身分を確認できるものでも」
「喫茶店……ああ! もしかしてタイシンがたまにご飯を食べに行くってお店ですか!? たまたま会えるなんてすごい!! 奇跡だああああ!!」
食い気味に目を輝かせる彼女に気圧されながら、彼はゲームセンターを共に後にした。
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途中で買い物を挟みはしたものの、まだ日は高い。店につくなり店主はチケットにコーヒーを出すと、足早にキッチンへと引っ込んでいった。寄り道して買っていたのはチーズにレモネードに生クリーム。一体何ができるんだろうと久々に子供のようにチケットは胸をわくわくさせていた。
オーブンで焼き上げる香ばしい匂いが店内を充たした。普段自分が静けさに耳を澄ます。たまには悪くないかも。
三十分もしない内に彼はタオルで手を拭き拭き戻ってきた。
「色んな意味で君を奮い立たせるのはきっとトレーナーの仕事だ。だから僕にできる事は君が友人と仲直りするためのお手伝いくらいかな」
そう言いながら店主はほわほわとまだ温かい紙袋に包んだ焼菓子をカウンターの上に置いた。
「お待たせしました、チーズレモネードスコーンです」
「一つお味見どうぞ」と別皿に出されたそれをチケットは一口齧る。ザクッとした食感の後。レモンの爽やかな香気がほんのりと口内を通り過ぎていった。熱々のとろけたチーズに舌鼓を打ちながら、ぺろりと彼女は平らげる。
「……ん、美味しかったです! 甘くないしタイシンも好きそうだなあ」
「お気に召したら何より、冷めても美味しいけど食べる時にはやっぱり温め直した方がいいよ」
エプロンを外しながら彼も小皿に盛られたスコーンをつまむ。
「日本ダービー。僕はあの子を応援しているから君に勝て、と激励してあげる事はできない。でも負けて欲しいとも思ってない、言葉にするのが難しいな……」
「えっとね……とにかく君が良い走りをできる事を願っている。たとえ勝つにしろ負けるにしろどんな結果になったとしても、後悔すら置き去りにするそんな走りを。ここで応援しているから」
申し訳なさそうな顔をする店主にチケットはくすりと笑った。本当に嘘が吐けない人なんだと実感する。こうでもないとタイシンと仲良くできないよね、そう納得しながら。
「ありがとうございます、嬉しいです!」
「君は確かにあの子のライバルなんだと思う。でもその前にあの子の大事な友達でもある」
あの子と仲良くしてくれる子には親切にしなきゃ、意趣返しのようにそう彼女の口調を真似る店主にチケットは少し親しみを覚える。砂糖とミルクたっぷりのコーヒーのお代わりを貰いながら、久々に誰にも、自分自身にも急かされない時間を味わいながら。
「走る事はやっぱり怖い?」
「……負けたらどうしよう、とは思ってます」
ダービーは一度しかないから。噛み締めるようにそう言ったチケットをじっと見つめると、店主はぽつりと口を開いた。
「……祖父の代から僕達はどうも山が好きでね。ここに飾ってある写真はみんな僕が撮ったんだ、学生の頃から生意気にも海外に飛んでは色んな名峰に登ってさ。写真で賞なんか貰ったりもしたんだよ」
人と違う景色が見たかったのだと、彼は言う。一つ一つ実績を重ね、スポンサーが付きついに世界で最も高い場所へ。
それは何だか多くのレースで成果を残し、GⅠに挑む自分達に重なるようにチケットは思った。
「でも登頂はできなかった。アタックする際に雪崩に遭ってね。運良く直接巻き込まれはしなかったけど、ベースキャンプが潰されてさ。救助が来るまでの事は今でも思い出したくないよ」
事も無げに話す彼の、その長い指先は
「幸いな事に僕は生きてる。でももう二度と登れる気がしないんだ、今でもこうやって毎日眺めるくらいには山が好きなんだけどね。それ以上に怖くて堪らない」
「とどのつまり僕は逃げたんだ。逃げて逃げて、その先にこんな場末の喫茶店で糊口を凌いでいる。だからどんなに怖くても、報われないかもしれなくとも、走る事をやめない
初対面の子にする話じゃなかったね、と謝罪しながら店主はスコーンのお代わりを彼女に勧めた。気持ち静かに焼菓子を頬張るチケットに笑いながら彼は呟く。
「同情なんてしなくていいよ、これで今の生活が結構気に入ってるんだ。誰かの夢を、料理を作りながら応援する暮らしも悪くない」
そう言う通り、彼は本当にもう気にしていないのだとチケットには何となくその声色から理解できた。だがそれはかつて轟々と燃え盛っていた篝火が、時が経つにつれて燻る熾火になるような、そんなどうしようもない寂しさをも抱えているように思えた。
「まあつまり何が言いたいかって言うと……僕のと違って君の中に巣食う恐怖は、きっと飼い馴らせると思う。負ける怖さを知った君だから、もっと勝ちに貪欲になれる」
「負ける怖さを、知ったから……」
俯いて繰り返すチケットに店主は頷いた。この話を聞いたからと言って彼女が自分を吹っ切る事は恐らく無理だろう。ただ少しでも気休めになれたなら。本心から彼はそう思った。
一つ最低な我儘を言ってもいいかな、そう店主は天を仰ぐ。
「あの子が誰かに敗れるなら、それは君達にであってほしい。ライバルで友人の君達に」
ここへ寄る度に君やビワハヤヒデの話をしてくれるんだよ、あの子。彼はそう慈しむように小さなぬいぐるみをカウンター脇にそっと飾った。
「怒らせちゃった友達によろしく。お気に召しましたらどうぞ、またのお越しを」
「……はい!」
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チケットが学園に戻ってきた頃には日もだいぶ傾き、涼やかな風が髪を揺らしていた。今日はタイシンも休養日だったはず、そしてこんな時には。
やっぱりここで昼寝だよね。
屋上の扉を開くと、その軋んだ音で目を覚ましたのか彼女がむくりと身体を起こす。眠たげな視線がチケットにぶつけられたかと思うと、ぷいとタイシンは目を逸らした。
「タイシン……えっと、これマスターからだって」
「は? ……っていうかなんでアンタが」
仏頂面でスマホを触り始めるタイシンに意を決してチケットは紙袋を渡す。怪訝そうに彼女は受け取って中を確認した。
ゲームセンターでタイシンのぬいぐるみを取ろうと四苦八苦している彼にたまたま出会った事をチケットが話すと、怒ったような、こそばゆそうな何とも言えない顔を彼女は見せた。
「温め直すと美味しいって言ってたよ」
「……あっそ」
そう言いながらタイシンは開けた紙袋をチケットに差し出す。きょとんとしている彼女にそっぽを向きながら「ん!」ともう一度突き出した。
「食べないんなら、別にいいけど」
「……タイシイイイイイイン!!!」
「ちょ、くっつくなバカ!」
店主の言葉はダービーにずっと焦がれてきたウマ娘、ウイニングチケットの恐れを拭い去るには至らない。けれど二人の少女の間にあった蟠りを「美味しいね!」「……まあね」というやり取りと共に夕暮れへ溶かした。
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日本ダービー当日。
喫茶エベレストは立て看板にいつもの如く『本日日本ダービー観戦のため〇〇時から□□時まで休業させて頂きます』と笑止千万の文言を記していた。
が、しかし。
「こりゃ凄えな……」
サングラスの常連がうんざりとした様子で店内を睥睨する。普段の常連客が2,3人いるかどうかという様とは打って変わり、見慣れない顔でテーブル席は埋まっている。
突然の大盛況に忙殺されながら、店主は常連に少し疲れた笑顔を見せる。
「SNSで『GⅠの度に休業して客と一緒にレースを観戦する喫茶店がある』とか書かれちゃったみたいで。ウマ娘ファンの方がまあ見ての通りご来店。ばず……ばずる? ってやつなんですかね、これが」
もはやスポーツバーの様相を呈しているエベレスト店内にげんなりとしながら、皮肉っぽくサングラスの常連は口にする。
「GⅠの度に、ねえ。嬢ちゃんにしか興味ねえのにどこで尾鰭が付いてんだか。しかし観戦でこの人気じゃ『実際にナリタタイシンが訪れる事がある』なんて知れたら、しばらくマスターもおまんまに困らねえだろ」
「そうなったらしばらく店を閉めますよ、彼女は見世物じゃない」
事も無げに言いながら画面に目を向けた。クラシック三冠、その2つ目。東京優駿・日本ダービーが始まる。
華々しいファンファーレと共に一斉にスタートするウマ娘。
上位人気の三人はそれぞれウイニングチケットが中団後方、ビワハヤヒデが先頭集団に取り付き、ナリタタイシンが最後方から展開を窺う形から始まった。
そのまま膠着状態を保ったまま第三コーナーを曲がり、大欅を越え勝負はいよいよ最後の直線へ────
『……っ! ウイニングチケットが直線手前で仕掛けた!! ビワハヤヒデもナリタタイシンも差を詰めていく!!』
マジか!? と店内にどよめく声が響く。一瞬の隙を突き、一気に先頭集団へと飛び出したウイニングチケットに呼応するようにビワハヤヒデ、ナリタタイシンも溜めてきた脚を解放する。
残り三ハロンのデッドヒート、誰が勝ってもおかしくない。そんな競り合いの中で、一人抜け出す赤い閃光。
『抜け出したのはウイニングチケット!! そのまま先頭で今一着! 夢のダービーを見事制しました!!』
「くあ~っ、惜しかったなあ……!」
「ほら、拍手ですよ拍手。それにあの子はきっともう、次を見据えていますから」
天を仰ぐ常連を窘めるようにそう言って、店主は静かに画面越しにダービーの覇者へと拍手を送った。
今はただ勝者に祝福を。
そして次こそは勝利の女神が彼女に微笑む事を願う。
菊花賞。
クラシック三冠、その最後を見据えた長い夏が始まろうとしていた。