【完結】君に捧げる十二の料理   作:しゅないだー

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#7 菊花賞と

 

 ナリタタイシンが自分の不調を自覚し始めたのは、デビューから数えて2年目の夏合宿終了近くの事だった。

 菊花賞に向けてトレーナーに隠して行っていた自分のスペックを大幅に超えるオーバーワークが原因なのは火を見るより明らかで。元より身体が丈夫な方でもない事は彼女自身が一番承知している。

 それでも彼女を駆り立てたのは。

 

「──"勝利の方程式"の完成は近い」

 

 ジュニア級としてデビューした妹であるナリタブライアンの快進撃を真っ向から見据えながらもそう言い放った、ビワハヤヒデの姿だった。

 

「っげほ、げほ!」

 

 咳込みながらも砂浜でがむしゃらに走り込みを続ける。ただ追い付きたい、置いて行かれたくない。

 

「はっ、はっ……アタシには、アタシには……! これしかない……!」

 

 どれだけトレーニングを重ねても、彼女にはハヤヒデに手が届くビジョンが見えなかった。それを天賦の才の差と言うのは容易い。

 だがそんな言葉を自分にかけるようなら、そもそもタイシンがトレセン学園にいる事はなかった。

 

 トレーナーの事を信じていない訳ではない。だけど、これじゃ足りない。

 速さと呼ぶには漠然としていて、勝利と呼ぶには満たされない。そんな名前の付けようもない物を求める渇望だけが、身体以上に彼女の心を蝕んでいた。

 

 

 ─────────────────────────────────

 

 合宿が終わり、菊花賞もいよいよ間近に迫って来た頃の事だった。

 タイシンは不調を自覚しながらも、半ば意地だけで過剰とも言える自主トレに励み続けていた。

 

「ハヤヒデさん夏合宿の後辺りから本当にヤバいよね! 菊花賞、もしかしてこれ……」

「もしかしなくてもでしょ、あの走り見たらそうとしか言えないでしょ!」

 

 菊花賞を獲るのはビワハヤヒデ。

 喧しくそう噂する人集りの中心にはそれを裏付けるように、鬼気迫る走りを見せる彼女の姿があった。皐月賞や日本ダービーで共に走った頃とは一線を画す加速に、遠目からでもタイシンは気圧された。

 夏合宿の時よりも更に進化している、と。

 

「ねえねえねえっハヤヒデの走り、本当にすっっっっごかったよねえぇぇ──ー!! でもでもでも、アタシだって負けるつもりはぜんっぜんないよ!!!」

 

 ハヤヒデを見ても、尚折れる事がないウイニングチケット。

 そんな環境の中、自分だけがただ焦っているように思えて一層彼女は自分を追い込んでいく。

 もっと走り込まなきゃ、まだ足りない。足りなければ、置いて行かれる。

 そんな強迫観念に駆られ、無茶としか形容できないロードワークを続けた結果は目に見えていた。回転する視界、冷え切ったように血が回らない手足。

 

「ちょっと君、顔色大丈夫!? だ、誰か救急車!!」

 

 ─────────────────────────────────

 

 

 自主トレの最中に路上で倒れたタイシンが再び目覚めたのは、病院のベッドの中だった。慣れない枕に首を回しながら上体を起こす。どうにも気怠くて仕方なかった。

 

「ここ……」

「タイシン、良かった……!」

 

 横にずっとついていたのだろうか、心配そうにトレーナーがぎゅっと握ってくる手がただ温かくて、ぼんやりとした頭でタイシンは握り返す。看護師が部屋を小走りで出ていく姿が視界の隅に映った。

 

「とりあえず今はゆっくり休もう、私も気付いてあげられなくてごめん」

「何言ってんの、菊花賞近いのにそんなヒマ……けほっ、こほっ」

 

 咳き込むタイシンの背中を擦りながらトレーナーは静かに彼女を目で諭した。

 

「……っ、走れる、走れるから!」

「ナリタタイシンさんですね」

 

 看護師に呼ばれてやってきた、医者と思しき初老の男性がタイシンの状況をあらためて診察する。検査結果の用紙と彼女を見比べるその顔はどうにも険しかった。

 

「結論から申し上げますと、菊花賞への出走はおすすめできません。ケガはないですが呼吸器系に軽い炎症反応が出ています。実力を十分に発揮できるとは思えません、今は療養に専念すべきというのが私の見解です」

 

 頭が真っ白になるようだった。

 

「アタシに……走るなって言うの……?」

 

 ─────────────────────────────────

 

 

「タイシンがそちらに来ていませんか?」

 

 トレセン学園、正確に言えばタイシンのトレーナーからの電話に怪訝そうな声で店主は答える。

 

「いえ、来てませんけれど。菊花賞も近いのでそろそろ来てもおかしくないとは思ってますが」

 

 6月に彼女の誕生日を祝って以来、店にタイシンが姿を現す事はなかった。彼女自身も言っていた通り、夏合宿に菊花賞へ向けた本格的な調整と忙しくなるのは目に見えていたため、店主は特にそれを不審に思う事はなかった。

 

「今タイシンは本来療養中なので、もしそちらに来たら一報入れて頂けると助かります」

「あ、え、療養中って何ですか!? というか何であの子がそんな脱走みたいな真似なんか……」

 

 トレーナーは躊躇うかのように押し黙る。あくまで部外者である店主にその情報を提供するメリットとデメリットを推し量っているようだった。

 

「恐らくオーバーワークが祟って呼吸器系に炎症反応が出ているらしく、特に別条はないと病院の先生は仰っていたんですが……全力を発揮するのも難しいらしく先生と相談して、大事を取って菊花賞の出走を取り止めるのも検討している事を、タイシンに伝えたら……」

 

 私の管理不足です、と電話越しにぽつりぽつりと語るトレーナーの声には悲壮感が漂っていた。彼女もまた悩みに悩んでタイシンにその選択肢を提示した様がありありと目に浮かぶようだった。

 

「分かり……ました。もしあの子がこちらに来る事があればまた御連絡します」

 

 電話が切れた後も店主はしばらく茫然としていた。

 その報せは彼にとってまるでいつかの天災のようで。薄い空気、叩き付けるような寒風、白く染まった世界。

 悴むように震え出す腕をそっと押さえた。

 ─────────────────────────────────

 

 ナリタタイシンがそこに行き着くのは最早必然と言えたかもしれない。自信を失いつつある彼女にとって、メイクデビュー前から彼は手放しで「勝て!」と言ってくれた最初のファンだった。

 病院を抜け出して、ランドセルを背負っていた頃から通い慣れた道を行く。体力が落ちているのか、いつもよりずっと重く感じる扉を身体で押すようにして彼女は開くと、ふらふらとした足取りでいつものカウンターの最奥に腰掛けた。

 

 あれナリタタイシンじゃないか、と一見の客がスマホを向けようとするのを店主が視線で制する。慌ててバツが悪そうにそれを引っ込めた客に彼は微笑むと、改めて席についた彼女に向き直った。

 

「いらっしゃい、今日は何にしようか」

 

 緊張で普段より少し上擦った声を店主は苦々しく思った。自分はあくまで彼女を後ろで応援する傍観者に過ぎない、その背中を押すのが役割なのだと言い聞かせる。

 店主の言葉がよく聞こえていないのか、生気のない顔でタイシンは問う。窶れた頬が痛ましくて、どうにも目を逸らしたくて仕方なかった。

 

「マスターは……もしアタシがレースに出ない方が良いって言われたら、どう思う?」

 

 大丈夫、何かあった? ううん、何があっても僕は君を応援するよ。彼女が最も望む言葉はそれだと店主は分かっていた。

 

「もしそうなら……僕は、君は走るべきじゃないと思う」

 

 だが彼の口をついて出たのは、それとは真反対の言葉だった。自分自身に面食らいながらも一度吐いた台詞は取り消せない、目を合わせるようにして続ける。

 

「ごめん、実はさっきトレーナーさんから電話で全部聞いたんだ。これからの事も見据えるならまずはしっかり身体を休めた方が良い、まだまだ先は長いんだから。何か消化が良くて喉越しの良い物でも作るからちょっと待ってて──」

 

 そう言いながらキッチンへ引っ込もうとする店主に失望したように、タイシンは目を伏せた。

 

「……いらない」

 

 彼女はそう一言だけ残して席を立つ。ふらふらとした足取りは、きっと肉体面の不調だけが原因ではなかった。

 咄嗟に追い掛けようと店主が手を伸ばした時。

 

「来ないで!」

 

 絞り出すような叫びが店主の足を止めた。その薄青色の瞳には涙が滲んでいた。

 突然の事にフリーズする彼とざわつく店を一喝するようにサングラスの常連が強く机を叩く。

 

「おい! 今すぐ追え! 店は俺が見ててやるから早く行け! トレセンにも連絡しといてやるから!」

「……っ、あ」

「何の地雷踏んだか知らねえけど、ウマ娘だとかアスリートだとか関係あるかバカ! 泣きそうな女の子(………………)放っとく玉無し野郎の店を贔屓にするつもりは更々ねえぞ!」

 

 眉間に青筋を浮かべたサングラスの常連のその言葉にはっとしたように頷くと、エプロンを脱ぎ捨てて店を飛び出していく。神無月の冷え切った風が身を刺すようだった。

 

 

 

 ウマ娘と言えど、目的もなくただ歩くだけの彼女に追い付くのは店主にとって難しい事ではなかった。

 彼がタイシンの肩にようやく手を掛けたのは近所の公園。もう日も暮れる時間帯という事もあって、子供や親の姿はない。夕陽を照り返して橙色に染まる錆びた滑り台の姿が、ただ物哀しかった。

 店主の手を払って、またタイシンは歩き出す。それにめげずについてくる彼に、一言だけ彼女は呟いた。

 縋るように、祈るように。

 

「勝てって、言ってくれたじゃん」

「それとこれとは話が別だよ、走るだけが君の人生じゃないだろ……! まだまだ楽しい事だって沢山あるのに、無理して身体を壊したら本末転倒じゃないか……これは逃げじゃないよ、次に進むための──」

 

 ああ、本気でマスターはそう思っているんだ。そう認識した時、タイシンの中で何かがぷつりと切れる音がした。本当に耐えられなくなった時、寧ろ頭の中は冷め切るのだと彼女は初めて知った。

 怒りに肩を震わせながら振り返ると、タイシンは店主を睨み付けた。

 

「マスターが見てるのは、アタシじゃなくて自分なんでしょ」

 

 口に出してしまえば全て終わる。そう分かっていながらも、一度溢れ出した言葉は止めどなく流れ出る。

 

「自分が怖くなって逃げ出したのを、アタシに重ね合わせて。同情でもしてたわけ? 事故に遭ってトラウマ抱えた自分と、最初から恵まれてないアタシは自分じゃどうしようもないハンデ背負ってる似た者同士とでも思ってた? バカにしないでよ……!」

「違……」

 

 そう否定しようとして言い淀む姿が、何よりもそれを真実だと物語っていた。

 

「アンタが諦めた事を! 勝手にアタシの夢に重ねるな!! アタシはアタシだけのために走る!! げほっ、ごほっ……」

 

 一言一言吠える度に彼女の視界が滲んでいく。積み重ねてきた物を一つ一つその手で叩き落としていくように、幾年分の感情をぶつける。

 いや、本当は積み重ねてきた物なんて何一つとして無かったのかもしれないと。その言葉の先を考えた時、彼女の瞳から涙が零れた。薄花色を溶かしたそれが滴り落ちる度に、一緒に大事な物が地面に溶けてゆくような心持ちがした。

 

「勝て、って言ってくれたじゃん。ずっと見ててくれたんじゃないの? なんで走るな、って言うの? アタシには」

「アタシには、これ(レース)しかないのに」

 

 彼は決定的な勘違いをしていた。

 トレーナーは彼女の横に立ちながら、共に教え導くものだと。

 なら自分は彼女の後ろで、いつでも逃げて来られる場所を用意しておこう。そう思っていた。

 

 だが、ナリタタイシンは決して逃げ出す事はない。

 彼女が会いに来たのは無理を窘める大人ではなく。あの日、カウンター越しに腰をかがめて目線を合わせてくれた一人の友人だった。

 

「本当にこれしかないの……走れなきゃ、居場所なんかない……チケットにもハヤヒデにも置いて行かれたくない……」

 

 ベンチに座って嗚咽を漏らす彼女の隣に彼はそっと腰を下ろすと、黙って肩を貸した。

 一見仲睦まじいように見えるその裏で、(ひび)の入った関係が空っ風に吹かれていた。

 

「……信じてたのに」

 

 ぽつりと呟く彼女に、許しを請う事すら彼にはできなかった。ただ彼女に自分が着ていた上着を羽織らせて、時間の流れるままに任せるしかなかった。

 

 ─────────────────────────────────

 

 タイシンの嗚咽がゆっくりと寝息に変わり始め、ぼんやりと辺りが暗くなり始めた頃。

 恐らくトレセン学園の職員であろう女性を一人連れて、トレーナーが物陰から姿を現した。沈痛な面持ちからある程度二人のやり取りを聞いていた事が窺える。

 

「……聞いてたんですか?」

「中途半端に止めるよりは、言いたい事を全て吐き出した方がタイシンにとって良いと思いまして」

 

 泣き疲れて眠ったタイシンを緑の制服に身を包んだ女性が運ぶ。そのまま用意してあった車に乗せると、彼女はトレーナーと二言三言交したのち走り去っていった。

 

「本当は、分かってたんです。全部あの子の言う通りだ、僕は最低だ」

「私は……貴方が無責任にタイシンを煽らないでくれただけで十分だと思います」

 

 トレーナーのその言葉を聞いて、彼は自嘲するように顔を歪めて笑った。いつも飄々としている表情が剥がれたその様は、彼女にとって初めて彼の根底の『人間』に辿り着いたような印象を与えた。

 自分が傷付く事を恐れて、誰かの夢にそれを託す郭公(カッコウ)。耳触りの良い言葉をずっと並べ続けて、その手を離すまいと駄々をこねる子供。

 

「ええ、大人としては僕の対応は正解だったと思います。でも」

 

 けれどそれ以上に本心から、彼が彼女(タイシン)の事を思っていた事が「走ってほしくない」という言葉を引き出した。それがトレーナーには何よりもやるせなかった。

 

「あの子が求めてたのはきっと大人としてじゃなく、友人としての僕の言葉だったんだ」

 

 絞り出すように吐き出された言葉は、トレーナーに向けられた物ではなく。未だに自分自身を苛む臆病さに彼女の堪忍袋の緒が切れた。

 

「じゃあ最後まで演じ切りなさいよ……! それができないなら変わりなさい!!」

「たとえ貴方が臆病者だったとしても! あの子を想ってかけてきた言葉を全部嘘にするのは絶対許さない!」

 

 胸倉を掴んで吠える。トレーナーとウマ娘の関係に、彼が割って入れないように。

 彼とタイシンの関係に、彼女が割って入る事もできなかった。

 

「……すみません。私はやっぱりタイシンが出たいと言うのなら、菊花賞への出走を止める事はできません。せめてマスターも見届けてあげてくれますか」

 

 失意の中で俯く店主にそう告げると、彼女は学園へと戻っていった。

 独りぼっちの公園で、彼は顔を覆ったままいつまでもベンチに座っていた。

 

「君の友達である資格なんか、なかったのかもな」

 

 誰にともなく呟いたその言葉は、秋の夜風に紛れて溶けていった。

 

 ─────────────────────────────────

 

 数週間後、菊花賞当日。エベレストは立看板を出す事もなく、ただ『臨時休業』という張り紙を入り口に出してあるだけで灯りも点いていなかった。

 

『堂々たる走りで菊花賞を制したのはビワハヤヒデ!! クラシック三冠をBNWの三人で分け合う形になりました!!』

 

 ナリタタイシン、惨敗の17着。

 

 彼女が映し出されるより早く、独りきりの店内で彼はテレビの電源を切った。誰もいないカウンター、空っぽのテーブル席。いつも賑やかなようでいて、思えばここ(エベレスト)に来てからずっと自分の時間は止まっていたような気がする。

 本当に楽しかったな、そう呟きながらずっと店の奥深くに仕舞い込んでいた一眼レフを手に取って眺める。ずっと自分の見たいものだけを写してきたそれは埃を被っていた。

 

「でも、やっぱりもう一度君と友達になりたいんだ」

 

 CLOSE。

 彼女とまた同じ目線に立つには、自分がやるべき事は端から決まっていた。彼女はレースで語る、なら自分は。

 ドアプレートを裏返し、シャッターを下ろすと店を出る。振り返る事もなく、彼はそのまま歩き去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

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