「厳冬期の富士ってめちゃくちゃ危険だし難易度高いんですよ、先輩には釈迦に説法かもしれませんけど。それに対してもう何年も前に登山止めてる30代前半の男が、2ヶ月弱で登りたい?バカも休み休み言って下さいよ、今まで通り美味いコーヒー淹れてればいいじゃないですか」
口の悪いガイドの言葉に彼は困ったように頬を掻く。
「店も閉めてきた。預金もあるだけ崩したから装備にかける金も好きなだけ使って欲しい、報酬も言い値で良い。これからの時間は全て君の指示の言う通りにする。何としてでも登りたい」
迷いの無い眼差しに、ガイドは溜息を吐いてこめかみを揉む。
「まずは基礎、筋トレからみっちりやって下さい。身体を作りながら改めてもう一度山に関しての知識を入れ直して、少しずつ各地で慣らしていきましょう。並行して登山計画も作っていきます」
「ありがとう、恩に着るよ」
不機嫌そうにガイドは鼻を鳴らす。そのつんけんとした態度は、彼にあるウマ娘を思い出させた。
「別に。ま、俺は先輩の写真嫌いじゃなかったんで。もう一度見られるんならそれで良いです」
「怖くなって手ブレしちゃうかもね」
「最悪」
それでも良いんだよ、そう言う男を怪訝そうに眺めながらガイドはコーヒーを啜った。
「美味いっすね、これ」
「一応それで飯を食ってきた訳だからね」
事も無げに言う彼が持つカップは微かに震えていた。
「……さっきから目線も落ち着かないし、やっぱり登るの想像するだけで怖いんじゃないですか?俺だったら絶対やらないです。わざわざトラウマ穿り返して、金ばっか無駄にかかって、リスク背負って、得られる物は自己満足だけ。それでもやらなきゃ駄目なんですか?」
「やらなきゃ駄目なんだよ」
和やかな会話と洗練されたコーヒーの中に、ガイドは自分が先輩と呼ぶ男が積み重ねてきた年月を見た。だがその奥には、新たに蒼く燃え盛る闘志が確かにあった。
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菊花賞での惨敗から数ヶ月。
ナリタタイシンは未だ不調気味ではありながら、トレーニングを徐々に再開し始めていた。有馬記念を見送り、走る意味も見出だせなくなりつつあった彼女がそれでも続けるのは、生来の意志の強さかもしれない。裏を返せば虚勢とも言えるそれだけが、ただ彼女をターフに立たせる
「次に出るレースは日経賞でいこうと思う。2500mで少し長めだけど……春天を見据えるならこれが復帰戦には最適だよ」
「うん、分かった」
前のレースからやはりどことなく覇気がないタイシンを心配しながらも、トレーナーにはどうする事もできなかった。医者のお墨付きで身体はもう完治している。予後も良好、彼女の希望を聞きながらトレーニングメニューも組み直した。
それでも尚、今ひとつ調子が振るわないのは。
「ねえタイシン、ミーティングも終わった事だしさ。たまにはご飯でも食べに行かない?」
「……行かない」
目を逸らすようにして寮へと戻っていくタイシンの後ろ姿を、トレーナーはただ見送るしかなかった。
菊花賞前のエベレストでの出来事が、未だに彼女の中で尾を引いているのは分かり切っている。三強の一人として期待を一身に背負うアスリートである前に、彼女は一人の少女だった。
幼い頃から接してきた人間との決別にも近い別れ方は、弱っていた身体も相まって彼女にきっと大きな傷を刻み込んでいる。
トレーニングを通して解決できる悩みなら、寝食を取る暇を削ってでもタイシンに向き合う覚悟がトレーナーにはあった。
「いや……トレーニング以外でもやれる事はあるはず!」
その覚悟は、些かお節介という部類には入るが。
とある休日、タイシンの様子を見かねてトレーナーは一人で喫茶エベレストを訪れようとしていた。いよいよ日経賞も近付く中で、その結果がどうなろうとも。彼女の今後を考えると、あのような喧嘩別れは良くない。たとえ元通りとはいかなくても、もう一度話す機会を作るべきだという老婆心だった。
「タイシンは『余計な事すんな!』って言うんだろうな……」
慄きながら独り言をぶつぶつと言いつつ、彼女は地図アプリと死闘を繰り広げながら何とか辿り着いた。が、どうも様子がおかしい。いつも閑古鳥が鳴いているような店ではあったが、店内に人の気配すらない。
『臨時休業』
そう書かれたドアの張り紙に茫然としながら、どうするべきか彼女が考えあぐねていた時。
「お、嬢ちゃんのトレーナーさんじゃねえか。あん時はどうもな」
サングラスを掛けた男が店先を掃きながら彼女に話しかけてきた。記憶の片隅から、あの日エベレストから掛かってきた電話の事を掘り起こす。
「いえ、その節はこちらこそ助かりました……えっとその、店は……」
「知らねえの?見ての通り菊花賞辺りからずっと臨時休業だぜ、道楽経営にも程があるだろ」
トレーナーは胃がキリキリと痛むような心持ちがした。確実に店主もあの日の出来事を引き摺っている事態に、自分も少なからず責任があるような気がして溜息を吐く。
「それじゃあ貴方はいつ再開するとも知れないこの店を今も守っているんですね。健気な……」
「俺?マスターに頼まれて定期的に掃除してんだよ、あいつのジジイの頃からこの店贔屓にしてるからな。『帰ってきた時に汚いとすぐ再開できないじゃないですか』ってよ」
「って事は別に閉店とかじゃない……?」
「ないない、へらへらしてるけど意外とあいつは義理堅いよ。逃げたって最終的には戻ってくる」
彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「そういやトレーナーさんや嬢ちゃんがもし来たら、ってマスターから伝言預かってるぜ」
心底可笑しそうに男は呟く。
「格好付けに行ってきます、だってよ」
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サングラスの常連の言葉に首を捻りながら、彼女はトレーナー室に戻る。
片付ける間もないまま三月になっても出しっぱなしにしていた炬燵の中には、スマホを弄りながらタイシンが猫のように丸まっていた。
トレーナーもその中に潜り込むと、彼女はイヤホンを付けたまま鬱陶しそうに身体を捻る。
タイシンにエベレストが休業していた事を伝えようかトレーナーはしばらく迷って止めた。年度の変わり目で溜まっている雑務を処理していると、事務員がノックと共に入ってくる。その腕には箱一杯に入った手紙が抱えられていた。
「ナリタタイシンさん宛のファンレターです。一応トレーナーさんに検めて頂いて、渡して貰えれば」
「ありがとうございます、確かに受け取りました」
一つ一つ丁寧にファンレターに目を通しながらタイシンに渡して良いものか精査する。
大半は菊花賞での彼女の走りに対する励ましだったりこれまで勇気を貰ってきたという旨の便りだが、誹謗中傷の類が混じっていないとも限らない。アスリートである前に、一人の少女であるタイシンに寄り添う。
それがトレーナーとしての彼女の信念だった。
大方チェックした筈だとトレーナーが背を伸ばした時、箱の奥底に差出人不明の封筒が混じっている事に気付いた。そっと振ってみると何か擦れるような音がして、手紙が入っている訳ではない事が分かる。まさか危険物な訳ないよね、と思いながらも警戒しながらトレーナーは封を切った。中に入っていたのは手紙でも不審物でもなく。
「……っ、タイシンタイシン!ちょっとこっち来て!!」
「何?うるさいんだけど」
イヤホンを外しながら心底迷惑そうに上体を起こすタイシンの目の前に、トレーナーは興奮したように封筒の中身を広げる。
山だった。
何葉もの写真、その全てが山頂から撮られた景色であったり登っている過程を映していた。近所の山は勿論のこと県外にも遠征したのだろうか、目も眩むような高さからの一枚まで。
一番上に添えられている写真の日付は今年の元旦、見渡す限り白銀の山頂から撮られた日の出。震えてピンボケしている理由は、きっと寒さだけではなく。
何度も書いては消したのだろう、鉛筆の書き跡で黒ずんだ写真の裏にはたった一言だけこう書かれていた。
エベレストには程遠い景色を、君へ。
叩き付けるような寒風、凍り切った斜面、果ての見えぬ頂。見た事もない筈のそんな景色がタイシンの目の前に広がった。
「……バカじゃん、なんで?あり得ないでしょ、こんなの」
震える声で悪態をつきながら、タイシンは一枚一枚丁寧に目に焼き付けるように封筒に収める。
「もう二度と撮らないって言ってた癖に、嘘つきじゃん」
無性にお腹が空いて仕方なかった。ただ会って話したかった。
「トレーナー。アタシ、絶対勝つから」
「うん」
「信じられる?」
「もちろん。それに信じてるのはきっと私だけじゃないよ」
大事そうに写真をタイシンは胸に抱え込む。今ならどこまでだって走れるような気がした。
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そこへ至る道をひたすら走る。頬を冷たく撫でる風も、遠く繁華街から聞こえてくる喧騒も今は全て心地良かった。暖色の灯りに誘われるように、数ヶ月ぶりにその扉を開く。
エベレストはずっと変わる事がなかったように、そこにあった。
「いらっしゃい、寒かったでしょ」
何ヶ月か振りに見る彼の姿は前と変わらないようでいて、確かに異なる。雪焼けした顔に、削げた頬。少し若々しくなったようなその面構えは彼と初めて会った頃を思い出させた。
言いたい事は山ほどあるのに、そのどれもが彼女の口を突いて出ることはなく。
「アタシ、勝ったよ」
「うん、見てた」
日経賞で三バ身差をつけての勝利。
「ナリタタイシン完全復活!」と色めき立つマスコミのインタビューもそこそこに、トレーナーに諸々の処理を任せてただ一目散に走ってきた。
鳴き出す腹の虫に、今更空腹を自覚する。
「……お腹空いた」
「じゃあ今日はガッツリ目の物にしようか。実の所、冷蔵庫に全然物がないから有り合わせになっちゃうけど」
冷蔵庫や戸棚を検めながら、店主は乏しい材料と睨めっこしながら思案する。数瞬のち、彼はフライパンでオリーブオイルとにんにくを数欠片弱火にかけ始めた。
同時に慣れた手付きでパスタを茹でると、茹で汁をオイルに加えながら馴染ませていく。最後に一口大に切って炒めたベーコンを混ぜると大皿に盛って出す。
「お待たせしました、ペペロンチーノです」
ベーコンだけが具のシンプルなパスタだった。それだけに香り立つにんにくが食欲を刺激する。
「実を言うとペペロンチーノって唐辛子って意味でさ、今回は使ってないからこれは正確に言えばアーリオオーリオなんだ」
店主の薀蓄にはいはいと答えながら、軽く巻いたパスタを口に運ぶ。レースで疲れ切った身体に炭水化物が染み渡るようだった。気持ち塩辛く味付けしてあるのが、塩分を失った身体にするすると入っていく。
無言で食べ進めるタイシンを安心したように眺めていた店主は、気を入れ直すように頬を叩く。
「確かに僕は君に、勝手に自分を重ね合わせてた。でもそれ抜きでやっぱり僕は君が走ってる姿が好きだ。一着を取って誇らしげにしてる姿が好きだ。次は勝つって闘志を絶やさない姿が好きだ。こんなただの一ファンに過ぎないけど」
店主はエプロンを脱ぐと、タイシンの隣の席に腰を下ろす。何年も顔を突き合わせてきた筈なのに、カウンター越しでない彼は初めて見るような気がした。
「良かったら、僕と友達になってくれないかな」
緊張した面持ちで店主が手を差し出す。「はい」や「いいえ」と答える代わりに、節くれ立ってゴツゴツとしたその手を握って彼女はただ一つを問う。
「アンタの事、なんて呼べば良いわけ」
それを聞いて懐かしそうに目を細めながら彼は笑った。釣られてタイシンもくすりと笑い声を漏らす。
「そうだなあ……マスターでどうかな。ほにゃららさんなんて呼ばれ方はしたくない。僕達は客と店主で、アスリートと山岳写真家だ。対等だからね」
ブレブレの写真の癖に、そう詰るタイシンに頬を掻きながら続ける。それはまるであの日の再演だった。
「歳下だからってナメた態度を取るつもりは毛頭ない。だから君、って呼ぶ事にするよ。友達として」
「友達なら今日は奢ってよね」
冗談を飛ばす彼女に苦笑で返しながら店主はフライパンを洗う。和やかな時間が過ぎる中、タイシンは思い詰めた表情で「……一回しか言わないから」とカウンターの古傷をなぞる。
何?と聞き返そうとする店主を、彼女はじっと見上げて微笑みながら呟いた。
「アタシ、この店が好き。ここで食べる料理が好き」
彼にとって料理とはずっと逃避だった。トラウマから目を逸らし、糊口を凌ぐだけの手段に過ぎない。
だが食事を億劫だと言って憚らないその小さなウマ娘の、なんて事のない肯定が彼の逃避行に意味を持たせた。
言葉にならない嘆息だけが漏れて、何も言えないまま店主は天を仰ぐ。一言でも口に出してしまえば、何かが溢れてしまうような気がした。
「ちょっ、マスターなんで泣いてんの!?」
「泣いてないよ」
「泣いてるじゃん」
「泣いてないってば」
嗚咽交じりの店主の笑い声に、呆れたように彼女が鼻を鳴らす。二人だけの店内に、ただ温かな料理だけが彩を添えた。