ようこそ凡人がいく実力至上主義の教室へ   作:神威 

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第32話 静観と傍観の境界線

 夏休みも残り数日となった、ある日の昼下がりのことだ。

 無人島と船上での立て続けの特別試験を終え、学校内に戻った後の敷地内は、どこか祭りの後のような静けさと、迫り来る2学期への足音が混ざり合った独特の空気に包まれていた。

 そんな中、俺は1年Cクラスの教室でも寮の自室でもなく、ケヤキモールの奥にある落ち着いた雰囲気の喫茶店に足を運んでいた。目的は、ある人物からの呼び出しに応じるためだ。

 

「待たせたな、柊」

 

 指定された席で待っていた俺の前に現れたのは、この学校の頂点に君臨する生徒会長、3年Aクラスの堀北学だった。相変わらず隙のない佇まいで俺の対面に腰掛けた彼は、冷たいアイスコーヒーを注文すると、本題を切り出した。

 

「まずは無人島、そして船上での特別試験。見事な立ち回りだったと称賛しておこう。お前の存在が、1年のクラス間のパワーバランスを大きく揺るがしているのは厳然たる事実だ。そして二学期からはお前のクラスはAクラスとなり、Aクラスから引きずり下ろしたBクラスとのクラスポイントの差は二倍近くにまで広がった。これほどの短期間で勢力を塗り替えた男を、俺は他に知らない」

 

 学は感情の読めない瞳で俺を見つめ、運ばれてきたアイスコーヒーに軽く口をつけた。

 

「それともう一つ、礼を言わねばならん。豪華客船のデッキで……鈴音と話し、俺の幻影を払拭するきっかけを作ってくれたそうだな。あいつからメールで聞いた。ようやく自分の足で歩く覚悟を決めたと」

 

 妹の成長を認める兄としての言葉。しかし、その声に滲む僅かな安堵を、俺は見逃さなかった。俺は手元のおしぼりで指先を拭い、そのまま学の視線を受け止める。

 

「礼には及ばないですよ、堀北さん。ただのお節介と捉えていただいて構いませんし、妹さんとの関係が修復に向かったのは純粋に喜ばしいことです。ですが、一つだけ認識を改めていただきたい」

 

 俺はグラスの結露を指先でなぞり、感情が乗っていないトーンで言葉を継いだ。

 

「いくら妹のため、あえて悪役を買って出て突き放したのだとしても、暴力でわからせるのは教育とは呼びません。それは単なる虐待です」

 

 学の眉が僅かにピクリと動いた。室内の空気が一瞬で氷点下まで下がるような圧が対面から放射されるが、俺に感情の揺らぎは一切ない。淡々と、事実を突きつけるだけだ。

 

「一学期、偶々俺があなたと鈴音さんが話している場に遭遇し、あなたが鈴音さんに手を上げようとした時のことです。彼女はあなたの暴力に対して、避けるでも防ぐでもなく、ただ無抵抗にそれを受け入れようとしていた。あの迷いのない硬直は初犯の挙動ではない。過去の家庭環境において、日常的に同様の抑圧が存在していた証拠です」

「……柊、お前は他人の家の内情にまで踏み込むつもりか」

「どうやらあなたは静観と傍観を履き違えているようですね。俺はただ、客観的な事実を述べているだけです」

 

 学の鋭い視線と低く冷徹な警告を受け流し、俺は淡々と言葉を紡ぐ。

 

「いいですか。鈴音さんはあなたをとても慕っており憧れている。だからこそ、あなたが振るう暴力や冷酷な言葉に対して『自分がすべて悪いのだ』と自分を責めて、無抵抗に受け入れてしまう。これは家庭内暴力における被害者の典型的な性質そのものです」

 

 俺は一度言葉を区切り、アイスコーヒーのグラスに手を伸ばして小さく喉を潤した。学の纏う空気が、鋭い警戒から言葉を失ったような沈黙へと変化していくのを肌で感じる。

 

「彼女が最初、あれほどまでに頑なに他人との関わりを拒絶し、コミュニケーションに積極的でなかった本当の原因が分かりますか?」

 

 そう問いかけると、学はしばらく沈黙し、俺の目をじっと見据えたまま動かなかった。その瞳の奥には、冷徹さとは異なる、自分の犯した過ちの深さを突きつけられた者の動揺が微かに揺れていた。

 

「……孤高と孤独を取り違えていたからではないのか」

「分かっているなら、なぜその歪みを生み出した張本人が自分だと自覚しなかったのですか」

 

 俺の静かな追及に、学の視線が僅かに揺れる。その無言を肯定と受け取り、俺は言葉を重ねた。

 

「鈴音さんはあなたに憧れを抱き、その背中を追いかけていた。そのことはあなたも知っているはずです。ですが、追いかける先で待っていたのは、あなたからの過剰な否定と冷遇だった。これは合ってますか」

「……ああ、その通りだ。俺はあいつに、俺の背中を追うことの無意味さを理解させるために、あえて突き放し続けた」

「当時の鈴音さんはあなたのことを他人に頼らず、誰とも群れず、1人で完璧であり続けることなのだと誤認してしまったんでしょうね。だからこそ、彼女はあなたと同じ完璧な人間であろうとして、他人との関わりを持とうと思わなかったり、他人を見下すようになった」

 

 俺は学の瞳を真っ直ぐに見据えたまま、一呼吸置いて、さらに言葉を続けた。

 

「あなたが取るべきだった手段は、暴力でも冷酷な拒絶でもなかったはずです。ただ一言、『俺の真似をするな、お前自身の道を行け』と、正面から向き合って言葉を伝えるだけでよかった。なぜそれしきのコミュニケーションを鈴音さんとしなかったのですか」

「……対話、か」

 

 学は視線を落とし、グラスの中の氷を見つめた。その表情には、生徒会長としての威厳ではなく、一人の兄として抱え続けてきた悔恨の念が滲み出ている。

 

「俺があいつに言葉を尽くしたところで、鈴音は俺の背中を追うことをやめなかっただろう。あいつの俺に対する盲信は、それほどまでに根深いものだった。だからこそ、俺は最も確実で、最も決別を明確にできる手段を選んだつもりだった。それが結果として……あいつの心を歪めさせていたとはな」

「手段の選択を誤ったのは、あなたの怠慢です、堀北さん。あなたがどれほど優秀な人間であろうと、その一点においてのみ、あなたは教育者としても兄としても完全に失格だ」

 

 俺の言葉は、彼のプライドを容赦なく抉る刃となったはずだ。だが、学はそれを否定することなく、ただ静かに受け入れていた。彼ほどの知性があれば、俺の指摘が単なる誹謗中傷ではなく、極めて的確に事実の急所を突いていることくらい瞬時に理解できるからだ。

 店内に静寂が戻る。冷房の風が静かに流れる中、学は深く息を吐き出し、何かを区切るように椅子の背もたれに体を預けた。

 

「……俺の犯した過ちは、鈴音の人生に消えない歪みを作った。それを他でもない、1年の、それも他クラスのお前に指摘されるとはな」

 

 学はそう言って顔を上げると、その瞳に宿る光を再び鋭いものへと戻した。だが、それは先ほどの威圧ではなく、一人の男として俺という存在を正当に見定めようとする強い意志の光だった。

 

「柊。お前はなぜ、そこまであいつの……鈴音の肩を持つ? クラスポイントを競い合う敵同士であるはずだ。あいつが歪んだままでいれば、お前たちCクラスにとって有利に働いたはずではないのか」

「言ったはずです。静観と傍観は違う、と。静観とは状況を見極めることであり、傍観とはただの怠慢です。家庭のいざこざだけなら俺は関わりません。しかし、虐待やDVといった実害が発生している場合、それは社会的に許容できる範疇を超えています。たとえ相手が、この学校の頂点に立つ生徒会長の行いであっても、人として見過ごすわけにはいかない。ただそれだけの話ですよ」

 

 俺は平然と言ってのけ、最後の一口となったアイスコーヒーを飲み干した。

 学は、まるで計り知れない深淵を覗き込むかのような眼差しで俺を見つめていた。

 敵クラスのリーダーを引き上げるような真似をして、自らの不利益になるかもしれないという懸念。凡百の生徒なら当然抱くであろうその疑問に対し、俺が返したのが「人としての倫理観」という、あまりにも真っ当で、かつこの高度育成高等学校においては最も希薄な動機だったからだ。

 

「……人として、か。実力至上主義を掲げるこの学校において、最も脆く、しかし最も強固な基準だな」

 

 学は僅かに目を伏せ、それからふっと小さく息を吐き出した。

 その顔に浮かんでいたのは、これまでの冷徹な威圧感ではなく、自分自身の過ちを完全に指摘され、それを受け入れた者の静かな疲労だった。

 虐待というものは、行う側にどれほど高尚な理由や大義名分があろうと、受ける側の精神を摩耗させ、その人間性を歪める以外の結末を生まない。

 学は他人の家の内情に踏み込むなと先ほど防衛線を張った。これは現実でも、不正を隠蔽したい人間や、身内に高圧的な人間がよく使う典型的な境界線の主張である。

 しかし現代社会では、いくらプライベートな領域(内情)であっても、そこに虐待やDV、ハラスメントという人権侵害(実害)が発生している場合、外部の人間が介入や通報を行うことは社会的義務であるというコンプライアンス(倫理基準)が完全に確立されている。いくら他クラスであろうが関係ない。

 

「あなたがどれだけ社会的な成功を収めようと、妹の心に植え付けた恐怖は消えない。あなたが今なすべきことは、自らの傲慢さを認め、それを彼女に対して言葉で、そして行動で示すことです」

 

 俺の言葉に、学はもはや反論を試みることすらしなかった。

 無言のまま、ただ静かにアイスコーヒーのグラスを見つめている。氷が溶け、カランと小さな音を立てて崩れた。その頼りない音だけが、二人の間に流れる重苦しい沈黙を遮っていた。

 

「……身に染みるな。お前の言う通りだ」

 

 ぽつりと、学が呟いた。

 その声は、全校生徒から畏怖される生徒会長のそれではなく、ただ妹との向き合い方に迷い、間違え、途方に暮れる一人の兄の、ひどく掠れた本音だった。

 

「俺は、あいつを自分の領域から遠ざけることばかりを考えていた。傷つけることでしか、その盲信を断ち切れないと信じ込んでいた。だがそれは……俺自身の弱さであり、対話から逃げ出したツケに過ぎなかったというわけか」

「気づけたのなら、それで十分ですよ。俺があなたに求めているのは、過去の反省ではなく、これからの選択です」

「これからの選択、か……」

 

 学は視線を落としたまま、その言葉を反芻するように小さく呟いた。

 彼の指先が、グラスの表面を伝う水滴を静かに撫でる。その動作は、常に完璧を求められ、自らもそれを体現し続けてきた男にしては、ひどく人間らしく、そして迷いに満ちたものに見えた。

 学は手元の腕時計に視線を落とし、そして、何かを確信したような目をして入口の方向へと顔を向ける。

 

「……そろそろ時間だな」

 

 その言葉と同時に、喫茶店の扉に取り付けられたベルが涼やかな音を立てた。

 気配を感じて俺が視線を向けると、そこには一人の少女が立っていた。

 

「お待たせしました、兄さん」

 

 聞き覚えのある凛とした声。しかし、その姿は俺の記憶にある彼女とは決定的に異なっていた。

 腰のあたりまで長く伸びていたはずの漆黒の髪が、耳の下のラインで綺麗に切り揃えられている。軽やかになったショートカットの髪型は、彼女の端正な顔立ちをより際立たせ、どこか吹っ切れたような明るい印象を周囲に与えていた。

 堀北のその姿に学もその姿を目に焼き付けるように、静かに視線を固定した。

 

「……鈴音か。時間通りだな」

「はい……あら、柊くん。あなたもいたのね」

 

 堀北は学の隣の席に視線を落とし、そこに俺が座っているのを見て僅かに目を見開いた。驚きを隠せないといった様子だが、豪華客船のデッキでの一件があったせいか、以前のような刺々しい警戒心は霧散している。むしろ、その瞳にはどこか歓迎するような色すら混ざっていた。

 

「ああ。生徒会長さんから少し話があると呼び出されてね。髪、切ったんだな」

「……ええ。これまでの自分との決別、そして新たな一歩を踏み出すための区切りよ」

「座るといい」

 

 学に促され、堀北は少し緊張した面持ちで俺の隣の席へと腰掛けた。

 彼女が注文したストレートティーが運ばれてくるまでの間、店内に流れるのは、先ほどまでの張り詰めた空気とは異なる、どこか手探りのような静けさだった。

 堀北は手元で小さく指を組み、それから意を決したように学の目を見つめた。

 

「無人島、そして船上の試験……結果は耳に入っていると思います、兄さん。私は、クラスの皆の力を借りながらも、最後まで諦めずに戦い抜きましたが、結果はまだまだ満足のいくものではありませんでした。ですが、以前の私のように、ただ周囲を突き放すだけでは何も成し遂げられないということだけは、身に染みて理解しました」

 

 その言葉には、かつての悲壮感や兄への盲信はなかった。彼女はただ、自分の足で冷酷な現実へと一歩を踏み出したという、純粋な事実を提示していた。

 俺は隣に座る彼女の様子を観察する。呼吸は深く安定しており、肩の余計な力は抜けている。腰まであった長い髪を切り落としたことは、彼女が長年抱え込んできた不要な心の重荷を捨てるために、極めて有効な選択だったようだ。今の彼女からは、以前のような刺々しい虚勢は消え失せ、すっきりと洗練された空気が漂っていた。

 学は運ばれてきたアイスコーヒーのグラスを見つめたまま、しばらく無言を貫いた。

 堀北がその沈黙に僅かな不安の色を滲ませ、膝の上の拳をぎゅっと握りしめようとした、その瞬間だった。

 

「……よくやったな、鈴音」

 

 学の口から漏れ出たのは、低く、しかし明確な肯定の言葉だった。

 

「え……?」

 

 堀北の思考が完全に停止したのが分かった。端正な顔立ちが驚きに固まり、その瞳が大きく見開かれる。無理もない。これまでどれだけ努力しようと、追いかけようと、返ってきたのは冷酷な拒絶と否定の言葉だけだったのだ。それが、生まれて初めて正面から認められたのだから。

 

「お前が周囲の協力を得て、クラスをここまで引き上げた手腕は認めよう。だが、ここからが本番だ。2学期以降、お前たちの前にはさらに巨大な壁が立ちはだかる。決して驕るな」

「はい……! はい、兄さん……!」

 

 堀北の声が明確に震えていた。ずっと求めていた兄からの承認を受け取り、彼女の心の中にあった暗い澱みが急速に消え去っていくのが見て取れる。

 

「そして、あの頃のお前に戻れたようだな、鈴音」

「昔、俺が長い髪が好きだと言ったのは噓だ。短い髪型を好んでいたお前が、俺の言葉をどこまで真に受けるかどうか確かめるために、つまらん嘘をついてしまった……だが今のお前を見て、本当の自分に戻れたのだと、そう確信した」

「……っ、兄さん……」

 

 堀北の目から、一筋の涙が静かに頬を伝い落ちた。

 学のその言葉は、単に髪型を褒めたのではない。長い間、兄の嘘の好みに合わせるために自分を偽り、長い髪に縛られ続けてきた堀北の呪縛を、兄自身の口から解き放った瞬間だったのだ。

 兄の言葉を盲信し、自分を見失っていた過去の自分との完全な決別。堀北は何度も小さく頷きながら、手元のハンカチで必死に涙を拭った。その横顔には、これまでの頑なな殻を脱ぎ捨てた、年相応の少女としての純粋な美しさがあった。

 俺は二人のやり取りを、ただ静かに見守っていた。

 学が堀北に伝えたその告白と謝罪は、俺が先ほど彼に突きつけた「対話から逃げ出したツケ」という言葉に対する、彼なりの精一杯の回答であり、選択なのだろう。生徒会長としての威厳を捨て、一人の不器用な兄として妹に向き合おうとしているその姿は、この学校においては奇跡に近い変化だ。

 

「ありがとう……ございます、兄さん。私……私は、ずっと……」

「もういい、鈴音。言葉にする必要はない。お前の覚悟は、その姿が十分に証明している」

 

 学の声音は、いつになく穏やかだった。俺と二人きりで話していた時の、あの自分の過ちを突きつけられて苦悩していた兄の姿はそこにはない。完璧な生徒会長としてではなく、一人のまっとうな兄として、目の前の妹とようやく心を通わせている。そんな二人のやり取りを、俺は少し離れた位置から、ただの観客として静かに見守っていた。

 実害のあった行き過ぎた抑圧は、俺の指摘によって修正された。あとはこの兄妹が、自分たちの力でこれまでの空白の時間を埋めていけばいいだけだ。俺がこれ以上、この場に長居する理由は見当たらない。

 俺は冷え切ったアイスコーヒーのグラスをそっと置き、手元の伝票を引き寄せながら立ち上がろうとした。

 

「用件は済んだようですし、俺はこれで失礼しますよ」

 

伝票を指先で挟みながら俺がそう告げると、ハンカチで目元を拭っていた堀北がハッと顔を上げた。まだ少し赤みの残る瞳で、彼女は驚いたように俺を見つめる。

 

「え、柊くん、あなたもう行ってしまうの? せっかく兄さんがあなたを呼び出したというのに、私たちはまだまともにお礼も……」

「俺への礼なら、さっき堀北さんから十分に受け取った。それに、今の二人の間に、俺が居座り続けるのは無粋というものだろう」

 

 俺は平然と言ってのけ、椅子の背にかけていた上着を手に取った。

 堀北は何か言いかけたように唇を僅かに動かしたが、隣に座る学が静かに手を挙げたのを見て、それ以上言葉を続けるのをやめた。

 

「引き止めて悪かったな、柊。お前のおかげで、俺もようやく一つの踏ん切りがついた」

 

 学は感情の読めないいつもの瞳に戻っていたが、その声のトーンには、先ほどまでの張り詰めた冷徹さは微塵もなかった。一人の男として、俺という存在に対して最大限の敬意を払っている大人の男の顔だった。

 

「いえ、どういたしまして。あとはお二人で、これまで足りていなかった会話の時間でもゆっくり楽しんでください」

 

 それだけ言い残し、俺は受付で会計を済ませて喫茶店を後にした。

 自動ドアが閉まり、背後から涼やかなベルの音が遠ざかる。外に出ると、夏の終わりの厳しい西日が肌をじりじりと焼いたが、俺の心に揺らぎは一切なかった。堀北鈴音という少女の心に巣食っていた大きな歪みは、これで綺麗に修正された。二学期以降、彼女がリーダーとしてどのような成長を見せるのかは、純粋に興味深いところだ。

 

 

 

 喫茶店の自動ドアが静かに閉まり、涼やかなベルの音が余韻を残して消えていく。

 私の視線は、柊くんが去っていったガラス扉の向こう側に、しばらくの間だけ釘付けになっていた。

 ……行ってしまった。

 本当に、風のように現れて、嵐のように私の心を揺さぶっては、何事もなかったかのように平然と去っていく人。

 豪華客船のデッキの時もそうだったけれど、彼はいつだって私が必要としている言葉を、求めている答えを、まるで最初から知っていたかのように差し出して、そのまま自分の世界へと帰ってしまう。

 胸の中に残る、少しだけ取り残されたような寂しさを誤魔化すように、私は手元のストレートティーのカップに視線を落とした。温かい紅茶から立ち上る湯気が、私の視界を僅かに潤ませる。

 隣に座る兄さんの気配を感じて、私はハッと背筋を伸ばした。

 そうだ。今は柊くんのことを考えている場合ではない。私にとって、人生で最も大切な瞬間が、今まさにこの場所で訪れているのだから。

 

「……鈴音」

 

 低く、耳に心地よい兄さんの声が、私の名前を呼んだ。

 私はハンカチを握りしめたまま、恐る恐る、けれどまっすぐに隣の兄さんを見つめた。

 先ほど、兄さんの口から告げられた、長い髪にまつわる衝撃的な事実。兄さんが私を試すためについた、小さくて、残酷な嘘。

 それを知った瞬間、私の目からは涙が溢れて止まらなかった。けれど、その涙は決して悲しみや絶望の涙ではなかった。

 私の心を長年縛り付け、暗い檻の中に閉じ込めていた呪いが、兄さん自身の言葉によって、音を立てて崩れ去っていくような……そんな、言葉にできない解放感に満ちていた。

 

「驚かせたな。あのようなくだらない嘘で、お前を長い間縛り付けていたこと……本当にすまなかったと思っている」

 

 兄さんは、冷え切ったアイスコーヒーのグラスを見つめたまま、静かに、けれど明確な悔恨の念を滲ませてそう言った。

 全校生徒から恐れられ、完璧な存在として君臨する生徒会長。その兄さんが、私に向かって「すまなかった」と謝罪の言葉を口にしている。

 その事実だけで、私の胸は張り裂けそうだった。

 

「いいえ……いいえ、兄さん。謝らないでください。私は……私はただ、あなたに認めてもらいたくて、あなたの背中に少しでも近づきたくて、自分勝手に長い髪にこだわっていただけですから。兄さんの本当の気持ちを聞くことができて、私……今、とても救われた気持ちです」

 

 私は必死に声を震わせないようにしながら、自分の本心を言葉にした。

 敬語を使う私の言葉が、どこまで兄さんの心に届いているかは分からない。けれど、兄さんは私の言葉を遮ることなく、じっと最後まで聞いてくれた。それだけで、今までの孤独な努力がすべて報われたような気がした。

 

「そうか。お前がそう言ってくれると、俺の犯した過ちが少しだけ救われるような気がする。だがな、鈴音。俺がお前に謝らなければならないことは、髪型のことだけではないのだ」

 

 兄さんはそう言うと、ゆっくりと顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめてきた。

 その瞳の奥にある感情を読み解こうとして、私は息を呑む。

 いつもの冷徹で、他人を寄せ付けない氷のような瞳ではない。そこにあったのは、一人の不器用な兄としての、深い迷いと、激しい葛藤の跡だった。

 

「俺は……お前をこの学校へ来させるべきではないと考えていた。俺の背中ばかりを追い、自分自身を見失っているお前を見て、これ以上先へ進めば必ずどこかで破滅すると信じ込んでいたからだ」

「それは……分かっています、兄さん。私が至らないばかりに、あなたに迷惑をかけてしまって……」

「違う、鈴音。お前の話ではない。俺自身の話をしている」

 

 兄さんは私の言葉を優しく、けれど断固としたトーンで否定した。

 

「俺は、お前を突き放し、冷酷に拒絶し、時には力ずくでわからせようとすることだけが、お前を俺という依存から引き離す『最も確実な手段』だと盲信していた。言葉を尽くしてもお前は聞かないと思い込み、正面から向き合う対話から、俺自身が逃げ出していたのだ」

 

 兄さんの口から語られる言葉の数々は、私の想像を遥かに超えるものだった。

 兄さんが、対話から逃げていた?

 そんなはずはない。兄さんはいつだって完璧で、いつだって正しくて、間違っているのは常に私の方だったはずなのに。

 

「お前を傷つけることでしか、その目を覚まさせることができないと思い込んでいた俺の傲慢さが、結果としてお前の心を歪め、他人を拒絶する孤独な人間に育て上げてしまった。……俺は、兄として、完全に失格だったのだな」

 

 兄さんは自嘲気味に、ふっと小さく笑った。その笑顔は、ひどく痛々しくて、見ていられないほどだった。

けれど、その言葉を聞いているうちに、私の頭の中に、ある一つの疑問が浮かんできた。

 なぜ、兄さんは今、急にこんな風に自分を責めるような告白を始めたのだろう。

 確かに、私は豪華客船のデッキで柊くんと話し、自分の足で歩く覚悟をメールで兄さんに伝えた。けれど、あのメールだけで、あの頑なだった兄さんが、ここまで劇的に態度を変え、私に対して過去の非を認めるなんてことが、果たしてあり得るのだろうか。

 兄さんの言葉の端々に漂う、自分の過ちを完全に誰かに指摘され、突きつけられたかのような、静かな疲労感。

 その時、私の脳裏に、先ほど平然と席を立って去っていった、あのCクラスの少年の姿が鮮烈に蘇った。

 

『俺への礼なら、さっき堀北さんから十分に受け取った』

『今の二人の間に、俺が居座り続けるのは無粋というものだろう』

 

 柊くんは、そう言っていた。私がこの店に到着する前、この席では、兄さんと柊くんの二人だけで話が行われていたはずだ。

 まさか――。

 

「兄さん。一つ、お聞きしてもよろしいですか」

 

 私はカップを机に置き、震える声を必死に抑えながら尋ねた。

 

「お前が来る前、俺が柊と何を話していたか、気になるか」

 

 兄さんは私の心中を察したように、先を促した。

 

「はい。柊くんは、兄さんと何を話していたのですか? 彼は、あの豪華客船のデッキでのことについて、兄さんからお礼を言われていただけだと言っていましたが……」

 

 兄さんはしばらく沈黙し、溶けかけた氷がカランと音を立てるのを見つめていた。それから、深く、深く息を吐き出して、私を見た。

 

「鈴音。お前は、あの柊美輝という男を、どのように評価している」

「え……? どのように、と言われましても……」

 

 急な質問に、私は戸惑ってしまった。

 柊くん。Cクラスの生徒であり、今回の特別試験でAクラスを完璧に叩きのめし、私たちのクラスを大きく引き離してトップに躍り出た男。

 冷徹で、何を考えているか分からなくて、いつも能面のような無表情で淡々と状況を処理していく、底の知れない不気味な存在。

 けれど、豪華客船のデッキで私に、兄の幻影を追っているだけだという冷酷な現実を突きつけ、同時に私が前を向くためのきっかけをくれた、恩人。

 

「……とても、不思議な人です。敵であるはずの私に対して、時に残酷なほどの現実を突きつけてきたかと思えば、私が本当に困っている時には、そっと背中を押してくれるような……そんな、計り知れない人です」

 

 私が素直な感想を口にすると、兄さんは僅かに目を細めた。

 

「そうだな。計り知れない、というのは正しい。あいつは……柊は、お前がこの店に到着する直前まで、この俺の目を真っ直ぐに見据えたまま、一度も怯むことなく俺の間違いを完全に認めさせたよ」

「――ッ! 柊くんが、兄さんを……!?」

 

 驚きのあまり、私の口から小さな悲鳴が漏れた。

 あり得ない。信じられない。

 あの兄さんに自らの非を認めさせる人間なんて、この学校に存在するはずがない。ましてや、彼はまだ入学したばかりの1年生なのだ。いくら特別試験で優秀な成績を収めたからといって、生徒会長である兄さんに真っ向から異を唱え、その考えを改めさせるなんて、普通なら考えられない。

 

「驚くのも無理はない。だが、事実だ。柊は俺に向かって、平然と言い放ったのだ。『暴力でわからせるのは教育ではない。単なる虐待だ』とな」

 

 兄さんの口から語られる柊くんのセリフは、あまりにも過激で、あまりにも恐ろしいものだった。

 虐待。そんな言葉を、兄さんに向かって直接ぶつけた人間が、過去に一人でもいただろうか。

 

「柊は、一学期に俺がお前に手を上げようとした時のことを細かく観察していた。お前が避けることもせず、無抵抗にそれを受け入れようとしていた姿を見て、それが『過去からの日常的な抑圧の証拠』だと一瞬で見抜いたのだ。そして、お前が他人との関わりを拒絶し、頑なに孤独でいようとした本当の原因は、俺が植え付けた恐怖と否定のせいだ、と……俺の目の前で、淡々と、客観的な事実だけを並べて突きつけてきた」

 

 兄さんの言葉を聞いているうちに、私の全身に鳥肌が立っていくのが分かった。

 柊くんは、そこまで見ていたの? あの、一学期の、ほんの一瞬の出来事を?

 私が兄さんの前で怯え、硬直していたあの醜い姿を、彼はただの客観的なデータとして冷静に分析し、私の心の奥底に巣食っていた傷の原因を、すべて特定していたというのかしら。

 

「俺はあいつに聞いた。なぜ、敵クラスの生徒である鈴音のために、そこまで他人の家の内情に踏み込むような真似をするのか、とな。鈴音が歪んだままでいれば、自分たちCクラスにとって有利に働くはずではないのか、と」

 

 兄さんの問いかけは、実力至上主義のこの学校においては、あまりにも当然の疑問だった。

柊くんにとって、私を助けるメリットなんて何一つない。むしろ、私が立ち直ってクラスのリーダーとして成長すれば、彼のクラスにとっては脅威になるはずなのだ。

なのに、なぜ。

 

「彼は何と言ったんですか、兄さん……?」

 

 私は、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じながら、必死に尋ねた。

 柊くんが、どんな理由で私に関わったのか。どんな計算があって、あの兄さんの考えを完全に改めさせたのか。それを知るのが、怖くもあり、同時にどうしても知りたかった。

 兄さんは、少しだけ遠い目をして、柊くんが座っていた空っぽの席を見つめた。

 

「あいつは平然と言った。家庭のいざこざなら関わらないが、虐待や実害が発生している場合、それは社会的に許容できる範疇を超えている、と。たとえ相手が学校の頂点に立つ生徒会長であっても、人として見過ごすわけにはいかない……ただそれだけの話だ、と」

「人として……見過ごせない、から……?」

 

 その言葉が、私の胸の奥に、言葉にできないほどの大きな衝撃となって突き刺さった。

 利益のためではない。クラスのポイントのためでも、私を利用するためでもない。

 ただ、人として、間違っている実害を見過ごせないという、あまりにも真っ当で、あまりにも純粋な理由。

 この学校の誰もが、自分の利益のために他人を蹴落とし、利用し合っているというのに。綾小路くんと同じような無表情な顔をした柊美輝という少年だけは、そんなドブ川のような損得勘定とは全く違う、もっと高潔で、もっと強固な人としての基準だけで動いていたのだ。

 

「柊は、俺のプライドを完璧にへし折った上で、こう締めくくった。『あなたが今なすべきことは、自らの傲慢さを認め、それを彼女に対して言葉で、そして行動で示すことです』と。……お前が店に入ってきた時、俺がお前に髪型の嘘を告白できたのは、他でもない、柊が俺の背中を無理やり押して、対話の席に就かせたからなのだ、鈴音」

 

 私の頭の中は、激しい混乱と、それを遥かに上回る衝撃で満たされていた。

 そうだったのね。

 私がずっと求めていた、兄さんからの優しい言葉。私がずっと解き放たれたかった、長い髪の呪縛。

 そのすべてを私に気付かせ、兄さんの頑なな考えを完全に改めさせてまで、私たちが向き合うための舞台を用意してくれたのは他でもない、あの柊くんだったのだ。

 彼は、私が来る前に、あの絶対的な兄さんと対峙し、その教育方針を正面から正したのだ。私への不当な抑圧を、兄さんに自覚させるために。

 いつも感情の起伏が見えない、あの無表情の裏で、誰よりも私の抱えていた傷を見抜き、私の尊厳を取り戻すための環境を整えてくれていたのだ。

 

「柊くん……あなたって人は、どこまで……」

 

 ハンカチを握りしめる手に、自然と力がこもる。

 胸の奥が、これまでに経験したことのないような、不思議な熱さで満たされていく。それは、兄さんに対する憧れや依存とは全く違う、もっと深い場所から湧き上がってくる、強烈な感情だった。

 敵クラスの人間である私に対して、これほどの救いを与えてくれた彼を、私はこれから先、どのような目で見ていけばいいのだろう。

 

「鈴音。柊は、2学期以降のお前たちのクラスにとって、最大の壁となるだろう。あいつの視野は、この学校のルールすらも超越している。だが……」

 

 兄さんは立ち上がり、私を見下ろした。その表情には、どこか晴れやかな色が混ざっていた。

 

「あいつが敵であることは不幸だが、あいつという存在に出会えたことは、お前の人生にとって、最大の幸運かもしれないな」

「……ええ。本当に、その通りだと思います、兄さん」

 

 私は短くなった自分の髪にそっと触れながら、静かに、けれど強く頷いた。

 柊くん。あなたは私をこれからの選択へと導いてくれた。なら、私の選択はもう決まっている。

 2学期以降、私はあなたの本質がどこにあるのかを、この目で確かめたい。これほど大きな借りを一方的に作られたままで終わるつもりはない。私は全力で、あなたのいる高みへと追いついてみせる。

 喫茶店の窓から差し込む、夏の終わりの強い西日を浴びながら、私は胸の中に新しく書き込まれた、柊美輝という少年の存在を、決して消えない大切な記憶として、深く、深く刻み込むのだった。

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