中学三年の、四月八日のことだった。
体育館で始業式と入学式を終えて教室に戻った僕らに、担任は『進路希望調査』と書かれた一枚のプリントを配った。第三志望まで記入し、下校時刻までに提出しろ、とのことだ。
「じゃあ先生は忘れ物取りに行くけど。真面目にやれよー」
「はぁーい」
「忘れ物をした」と言い、先生が教室を出ていく。通常、二階の教室から一階の職員室への往復は、三分もかからない。しかし欠伸まじりにやる気なく出ていく姿を見るに、しばらくは戻って来ないだろう。
十数分頃にはきっと全身に缶コーヒーと煙草の臭気を纏い、気怠さを隠しもせず戻ってくる。そして教壇にだらしなく凭れながら、帰りのHRを適当に終わらせる。あの先生は、いつもそうだ。
担任不在の教室で、やんちゃ盛りの中学生が大人しくしていられるはずもない。生徒たちは先生の足音が遠ざかるのを聞き届けると同時に、ある者は席を立ち、ある者はスマホを取り出してゲームを始めた。
華々しい個性を持つ生徒には、取り巻きが付き物だ。かっちゃん───爆豪勝己の周囲には何人かの男子が集まり、大袈裟な口調で彼を褒めそやしていた。
「カツキ、雄英志望!?マジかよ!」
「いやでも爆豪ならヨユーっしょ!」
かっちゃんはそんな賞賛に対し、「当然」と言わんばかりに鼻で笑った。彼の斜め後ろに座る僕は、なんとなく左腕でプリントを隠し、こそこそと進路希望を記入した。
第三志望までの高校名を書き終え、両腕を天井に向けて伸びをし、一息つく。その瞬間、開け放した窓から吹いてきた風が一枚の紙をさらっていく。
「あ」
慌てて席を立ちプリントを追いかけるも、間に合わなかった。風に遊んだ紙は無情にも、かっちゃんの近くにいた取り巻きの足元にひらりと落ちた。
「ん?誰のだこれ?えーと……なんだ緑谷かよ」
「おい、見てみろよ!第一希望『雄英』だって!」
「うっわ、緑谷お前さぁ〜中三にもなって夢見んなって。正直引くわ……」
「───無個性のてめェが!なぁんで俺と同じ土俵に立てると思ってンだ!?」
聞こえる嘲笑は、取り巻きの数人だけではない。隣の女子も、後ろの席の男子も僕を笑った。やがてその“笑顔”の輪は、クラス中に広がっていく。
かっちゃんが僕の机の上に掌を叩きつけ、轟音を立てて爆破すると、いよいよ賑やかな笑声が弾けた。僕はしどろもどろになりながら、両手を振って声を絞り出す。
「ち、違うよかっちゃん!別に同じ土俵とか……張り合おうとか……そういうんじゃないし……それにその、やってみないとわかんない、し……」
「ああ゛!?馬鹿かてめェ!やる前からわかりきってんだろーがクソナード!!」
「……っ、と、とにかくプリント返してよ……」
「出来損ないのデクが、俺に指図か?……あー、そんなにヒーローになりえてぇんなら、いい方法があるぜ」
幼なじみは人差し指で上を指し、言った。
「来世で個性が宿ると願って───屋上からのワンチャンダイブ!」
何を言われたのか、一瞬、わからなかった。
数瞬後、その意味を理解し、はらわたが熱を持つ。目の前が白黒に点滅し、周囲のざわめきすら聞こえなく───、
「あたしも雄英志望よ、カツキーヌ」
視界の端で、黒が蠢いた。虚を突かれたように
「あたしもヒーロー科に行く。可愛い従兄妹が同じ志望校で、嬉しいでしょ?」
「……は?」
彼女───爆豪瞳巳の個性で生み出された髪の蛇が、放心するかっちゃんの肩をぺちぺちと叩く。
はっと我に返り「聞いてねーぞクソ蛇!」と怒鳴る彼にも、瞳巳ちゃんはどこ吹く風。「サプライズ成功〜!」と、ころころ笑う彼女に、やがて取り巻きたちも堪えきれずに吹き出す。
「ぷっ……!まあ瞳巳ちゃんなら雄英でも受かるかもな。ウチの中学が誇る才色兼備だし!」
「いいよなぁカツキは。オレもこんな美人な親戚と高校通いたかったわ〜」
「ふふん。あたしのお姉ちゃん達も雄英生だったのよ。さらにあたしたちが受かれば、『爆豪家は超優秀!』って逸話が残せるわ。賢くて可愛い瞳巳ちゃんに感謝してね?」
「するわきゃねーだろ脳ミソ腐ってんのか焼き蛇にすんぞクソブス!!」
「こわ。カチャトーラの個性は“目を三角にする”能力なのかしら?」
「表出ろやァ……」
「寒いからイヤ」
注目の的は、僕から瞳巳ちゃんへと移り変わった。もはや誰も僕のことなんて見ちゃいない。くしゃくしゃになったプリントは、彼の取り巻きからあっさりと僕の手元に戻ってきた。
彼女はいつだって、輪の中心で華々しく微笑んでいる。借り物の口調で、憧れのあの人を模倣している。
担任によって進路希望の紙は回収され、放課後になった。
始業式の今日は、部活や委員会の活動がない。生徒たちは足早に校門を出て、カラオケや近くのファミレスに向かった。
僕は幼なじみの手によって二階の窓から放り投げられた『将来のためのヒーロー分析ノート』を取り戻しに、鯉や亀たちが泳ぐ池に来ていた。
薄緑に濁った池には、萎れた桜の花びらがいくつも浮かんでいる。必死に手を伸ばし、水面からそれを取り上げると、学ランの袖は濡れてしまっていた。
母のように“周囲の物を引き寄せる”個性があれば。今朝のシンリンカムイのような、“腕を木の枝のように伸ばせる”個性があれば。こんな風に必死に手を伸ばす必要なんてなかった。いやそもそも、幼なじみからこんな仕打ちを受けることはなかった。
もしも、僕が無個性でなければ。
そんな考えが脳裏をよぎったが、頭を振ってすぐに打ち消す。僕はこれでよかったんだ。優しい母に愛され、何不自由なく育った。それはどんな個性とも引き換えられない、幸せなことだ。
それに、無個性だからと最初から諦めていては、『超カッコイイヒーロー』なんて夢のまた夢だ。
「気にしない、気にしない……オールマイトならこんな逆境だって、笑って乗り越える……」
俯いてノートの水気を払い、それをタオルでくるんで通学鞄に仕舞った。
「出久、もう帰るのかしら?」
「トぁぁぁ!?」
どうせこんな何も無いところに残っているのは、僕だけだとたかを括っていた。だから突然声をかけられ、飛び上がって池に頭から突っ込みそうになる。
目を固く瞑り、顔面を襲うであろう着水の衝撃に備える。だが、覚悟していた感触は一向に訪れない。「あれ?」と恐る恐る目蓋を開くと、上半身に巻き付く一匹の黒蛇。
艶々とした蛇の先を辿ると、そこには長い黒髪を揺らす、もう一人の幼なじみが立っていた。彼女が髪から蛇を伸ばし、体勢を崩した僕の上半身を固定してくれたのだろう。
「危なかったぁ。突然声掛けてごめんなさいね出久」
「そ、そんなことないよ!ありがとう瞳巳ちゃん」
しかし何故、瞳巳ちゃんがこんなところにいるのだろうか。人気者の彼女はてっきり、友人たちとファミレスかどこかに遊びに行くものだと思っていたのに。
「どうして一人でこんな場所に?」と聞くと、彼女は「出久の後ろ姿が見えたからよ」とたおやかに微笑んだ。
目の前の少女は、物心ついた時から知る幼なじみだ。たとえ目隠しをしていても可憐だとわかる、美しい少女だ。その笑みは、誰もが好感を抱くであろう穏やかさを湛えている。大人びた振る舞いに、誰もが彼女を信頼する。
それなのに僕は───彼女の柔らかな笑みが、たおやかな仕草が、好きではなかった。目隠し越しの笑みに、思わず眉を寄せて呟いてしまう。
「どうして、そんな風に笑うの?」
「……え?」
「っあ、違うよ!?そういう意味じゃなくて……でも何かさ、最近の瞳巳ちゃんは……前よりもっと“あの人”に近づこうとしてるみたいで……」
無理をしているような、気がした。
サイズがまるで合わないヒールの靴を履いて、細い綱の上を歩かされているような。俯いて、決められた道筋を必死に辿っているような。
「前はもっとこう……にかーって、さ。歯を見せて笑ってたよ。口調だって、そんな感じじゃなかったよ。……無個性の僕なんかにこんなこと言われて、嫌かもしれない。でも、瞳巳ちゃんは時々」
「たすけて」って顔、してるから。
瞳巳ちゃんは、僕の自慢の幼なじみだ。かっちゃんと共に、いつだって僕の前を走っていた。姉のように手を引いてくれる少女だった。
そんな彼女に僕が何かを言うのは、間違っているかもしれない。ただのお節介かもしれない。それでも、体は勝手に動いていた。僕は瞳巳ちゃんに向けて、右手を差し出していた。
***
気が付けば、爆豪瞳巳は───私は差し伸べられた出久の手に縋り、祈るよう両手で握りしめていた。
「ねぇ出久。あたし───私と一緒に逃げようって言ったら、どうする?」
「……え?」
出久は困惑を隠しもせず、緑の双眼をまんまるに見開いた。それは当然だろう。幼なじみから突然こんなプロポーズ紛いの、意味のわからないことを言われたのだから。
言葉を探し、口を幾度も開閉させて戸惑う彼に、私は独白を連ねた。
「あのね。夢を見るの。睡さんが死んでしまう夢。出久と勝己が遠くに行ってしまう夢」
「夢のなかの私は本当に愚図で、それを見ているだけなの。出久はすごい力を手に入れて、オールマイトみたいに活躍する。でも高校に入ってからずっと戦ってばかりで、何度も何度も酷い怪我をする。指も腕も足も何度も骨折して、すごく痛そうだった。それで最後はぼろぼろになって、皆を守るためにひとりぼっちになっちゃう」
「私は、出久をそんな未来に連れていこうとしてる。今日これから起こる“あの事件”に、あなたを送り出そうとしてる。死ぬ程苦しいってわかってる場所に、一歩間違えれば簡単に死んじゃうような危険な道に突き飛ばそうとしてる。出久は、あの夏もその後も、私を守ってくれたのに。なのに私は……!」
自らへの嫌悪に迫り上がる嘔吐感を堪える。浅くなった呼吸もそのままに、私は目隠しを解き、金の両目で彼を見つめた。
「ねぇ。出久は、ヒーローになりたい?本当の本当に?いつか『出久が負けたら世界が終わっちゃう』って場面になっても怖くない?それでも超カッコイイヒーローになりたい?───今ならまだ間に合うよ」
私は出久の温かな右手に縋り、地を這いずるように喚いた。今この瞬間が最後の分岐点だった。
あの時間に、あの場所に行かなければいい。出久を誘って近くのファミレスに寄って、チーズインハンバーグやコーンポタージュをお腹いっぱいに食べて、普通に家に帰ればいい。そうすれば、出久はヘドロのヴィランになんか狙われない。オールマイトにも出会わない。OFAはどこかの雄英生が継ぎ、どこかで勝手に戦ってくれるだろう。そうすれば緑谷出久は、何の苦痛もなく生きられる。
私はその“出久の代わり”の主人公とともに、ミッドナイトの運命を変える。泥に塗れるのは私だけでいい。
「僕は」
長い沈黙の後、出久が口を開いた。
「君はヒーローになれる」
緑谷出久は、爆豪瞳巳の手を取らなかった。彼はオールマイトに出会ってしまった。もう後戻りは出来ない。
「あーあ。結局こうなるんだね」
出久は、心優しい少年だ。強い子だ。無個性だというだけで酷い仕打ちを受けようが、人を憎まない。決して夢を諦めない。
彼はどんなに痛くても怖くても、逃げ出さない。「救けを求める人がいる」と、ただそれだけの理由でどこまでも走っていける、本物のヒーローだ。
私にとっての彼は、もうずっと前から“漫画のキャラクター”ではない。弟のように可愛い、自慢の幼なじみだ。一人の人間だ。私は出久が大好きだ。
だからこそ───許せなかった。
死にゆく私と親友を救わなかった、前の世界の人々。七歳の夏、「誰かが助けるだろう」と三人の子供を見ているだけだった、この世界の人間たち。
そんな救う価値もないその他大勢のために、出久は悩み、幾度も傷を負う。命を懸けて戦う。
「大っ嫌いだよ」
大切な家族、睡さん、出久、勝己。私は、あなたたちだけのヒーローになりたい。それ以外の人間など、私の目には映らない。
いっそみんなでアメリカにでも逃げようか。テレビでAFOとオールマイトとの戦いを他人事みたいに眺めて、週末は楽しく海とか山にでも行こうか。
袋小路の夢を見ながら、私は今日も目蓋を閉ざした。