爆豪勝己は、爆豪瞳巳が大嫌いだった。春や夏に降る、生ぬるい雨も嫌いだ。梅雨特有の分厚い曇り空や、じっとりと陰鬱な空気が漂う七月という月も、全部まとめて気に食わなかった。
あれは小学校に上がったばかりの、七月十八日のことだ。あの記憶喪失騒動から一年と数ヵ月が経ち、瞳巳の家族もようやく平穏を取り戻せた、そんな時期。勝己たち幼なじみ三人は秘密基地に集まり、色鉛筆や自由帳が入った手提げ袋を持ち寄り、『将来着たいヒーロースーツ』について“秘密の定例会議”をしていた。
秘密基地といっても、何てことはない。いつも遊んでいる公園の近くの、誰も訪れない古びた神社の裏だ。それでも、幼い彼らにとっては自分たちだけの大切な居場所だった。
一度だけ、土地の管理者の男に「ここで勝手に遊ぶな」と怒られたことがある。しかし黄金の両目を潤ませた美幼女の可愛らしい「お願い」で、あっさりと籠絡。今ではたまにお菓子をくれたり、「早く帰らないと日が暮れちゃうよ」と気にかけてくれるようになった。
三人は同じように、『7』のロゴマークが入った半透明の小さなビニール袋を携えている。中身はすぐ近くのコンビニで買った、ガリガリ君だった。
「むぐぐ……あかないよ……」
「出久くん、それじゃアイスがパーンって飛び出しちゃうよ。手も汚れちゃうかも。ほら、貸して?」
「あ、ありがとう瞳巳ちゃん!」
瞳巳には、幼い出久が力任せに包装を開けようとしている姿が危なっかしく見えたらしい。ガリガリ君メロンソーダ味を受けとると、綺麗に包みを開けゴミをきちんとコンビニ袋にしまった。そして透明な冷気を上げる薄緑のアイスを、躊躇いなく出久の口元に持っていった。
「出久くん、あーんして」
「あー……んむ!おいひぃ~!」
「弟力50万、か……」
「?」
同い年の彼らは何の躊躇いもなく、年の離れた姉弟じみたやりとりをする。瞳巳はこの一年で、人が変わったように大人びた。記憶喪失と自殺未遂という大事件を経て、彼女は一度死んでしまったのだろう。決して誰にも言わないが、勝己はそう考えている。
その日───七月十八日は四十度に迫る酷暑になると、早朝のニュースで言っていた。実際、今日は酷い暑さだ。アスファルトからはじめじめと湿気を含んだ熱が立ち上り、三人の小さな体を包んでいた。アイスを買い、冷房の効いたコンビニから外に出た瞬間などは、肺に取り込む空気の温度差に体がついていけず、咳き込んでしまった程だった。
しかし、秘密基地は違う。ここに暑苦しいアスファルトはなく、あるのは剥き出しの土と何本もの古い大木、陽光を浴びてきらきら光る白い玉砂利だけだ。
草木生い茂る神社の裏手は日陰になっていて、とても涼しい。冷えたアイスを食べているのだから、なおさら。
勝己は蝉の大合唱を聞きながらガリガリ君のソーダ味を開け、地べたに座った。それに倣い二人もアイスをかじりながら座り込み、持ってきた手提げの中身を取り出す。
三人でアイスを食べ、まっさらなノートを広げ、いつもどおり“秘密の定例会議”をした。しゃくしゃくとガリガリ君をかじりながら、色鉛筆でオールマイトに似たヒーロースーツを描いたりする。
「……あれ?えっ、ええ──!?」
その最中、めったに大声を出さない瞳巳が声を張り上げた。大人びた彼女にしては珍しいことに、勝己と出久はそろって手元を狂わせ、鉛筆の先を折ってしまった。
「び……っくりさせんなブス!なんだよ!?」
「だ、だってカツカツ君……!」
「その無駄にバリエーションある呼び名やめろって何っっ千回言ったらわかンだよ!」
「ごめんねカツキーヌ」
「ぷふっ……!」
「クソデク!てめェもこっそり笑ってんのバレてっからな!」
当時は瞳巳の自由すぎるあだ名に反発し、いちいち噛みついていた。だが中学校に上がる頃には無駄な努力と悟り、もう考えるのをやめた。
───ともかく。珍しく大声を出した瞳巳は、食べ終わったガリガリくんレモン味の棒を、出久と勝己の眼前に掲げた。
「ほら見て!」
「なにもみえない」
「近すぎて見えねぇよアホ」
瞳巳の腕を退けて、未だレモンと砂糖の甘い香りが残る木の棒を確認する。そこには、焦げ茶色の文字で『あたり』と書かれていた。
出久と勝己は途端に目を輝かせ、わあっと歓声をあげた。
「すっげー!当たりなんて初めて見た!」
「私も、人生で初めて……!」
「わあ~!これってもう一個もらえる……ってコト!?」
「そうだね、買ったお店に行かなきゃ!あ、お姉ちゃんたちにも写真撮って見せよ」
瞳巳は蛇の瞳孔を細めて嬉しげに笑みながら、神社にある水道を借りてアイスの棒を洗う。管理者の男を骨抜きにしたので、瞳巳は水道でも何でも使い放題であった。
彼女は同い年とは思えないくらいしっかりしていて、大人たちに好かれる為の立ち回りも上手い。おまけに自身の顔立ちが整っていることも理解して利用するのだから、始末に負えないワガママ娘だ。「『ちょーかっこいいヒーローになる』とか言っているが、コレでは無理だろう」と、勝己はいつも鼻で笑っている。
瞳巳は洗った棒をハンカチで丁寧に拭き取ると、キッズ携帯で『当たり』の写真を撮り、小学一年生とは思えない手慣れた操作で姉たちにLINEを送った。
雄英から電車で帰る途中だったのだろう。返信は五秒もしないうちに返ってきた。双子の次女は、テンションが高くハートまみれの蛇のスタンプを。長女は、おじさん構文一歩手前の妹溺愛長文を送ってきた。
二人は、十歳近く年が離れた末妹をとても可愛がっている。溢れんばかりの愛情が全面に表れたメッセージだった。
「よっしゃ、今日の秘密会議は終了!もう一回コンビニ行くぞてめぇら!」
「「お──!」」
それぞれにアイスの棒、オールマイトフィギュア、なんかいい感じの木の棒を天高く掲げ、意気揚々と目的地へ向かおうとする。だが、梅雨の空はそんな三人の笑顔とは正反対に、不意に不機嫌に臍を曲げた。
「……雨だ」
急激に暗くなった空を見上げ、出久が呟く。ぽつりぽつりと降る雨は、次第に勢いを増していく。とっさに神社の軒先に避難したはいいものの、何となく、この雨は長引きそうだと思った。
やがて雷まで鳴り始めて、出久が不安げな顔で俯いた。何度も光る空に、今にも泣き出しそうに唇を噛んでいる。勝己も【爆破】という個性の関係上、雨が嫌いだ。「弱虫デク」と罵倒しながら、地面を叩く水をじっと見つめ、シャツの裾を握り締めていた。
「しょうがないな。二人とも、お姉さんがこれ貸してあげる」
得意気な声が聞こえ、二人は真ん中に立つ少女に目を向ける。彼女はデフォルメされたミッドナイトが描かれた手提げ(写真だと性的すぎて女児向けでないのでミニキャラのイラスト)から、二本の折り畳み傘を取り出した。
「はい、どうぞ。降水確率二十%だったけど、持ってきてよかったぁ。お姉ちゃんたちの借りてるから、丁寧に扱ってよ?」
「……?コースイカクリツってなんだよ?つーかそれ、二本しかねぇじゃん」
「あたしのは壊れちゃってて、家にこれしかなかったの」
「えっじゃあ……僕たちに貸して、瞳巳ちゃんはどうするの?」
「走って帰るから大丈夫。あたしは雨が好きだし、雷だって怖くないもん!」
「はぁ!?オイ待てよ、」
伸ばされた勝己の手をすり抜け、瞳巳は軒先から雨の中に飛び出した。二人に傘を押し付けると、元々足が速い彼女は引き留める間もなく背中を向け、去っていく。神社に敷かれた玉砂利を踏みしめる軽やかな音が、やけに耳に残った。
去り際、雷に心細く震え涙ぐむ幼なじみに「これで元気出してよ、未来のオールマイト!」と何かを握らせた。花柄の清潔なハンカチにくるまれたそれは、ガリガリ君の当たり棒だった。
結局その日、勝己と出久は濡れずに帰宅することができた。あさってまでには濡れた傘を乾かして返し、瞳巳とその姉に礼を言おうと思っていた。
けれど爆豪家の双子に傘を返すことは、できなかった。コンビニに行って出久が受け取った当たり棒を交換し、三人でガリガリ君を食べることも、できなかった。
二日後、七月二十日。蝉が殊更にうるさく喚いていた。空の青は一点の曇りもなく澄んで、冗談みたいによく晴れた日だった。年の離れた面倒見の良いいとこ達は、物言わぬ石になった。瞳巳の精神は崩壊し、二度目の死を迎えた。
あれから、瞳巳はミッドナイトの口調や行動を真似、“雄英のヒーロー科に入る”という、姉たちが果たせなかった夢に固執するようになった。今までにも増して、理想のヒーローへの執着を燃やした。少しも似合わない重苦しい目隠しをし、“瞳巳”を閉じ込め、ヴィランですらない化物と自らを蔑んだ。
自分の心を殺し、姉の夢を背負い、両親への懺悔に生き、ミッドナイトを模倣し、家族で揃いの黄金を隠す。それは最早、瞳巳とは呼べない誰かだった。
あの日、走り去る彼女を無理矢理にでも引き留めていれば、何かが変わっただろうか。瞳巳は「雨が好き」だと言っていた。幼い日は、それを信じていた。だが本当は雨で体温が下がるのも、長い髪や何より大切な白い花の髪飾りが濡れるのも嫌なのだと、最近になって知った。彼女はどうしようもないワガママ娘で、七面倒くさい格好つけだった。
「勝手に走るな」と怒り、嫌いな雨に濡れてでも追いかければ、夏の惨劇は起きなかったのだろうか。無理矢理にでも手を掴んでいれば、瞳巳は今も生きていたのだろうか。“知らない誰か”になんてならなかったのだろうか。
走馬灯じみた、記憶のフラッシュバックが終わる。
そして、現実。『救助訓練』などという退屈な授業が始まるはずだった、USJ。
「瞳巳!手を───!!」
「大丈夫だよ勝己!あたしは一人でも戦えるから!」
少女は黒い霧に飲まれ、消えていった。伸ばした手は、いつも届かない。
「爆豪瞳巳は何者か」なんて、本当はどうでもよかった。あの夏の日、秘密基地で『あたり』を引いてはしゃいでいた瞳巳が、強がって傘を差し出した家族が本物なら、それでよかった。それだけで、手を伸ばす理由は充分だった。
***
黒い靄が晴れた先、待ち受けていたのは十数人のヴィランたちだった。彼らは一様に気味の悪い薄笑いを浮かべ、私の頭から爪先まで、値踏みするように舐めあげる。
その内の一人が、下卑た笑声混じりに言った。
「オイオイ、たったの一人かぁ!?エリート気取りのクソガキどもを好きなだけぶっ殺せるって聞いたから来たのによぉ!」
「しかもボス、こいつ弱っちそうな女子っすよ!」
「あーあ。これじゃ一瞬で死んじまうなぁ?」
ボスと呼ばれた集団のまとめ役らしき男の発言に、全員が大袈裟に腹を抱えて笑った。私もまたミッドナイトの仕草を思い浮かべ、品良く口元に指をあてて微笑む。
「まあ。こんなに大勢で美少女を囲んで……何が始まるのかしら?わくわくお楽しみ会?」
「あ?何が始まるか、だってぇ?そりゃあ、生まれてきたことを後悔するほど楽しいお遊びさ!」
「……え?」
「ギャハハ!運が悪かったなぁお嬢ちゃん!かわいそうに、まだ状況が飲み込めてねーのかな?そんなぽかんとした顔で、」
「え?ごめんなさい、雨が強すぎて全然聞こえない!そこの二人、何て言ったの!?もう一回お願い~!」
「俺はぁー!『生まれてきたことを後悔させてやるぜゲヘヘ』って言ったー!」
「こっちはー!『ギャハハ!運が悪かったなお嬢ちゃん』的なセリフ!今度は聞こえたかー!?」
「オーケー、ありがとう!」
「よかった、聞こえた!」
「やったな!」
私が飛ばされたのは、暴風・大雨ゾーンだった。ドームの中には都市を模した高層ビルが立ち並び、本物さながらに整備された道路や信号機がある。
私はちょうど横断歩道の中央、白線の上に立っていた。十数人のヴィランたちはそれを包囲し、どこにも抜け道はない。
ざあざあとノイズのような音を立て、大雨が降っている。風はさほど感じない。濡れそぼった黒髪は、肌に張りついたまま靡きもしない。だが、大雨・“暴風”ゾーンと銘打っている以上、いずれは災害級の風が吹いてくることだろう。
「雨、嫌いなんだけどなぁ」
目隠し越しにドームの天井を見上げた。今日の天気は朝から快晴だったが、作り物の空はどんよりと薄暗く、外界から隔絶された空間となっていた。蛇のピット器官を駆使して気配を探る。“潜んでいる者”を含め、ヴィランは全部で十三人いるようだ。
十五歳の少女一人対十三人の男たち。突如飛ばさた私と、準備万端で待ち受けていた彼ら。どちらが有利かは一目瞭然、まさに絶体絶命の状況だった。現に彼らはすでに勝利を確信し、余裕の表情で唇を歪めている。
「『運が悪い』『生まれてきたことを後悔』……か」
濡れた唇でヴィランの言葉を復唱するが、雨粒が地面を叩く音と雷鳴でかき消されたのだろう。彼らは俯いて何事か呟く少女を見て、怯えていると判断したらしい。
「そろそろ遊ぼうや」
リーダー格の男が手を上げ、合図を出した。追従するヴィランたちは「待ちくたびれたぜ」と涎を垂らさんばかりに喜悦を滲ませた。
輪の中心に佇む私めがけ、一斉に飛びかかる十一人のヴィランたち。ある者は柔らかな肉を切り刻もうと、鋭いナイフを握り。ある者は個性を発動し、容赦なく苦痛を与えようとしている。
爆豪瞳巳が操れる蛇は、二匹だけ。襲い来る十一人になど、勝てるはずがない。私はここでたった一人、誰にも知られず死んでいく。
「あーあ。運が良かった」
こんなところに飛ばされたのが、私だけでよかった。
***
協力してヴィランに打ち勝ち水難ゾーンを切り抜けた出久たちは、腰までを水に浸しながら、セントラル広場の様子を窺っていた。
「相澤先生……敵を多く引き付けてくれているわ」
「な、なら!その間にこのまま水辺に沿って出入口を目指そうぜ!」
「ケロ……そうね。下手に飛び出しても足手まといになるかもしれないし、私もそれが今できる最善だと思うわ。緑谷ちゃんは……、どうかしたの?」
「あ……な、何でもないよ蛙吹さっ……っゅちゃん!」
「頑張ってくれてるのね」
蛙吹が相澤先生とヴィランとの戦闘を冷静に見つめ、峰田はこれ以上の戦いを避けようと、涙目で出入口を指差している。二人の会話を聞きながら、出久は幼なじみ二人の行方を考えていた。
爆豪瞳巳のほうは、まず大丈夫だろう。どこに飛ばされたかは分からないが、生徒に宛てがわれた敵が先程自分たちに向かってきたようなただのチンピラなら、何人いようが問題ない。
彼女は幼い頃からプロヒーローの手ほどきを受けていた。もう一人の幼なじみと同じくらい身体能力が高く、頭も良かった。
勝てそうな相手なら、戦う。実力が及ばない、あるいは個性の相性が悪い相手なら、隙を作り出して逃走する。訓練され、同年代より戦闘慣れした彼女なら、どうとでも立ち回れるはずだ。
いつも自分の手を引いてくれた瞳巳の強さを、出久は信頼していた。
もう一方の幼なじみは───と、彼に思いを馳せた瞬間、聞き慣れた爆発音が反響した。出久たちがいる『水難ゾーン』の対岸、『倒壊ゾーン』からだった。三人はセントラル広場の向こうに目をやる。
「この音、かっちゃんの【爆破】だ……!」
「お前の幼なじみ、強すぎん?なろう系主人公か何か?」
燃え落ちる建物を見つめる峰田が半目でドン引きするのも、無理はない。花火が打ち上がるときのあの、心臓を打つような重い爆発音。そして、ヴィランと思わしき数人の男女の悲鳴。
先週の対人戦闘訓練のときとは、訳が違う。建物への被害はおろか、自らへの反動も考慮しない、本気の爆撃だった。それを何十も乱発し、辛うじて建っていた倒壊ゾーンのビルは黒煙を上げ、文字通り倒壊していく。
「強えーな爆豪!」「あちらは余裕みたいね」と、二人は安堵する。だが、出久だけは違っていた。
「駄目だ、かっちゃん……!」
倒壊ゾーンを抜け、煙の向こうから勝己が姿を現した。彼は余裕なく敷地を見回し、目的の人物がいないことを瞬時に判断する。遠目からでもわかるほど憔悴しきった勝己は掌からの爆炎を推進力に加速し、隣接する『土砂ゾーン』へと飛び込んでいった。爆破の衝撃に堪えきれず破れた掌からの出血が、辺りに飛び散っていた。
出久は知っている。目の前でいとこを失った勝己の傷の深さを。その心的外傷がもたらした、『これ以上家族を失いたくない』『自分が弱かったから瞳巳が、その姉が、両親の心が死んだ』という自責の念を知っている。彼は、いとこの一家が崩壊したのは自分の“弱さ”のせいだと思っている。
水難ゾーンの隣、暴風・大雨ゾーンから、耳を劈く絶叫が木霊した。出久は、他のエリアとは違い密閉された天蓋の区画を見上げた。
「……瞳巳ちゃん?」
黒に覆われたドームの内側で、雷鳴が轟いた。
***
暴風・大雨ゾーンでは、飽きもせず作り物の雨が降り続いている。
「殺っちまえ!」
集団の長の合図で、十一人の男たちが一斉に飛びかかった。少女の肉体を切り刻もうと、ナイフが迫る。異形型ヴィランの拳が襲い来る。
「わるい子たちだわ。躾が必要ね」
瞳巳は場違いに微笑みながら、雨で濡れそぼった黒髪を揺らめかせる。ボスと呼ばれる男は、余裕ぶったエリート気取りのガキが肉塊に成り果てるさまを見届けてやろう、と下品に唇を歪めていた。
だが、瞬きひとつの間に盤上は塗り替えられる。
「牢黒・【
黒。
ただ、黒一色だった。瞬きをして目蓋を開けた男の視界には───空を揺蕩う無数の大蛇の群れ。
優に十数メートルはある不気味な網目模様の蛇たちは少女の艶やかな髪から咲き、それらが十一人のヴィランたちを一人残らず宙吊りに捕らえていた。
少女の柔肌に届いた刃は一つもない。彼女は横断歩道の白線の上に立ったまま、微動だにしていない。鬱々と雨が降りしきる薄暗い暴風・大雨ゾーンに、彼女は悪夢のように存在していた。
髪から伸びるおぞましい大蛇の群れに「メドゥーサ」と絶望の呟きを洩らしたのは、誰だったろうか。
「あ、え……?」
ぬめる鱗に巻きとられ、囚人の如く動きを封じられた手下の男たちは、突如浮き上がり反転した世界に間の抜けた声を洩らす。地上約十メートル───二階建ての家程の高さから宙吊りにされた彼らも、それを見上げるボスも、何が起こったか理解していなかった。いつの間にか音もなく巻き付いていた大蛇を、誰も目で追えなかった。
そして、これから何が起こるか理解する間もなかった。
「……あ?あぇ、いいい痛、ぎゃ、ぃっアぐ───」
「よかった。あの子たちにこんな所見られなくて」
ワニをも絞め殺す大蛇にとって、人間に巻き付き全身の骨を折ることなど容易かった。
捕らえられた者たちは両腕の骨から折られ、凶器を握っていた掌はだらりと力なく開いた。ナイフや鈍器は宙吊りにされた上空から、虚しくアスファルトに転がっていった。彼らの手足は奇妙な方向に捻じ曲がり、肺を圧迫され悲鳴も出せず、痛みのあまり個性を使うこともできない。
「ボ、ス……たっ、たす、け……!」
「っ……!」
蹂躙される仲間たちの押し殺された絶叫を聞き、彼らのボスは我に返った。
ボスと呼ばれる異形型の男は、窃盗団の長だった。ここにいる彼らの殆どは、【髪を一センチ伸ばせる】だとか毒にも薬にもならない個性持ちの者、あるいは爬虫類、虫など人間に生理的嫌悪を与える見た目の異形型だ。表社会から「何の役にも立たないゴミ個性」「ヴィランみたいな醜い見た目」と嘲笑され続けた人間たちだ。
男がボスとして窃盗団を立ち上げて、一年。愉快な毎日だった。理解者たちと過ごす日々は、最低な人生で最高に楽しかった。
恐怖に支配されかけていた男の双眸に、強い決意の光が宿る。
「てめえ───!俺の仲間を離せ!!」
ボスは【個性:スタンガン】を発動し、右腕を武器に変え、少女目掛けて突進した。そこに手を差し伸べるように、ドーム内の突風が背中を押す。追い風を受けた目にも止まらぬ疾走と、電気を纏い鋭く突き出される拳。加えて、自らが圧倒的有利な体格差。
どんな物でも盗んできた。警察なんか敵ではなかった。そこらの地方ヒーローだって、殴り殺してやったことがある。いつだってこの力で、切り抜けてきた。
それが、こんな温室育ちの子供に負けるはずがない。何の苦しみも知らずのうのうと生きてきたであろう、こんな少女に……!
「死ねオラァッ!」
「遅い。ここにあの人が居たら、鞭で引っぱたかれてるわね」
少女は殺意を持って頭部を狙った必殺の一撃を退屈そうに見切り、首を僅かに逸らすという最低限の動きでゆらりと躱した。そして電気を纏っていない上腕を掴み、足払いを仕掛ける。
「それに。こんなか弱い美少女に向かって死ねだなんて、躾がなってないわ。“伏せ”」
「ッガぎゃ」
「いい子ね」
細身の少女は自分の体重の数倍はあろうかという大男の体勢を片足で崩し、無防備な腹に鋭い膝蹴りを入れる。痛みに呻く暇すら与えず後頭部をわし掴み、流れるように地に叩き付ける。
硬いアスファルトに容赦なく顔面を叩きつけられ、男の歯が何本も折れた。半開きの口と打ち付けた鼻から滴る赤い血が雨と混ざり、鮮やかに広がっていく。
瞳巳は深窓の令嬢然として楚々と佇み、快も不快もなくそれを見下ろしていた。
「あの子達も睡さんも誰もいないし、丁度いいわ。せっかくだし、新技の実験をしましょうか。……『ヒーローらしくない技だ!絵面が惨すぎて人気が出ない!』ってカイに怒られそうだけど」
瞳巳が意識を集中させると、黒蛇の網目模様は一変。黄褐色の鎖柄に姿を変えた。それと同時にニシキヘビ系特有の凄まじい締め付けが緩み、拘束されていた十一人は人形のようになすがままに落下していく。肉がアスファルトに叩きつけられる嫌な音と、気を失った手下たちの低い呻き声は、吹き荒れ始めた暴風にもかき消せなかった。
「ふざ、けんな……!よくも俺の仲間を!!」
その鈍い音を聞き、痛みに呻くばかりだったボスがよろめきながら立ち上がり、再び攻撃を仕掛ける。
少女はまたしても一歩も動かずに男の鋭い右腕───スタンガンを受け流した。そして同時に黄褐色の蛇を操作し、よろけて無防備になった男の首筋に歯を立てた。
「っ……!?」
男は首筋をおさえて一瞬怯むが、すぐに「軽く噛まれただけだ」と安堵した。
十数メートルもあった無数の大蛇は消え、少女の髪から伸びるのは、全長二メートルもない蛇が一匹のみ。今の攻撃を見る限り、噛まれたら少し痛い程度だ。先程の大蛇の群れならともかく、今ならば勝機はある。敵が最後の一人となり、油断しているのだろう。
男はふらつきながら臨戦体勢をとり、右腕に紫電を纏わせた。スタンガンの個性は強力で、一撃でも当たれば行動不能にできる。何度やられたって、怯まずに撃ち込み続ければきっと届く。諦めなければきっと───
「溶血・【⠀
少女が何を呟いたのか、男にはわからなかった。
気が付けば、立っていたはずの男は地面にうつ伏せに横たわっていた。右手の個性は男の意思に反して解除され、生身の肌に戻っている。すぐ近く、あるいは遥か遠くから、耳障りな獣の絶叫が聞こえた。
噛まれた首筋から、身体中が燃えるように熱い。食道、肺、胃袋、心臓が異変を叫び、小刻みに蠕動する。間抜けに開きっぱなしの口から吐瀉物と唾液が垂れ流しになり、アスファルトを汚していく。
「毒が回った瞬間、個性が解除されている……?臓器に深刻な損傷がある場合、個性発動より生命維持が優先されるのかしら?それとも、毒は個性因子にも作用するってこと?……うーん参考になったわ、ありがとう」
「───!?───!!!」
「ふふ、どう?地獄にも昇る心地でしょう?」
悲鳴とも呼べない、獣の咆哮。それが自身の喉から発されたものであると理解したときには、手遅れだった。
アスファルトに叩きつけられて傷ついた手足。歯が抜けてずたずたになった口内。そして噛まれた首筋───人体で最も太い血管が通る部位から、出血が止まらない。通常なら一、二滴の血が出るだけのかすり傷からでさえ、壊れた蛇口のように止めどなく血が溢れ出る。成人男性の三倍以上の体躯をした異形型の男でなければ、失血によるショックですぐに気を失っていただろう。
頭から爪先までを巡る赤血球が破壊し尽くされる、悪夢のような───いや、悪夢そのものの生き地獄。全身の血管がとろける激痛に、男は狂ったように地面をのたうち回った。男が動く度、雨混じりの血だまりが水音を立て、飛沫が飛び散った。
吹き付ける暴風や雨粒すら、傷口を抉る凶器に感じる痛み。酸鼻を極める責め苦に泣き喚く男にはもう、再び立ち上がる意思すらない。瞳巳はついに白線の上から一歩も動かず、十二人のヴィランに勝利した。
「いい子ねラッセル」
「……♪……♪」
活躍を労うよう黄褐色の鱗をこしょこしょと撫でると、猛毒の蛇は主の頬に擦り寄り、嬉しげに身を揺らした。
───ラッセルクサリヘビ。強力な溶血毒を持つこの蛇の体格は、先程のニシキヘビと比べて遥かに劣る。だからこそ、「この程度の蛇ごとき、大したことはない」と男も油断した。
だが、「インド四大毒蛇」に数えられるラッセルクサリヘビの恐ろしさは、ニシキヘビのような体格を活かした力技ではない。
クサリヘビ科の毒は牙を通して生物の体内に入ると、赤血球を破壊。そしてプロテアーゼ(蛋白質分解酵素)の作用によりフィブリン(血液凝固を司る蛋白質)を分解。血液凝固を妨げ、血管の細胞を攻撃することで出血を止まらなくする猛毒だ。
身体中を巡る血液に強引に作用する毒のため、全身に激しい痛みが伴う。血清を打って助かったとしても、臓器の変性など、重い後遺症が伴う場合が多い。
日本において毒蛇といえば主にマムシかヤマカガシの二種類で、しかも人間の生活圏でこれらに遭遇する機会はほとんどない。故に、男は毒蛇の危険性を軽く見ていた。仮に毒を打ち込まれても、異形型で丈夫な自身なら問題ないと侮っていた。
「た、たす、たすけて」
そんな男は今、裂けた喉から血を溢し、叫ぶ気力すらなくし、恥も外聞もなく嗚咽混じりに命乞いをしている。血だまりで泳ぐ様子を見下ろし、瞳巳は無感動に爬虫類の瞳孔を細め、唇を開いた。
「目を見たらすぐにわかる。あなた、人を殺したことがあるのね」
「……!」
「その人が『助けて』って言ったとき、あなたはそうしてあげたの?……どうせ仲良しの仲間たちと一緒に笑いながらいたぶって殺したんでしょう?さっきあたしにしようとしてたみたいに」
雨に濡れそぼった髪がざわめき、鎖柄の黄褐色から元の黒髪へと戻る。蛇たちの黄金の瞳が一斉に男を見つめる。
瞳巳は思い返していた。生前、ナイフで惨殺される自分と親友を見ているだけだった、窓の向こうの傍観者たち。七歳の夏は出久と勝己と共に、子供の肉を食らうヴィランに殺されかけた。その時も彼らは「きっとヒーローか“誰か”来てくれる」と言い、公園の外から見ているだけだった。
「誰かって誰?どうして誰も私に手を伸ばしてくれなかったの?どうし───ううん、駄目だよ。睡さんはこんなこと言わない。瞳巳ちゃんとお姉ちゃんたちの理想のヒーローは、こんなんじゃないもん……こんなのパパとママの自慢の娘じゃない……あれ?でもそれじゃあ───私ってなんだっけ?」
虚空を見つめてぶつぶつと怨嗟を呟き自問自答を繰り返す少女に、男は戦慄した。
十一人もの人間を人形のように軽く扱い、残虐な致死毒を実験感覚で打ち込む。この女は、狂っている。
「バケモノ……!」
「うん、そうだね。私もあなたと同じだよ!」
男の言葉に瞳巳は異様に幼げな声で笑い、大きく頷いた。無垢に口元を緩め止まぬ落雷に両の眼を煌めかせ、少女は世界に挑むよう、閉ざされた天蓋を見上げた。
「あなたも私も観客気取りの一般人も、みんな化物だ。人間じゃない。そんな奴らを守る為に睡さんが死ぬ未来なんて、間違ってる。そんなふざけた筋書き……認めないから」
この世界に“人間”は数人しかいない。姉たちと両親、睡さん、出久とそのお母さん、勝己と両親、そして命を投げ出して私を救おうとした
それ以外に貸し出す傘はない。爆豪瞳巳はヒーローもヴィランも降り続く雨も、みんな纏めて大嫌いだ。
***
暴風・大雨ゾーンを早足で歩き、出入口に到着する。
武装した多数のヴィランへの正当防衛とはいえ、さすがに殺してしまうのはヒーロー科としてまずいので、男に打ち込んだ毒には血清を与えた。骨を折って無力化した者たちは、全員呼吸をしているか確認した。
彼らは痛みに堪え切れず気絶してしまったが、数十分後には目覚めるだろう。もっとも、目覚めた頃には雄英の教師陣や警察も駆けつけ、タルタロス行きだろうが。
「さて。火災ゾーンを見に行く前に……」
十二人のヴィランたちは倒した。だが、あと一人残っている。ピット器官を使って探知し、十三人目の存在にはずっと気付いていた。
「いるんでしょう?出てきなさい」
本物のUSJの如く広すぎる敷地を歩き、暴風・大雨ゾーン唯一の出入口にたどり着いた私は、明滅する壊れかけの自販機に向けて仁王立ちし、語りかける。蛇の目を通して、その裏側に潜む誰かの存在は最初からわかっていた。
一、二、三秒。「そこに居るのはわかってるから出てきなさい」という警告に、相手は反応しない。ならば、実力行使あるのみ。私は髪から一匹の蛇を伸ばし、自販機の裏から最後のヴィランを引き摺り出した。
「……え?」
「……っ☆!?」
こんな死角に潜むとは、不意討ちを狙ったヴィランに違いない。そうたかを括って乱暴に扱い、宙に浮かせた少年。それは───。