【???・
四月八日、その日について私が思い出すことはない。少女の掌の生温い摂氏27度、500mlのペットボトルを伝う水滴の数。少年のような笑顔が弾けた瞬間の唇の角度さえ、思い描くまでもなく目蓋の内側だ。
忘れられないのなら、それは思い出にはならない。私が彼女を思い出す日は、永遠に訪れない。
「これは私の好きな漫画の受け売りなんだけどね。──のそれは、呪いじゃなくて“個性”だと思うの。あなただけの力なんだよ。私はその個性ごと、──が大大大大好きだよ!」
高校入学の朝、地獄と化した電車の中で。冷たい凶器に何度も身体を貫かれながら、私は考えている。あの春の日に孤独に死ぬはずだった自分は、あの子に一体何を返せるだろうか。
別の世界に生まれ変わり、姿形も声も変わってしまった大好きな女の子。純朴さをかなぐり捨て、蛇のような眼差しをするようになってしまったあの子。
***
設立から百余年を数える静岡の中学校は、校門から校舎、体育館に至るまで、古ぼけてひどく陰気臭かった。春の陽光を真正面から浴びて、紅白の花飾りや横断幕で精一杯粧し込んだ晴れ姿でさえそう見えるのだから、日の届かない校舎裏などは言うまでもない。
私は桜の花弁の残骸が散らばる地面に、土汚れも構わず座り込んだ。ほとんど崩れ落ちるように校舎裏の冷たい地べたに尻をつき、両膝に顔をうずめてセーラー服のプリーツを握り締めた。
体育館からは、新入生への祝辞を読み上げる校長の声や、ありがちな校歌、強弱も技巧も何もない平坦なピアノ伴奏が響いている。
「眩暈がするので保健室に」と偽って逃げるように後にしたそこでは、相変わらず退屈な入学式が続いているようだ。
「どうして、あたしがこんな所に」
思わず口をついて出た言葉は、情けなく震えていた。
一度弱音を吐き出してしまえば、もう堪えられなかった。真新しい制服のスカートに濃色の染みがいくつも広がっていく。
───父が首を吊ったのは、今年の一月だった。
私の父は、それなりに規模の大きい会社の社長だった。しかし度重なる不運で数年前から業績が悪化し、坂を転がり落ちるようにして、呆気なく倒産。
父は「責任を取る」と言って、私と母に手書きの簡素な遺言を残して死んだ。自宅の天井にぶら下がっていたのは、鮮やかな橙色のナイロンロープだった。まだ裕福なとき、家族で山にキャンプに出掛けた際に使ったものだった。
私はそれを購入したときの父と母の笑顔、会話の内容や声の調子、店を流れていたBGM、通りすがった青年が着ていたTシャツの英文まで、余すところなく記憶している。更に言えば、キャンプ場で使用した8㎏の薪のそれぞれの木目や特徴すら、寸分の狂いなく描き起こせる。
父の死から今日までの約三ヶ月は、酷い生活だった。
ろくに給料も支払えず路頭に迷わせたかつての社員たちは、残された私たち母子に罵声を浴びせ、なけなしの生活費をむしりとって行った。彼らもまた、生きるために必死だったのだろう。
そんな生活に堪えきれず、東京での高い家賃も払えず、静岡の僻地へ半ば夜逃げ同然に転居した。
引っ越し先は、静岡のK町という縁もゆかりもない田舎だった。
そこかしこに林とも森ともつかない緑が広がり、時折、朽ちかけたあばら家がぽつんと野ざらしになっている。ビル群や高層マンションなどは当然一つもなく、遥か隣町まで何の障害物もなく見渡せた。
いかにも土地を持て余しているさまは、東京では有り得ない光景だった。母子で借りた木造の古アパートの裏には小高い丘があり、みかんやレモンなどの果樹園が見える。特に行く気もないが、天気がいい日にそこに登れば、遠くの海が見えるそうだ。
小型の車と自転車がやっとすれ違える狭さの、曲がりくねった畦道。『レトロ』という程の風情もなくただただ古く寂れた民宿、稼働しているのかも分からない小さな工場が立ち並ぶ街並み。日用品の買い物すら不便な田舎だった。
誰も私たちを知らないこの地で、再スタートを切る筈だった。しかし共に温室育ちの私たち母子は、世間の厳しさを知らなかった。
それなりに名の知れた社長である父の自殺は、全国ニュースで取り上げられていたらしい。昼のニュース番組のコメンテーターは父の死について、「借金苦から逃れるための、卑怯な自殺。元従業員への責任も果たさず、無責任だ」と非難していたそうだ。
もちろんその発言は問題だとされたが、コメンテーターの意見に同調する者は少なからず存在したのだろう。残された私たち母子には、「無責任な男の妻子」という哀れみと嘲笑の粘着質な視線が常に付き纏うことになった。
お嬢様育ちの母は日を追うごとにおかしくなっていったが、無理もない。噂話が娯楽の田舎で、私たちという“落ちぶれた金持ち”は、格好の餌食だった。
やがて母は「どこに居ても人に見られている!」と怯えて家に閉じこもり、給料の安い内職以外できなくなった。
こうなっては、その日の生活費を賄うだけで精一杯だった。小学校を卒業したばかりの私は生き延びる為、必死だった。自死という考えはなく、むしろ死を何より恐れていた。網膜に焼き付いた父の最期の表情が、死がいかに苦痛かを如実に物語っていたのだから。
「───あれがニュースでやってた、例の『──社』の娘さん?すっかり落ちぶれちゃって、可哀想にねぇ」
「あっ、見て!あの娘さん、値引きシールの野菜をカゴに入れたわよ。ふふ、可哀想に。そんなに貧乏なのね」
「可哀想だけど……でも今までいいとこの社長令嬢として、ふんぞり返って生活してたんでしょ?金持ちなんて皆そういう性悪に決まってるって。そう思うと何か……いい気味じゃない?」
「たしかに。あの子って美人だけど目付きが冷たいし、笑ってる所なんか見たこともないしね。そういえば例の“病気”の噂も、本当らしいわよ。何だか不気味だわぁ」
「嫌だ、うちの子と友達になっちゃったらどうしよう。四月からそこの中学校に入るんでしょ?」
自らが手を下すことなく、有名人や金持ちが転落した。低い所、自分の所まで引きずり降ろせた。落ちぶれて、不幸になった。人の不幸は蜜の味。ざまあみろ。いい気味だ。
そんなふうに喜びや快感を覚える仄暗い心理を、『シャーデンフロイデ』というらしい。余程の聖人でない限りどんな人間の心にも宿る、心の暗部だ。
どれだけ転落しようが、酷い言葉を吐かれようが───極論、目の前に肉親の死体がぶら下がっていようが。大抵の場合、人は生きていける。人は辛い記憶を無意識の領域にしまい込み、忘れてしまえる。
忙しない日々の中でゆっくりと記憶は色褪せ、やがて傷は癒えていく。時折ふと「そんな辛い事もあったな」と眉をしかめては、また次の朝には記憶の隅の小箱に追いやられる。その程度のかさぶたとなっていく。
人は、すべての記憶を抱えながら生きていけない。忘却とは、救いであり許しである。しかし、私には───。
「あ、あの!」
───大丈夫?
ふいに降ってきた声に、鬱々と沈みかけた意識を引き戻す。
同年代くらいの少女の声だった。生徒はまだ体育館で入学式の最中のはずだが───先生に言われて私を連れ戻しに来たのだろうか。「保健室に行く」などと言った癖に校舎裏にいるのを咎められるのだろうか。
いずれにせよ、こんな泣き顔は誰にも見せたくない。見せられない。私は校舎裏の壁に預けた背中を強ばらせ、泣き通しで乱れた呼吸を整えた。そして熱い目蓋を膝に押し当て、涙声がばれないよう平静を装い、数メートル先の少女を見もせずに返答した。
「あたしは別に平気よ。何でもないから、放っておいて」
「で、でも……先生に眩暈がするって言ってたじゃん。それにこんな寒い所にうずくまってるし……大丈夫には見えない、よ?だからその」
「……平気って言ってるでしょ?どっか行って」
「う……えっとぉ……あ、そうだ!元気なさそうって思ったから、そこの自販機で飲み物買ったの!静岡限定のレモンジュース!ここら辺はみかんだけじゃなくレモンも有名なの。東京から引っ越してきたなら、見たことないでしょ?あげる!」
「は?いらなすぎる……」
「そんなぁ……私の120円が……」
少女は私の鋭い語調に怯みながらも、言葉を投げ掛ける。どうやら彼女は一人で入学式を抜ける私を心配して、ここまでついてきたらしい。
お節介にも程がある。感情的になっていた私は、つい棘のある物言いをしてしまう。
「あんた今、『東京から……』って言ったわね。ってことはあたしの事情、知ってるんでしょ。あんたもどうせあたしのこと、可哀想な奴って見下してるんだ。今だって、泣き顔を笑いにきたんでしょう?」
「そ、そんなんじゃないよ!私はただ、──さんの顔色が悪いなって思って……一人で行かせるのは心配だなって……美味しいもの飲んだら、少しは元気になるかなって……」
苛立った。少女の幼く的外れな気遣いに。不躾な言葉を投げかけても立ち去ろうとしない能天気さ、無神経さに。
私はせぐり上げる怒りに堪えきれなくなり、気付けば顔を起こしていた。誰にもぶつけられなかった激情を、無関係な少女に押し付けていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を醜く歪め、心優しい少女を最大限に傷付ける言葉を意図的に選び、吼えていた。
「うるさい……!うるっさいのよ!なに?なんなの?人の不幸につけ込んで、お優しい聖人気取り!?『こいつは皆に虐められてる可哀想な奴だから、たすけて“あげる”』って!?」
「ち、ちが……!私、そんなつもりじゃ」
「違わないわよ!善人面して見下さないで!やめて、あたしをそんな目で見ないで……!あたし、何にもしてないのに……!なんで、なんでこんな酷い所に……!」
耳の裏で激しい鼓動が脈打っている。
これは怒号なのか、悲鳴なのか。何を言っているのか、誰に言っているのか、自分でさえわからない。こんなに大声を出したのは、生まれて初めてだった。
息を切らし、言葉の勢いと共に荒々しく立ち上がって大股で距離を詰める。鮮やかな檸檬色のペットボトルを持った少女の頼りない両肩をわし掴み、校舎裏の黴の生えた壁に押し付ける。
そうして、聖人気取りの少女が最も傷つくであろう言葉のナイフでとどめを刺した。
「あたし、あんたみたいなヒーロー気取り……大っ嫌い」
「……っ!」
私の視界はぽろぽろと零れるとめどない涙でぼやけ、少女がどんな表情をしていたかは見えなかった。しかし掴んだ肩が大きく震え、苦しげに呼吸を詰めたのだけはわかった。
数瞬の重苦しい沈黙。私が息を切らししゃくりあげる音だけが響く、日の差さない陰鬱な校舎裏。
互いに身じろぎも出来ない緊迫した空気を破ったのは、砂利を踏みしめるいくつかの足音と教師たちの話し声だった。
「こっちから女子生徒の大声が聞こえたぞ!」
「保健室に行くって言ったきりの、──さんでしょうか?」
「まったく、入学式からサボりとは……!蛙の子は蛙だな。見つけたらクラス全員の前で叱り飛ばしてやる!」
「とにかく、見に行ってみましょう」
私は自らの決定的な“終わり”を確信して脱力し、少女の肩を掴んでいた手を離した。
もうすぐここに、私を探しに教師たちが来てしまう。目の前の少女は、私に暴力を振るわれた、暴言を吐かれたと涙ながらに事実を打ち明けるだろう。私はクラス全員の前に引きずり出され、「噂通りのいけ好かない女」として、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を晒すのだ。無関係の少女に散々な行いをしたのだから、当然の報いだ。
いよいよ私は町にも、家にも、学校にも居場所がなくなるのだろう。ふと、父の最期を思った。あれは安らかとはほど遠い、苦痛に満ちた死に顔だった。
あれを忘れられない私は、死を何より恐れていた。だが───もう、いいかなと思った。だって、これ以上生きていたって何になるだろうか。
「……つかれた」
仄暗い嘲笑も侮蔑の視線も、何もかも忘れられないまま生きていく。呪いのようなこの異能を抱えて、地を這いずるように生きていく。そんな人生に何の意味があるだろうか?
「……ごめん。ごめんね。いきなり怒鳴ってごめん。怖かったわよね。もう二度と会うことはないから、忘れて。さようなら」
セーラー服の袖で目元を擦り、少女に背を向けて校門に向かう。
やるべきことは決まっていた。早くホームセンターに行き、なるべく丈夫な紐を買い、最善の行動をしなくては───。
「待って」
ふらふらと歩み去ろうとする私の手に、冷たく濡れた感触が触れた。突然の冷気に思わずびくりと跳ねて、反射的に右手を見下ろす。すると、そこには───。
「レモン、ジュース……?」
「あげる。持って」
「いや、は?何?いらな」
「───あ げ る !」
「あっはい、うん……?」
押し退けようと腕を突っ張るも、謎の圧力に負けてペットボトルを持たされる。
混乱しながら、私は初めて少女の顔を見つめた。ありがちな、ごく平凡な容貌の十二歳だった。彼女は涙の筋が残る頬に幼いえくぼを刻み、歯を見せて笑った。
「よし、逃げよう!」
「わ、わっ……!?」
「早く走らなきゃ、センセーに追い付かれちゃうよー!」
「ちょ、待って……!」
彼女はペットボトルを持たせたのと逆、私の左手をとり、何の脈絡もなく「走って!」と引っ張った。戸惑い目を白黒させる私の力なく震える掌を強く握り、駆け出した。
「離さないでね!」
「あ───」
私はただ、彼女に急き立てられるように足を動かした。光の届かない校舎裏から一歩、踏み出す。もうずっと、薄暗く黴臭いところに居たからだろうか。柔く全身を包む午前の光がやけに眩しく思え、両目を細めた。
手を引かれるまま足を交互に動かし、息を弾ませながら彼女の背を見つめた。春の乾いた強風に互いの髪を靡かせ、数十メートル先の校門を目指す。照りつける陽射しと桜吹雪に何度も瞬きを繰り返しながら、上擦った声音で問うた。
「───ねえ!あたしたちどこに行くの?」
「んー?えっとねー!」
彼女は走りながら半身を捻ってこちらを振り返った。少女は少年のように悪戯っぽく眉を吊り上げ、遠くの丘に見える黄色と橙の群れを指差した。
「あそこの、レモンとみかんの果樹園まで!あれね、うちの家族で育ててるんだ!」
ああそうか、なるほど。妙にレモンを推してくると思ったら、そういうことか。
私は転げるように走りながら小さく吹き出し、片手のレモンジュースを改めて見下ろした。瑞々しい黄色の液体は、私の動きに合わせて生き生きと跳ね回っている。
私は自らの口角が緩んでいくのを自覚しながら、強風に掻き消されまいと声を張り上げた。
「ねえあんた、名前は?」
「私?私はね、──っていうんだ!」
開かれたままの門を軽やかに越え、のどかな田園風景を横目に私たちは駆けていく。
「忘れたくない」
───私には忘却という、人間に必要不可欠な機能が備わっていない。生まれつきそうだった。
謂れのない嘲笑も声を殺した噂話も何もかも、過去になることはない。濃い橙色のナイロンロープも、それをカゴに入れる父と母の笑顔も、血走った母の眼差しも、天井で揺れる絶望も。父の口角から零れるあぶくの数すら、思い返すまでもなく目前に上映し、一、二、三、と指折り数えて答えられる。
そんな呪われた異能を持つ存在が、「忘れたくない」と心から思えた。それがどれだけ得難い奇跡か。共に笑いあった瞬間を何度再生し、指でなぞり愛おしんだか。どす黒い記憶を吹き飛ばし、日だまり色に塗り替えてくれたか。彼女は知らないだろう。
あの春の日に、私は本当に酷いことを言ってしまった。それなのに何故、手を引いてくれたのか。あまつさえ、一番の友になどなってくれたのか。怖くはなかったのだろうか。
知り合ってから一年後に恐る恐る問うと、彼女はきょとんと数度瞬きを繰り返したあと、事も無げに答えた。
「いきなりキレられたんだもん。怖かったし、掴まれた肩もめっちゃ痛かったよ。でも……」
「でも?」
「──のほうが、ずうっと痛そうな顔してたから。そんな顔されたら“普通”、放っておけないじゃん。何とかしなきゃって思うのが“普通”じゃん?」
「───……」
言葉を失った。照れ笑いをしながら語る素朴な少女の普通は、決して普通ではない。それはどんな言葉でも言い表せない、どんなに沢山の宝石にも替えられない尊く美しいことなのだと、彼女は知りもしないのだ。
───高校入学の朝、地獄と化した電車の中で。冷たい凶器に何度も身体を貫かれながら、あたしは考えている。あの日孤独に死ぬはずだった自分は、あの子に一体何を返せるだろうか。
あたしのヒーローに、何を遺してやれるだろうか。
「振り返らないで。走ってよ、ヒカリ!あたしのヒーロー!」
別の世界に生まれ変わり、姿形も声も変わってしまった大好きな女の子。純朴さをかなぐり捨て、蛇のような眼差しをするようになってしまったあの子。
それでもあたしたちは
今もずっと愛している。
【???・
──────
「いるんでしょう?出てきなさい」
十二人のヴィランは既に倒し、この一帯は無傷で制圧した。
本物のUSJの如く広すぎる敷地を歩き、『暴風・大雨ゾーン』唯一の出入口にたどり着いた私は、明滅する壊れかけの自販機に向けて仁王立ちし、語りかける。蛇の目を通して、その裏側に潜む誰かの存在は最初からわかっていた。
一、二、三秒。「そこに居るのはわかってるから出てきなさい」という警告に、相手は反応しない。ならば、実力行使あるのみ。私は髪から一匹の蛇を伸ばし、自販機の裏から最後の、十三人目のヴィランを引き摺り出した。
「優しくしてあげようと思ったのに、残念。言うことを聞けない悪い子には躾が必要ね。縛り上げなさい、【
こんな死角に潜むとは、不意討ちを狙ったヴィランに違いない。そうたかを括って乱暴に扱い、宙に浮かせた少年。それは───。
「───青山くん!?」
「ひ、ヒトミーヌ……?」
まさかのクラスメイトに、私は慌てて黒蛇の拘束を解いた。自販機の裏から引き摺り出されたのは、怯えきった顔の青山優雅だった。
『蛇の第三の目』とも呼ばれるピット器官は、赤外線の熱で生物の存在を感知できる。この目があれば、相手が物陰や室内に隠れていようと関係なく、居場所は蛇を通して私の脳内と視覚に直接伝えられる。
(ファミチキください)(この蛇くん、脳内に直接チキンの映像を!?)みたいな奇妙な感覚に、はじめは戸惑ったものだ。
以前、出久に「熱反応だけじゃなく黒板の文字とかも見えてるの?」と興味津々で聞かれたが、それも問題ない。髪に咲いた蛇を通して、普通の両目と同じように見えている。そうでなければこんな目隠しをして生活していられない。すぐ刺されてすぐ死ぬ。もう死んだことあるけど。
視力測定をしたところ、蛇くんの視力は1.5あった。蛇くん二匹にじゃれつかれて苦笑する出久の表情も、よく見えていた。
しかし私の個性の扱いはまだ未熟で、“そこに人間が隠れている”ことは赤外線探知できても、対象の距離が遠ざかるほど脳に伝わるファミチキ映像がぼやけ、それが具体的に誰かまで見分けられない。
ファミチキなのか唐揚げクンなのか、或いはからあげ棒なのか。正確な輪郭を捉えられず、寝起きの視界のように曖昧な熱反応だけが見えている、といった状態だ。
記憶した体温反応、例えばミッドナイトや出久や勝己なら、300メートル圏内であれば大勢の中から識別できる。あとはオールマイトなど規格外の熱量の人間もわかる。それ以外だと、A組なら尾白、常闇、障子などの明らかな身体的特徴がある異形型だ。
つまり、仮に麗日と蛙吹が300メートル先に隣合って並んでいるとして、私にはどちらがどちらか判断できないということだ。遠い所に“女性が二人いる”ことだけが視えている。
……いや、もしかしたら耳郎と八百万の組み合わせなら、特徴で見分けられ───この話はやめようか。
とにかく、今の私は目と鼻の先のクラスメイトとヴィランの区別すらついていなかった。通常ならこの距離まで近付けばわかったはずなのに、先程までの戦闘で気が昂り、明らかに冷静さを欠いていた。
林間学校では索敵の技能向上を課題に訓練した方がいいかもしれないと、胸中でため息をつく。
驚きに鳴る心臓を落ち着けながら、彼を見下ろした。
薄暗い『暴風・大雨ゾーン』でも更に暗い、壊れた自販機の裏側という死角。そんな場所に青山優雅は身を隠していた。
潜んでいる場所的に不意を突こうとするヴィランかとばかり思っていたので、つい威圧的な言葉を吐いてしまった。それどころか、一瞬とはいえ乱暴に蛇で拘束し、宙吊りにしてしまった。「躾が必要ね(暗黒微笑)」とか言ってしまった。死。
「あ、あの!……大丈夫?」
「ごめんなさい、立てるかしら?」と謝罪しつつ彼に手を伸ばすが、青山は出会い頭に私のあだ名を呟いたきり、無反応だった。尻餅をつき、西洋の甲冑のようなコスチュームが雨に打たれて金属音を立てても、彼は俯いたままだ。
あれ?と首を傾げる。青山だったら、ここぞとばかりに「野蛮☆」とか「育ちが悪い☆」とかボロクソに言うと思っていたのに。
彼に合わせてしゃがみこみ、「青山くん?」となるべく柔らかく声をかける。猫かぶり、大事。ミッドナイトの為にもクラスの信用、大事。
すると彼はようやく、寒さで変色しきった唇を開いた。
「……僕は飛ばされてからずっと、ここに隠れていたんだ」
「そう。こんな寒くて暗いところに飛ばされて、お互い災難だったわね。……それで?」
「姿は見えなかったけど……誰か他の生徒もここに飛ばされてきたのは、ドーム中央からの叫び声と戦う音でわかってた。で、でも……!」
すぐ近くにヴィランがたくさんいると思うと、怖くて堪らなかった。足が竦んでここから動けなかった。死にたくなかった。ごめん、なさい。
「キミひとりに戦わせて、僕はずっとここに隠れていたんだ。卑怯だろう?」
青山は声を震わせながら、絞り出すように言う。なんとも悲壮で哀れみを誘う面持ちだ。だがその言葉は果たして真実か。
目隠し下の爬虫類の瞳孔を酷薄に細め、情を排して思考する。
13号先生が設計したこのUSJには六つのエリアがあり、それぞれの面積は本物のテーマパークさながらに広い。出入口付近のここからドーム中央、私たちが戦っていた場所までも、それなりの距離がある。
加えて、視界を遮るこの雨風だ。私とヴィランが交戦する音は風に乗って僅かに聞こえても、“どんな惨劇が起こっていたのか”は見られていないはずだ。
「怖くて動けなかった」というのも、ヒーロー志望とはいえ高校生になりたての子供なら妥当な理由だろう。
だが、もし青山が内通者だったら?「動けなかった」ではなく、「動かなかった」だったら?嘘をつき、ヴィランに怯える小心者の演技をして───平和の象徴殺しの片棒を担いでいるとしたら?
そういえば私は真っ先に黒霧に転移させられたが、ヴィランたちは生徒が現れる位置を知っていたかのように、輪になって待ち構えていた。黒霧はあらかじめ「このあたりに生徒を送ります」と伝えていたのだろう。
黒霧(強キャラに見えて割とドジるし学生にも油断を突かれがち)は、青山を敵から遠い安全圏───人目につきにくい、出入口付近の壊れた自販機裏に飛ばした。
単なる個性の制御ミス(ドジっ子)か?それとも意図的に、彼を人目につかない場所に配置したのか?探知系個性がなければまず見つけられない物陰に隠して、“オールマイト殺し”が無事完遂されるまで待機させていた?
───内通者は、消す。ある程度まで原作通りに泳がせ、ミッドナイトを確実に救う道筋が整い次第、石にして砕いて海に撒く。
まだ見ぬ裏切り者は、A組に対して何食わぬ顔で友人を演じながらAFOに雄英側の情報を売り、ミッドナイトが死ぬ一因を作り出した。死んでも誰も悲しまない、卑怯者のクズだ。出久と勝己にだって、いつ牙を剥くかわからない。
私が読んだ三十二巻までの原作では誰が内通者か明かされないままだったが、早く炙りださなくてはならない。
遅くとも超常解放戦線との戦いまでには裏切り者を見つけなくては、私がギガントマキアたちの戦場に乱入してミッドナイトの死を回避できても、完全な救済とは言えない。
だって、彼女は誰より生徒思いで美しい英雄だ。彼女は戦いが続く限りいつだって最前線に立ち、誰かを守る為に命を使ってしまうだろう。
ヒーロー側の情報を流す裏切り者が一番近くにいるのでは、何度だって同じことの繰り返しだ。裏切り者によって作戦やヒーローの配置はことごとく丸裸にされ、また私の大切な人たちが傷付き、死んでいく。幼なじみたちとミッドナイトの生を脅かす者には、タルタロスという監獄すら生温い。完全にこの世から排除しなければ。
ある程度まで原作をなぞって雄英で力をつけた後、いずれはこの『メドゥーサ』を使い───全ての元凶AFOをも抹殺してみせる。運命とやらの横っ面を蹴り飛ばして、私は勝利する。
守って勝つ。たとえその過程でA組の誰かが犠牲になろうと、化物と蔑まれようと、愛する数人の人間を守り抜く。そんな使命感だけが、崩壊寸前の爆豪瞳巳の精神を辛うじて支えていた。
目の前の青山に視線を戻す。
彼がこの安全圏にいるのはたしかに怪しい。しかし裏切り者であると決めつけるには、まだ根拠が弱い。黒霧(ドジっ子)の転移ミスの可能性を捨てきれない。
原作でもクラスでたった一人だけ居場所を明かさず、ヴィランと交戦していない様子だった青山は疑わしい。
だが彼は林間合宿で、ヴィラン連合の手からクラスメイトを救う描写があった。勝己と常闇が攫われそうになったとき、Mr.コンプレスに攻撃をして明確に妨害している。もし彼が内通者なら、ヴィラン連合にとって都合の悪い行動はとらなかったはずだ。
「とりあえず、グレーかな……」
私の思考をよそに、青山は言葉を続ける。誰かに向けてではない、独り言じみた呟きだった。
「ひ、悲鳴が何度も聞こえて……何が起こってるんだろう、クラスの誰かがやられてるんじゃって……」
「……そう、それは怖かったわね。でももう心配ないわ。あたしは無事だから」
その悲鳴の元凶、ここにいます。安心してください、人生二回目転生者特有の強キャラムーブで全員骨バッキバキのけちょんけちょんの再起不能にしました。そう言おうと思ったが、逆に怯えられそうなのでやめておいた。
恐怖の為か小刻みに震える体にも言葉にも、嘘はないように思える。だが、念の為油断はしないようにしておく。
脚を折り畳んで三角座りをしながら、彼はまた口を開いた。私を助けなかった事実が余程後ろめたいのか、一度も目を合わせない。
「君はその……大丈夫だったのかい?あの獣みたいな悲鳴は一体……もしかしてヴィランは全員君が倒し、」
「まさか!あたしこの前の演習でも砂藤くんに負けちゃったし、そんなに強くなかったでしょう?何人もの敵を無傷で倒すなんて、できっこないわ」
「え?じゃあどうやってここに……」
「ヴィランたちのあの声はそう……お楽しみ会!お楽しみ会のビンゴで一等のPS5が当たらなかったから、悔しがってただけよ。あたしも飛び入り参加したけど、戦闘なんかしなかったわ。話せばわかるヴィランもいるものね」
「いや、でも」
「あたし何もしてないわ。あの人たちはビンゴのあと音楽の方向性の違いで喧嘩しちゃって、同士討ちだったわ。あたし何もしてないわ」
「ええ……」と納得していない青山に、私は自らが潔白だと示すよう両手を広げてみせた。
「ほら、その証拠にあたしには傷ひとつ付いてないでしょう?」
座り込んだままの青山を見下ろし、「ほら見て」と促す。彼は言葉につられるように恐る恐る顔を上げ、私の足元から肩まで目線を上に持っていき───息を詰めた。
「……!ヒトミーヌ、それ」
「え?」
青山は今日はじめて、私を直視した。濡れた金髪の間から覗く青紫の双眸を揺らし、唇を僅かに開いた。その焦点はある一箇所に結ばれている。
何だろうと彼の視線をなぞると、私の左肩にたどり着く。雨を受けて薄まってはいるが、戦闘服のフリルを汚すよう、三、四センチ程度の赤い染みが滲んでいた。
私はどこも怪我をしていないので、うっかり跳ねてしまったヴィランの返り血で間違いない。出血毒を使った際にでも付着したのだろう。
髪の二匹の蛇くんたちにも見えなかったのか、それぞれ「はわわ気づかなかった」「ごめんなさいご主人様」と言わんばかりの表情である。
ただの返り血と言えば済むのだが、先程はぐらかしてしまった手前、なんともやりにくい。というか「大丈夫、返り血!私は無傷!天下無双・爆豪瞳巳!」とか正直に言うのは、それはそれで瞳巳ちゃんの今後のイメージ的によろしくない。
「あーこれは……あの……」
「……これ以上の言い訳はいいよ、ヒトミーヌ。もうわかったから」
目を泳がせて言い淀んでいると、青山くんは戦闘服の懐から、装飾が施された銀色のナイフを取り出した。
瞬間、私の頭から爪先まで、一気に緊張が走り抜ける。彼が切りかかってきてもいつでも迎撃できるよう、雨に濡れた黒蛇をゆらめかせる。
「そんな物騒なものを取り出してどうしたの?青山くん」
「…………」
青山は答えない。彼は思い詰めた面持ちで磨き抜かれたナイフを見つめると、煌びやかなマントを脱ぎ捨て───その布地に刃を立てた。
「……君は優しい嘘をつくんだね」
「え?青山くん、何を、」
「っ、ビンゴ大会なんて嘘をついて!やっぱり戦ってたじゃないか!怪我までして、ひとりきりで戦ってたんじゃないか……!」
青山は、返り血を怪我だと勘違いしている。私がヴィランに囲まれ、必死の思いで立ち向かってできた傷だと思っている。
彼はマントを無造作に切り裂き、包帯として私の左肩に巻いてくれた。動く度煌めくそれは彼のこだわりのデザインであり、お気に入りだと知っていた。
「……ありがとう」
そして疑ってごめんなさい、と誰にも聞こえないよう胸中で呟いた。
青山は体温を奪われて蒼白になった唇で言葉を紡ぐ。包帯を巻いた肩を見る両目からは、大雨のように涙が零れ落ちていた。
「ごめん……!何も出来なくてごめん……!君だって怖かっただろうに、痛かっただろうに……!」
「何も出来なくなんかないわ。青山くんの手当のお陰で、全然痛くなくなったもの」
「でも、でも……!」
「実はさっきまで、昔の嫌なこと思い出してちょっと不安定になってたの。そのせいで青山くんとヴィランの区別もつかなかったんだけど……でもね、青山くんがたすけてくれたから。元気出てきたよ」
ほらね、元気!と彼の目の前でくるりと一回転し、濡れた蛇をうねうねと活発に動かして見せる。ミッドナイトの慈愛に満ちた表情を模倣し、微笑みかける。
それを見上げた青山は頬に大粒の涙を光らせたまま、生まれて初めて呼吸をするようにぽかんと口を開いた。
「咎めないのかい?普通は文句くらい言うだろう?卑怯者とか、ヒーロー失格とか……」
「いいえ、身を潜めたあなたの判断は正しいわ。向こうは頭数を揃えて、電波を妨害して、周到に準備した上であたしたちを殺しに来てるのよ?たった十五歳で入学したばかりの子供に、何ができるっていうの?おかしいのはむしろ───」
おかしいのは、堂々と立ち向かえるA組の面々だ。さすがにそんなことを口にするのは憚られて、黙りこんだ。
けれど、そうだろう。戦うしかない状況とはいえ、戦闘訓練もろくに受けていない子供が殺意をもった相手の前に飛び出していくなんて、命知らずすぎる。それは勇気ではなく、無謀だ。
「自分が死ぬわけがない」という根拠のない自信や“主人公意識”は、振りかざされる凶器の前では何の意味も成さない。人の命は冗談みたいに軽く失われるし、ナイフで身体中を抉られる痛みは、きっと百年先も忘れられない。
不自然に言葉を切ってしまった私は、誤魔化すように明るく続けた。
「辛いこととばっかり向き合ってても仕方ないわ。良いほうに考えましょう?『たくさん訓練して次こそは戦おう☆』とか『隠れててよかった☆生きてママとパパに会える!』とか」
「……それ、まさか僕の真似のつもり?」
「そうよ、あたし物真似は得意なの。百点満点の完成度でしょう?」
「赤点☆」
青山はようやく、ぎこちなく目を細めて笑った。
そうして、私の背後に広がる『暴風・大雨ゾーン』を見上げた。一瞬、暗いドーム内に雷鳴が走り、眩しいほどに私たちを照らした。
「そう、だね。生きていなくちゃね。僕はパパンとママンの救けになりたくて、ここに来たんだから」
「え?青山くんってご両親の為にヒーロー目指してるの?あたしと似てるわ」
「……僕は両親がしてくれたみたいに、人に優しくしたかったんだ」
体温を奪う雨ですっかり衰弱した青山の体に、私は切り裂かれたマントを巻き付ける。
原作だとあともう少しでオールマイトや先生方が到着し、USJを制圧するはず。寒くて心細いだろうが、それまではここに居たほうが安全だ。
とりあえず体温を維持するため、糖分補給を……と思い、青山にヴェリタースオリジナルを手渡した。彼の冷えきった手をとって金色の包みを贈ると、「こういう庶民的な飴は初めて食べるよ」と言ってくしゃりと表情を緩めた。
ついでに自分のぶんも一粒取り出し、口の中に入れる。
「メルシー☆」
「ひひへ、ほーいはひまひて(いいえ、どういたしまして)」
「食べ物を口にしながら喋っちゃダメってママンに教わらなかった?」
「ほほあったわ!(教わったわ)」
「ダメだこれ☆」
普段は食べ物を口にしながら喋るなんて行儀の悪い事はしないが、彼を笑わせようと態とおどけて振る舞った。
「君は優しいね」
「……?普通でしょう?辛そうな人がいたら、誰だってこうするわ」
「普通、そういうのは『うわ面倒臭い☆誰か助けてやりなよ』って思って目を逸らすと思うんだけど」
ふと、青山がもたれ掛かる壊れた自販機を見上げた。昔、今の状況と似たようなことがあった気がする。誰かが泣いていて───どうにかしなきゃと思って、けれど何をしていいかわからず、必死でなけなしの小銭でお気に入りのジュースを買って───何故か笑いながら手を繋いで、遠くの黄色い果樹園まで走って───お揃いのセーラー服がひらひら靡いて───あれ?でもその女の子って───、
「誰だっけ?」
青山に背を向けて出入り口の扉に手をかけながら、首を傾げる。
まあ、思い出せないなら取るに足らない記憶なのだろう。もしくは、最初から存在しない夢か何かだ。
「ずっと一緒にいようね、サクラ」
「馬鹿ね。あたしたちにそんな約束必要ないでしょ、ヒカリ」
***
「〜〜♪」
鼻歌を歌いながら、『暴風・大雨ゾーン』を出る。クラスメイトの行動を監視すべく、原作でほぼ描かれなかった『火災ゾーン』を目指して駆ける。
雨は嫌いだった。爬虫類の特性を持つ体にとって、冷えは天敵だから。大好きなミッドナイトから貰った花のピン留めが、濡れてしまうから。
でも今は、不思議と気分がいい。
嬉しかった。お気に入りの衣装を引き裂いてまで私の怪我───実際には返り血だが───を心配してくれたことが、とても嬉しかった。
青山が裏切り者でない証拠はまだない。今回の転移位置は、やはり怪しい。だが少なくとも彼は、目の前の惨劇から目を逸らして私を見殺しにした一般人たちとは違う。
自らの手が血で汚れることも厭わず、煌びやかなマントで大袈裟なくらいぐるぐると肩を巻いてくれた。「僕のせいで」と大粒の涙をこぼしていた。
外に飛び出す前、青山は「危険だから君もここに隠れていなよ」とびしょ濡れの全身を震わせて言った。けれど私は首を横に振った。
「お隣の水難ゾーンは大丈夫そうだから、あたしはその先の火災ゾーンを見に……いいえ、助けに行く。他の子たちもきっと戦ってるはずだから」
「……、気を付けて」
「メルシー!」
そうして私は曇天を抜け、薄暗いドームを出てUSJを走る。敷地内は本物の遊園地のように広く、今いる暴風・大雨ゾーンから“視える”のは隣の水難ゾーン全体、向かい側は噴水があるセントラル広場くらいだ。あとは倒壊、土砂ゾーンも半分くらい把握できた。それ以上は遠すぎて感知できない。
セントラル広場を見ると、相澤先生と脳無が戦闘中だった。
もうすぐ相澤先生が窮地に立たされ、それを救おうと出久が動く。しかしオールマイト用に調整された“ショック吸収”を持つ脳無に全く歯が立たず、絶体絶命───という場面でようやくオールマイトが登場し、轟、勝己ら生徒の活躍もあって形勢逆転。
……というのが、USJ編の筋書きだ。今のところ、その通りに進んでいるらしい。私の今回の目的は、その裏でおかしな動きをする生徒、つまり内通者を探すことだ。地道な現場確認、ヨシ!
あの付近を通っては交戦中の相澤先生、死柄木たちの目に触れてしまうので、隣の水難ゾーンを大きく外側に迂回して火災ゾーンを目指そう。そこから反時計回りに山岳、土砂ゾーンと巡り、怪しい動きをする生徒がいないか監視しよう。
そう考え、水難ゾーンと火災ゾーンの中間に辿り着いたとき───迫る気配に思わず足を止めた。
「は……?」
上空から流星の如き速度で、高温を発する橙色の熱反応が迫る。私の名を叫ぶ声がする。私は蛇越しの視界から見える鮮烈な色を呆然と見つめていた。
「なんで、ここに。原作と違う」
USJ編での勝己には、厄介なワープゲートの黒霧を押さえ、オールマイトの窮地を救うという役割がある。
本編でのメインステージは、ずっと向こう側だ。本来なら彼がこんな所にいるなんて有り得ない。倒壊ゾーンを出て、切島と行動を共にしているはずだ。
勝己はこことは真逆のセントラル広場で黒霧、脳無、死柄木と対峙しなければならない。そうしなければ───最悪、オールマイトが本当に死んでしまう。
口田甲司の代わりに私というイレギュラーが存在しても、今のところ大きな筋書きは変わっていない。多少の脱線があっても、“何故か”物語は正しい方向に収束していく。いっそ不気味なくらいに。
だが、いくら原作の修正力ともいえる力が働いているとはいえ、それがどこまで有効なのかもわからない。
着地してこちらに駆け寄る勝己は、雨でずぶ濡れになった私の全身を、返り血が染み込んだ肩口のマントを見て瞠目した。何か言おうとして言葉を飲み込み、平常を装った嘲り声で罵倒した。
「モブヴィラン如きにやられるなんざ、ざまぁねーな雑魚蛇!雑魚は雑魚らしく、そこら辺の隅で飴でも舐めながら震えてろや。ついでに退学しろ」
勝己はブチ切れながら戦闘服のポケットからヴェリタースオリジナルを取り出し、節分の豆のように私の顔面目掛けて投げつけた。
普段なら「
「なんで……ここに……切島くんは……オールマイトはまだ来てない?でもここからセントラル広場までは距離が……今こんな所に居たら勝己が乱入するタイミングが……」
「あ゛?クソナードの真似ヤメロや。オイ、はよこっち来い。倒壊ゾーンの敵共は全員ブッ殺したから、あそこなら避難できんだろ」
ゆらりと伸ばされる勝己の手は、個性の酷使で負傷したのだろう。分厚い掌の皮が剥け、爆炎の影響か、痛々しく黒ずんでいる。
私は一歩後ずさり、伸ばされた傷だらけの手を拒否する。
「……勝己、カツキアヌ・リーブスくん?こんなところで何してるの?今一番危険なのは、増援を呼んだり逃走経路にもなる“黒いモヤの男”だわ。可愛いいとこが心配なのはわかるけど、冷静になりましょう?あたしに構ってる場合じゃないわ。ほら、向こうに戻って相澤センセーたちを助けて───」
「うるっせぇな指図すんなクソ蛇!あとあの露出ババアの話し方真似すんじゃねぇって何度言ったらわかんだド低脳爬虫類!」
「あ゛?露出ババア?それってあなたの感想ですよね?……って、今そんなコントしてる場合じゃないよ!早く相澤センセーのとこ行ってよ。勝己がいなきゃオールマ───皆が危ないんだって!あたしが他のゾーンの子達に加勢して周って、勝己が先生たちを助ける。あたしじゃあのモヤみたいな人と手がいっぱいの人には勝てなそうだけど、あなたなら戦えるよね?ねえそれが最善策でしょ?頭がいい勝己なら、それが一番だってわかるでしょう?」
「加勢?策?ハッ、馬鹿かてめェは!雑魚相手にそんな怪我までしてやがる雑魚以下のクソ雑魚が!頭の出来も俺以下の低脳が!余計な口出して出しゃばるんじゃねぇ、足手まといだから引っ込んでろってンだカスが!」
「何でいちいち噛み付くかな?あたしは一人でも戦えるくらい強くなったし、大丈夫だよ!授業ならともかくこんな非常事態に言い争うなんて、“爆豪勝己らしくない”よ……!なんで冷静になれないの!」
筋書きから外れていく流れを修正しなくては、と気ばかりが急く。
ふざけている場合ではない。本当に早くしないと、勝己の参戦が間に合わず出久やオールマイトが死ぬ可能性がある。
私を安全な場所に、と再び差し伸べられた手を振り払うと、勝己は一瞬、酷く傷付いた被害者のような顔をした。
そして次の瞬間───そんな表情に狼狽えた私の胸倉を掴み、地面に向けて引き摺り倒した。胸元の装飾を引きちぎらんばかりに掴んで馬乗りになり、耳の数ミリ横に拳を叩きつけてコンクリートを爆破した。
強かに打ち付けた後頭部が、痺れるように鈍く痛む。巻き込まれた数本の黒髪が燃え落ち、焦げ臭いタンパク質の匂いが鼻を突く。
呆然と見上げたその瞳には、煮えたぎる怒りがごうごうと燃え盛っていた。
「てめェは───あの日を忘れたのかよ」
お前の姉であり、俺のいとこ二人が死んだ日を。全てを狂わせたあの夏の日を、忘れたのか。
怒りを押し殺し問う勝己に、熱を持った脳がすっと冷えていく。そうして理解した。彼は私の死を恐れて、ずっとあちこちを探していたのだ。これ以上家族を失うことに恐怖して、掌をぼろぼろにして飛び回っていた。
彼は家族を失う痛みを知っている。だから、安全な場所に避難しろとしつこく言う。「お前はヒーローに向いていない」「クソザコ個性」と毎日のように罵り、学校を辞めさせようとする。
「あいつらは死んだ。てめェがあいつらの夢を引き継いでヒーローになろうが、カンケーねぇ。意味がねぇ。死人の夢なんざ捨てて、普通に生きろ。ずっと精神病院にいる父親と母親だってもう、」
「勝己。それ以上は怒るよ」
最近はもう、親友との思い出すら擦り切れてきている。元々頭と記憶力が悪い凡人の私は、彼女とどこでどんな風に出会ったかすら、思い出せない。元の世界の両親の顔も分からなくなってしまった。
そんな私に残った、たしかな愛情の記憶。それが『爆豪家』の日々だ。
漫画の世界に順応する度に本当の家族を、元の世界での記憶を取り零していく私にとって、家族と呼べる存在はもう彼らしかいなかった。
過保護な父と、優しい母と、ヒーローを夢見る姉二人。何もかも失った私は、あの美しい日々とミッドナイトの情けに縋って生きるしかない。
「ちょーかっこいいヒーローになって、睡さんたちを救う」「家族への償いを考える」以外、生きる意味がない。生きていていい理由がない。
「俺たちの家族はもう死んでんだ。終わってんだよ。いい加減現実見ろや!あの“石像”を戻す為にてめェの人生かけるとか、うちのババアもオヤジも誰も望んじゃいねぇんだよ……!!」
勝己は何も知らない。私が殺した人は姉たちと死刑囚のヴィランの三人だと思っている。あれは不幸な事故だったし、ヴィランはどうせ死刑囚だった。たった一度の過ちなのだから、まだやり直せると純粋に信じている。
だが、違うのだ。私が殺したのは───“五人”だ。親友、瞳巳ちゃん、死刑囚だったヴィラン、姉二人。
もうやり直せない。私の人生は初めから終わっている。勝己がこんなに必死に救けたいと思う本物の爆豪瞳巳は、とっくの昔に死んでいる。今の私は、彼女の皮を被った偽物だ。瞳巳ちゃんの精神は、六歳の誕生日に私が異世界からやってきたことで消えてしまった。
瞳巳ちゃんの名を騙り、姉たちの夢を継ぎ、ミッドナイトの真似事をする。前の世界の幸福な記憶は日に日に薄れていく。
“私”の記憶がすべて抜け落ちたとして、目の前の少年の瞳に映る少女は、一体誰になるのだろうか。
「ねえ勝己、私が誰に見える?可愛くて虫も殺せない瞳巳ちゃんに見える?」
「……は?クソブタ蛇以外の誰に見えるってンだよ」
「そっかぁ。でもね私、もう殆ど化物だと思うの。だってさっきのヴィランたちに“何をしても”、何とも思わなかった。嘘をついて誰かになりきるのも、慣れてきちゃった」
「───……」
「『あれは事故だった』って睡さんも言うけどね。お姉ちゃんやあの水のヴィランへの罪悪感まで忘れたら、私は今度こそ戻れない。本当に人を殺すだけの化物に落ちる。わかるかな?わかんないよね」
ホームビデオを何度も巻き戻して学習した瞳巳ちゃんの微笑で、人差し指を唇にあてる。
「あ、今の話はみんなにはひみつだよ!」
黒い目隠しの下の、家族でお揃いの黄金色を三日月に歪めた。
「大丈夫。どんなに落ちても勝己たちは絶対守るよ。私の言う通りにすれば、誰も死なずにすむからね。だから───逆らわないで」
「───お前、誰だ」
勝己は理解出来ないおぞましい生き物を見つけてしまったように瞠目した。揺らぐ炎の瞳が呆然と、私を見下ろしている。
─────────
【次回】
「イカレ飴女ブッ潰す」
「やってみろよ泣き虫プッツン野郎」
「唐揚げ」
「脳無虐待やめろ」
「死柄木くんて休み時間誰とも喋らないで俯いてノートに変な落書きしてるのに脳無とドラクエの話になると急に早口になるね」
さすがに次でUSJ終わらせる