蛇に花房、石に飴玉   作:鳥市

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5. マルベリー

 静まり返った病室に、賑やかなテレビCMが場違いに響き渡る。

 

『───今では私がヒーロー!子供たちにあげるのは、もちろんヴェリタースオリジナル!こんな素晴らしいキャンディーを貰える君は、誰がなんと言おうと特別な存在だ!数量限定のオマケに、私のステッカーが来た!』

 

 爆豪瞳巳は、

 

 

 

 

 

「……わかっているだろうが、今回の件はくれぐれも内密に。頼んだぞ、ミッドナイト」

 

 隔離病棟に、男の冷淡な声だけが反響する。妙に落ち着き払った心持ちで、私は彼らの話を聞いていた。

 

 私たちを襲ったヴィランは、死刑囚だったらしい。男は過去、"四人の子供を殺害し肉を食らう"という残虐極まりない所業で捕まり、ついに今日、極刑を宣告された。

 事が起こったのは夕方である。ヴィランによる上告を棄却し、死刑判決を言い渡した裁判所からタルタロスへの帰り道、許されざる失態が起きた。世間を混乱に陥れた凶悪犯の護送ということで、No.2ヒーロー・エンデヴァーとその他ヒーロー数名を配置するなど、警備は万全を期したはずだった。

 しかし狡猾な男は僅かな隙を見計らい自身を液体化し、道端のマンホールに逃げ込んだ。そのまま水路を伝い、遠くに逃げ続け───そして私たちが遊ぶ公園の蛇口から姿を現し、「どうせ死刑になるなら」と最後の凶行に走った。

 

 警察上層部の人間だろうか。仕立ての良い背広を着込んだ壮年の男たちは額に深い皺を刻み、難しい顔で話し合っている。白いベッドに横たわる少女たちから可能な限り距離をとり、一瞥もせずに。

 

「あれだけのヒーローが居ながら死刑囚を取り逃がすなど、あってはならぬ大失態。こんなことが報道されれば、せっかく公安の会長として積み上げてきた私のキャリアがどうなるか」

「幸い、事態を知るのは身内である警察やヒーローのみ。逃がしたヴィランを見た一般人は近隣の十数人です。金を握らせてなかったことにしましょう、委員長」

 

 委員長、と呼ばれた眼鏡の男が、深々とため息をついて警察上層部らしき男を見やる。彼らが国の中央に座る権力者であることは、すぐにわかった。

 仕立ての良いスーツも曇り一つなく艶めく革靴も、地方都市のくたびれたサラリーマンとはまるで違う。人の上に立ち、悲劇を俯瞰することに慣れきった、死魚の双眸をしていた。

 公安の長は、淡々と言葉を重ねる。

 

「動画を撮った者に関してはデータを回収し、念の為レディ・ナガンに監視させ、必要なら"いつものように"処理すれば良い。しかしヴィランと共に石になった、二人の女子高生はどうする?」

「同日に近隣で逮捕した殺人犯の仕業……ということにしましょう。石化ではありませんがちょうど石に関する能力ですし、うってつけです。そいつは抗議するでしょうが、問題ありません。どうせ誰もヴィランの言うことなど、信じませんから」

「なるほど。メドゥーサの娘はこちらで確保できたし、両親はあの通り正気を失ってしまったのだから、好都合だな。万一今回のことが公になれば、ヒーロー社会を揺るがす大事だよ。"No.2ヒーローが殺人犯を取り逃がし、あまつさえ更なる犠牲者を出しかけた。結果、年端もいかない少女が個性を暴走させ三人を殺した"など……」

「まったく、ヒーロー連中には感謝して欲しいものですよね。我々裏方がいるからこそ彼らは大手を振って、全てを救ってきた、なんて顔で堂々と歩けるんですから」

 

「まあ、丸く収まってよかった」と息をついた背広姿の壮年は、胸にたくさんの勲章をつけた警察上層部らしき男から視線を外し、ふと横目で私を見やった。

 一瞬、私とその男の目線が交わる。一体、私はどんな目で彼らを見ていたのだろう。たったそれだけで男の肩はびくりと跳ね上がり、頭ごと大袈裟なくらい目を逸らした。ずり落ちた眼鏡を直す手が、震えていた。

 

「……で、では。爆豪瞳巳の二つ目の個性『メドゥーサ』については公安が秘匿する。今後の生活についてはミッドナイトとレディ・ナガン監視のもと、暴発する危険性がないよう保護観察処分……ということにしよう」

「そうですね。十メートル以上の異形化に石化の瞳なんて、暴発すれば歩く災害でしかない」

 

 男たちは「今回のことは誰にも漏らすな」と釘を刺し、早足で病室を出ていった。

「ヒーロー・ミッドナイト。その化物をしっかり監視しておけよ。国家権力を敵に回したくはないだろう?」と、ヴィラン顔負けの捨て台詞を吐いて。

 

 私が姉を石化させてから、数時間が経っていた。私は今、病室の天井を眺め、ただ息をしている。

 あの時真っ先に助けに来たのは、近隣に住むミッドナイトだった。彼女はおぞましい化物と化していた私を眠り香で強制的に眠らせた。

 ヴィランだと思い込んでいた化物が小さくなり、見知った少女の形をとるのを、彼女はどんな気持ちで見ていたのだろう。ミッドナイトは混乱しながらも私を抱え、病院に駆け込んでくれた。

 

 姉たちに噛まれた腹と指先から少し血が出ているだけで、私に怪我はほとんどない。だからベッド脇のパイプ椅子に腰かけるミッドナイトに、二人の見舞いに行きたいと願い出た。

 

「ミッドナイトさん。私、お姉ちゃんたちに謝りに行かなくちゃ。よくわかんないけど、私の個性?が解除されたなら、お姉ちゃんたちの石化も治ってるよね?」

「それは……」

 

 珍しくミッドナイトが口ごもり、視線を逸らす。先程から、病室が騒がしい。ジャングルの何かよくわからないヤバい猛獣みたいな鳴き声が、ひっきりなしに聞こえる。うるさくて堪らない。病室に動物を連れ込むとか、信じられない。そんな非常識なことをする奴の、親の顔が見てみたい。

 

「お姉ちゃんたち、もう目が覚めたかな?何号室にいるのかな?」

「……瞳巳、それは」

「一時的とはいえ石にするなんて、酷いことしちゃったなぁ。なんて謝ろう?ねえ、ミッドナイトさんはどう謝れば許してくれると思います?」

「瞳巳、落ち着いて───いいえ、落ち着かなくていいから聞いて。あなたのお姉さんは、ご両親はもう、」

「え?ごめんなさい、聞こえませんでした。なんかさっきから病室うるさくないですか?」

「瞳巳、おねがい、話を聞いて。ちゃんとこっちを見て。私がついてるから。あなたまで正気を失っては駄目……!」

「聞いてるし、見てますよ。ただ、部屋がうるさくて。いっそお姉ちゃんたちの病室に移れないかな?そうしたらパパもママも、一度にお見舞いに来られるのに。そういえば、パパもママも遅いな。もう何時間も経ってるのに、どうして来てくれないんだろ」

「瞳巳」

 

 ついに掌で顔を覆ったミッドナイトが、椅子の上で泣き崩れた。原作での強気な彼女しか知らない私は驚いて、家族でお揃いの金色を見開いた。けれど漫画より幼さが残るミッドナイトの輪郭を眺め、「そっか」と納得する。

 今は、原作のおよそ九年前だ。二十二歳の彼女は独立したばかりの新人ヒーローで、教職にも就いていない。だから"ミッドナイト"としてまだ不完全で、感情を制御しきれず冷静さを欠くこともあるのだろう。両の掌で受け止めきれなかった涙が、病院の無機質な床に滴り落ちる。

 (ねむり)さんは、優しい人だ。

 

「泣かないで、睡さん。あたしは大丈夫だから」

 

 私はベッドから上半身を起こし、顔を伏せ肩を震わせるミッドナイトの黒髪を撫でた。私を抱えて必死に走り、ずっと側についていてくれたのだろう。いつも完璧に整えられている長い髪は所々乱れ、砂埃がついていた。

 

「ごめんね」と口にするべきか迷い、唇をほんの少し開いた。しかし身を起こしてはっきりと見えた光景に、すべての言葉を打ち消し、押し黙る他なかった。

 

「──!!──、──!!!!!」

 

 一組の夫婦が獣のように吼え、床に這いつくばって慟哭している。正気を失った両の眼だけを爛々と鈍く光らせ、流れ出る涎もそのままに、喉を枯らして叫んでいる。夫婦はベッドに横たわる美しい姉妹の、温度を失った灰色の脚や腕にすがり付いていた。

 

「うるさいなぁ。早くお姉ちゃんの部屋に行きたいな。パパとママ、迎えに来ないかな」

 

 一年と少し前の春、この病院で記憶喪失と診断された時のことを思い出す。あの頃は、誰も彼も見知らぬ他人だった。家族だなんて、信じたくもなかった。白い屋根の自宅は他人の家の匂いがして、落ち着かなかった。帰宅する度憂鬱で、ドアノブは冷たく、重くて仕方がなかった。けれど今は。

 

「パパ、ママ、お姉ちゃん。帰ろうよ」

 

 一度に娘二人を失った両親に、私の言葉は届かなかった。姉妹の彫像は何も言わず、白いシーツに転がっている。

 

 ***

 

 病院でのさまざまな検査やカウンセリングを終えたのは、八月半ばのことだった。

『双子の愛娘が死んだ』『殺したのは、実の末娘』

 到底受け入れられない現実に、両親は狂った。壊れてしまった彼らはもう、私の姿や声すら認識できない。両親は精神病棟に隔離され、毎日娘たちの名を呼び続けているという。

 

 私はミッドナイトの家に移り住むことを命じられた。本来なら親戚である爆豪家に引き取られるのが普通だが、権力者から指図され、叶わなかった。

 なぜ、彼女が名指しされたのか。それは以前から互いに面識があったから、ではない。ミッドナイトが、『メドゥーサ』に対処できる稀有な個性を持っているからだ。

 

 ミッドナイトの個性は、『眠り香』。自らの肌の香りを口、鼻から吸い込んだ者を強制的に眠らせるものだ。対して私は、瞳を開かなければ発動しない個性。

 つまり、万が一私の個性が暴走し、巨大化もしくはメドゥーサ状態になっても。無理矢理意識を奪い、目蓋を閉じさせてしまえば元の姿に戻れるし、周囲を石化させる心配もない。

 加えて彼女は人間としての性格、ヒーローとしての評判も良好だ。私と同居し監視する者として、これ以上うってつけの人物はいない。

 

 退院し、ミッドナイトの家に引き取られ、二週間が経った。もうすぐ夏休みが終わり、二学期が始まる。

 同級生たちが旅行に遊びに忙しいなか、私は一度も外に出ず、室内でのトレーニングと勉強に日々を費やしていた。

 ミッドナイトは私に気を遣い、「人気のない夜でいいから、近所のスーパーまで歩かない?」など提案してくれた。勝己や出久の家まで車を出すと言ってくれた。

 だが、それら全てを断った。眠る間を惜しんでの鍛練に幼い身体中が悲鳴を上げ、毎日気絶するように硬い床で眠る。それでよかった。

 

 そして、二学期が始まる。ミッドナイトは公安の上層部に転校や休学の措置を取るよう訴えたが、無意味だった。権力者たちは「あの事件の渦中にいた者がそんな行動を取っては、マスコミに勘ぐられるだろう」「あなた達だって、あの醜い姿が知れ渡るのは本意ではないはずです」と、私たちに普段通りの生活を強要した。

 公安の命令にミッドナイトは端正な顔立ちを歪め、机に拳を叩きつけ、怒りを露にした。

 

「ふざ、けるな……!瞳巳はなにも悪くないでしょう……!!」

「いいんだよ、ミッドナイトさん。私が全部悪いんだから」

「違う!そんなわけない!私が救けるべきだった……!あの時、あんなに近くにいたのに!!」

 

 憤ってくれるミッドナイトには悪いが、彼らの命令は私にとって好都合だった。

 

 以前の快活さを失った表情。目元を覆い隠すほど長く伸びきり、ぼさぼさで、蛇の如く意志を持ってうねる黒髪。痩せこけた青白い頬の、死者のような不気味さ。夏休み前からうって変わった性格。

 無邪気な小学一年生は初めのうち、様子のおかしい同級生を心配し、声をかけた。それがからかいになり、やがて虐めに繋がるのに、そう時間はかからなかった。

 

「みんな、嫌なことは全部私に押し付けてね。掃除でも宿題でも、なんでもするよ。苛々したら、殴っても蹴ってもいいよ」

 

 私は当然のように虐めを享受した。その不気味さに、異物を排除しようといよいよ虐めがエスカレートする。

 けれどこの程度の痛みでは、まるで足りない。石になった姉たちや喪失に発狂した両親は、もっと辛かっただろう。苦しかっただろう。

 せめて今は、身の回りのみんなの苦しみの受け皿になろうと思った。そして大人になったら瞳巳ちゃん、お姉ちゃんたちの夢を叶える。親友を救えなかった罪を償い、『ちょーかっこいいヒーロー』になる。

 

 朝と昼は苛烈な虐めを受け、夕方から深夜までは例のゴミ山、もしくはミッドナイトの家で特訓と個性についての勉強をした。

 今までが、甘すぎたのだ。「ヒーローになる」なんて言ったくせに、全く覚悟が足りていなかった。たった数時間走ったりトレーニングをしただけで、音を上げていた。ミッドナイトに見守られ、勝己と出久と過ごす日常を呑気に楽しんでいた。

 

 自らが罪人であるという自覚が、足りなかった。人生をなげうって罪を償う覚悟がなかった。喪失から何も学べない、馬鹿で間抜けで能天気で無価値な人間だった。

 これからは違う。私は周囲の全てを幸せにする。しなければならない。甘ったれた泣き言を吐く暇はない。

 

「見ててね、──、瞳巳ちゃん、お姉ちゃん、パパ、ママ。あたしヒーローになるよ」

 

 爆豪瞳巳は、盲目に罰を願う。

 隣人のための笑顔を絶やすな。しかし、決して楽しむな。極限の苦痛のなか、他人を救う為だけに生き、死ね。

 

 

 

 今日は、教室のロッカーにしまっていたはずのランドセルがなくなっていた。周囲の子どもたちの囁きに耳を澄ますと、体育の授業で着替えている間に、誰かが近くの川に投げ捨てたらしい。

 パパとママが買ってくれたランドセルがなくなるのは、困る。それに、こういうものは高価だ。もし駄目になってしまったら、ミッドナイトに迷惑がかかる。ただでさえ不気味な化物なんかと同居させてしまっているのだ。これ以上の迷惑はかけられない。

 

 幸運なことにランドセルは川沿いの木片に引っ掛かり、流されてはいなかった。私は膝丈のスカートを水に浸し、水流によろけながらもなんとかそれを取り返した。

 

「見ろよアイツ、あんなドブ川で遊んでるぜ!」

「きったねー!」

「くせーからあがってくんなよ、ヘビ女!」

 

 私は泥にまみれながら彼らを見上げ、鏡の前で幾度も練習した顔でへらりと笑う。ヒーローは常に笑顔でないといけないと、姉たちが言っていた。瞳巳ちゃんがノートに描いた理想のヒーローも、笑顔だった。

 私の笑みに、高学年の少年たちは不気味なものを見る目で一歩後ずさる。

 

「な、なんだよコイツ……おかしいんじゃねーの」

「───おかしいのはてめェらだ!!」

 

 刺々しく逆立った金髪が閃光のように躍り出て、体格のいい上級生に殴りかかった。

 

 

 

 

「お、おぼえてろよ~!」

「おぼえるワケねーだろ、クソモブども!」

 

 一対三の、しかも上級生との殴りあいの末、なんと勝己は勝ってしまった。

 ただ、取っ組み合いでいじめっ子共々川に転落し、小さな身体中傷だらけだった。お世辞にも綺麗とは言えない川に浸り、私たちは全身ずぶ濡れだった。

 勝己は、こんなにぼろぼろになってまで私を助けてくれた。何か言わなければ。謝らなければ。私は無理矢理唇をひきつらせ、唇を三日月に持ち上げた。途端、見開かれる陽炎の双眸。

 

 ああそうだった、と思い返す。私のこの笑みは、彼の傷そのものだった。

 一番はじめにつけた傷は、トラックに飛び込み自殺を謀った時のもの。あの時、彼の手は届かなかった。もしもミッドナイトが通りかからなければ、私は勝己の目の前でぐちゃぐちゃの肉塊になっていた。最悪の場面を想像してしまった彼は、どれだけ怖い思いをしただろう。

 次に、水のヴィランに遭遇した夏休み前。「逃げろ」と叫んだ彼はヴィランに囚われながらも個性を使い、必死で私を救おうと足掻いた。だが、体を締め付けられ意識を失い、何も出来なかった。

 目が覚めたら私は別人になり、おいしいカレーを作ってくれた親戚の家庭は無惨に崩壊していた。勝己はきっと、私を助けられなかった責任を感じている。

 

 彼にとって、私は"爆豪勝己の無力の象徴"だった。忌まわしい傷跡そのものだった。

 

 私は勝己から目を逸らし、切り裂かれたランドセルを抱き締め、分厚く長い前髪で瞳を隠した。

 先程の喧嘩で出来たのだろう。伏せた視界に傷だらけの彼の脛や膝小僧が見え、呼吸が震えた。

 

「ごめん。私と居ると、嫌なことばっかりだね。……たすけられなくて、ごめんなさい」

「…………!」

 

 勝己が息を飲み、私は失敗を悟る。

 苛立たせてしまった。プライドの高い彼には謝罪は逆効果だと、少し考えればわかったはずなのに。

 

でも、じゃあ、私はどうすればよかったのだろう?───わからない。何ひとつとしてわからない。頭が働かない。最近はずっと、最低限の食事しかとっていなかったから。

 

 私は浅い川に膝をつき、立ち竦む彼を仰ぎ見た。勝己の傷に触れぬよう精一杯の可愛らしい笑顔を浮かべ、視線が合わないよう細心の注意を払い、目映い金の髪を見つめた。

 瞬間、私の頭をあつい掌が容赦なく叩く。

 

「痛い」

「あたりまえだろ。いたくしたんだから」

「そっか」

「そうだよバカ。おなじバクゴーのくせに、そんなのもわかんねーのかよ」

 

「そのキモい顔、やめろ」と彼は苛立たしげな早口で言った。目を見るのが怖くて、彼がどんな表情をしていたかはわからない。

 

「たてよ。はやく帰んぞ」

「立てないよ」

 

 伸ばされた温かな手を掴む資格は、なかった。だから私は再び俯いて、夏の終わりの生温い水に浸ったままだった。

 一向に手を伸ばさない私に、短気な彼はいよいよ本気で我慢ならなくなったようだ。

 

「瞳巳なんか、もうしらねー!かってにカゼひいてろ!」

 

 癇癪を起こした勝己に加減せず頭を殴られ、よろめく。水浸しの全身が重くて、立ち上がれない。いっそここで死にたいと、以前の私ならそう思っただろう。だが、今は出来ない。

 もっと苦しんで苦しんで苦しみ抜かなければならない。たくさんの人々を救い、ヒーローになる夢を叶えなければならない。ヴィランと戦い、その末にたったひとりで惨めに死ぬ。そうでもしなければ、罰にならない。

 

 それからというもの、私へのいじめは劇的に減った。理由はわかっている。勝己と出久が、守ってくれているからだ。

 少しも嬉しくはなかった。いっそ見離して幼馴染みの、家族の縁を切ってくれたほうが楽だった。

 ぼろぼろの彼らを見る度、その傷をつけた上級生たちを殺してやりたくなった。両眼が熱を持ち、鈍く輝き、内側から焼け焦げてしまいそうだった。

 そんな自分の化物じみた本心を嫌悪し、瞳を抉り出したくなる。

 

 ***

 

 季節は移り変わり、秋になった。相変わらず、私は得体の知れない嫌われものだった。

 隠された教科書をやっとのことで奪い返し、這いずるようにミッドナイトの家に戻ると、玄関に佇む影が見えた。前髪の間から目を凝らせば、それは家主である彼女だった。

 

「おかえりなさい、瞳巳ちゃん」

 

 無言で頭を下げ、通りすぎるはずだった。いつもなら彼女は何か言いたげにしながらも、気を遣うようにこちらを見つめるだけだ。

 しかし今日は、違っていた。彼女はいつもの緩いニットの部屋着ではなく運動着を身に纏って、私を待ち構えていた。彼女の横を通りすぎようとする私を制し、不器用に笑みを浮かべる。

 

「ねえ。私たち、そろそろ本気で向き合うべきじゃないかって思うのよ」

「……今、向き合ってます。ちゃんと個性の制御も勉強してます。生活も、何も支障はないはずです。あなたに迷惑はかけていません」

「可愛くないわね。でも問答無用。いつまでも『救けられなかった』ってうじうじするなんて、後輩に笑われちゃうわ。アイツならきっとこうやって、真正面から向き合う。どんな辛いことだって、笑って受けて立つはずだから。だから……!」

 

 喧嘩をしましょう、と彼女は言った。今にも泣き出しそうに唇を歪めて、私の前に立ち塞がった。

 香山睡はまっすぐに私を見つめている。




次回『爆豪瞳巳:オリジン』
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