「あんたはもう、自由だよ」
今から数年前、私がまだ小学生の頃だった。
たった一度だけ姿を現した彼女は疲れきり、やつれ果てた表情でそう言った。そのままゆらりと踵を返そうとした彼女はしかし、私を見て力なく唇の端をつり上げる。
いとけない子供が膝を擦りむいてしまった。それでも泣くのをこらえ、精一杯の笑顔で「大丈夫だよ」と虚勢を張っている。そんな、見ているこちらの胸が張り裂けてしまいそうな笑顔だった。
「ああ、でも。ヒーローを目指すのだけはやめておきなよ。あんたもきっと、向いてない」
あんたは───瞳巳は、一人で電車にも乗れない弱虫だしね。
レディ・ナガンは一度も振り返らず、どこかへ去っていく。向かうあてがあるとは思えない、頼りない、迷子の少女のような足取りだった。
ロングスカートの裾は焼け焦げ、蒼白な頬は煤で薄く汚れていた。
***
「いってきまーす」
インテリア雑貨の一つもない殺風景な玄関で、遠慮がちに呟く。もちろん、返事など返ってこない。逆に返って来たら怖すぎる。怖すぎて、犯人を引きずり出してコブラツイストをかけるしかない。私は少し前からここで一人暮らしをしているのだから。
一人暮らしを選んだ、というより選ばざるを得なかったのは、ミッドナイトが雄英の教師をしているからである。私がまだ小学生の頃、彼女は校長直々の依頼を受け、雄英で教鞭をとり始めた。
雄英関係者のミッドナイトと、そんな彼女と共に暮らす受験者の私。彼女は、身内だからと入試で私を贔屓するような真似は決してしない。現に私が試験を受けた今年は根津校長に申告し、試験内容には一切触れず、審査員も辞退した。ミッドナイトは、そういう人だ。だが、彼女の人となりを知らない世間はそうは思わない。
もし、私が彼女と同居しながら試験を受け、合格したら。人々は「ミッドナイトが試験の課題を事前に教えたからだ!依怙贔屓だ!」と言い、騒ぎになるだろう。
ヒロアカの民衆、割とそーゆーとこあるから……頑張ってる人に石を投げるヤバい奴とか、割と普通に居ちゃうから……。用心に越したことはない。
世間の非難からミッドナイトを守るため、私は受験シーズンの前から勝己と出久の家の近くにアパートを借り、高校の三年間を一人で過ごすことにした。といってもどうせ夏頃には寮が出来る予定なので、ごく短い期間の仮宿なのだが。
花の香りが漂うお洒落な香山家とは正反対の、よそよそしく無味無臭な201号室に鍵をかける。分厚い鋼板ドアが閉まる重苦しい音に、気分まで重くなった。
冷たい鍵を握りしめて、今までのあたたかな生活を思い出してしまう。飼い猫のおすしちゃんの柔らかな毛並みが、恋しくなってしまう。
およそ八年も暮らしたあの家と比べたって、仕方がない。ミッドナイト・ロスはまだ早すぎる。頭ではそうわかっていても、生まれて初めての一人暮らしは味気なく、心細いものだった。彼女との生活が楽しく、心地よかったからこそ、余計に。
雄英の制服───プリーツスカートを握りしめ、一つ呼吸をして心を落ち着かせる。
「……睡さんに甘えちゃダメ。あの人を助けるために離れたんだから」
たとえミッドナイトが作り置きしてくれる、おいしい朝食がなくとも。私に作れる精一杯の朝食が、味気ないふりかけご飯かカップ麺だけだったとしても。私の生活能力が自分で思っていたより遥かにクソザコだったとしても。私は雄英に通い、大切な人々を救わなくてはならない。
金色の両目が五条悟スタイルで覆い隠されているのを確認し、てん、てんとアパートの階段を降りて、バス停に向かう。
ミッドナイトに贈られたお気に入りのハンカチは持ったし、携帯の充電もきちんとある。「目を隠してる黒い布、五条悟みたい!」とクラスで言われた場合に備え、彼の物真似だって練習した。忘れ物、準備不足で笑われることはないはずだ。
乗るべきバスが速度を落としつつ、近づいてくる。さすがに入学初日は一本早い時間のバスに乗ることにしていた。
もし私がA組なら、担任は相澤先生だ。彼の前で初日遅刻なんてやらかそうものなら、どうなるか。彼は何の迷いもなく「除籍処分」を宣告し、それは即日実行されるだろう。相澤消太ってそういう……そーゆーとこあるから(後方腕組原作知識有転生者面)。
仮にB組だったとしても、まずいことに変わりはない。ブラドキング先生だって相当に厳しい人だし、何よりB組の面々が怖い。物間寧人は絶対、卒業まで遅刻ネタで馬鹿にしてくる。花京院の魂を賭けてもいい。
そしてせっかく入試でいい所を見せて好感度を稼いだ塩崎茨にも、失望されてしまう。美人の蔑み顔は、とても恐ろしい。それは避けたかった。
愛知県某駅───雄英の最寄り駅を目指すバスに揺られ、ミッドナイト・ロスの感傷的な気分のまま、過去に思いを馳せる。
そうだ、あの日もこんなふうにバスに揺られ、ミッドナイトと隣り合って座っていた。どこかひりついた空気のなか、二人で東京の公安本部を目指し、何度もバスを乗り継いだ。
「電車ならもっと速く行けたのに、面倒をかけてごめんなさい」「私の心がもっと強ければ」と、何度も彼女に謝りながら。
私は、電車に乗れない。
転生前の、ナイフで滅多刺しにされた記憶が網膜に焼き付いている。もう十年も前のことだというのに、あの日の何ひとつとして色褪せてはくれない。親友の頬のほくろの位置さえ、思い出すまでもなく目蓋の裏だ。
彼女と自分の血溜まりの匂いを思い返しては噎せかえり、どうしても吐いてしまう。情けないことに、ただホームに立つことさえ苦痛だった。
雄英への道のりは電車と地下鉄で約四十分と、比較的通いやすい。対してバスのみでの通学となるとその倍以上はかかり、大きな時間の無駄になる。第一、“電車にも乗れないヒーロー”など、情けなくて瞳巳ちゃんに顔向けできない。
ミッドナイトに心配をかけないためにも克服しなければいけない課題だと、何度も挑戦した。小学生の頃、電車に乗る訓練を何度もした。
しかし、駄目だった。ある時は有りもしない親友の姿を幻視して、ホームに胃の中身を全部ぶちまけた。またある時はあろうことか、偶然駅で鉢合わせた出久に彼女を投影して、泣いてすがって狂乱した。
そんなことを何度か繰り返すと、駅員に“要注意人物”とみなされ、やんわりと乗車を断られるようになった。吐いたり叫んだり色々と迷惑をかけたので、当然だと思う。
幸い出久には一度しか遭遇しなかったのでよかったが、気持ちの悪いところを見せてしまったと、心から謝った。
「出久、ごめんね。ところで私、“静岡某駅のヤベー奴”として都市伝説になってるんだって。同じクラスの子が言ってた。ウケるね」
「……全然笑えないよ、瞳巳ちゃん。なんだよ、それ。誰が言ってたの?やっと君への虐めがなくなったと思ったのに、そんなの」
一切の表情を消した幼馴染みが、私を見つめる。自分がいくら虐められようと仕返しの一つもしない出久が、拳を握りしめ、肩を震わせ怒っていた。
冗談だよ、と軽薄に言って肩を叩いてみせても、彼の怒りは煮えたぎったまま治まらなかった。この世界の主人公は原作通りとても優しく育ってくれたようで、安心した。
「冗談だよ出久」
「……ごめん」
「どうして謝るの?」
「だって……僕には結局何もできないから。かっちゃんの言う通り、
「っ出久!!」
互いに怒り合う光景を、馬鹿みたいだと思った。
その日、私は電車に乗ることを諦めた。都市伝説の噂は、静かに廃れていった。正体が私であることは、ばれていない。
まあ、そんなことはどうでもいい。とにかくそういった事情で、電車に乗れない私とミッドナイトは最寄りのバス停まで歩き、何度もバスを乗り継ぎ、公安本部を目指した。電車と新幹線で行けば一時間ちょっとで行ける場所だというのに、随分と長い回り道をしてしまった。
今日は、私の雄英高校ヒーロー科受験の許可を得に来ていた。私はまだ小学校六年生で受験までは何年もあったが、「あいつらは些細なことでうるさいから。早く伝えるに越したことはないわ」と言うミッドナイトに従い、公安委員長の指示を仰ぐことにした。
だが、やっとたどり着いた公安本部で耳にした言葉は、信じ難いものだった。
「爆豪、瞳巳……?七歳の頃の個性暴発事件……?データにないですね」
「ない?そんなはずないわ。上層部ならきっと知っているはずです。二年前までは、ここで私と瞳巳の名前を言うだけで通じていましたし」
「いえ……二年前までの上層部と公安委員長は、その……人事異動や……火事などの事件に巻き込まれて、あの……」
受付の女性が、声を潜めて言い淀む。彼女の言葉に、私は二年前の記憶を呼び覚ましていた。
レディ・ナガン。ヒーロー社会の裏側に堪えられなくなってしまった、強く優しい女性。個性による殺人を犯した私を監視していたヒーロー。
二年前にほんの一瞬だけ報道された、公安本部での大火事。何者かによって執拗に燃やし尽くされたという、機密情報が詰まった委員長室。何者かによって汚職を暴かれ任を解かれた、数人の上層部。原作通りの公安委員長殺害と、その事実すら隠蔽する国家権力。
「あんたはもう、自由だよ」
二年前、初めて姿を現した彼女はそう言った。ロングスカートの裾は焼け焦げ、蒼白な頬は灰色の煤にまみれていた。
私は二年越しに、真実を知った。レディ・ナガンは私の過去を燃やし、未来を切り拓いた。最早あの事件の詳細を知る者は、現委員長とエンデヴァーのみである。もしもメドゥーサの個性に関する記録が残っていたら、雄英への入学───ヒーローを目指すなど、決して許されなかっただろう。
彼女がなぜ、私のために動いたのか。ただの監視対象に過ぎない私に、何を思ったのか。一切は謎のままだ。
現公安委員長の女性と面会をしたところ、私の雄英受験とヒーロー志望は、拍子抜けするほど簡単に許可された。数年間個性の暴発がなかったため、条件付きではあるが一人暮らしも認められた。これについては、私の個性を制御し、教え導いてくれたミッドナイトの功績が大きいだろう。
そしてどうやら新委員長は、以前の委員長とは全く異なる方針を持っているらしい。人材を使い捨て、都合が悪い者は即刻“処分”していた彼とは違い、新委員長は徹底した情報把握と諜報活動による“犯罪の未然防止”に努めていた。
それを可能にしているのは彼女の懐刀、ホークスの尽力によるものだろう。原作でも活躍していた彼が近くに居ないかと、覚えたばかりの『赤外線探知』(蛇のピット器官による索敵)で探るが、気配は拾えなかった。
メインキャラに会えるかとわくわくウネウネしていた髪の蛇が、急速に萎んでいく。「よしよし」と蛇くんたちの額を撫でていると、厳格な表情の新委員長が口を開いた。
「前任が命じていたあなたの行動制限は、一部解除します。ヒーロー志望も認めましょう。ただし、監視は継続します。一人暮らしをするなら、ミッドナイトの管轄地域にすること。その目の制御が出来るようになったからといっても、あなたの個性の危険性は、依然として変わらない」
決して真っ白な善人ではない。ただ、前任のような深い闇色でもない。新委員長は目隠しで覆われた私の両目を無感動に見据え、静かに言葉を紡いだ。
「瞳を見つめれば、問答無用で即死。二階建ての民家以上にも及ぶ異形化。尾の一振り、爪の一突きで致命傷をもたらす、全身凶器。神話のメドゥーサさながらのその“力”は、非常に暴力的です。ヒーローではなく、ヴィラン向きと言えるでしょう」
「……っ!お言葉ですが、その言い方は……!」
「落ち着いて、ミッドナイト」
委員長の言葉に憤り、机に掌をついて立ち上がりかけるミッドナイト。私は彼女の拳に手を添え、再びソファーに座らせた。
対岸の委員長はそんな私たちなど意にも介さず、無機質に続ける。
「あなたは、非常に厄介な個性を持って生まれました。───どうか過去に囚われ、ヴィランに堕ちることなきよう」
***
窓の外を眺めながら昔を思い出していると、いつの間にかバスは終点、雄英最寄り駅に着いていた。バスを下りると、真新しい雄英の制服を着た新入生たちが、はしゃぎ合いながら学校への道のりを歩いている。
その集団の中に、一際目立つ茨の冠の少女を見つけた。一周まわって逆に目立つ、透明な少女を見つけた。
「おはよう塩崎さん!葉隠さん!」
「おや、あなたは……
「あーっ!あなたは飴の人〜〜!」
「ちょ、変なあだ名ついてるし」
「また会えたぁ〜!」と感激して抱きついてくる葉隠透の背中を宥めるように撫でる。ちなみに私は蛇の赤外線感知能力を通じて、葉隠の姿が見えている。誰も知らない可愛いお顔も、肩口で揺れるゆるふわウェーブ髪も、しっかりばっちり見えている。可愛い。
そんな私たちのじゃれ合いを静かな瞳で見つめる塩崎茨が、唇を開いた。
「……歓談も良いですが。あまりふざけていると入学式に遅刻してしまいます、楽園の蛇よ」
「あ、ごめんなさい塩崎さん。塩崎さんもぎゅーっとする?」
「いいえ、私は別に、」
困惑顔が可愛いので、問答無用でぎゅーっとした。抱擁はミッドナイト仕込みの社交術である。赤外線による体温感知で、塩崎さんの体温が急上昇したのがわかった。可愛い。
三人並んで、雄英高校の門をくぐる。
今日は四月八日。私は十年の時を経て、高校の制服を身にまとっていた。あの日を思い出す、遅咲きの桜が散っていた。どこか遠くで鶯が鳴き交わしていた。
けれど私は、無力だったあの時とは違う。人に助けを求め、目の前で親友を失った私ではない。もう、何一つとして失わない。理不尽に奪われない。
配られたA組のクラス名簿に、『口田甲司』の名前はなかった。見せてもらったB組のものにも、どこにもなかった。
もう二度と、理不尽に奪われない私になる。そう嘯いて私は、誰かの居場所を奪っていく。存在しないはずの、爆豪勝己の従兄妹が、物語を理不尽に歪めていく。
私はA組の扉を堂々と開き、大好きな物語に割って入った。“一方的に見知った”いくつもの顔が、私を見つめる。
───この中の誰か一人、もしくは教師陣は、裏切り者である。本心を許すな。常に疑え。「好きなキャラクターだから」という情は捨てろ。
一瞬、覚悟が揺らぎ震えた私の手を、「大丈夫?」と葉隠透の透明な手が握る。
教室の奥、陽炎の瞳が見開かれ、私の隠れた両目と交差した。
「……何度も言ったよなァ?入学は辞退しろって。てめェはヒーローになれねぇって……!」
「……うん。でも来ちゃったよ、カッチャマン」
勝己の表情が、怒りと苦悩に歪んでいく。それでも見慣れた従兄妹の存在と葉隠の手に、不思議と全身の震えは収まっていた。
爆豪瞳巳は口田甲司の夢を奪い、平然と席についた。勝己と出久に挟まれた座席、この場所が私のヒーローアカデミアだ。
不動のメインヒロイン⇒ミッドナイト
幼馴染み枠⇒勝己と出久
サブヒロイン⇒葉隠ちゃんと茨さん