CoCシナリオ「落下速度0km/h」のネタバレが含まれます。
”さようなら、叶子。”
あの日、叶子は死にました。
脳が崩れた叶子は、時節昔の人格を吐き出すだけの抜け殻になりました。
そこから先のことは全て夢のようにぼんやりとしか認知できていません。
それでも叶子は学校に通い続けました。
裸女、露出女と罵られ続けても。
全部全部、夢の中の記憶のようにぼんやりとしか感じられません。
だから、今までよりは楽な気持ちでした。
もう叶子には傷つく感情すらも残っていないのです。
言動と人格に脈絡がなくなった私はますます気味悪がられ、いじめる人物すらいなくなっていました。
叶子は本当にひとりぼっちです。
でも、寂しくありませんでした。
寂しいという感情を失ったからです。
ある日、私は孤児院から叔父さんのところに引き取られました。
両親のことなど片時も知らなかった私ですが、どうやら戸籍やDNAを辿って私を見つけたようです。
叔父は私を引き取ると、すぐに”アレ”をさせました。
あの日、夜の教室で警備員のおじさんにさせられたアレを―――。
初めは痛くて、怖くて、感情が抜けかけた私ですら引きずった声で許しを乞うほどおぞましい行為でしたが、慣れていくと、それはただの作業になっていきました。
家に帰ると、薬を飲んで”ソレ”をして、粗末な飯をあてがわれて家事をして、夜遅くに静かにお風呂に入って、宿題があれば朝方までやって少しだけ寝る。
それだけの作業をひたすら繰り返して、意味もなく時間が過ぎていきました。
青春という言葉は何を意味しているのでしょう。
普通の学生が過ごす普通の幸せとは何なのでしょう。
クラスで楽しそうに話している同級生を見ても何も感じなくなりました。
他人の”普通”を客観的に見ても何も思わなくなりました。
私はもう、作業をこなすだけの人形であり機械。
何も思わないし、思えない。
叶子はもう、死んだんです。
―――本当に?
「シアワセニナリタイナ」
ある日、私は飛び降りました。
それは人間の理解を超えた怪異ゆえでしょうか。
叶子に残された最期の人としての選択だったのでしょうか。
今となっては分かりません。
時空の隙間、”ゼロの時間”。
そこで叶子は思いもよらぬ言葉を口にしました。
「生キタイナ」
どうして?
誰も叶子に優しくしてくれない、みんな叶子をいじめる、そんな世界でどうして生きようなどと叶子は思うのでしょう?
「生キタイナ」
巨大なトカゲを前にして、今まで感じたことのない巨大な恐怖に身を包まれて、それなのにどうして―――。
叶子は”生きたい”と―――何よりも強く願ったのでしょう。
生きることへの、狂気的なまでの執着を抱いたのでしょう。
「シアワセニナリタイナ」
叶子は子供だから。
やっぱり、他の子が羨ましいから。
普通に生きてみたいから。
そして叶子は―――まだ生きているから。
人間にすら逆らったことのない私が、巨大なトカゲに立ち向かうなんて、それこそ夢の中でも想像したことのないことでした。
ですが、自分でも不思議なくらいに体が軽やかに感じました。
幸せなこと、楽しいことなんて一つもなかった叶子の人生。
散々叩かれて、刺されて、弄ばれて、頭が壊れるまで虐められて。
だからこそ叶子はずっとずっと、生きたかったんです。
あるかも分からない来世じゃなくて、今、この瞬間を精一杯生きたい。
生きて、幸せになりたい。
過去を変えられなくても、新しい未来を作ることはできるから。
今はダメでも、明日きっと幸せになれるから。
そう信じてきたから、叶子はプールに沈められても、針で刺し貫かれても、おじさんの慰み物にされても、ずっと生きてこられたんです。
叶子のことは誰よりも叶子が信じてあげるって決めたから。
叶子はいつだって世界一可愛くて天才だから。
だから叶子は生きるんです。
生きて、幸せになるんです。
視界がはっきりと取り戻される。
夢心地ではないはっきりとした現実の感覚。
この感覚を覚えるのはいつぶりでしょう。
目の前にはボタン。
押せば戻れない一線を越えることになる。
でも、叶子が思うよりも前に手がボタンにかけられていました。
例え、この世界のどこかで叶子のような思いをしている人を殺したとしても。
例え、生まれたばかりの無垢な命を殺したとしても、
例え、誰かの愛する人を殺したとしても。
叶子は、叶子との約束を果たさなければいけないんです。
生きて幸せになるという約束を。
叶子は生きる。
その罪や後悔も一緒に生きるんです。
「さようなら、この世界の誰か」
そう呟いて叶子はボタンを押しました。
―――そして。
”おかえりなさい、叶子”
叶子は門の向こうへと、自分の帰るべき場所へと飛び込んでいきます。
家に帰ると、叔父さんが死んでいました。
これは、叶子の生活の終わりなのでしょうか。
―――いいえ、始まりです。
「さようなら、叔父さん」
動かなくなった叔父さんの肉体に叶子は呼びかけます。
嬉しい気持ちも、悲しい気持ちもありませんでした。
ただ、一つの命を奪って叶子がここにいるという事実がモヤモヤと叶子の脳裏に靄を張ります。
―――生きるとは、そういうことなのです。
叶子はまっすぐ家を飛び出します。
叶子は、生きる。
これから先、どんな悲しみが待っていようとも。
今まで以上に辛く、厳しく、死んだ方がマシだと思える地獄の中でも。
叶子はただ生きる。
叶子の幸せへの旅路が、今、始まったのです。
〈完〉