季節は冬。
雪も降り始めた、凍えるような寒い日。
2004年1月14日
その日が、何を思ったのか『弥海砂』の握手会の日だった。
先月の『エイティーン』表紙を飾った影響か『弥海砂』──『MISA』の人気が爆発。
大人気となって急遽予定された握手会だった。
寒い時期、ということもあって盛況とは言えない集客具合であったが、それでもと握手会に来る客足が途絶えなかった。
「──いつも応援ありがとー、またよろしくね」
「ミサミサだ〜!」
「あはは、ミサミサだよ〜!」
「きゃー、すっごい本物だ! 顔ちっさ! 肌しっろ! 可愛い〜!」
「ありがと〜。恋すれば可愛くなれるよ」
「えっえっ、ミサミサ恋してるの!?」
「んふふ、内緒! また来てね〜」
滑らかに列を捌いてはいるが、一向に客足は途絶えない。
盛況とは言えないが、確かに握手会を開けるだけの集客力は見せつけていた。
そんな中。
すごく居た堪れなさそうにしながらも、夜神月も並んでいた。
雑誌に乗っていた情報から『MISA』の名前を入手。
その後に接触を求めるのは自然の成り行きだった。
急遽予定された握手会はまさに渡りに船だ。
一般人である月がなんの不自然もなく接触を試みることができる。
そうすれば相手がこちらのことを覚えているかどうか、という非常に重要な状況確認を行うことができる。
あの『黒いノート』が本物であれば、弥海砂は月のことを覚えている可能性は非常に高い。
だが、それだけのことで月を殺すなら、出会った直後に殺すだろう。
故に記憶されていたとしても、月が殺される可能性は極めて低い。
むろん可能性の話だ。だが、そのリスクを負ってでも確認する価値があると月は判断した。
そして。
弥海砂の背後に浮かんでいる、この世のものとは思えない死神の姿に足が竦んでいた。
(だ、誰にもあれが見えていないのか? ……待て、落ち着け。まだ僕の番は先だ、それまでに動揺を抑えるんだ。大丈夫、僕なら出来る。冷静に、今日は『ファン』として顔を覚えてもらうだけでもいい。いや、それすら最悪次回に持ち越したって良い。微かに記憶に残る程度。次に会った時に気が付かれる。その程度の好印象を残すんだ)
内心で自己暗示の言葉を掛けながら、月は列に並んで待っていた。
あの、浮かんでいる死神に視線が行き、慌てて気が付かれない内に逸らす。
もし目があってしまえば、そして『弥海砂』にもあれが見えていて、もし意思疎通が可能な存在だったのなら、自分が見えていることがバレてしまう。
そうなれば、さすがに殺されるかもしれない。
死という恐怖が具現化したかのような死神を前に、月は足が竦んでいた。
殺される可能性が低い、と月が判断したのは『キラ』であることの証明が困難だからだ。
『黒いノート』の存在が重要。
それは月の直感だった。そして間違っていないと確信している。
だが、あんなものが見えるなら。
その条件が、『黒いノート』に触れることなら周りの人間に見えていない事にも納得できる。
そしてそれを、弥海砂が知らないとしたら?
それを根拠に『キラ』の証明が困難であると誤認していたとしたら?
もしそうなら、月は余裕のなくなった『キラ』に殺されるかもしれない。
『キラ』は死の前の行動を操れる。
生放送で分かっている事実だ。
なら、世間に気が付かれない形で月を処理することも、十分に可能。
月の殺害が、思想の流布に悪影響を及ぼすことはない。
全ては弥海砂の胸先三寸だ。
異形の存在。
死の恐怖。
好意を残す必要がある。
そして、好意を抱いている女性と話す必要性。
馬鹿馬鹿しいと月自身でも思うような様々な要因も相まって、今までの人生で経験したことがないほどの緊張感が夜神月に襲いかかっていた。
(ぐっ、まずい。心臓の音が外にまで聞こえそうなくらいだ……!!)
ドックンドックンと脈打つそれは、内側から月の鼓膜にまで伝わっていた。
汗が噴き出て、顔色も悪くなる。
そんな状態であったから、自分の番が訪れた事にも気がつけなかった。
大失態だった。
「あのー、次の方ー」
「あ、ああ。すみません、ちょっとボーッとしてしまって」
自分とは思えないくらいの、ありえない失敗に、頭の中が真っ白になる。
せめても、と笑顔で話し始めたが、引き攣っていない自信がない。
そんな月に、弥海砂は優しく微笑んで、月の手を両手で柔らかく握った。
「大丈夫、落ち着いて。こんな寒い中だったし、私だって緊張しちゃうから、全然気にしなくて大丈夫。少しこのままで待ってるね」
安心する声だった。
抑揚をつけた、ゆっくりとした声に月の混乱も少しずつ収まっていく。
そして。
冷静に戻った月の脳裏は、大混乱だった。
(や、柔らかい。っていや、何言ってる。初めてじゃないだろ、女性と手を繋ぐなんて。今までを思い出せ。……くそ、大失態だ。けど、不思議と落ち着く。……僕も、完璧な人間じゃなかったんだな)
自分は完璧な人間ではない。
本来であれば夜神月が思うはずもない事を、この特殊な状況は思わせる事に成功してしまった。
その言葉が今後に与える影響は計り知れない。
しかし、夜神月にその自覚はない。
ただ今は大混乱の中で必死に自分を保つ事で精一杯だった。
「あの、もう大丈夫です。すみません、ちょっと動揺してしまって。──えーっと先月の『エイティーン』誌を見ました。そこからのファンです、MISAさん」
「良かったぁー。ありがと〜。男性のファンの方も大歓迎だよ! そうそう、先月から、なんかすっごい人気出たんだよね。なんでだろ? あはは」
「MISAさんの魅力に、きっとみんなが気がついたんですよ。ってそういう僕もその中の一人なんですけどね。はは」
「いいのいいの。気がついてくれてありがとー。ところでなんだけど、どこかで会った事ない?」
「……えーっと、いえ、初めてお会いしますよ! MISAさんみたいな可愛い方に会ってたら忘れませんよ」
賭けるか、非常に迷った。
だが、自分にしか見えていない死神。
もし弥海砂が『キラ』だったとしたら。
そして混乱しながらも思考を続けていた結果から、シラを切る選択をした。
改めて思う。
この接触は賭けだった。
それも相当に分が悪い賭けだ。
死神なんて存在を知っていれば、『黒いノート』に触れるだけで見える存在なんてものがあれば、こうして接触する事はなかった。
何故ならそんなモノが見えてしまうのであれば、弥海砂は、その『黒いノート』に触れた相手に、死神という存在が露見する事に他ならず、それは『キラ』であるという断定が可能になってしまう。
つまり、夜神月が『黒いノート』に触れた事がある、と思い出された時点で、殺される可能性が極めて高い。
先ほどの思考をまとめ終えて、改めて冷や汗が流れた。
自分が今、途轍もなく危険な事をしていると自覚した。
『キラ』ですか、と訊ねなければ大丈夫。
その大前提は崩れ去った。
それは再び恐怖心が心を覆うのに十分な理由となった。
微かに生まれた無言。
恐怖が息を詰めさせながらも表情に出さないのは、さすが夜神月と言えるだろう。弥海砂は少し首を傾げて、そして笑った。
「……あっもしかしてナンパだと思った? 期待させちゃってごめんね、そんなつもりはなかったの」
「……ですね、ナンパだと思っちゃって。少し期待しました」
「あはは、ごめんね。──また来てくれるかな?」
「はい。また来ます」
そう言って、夜神月と弥海砂は微笑み合った。
それを心底面白そうにしながら、死神リュークが笑って見つめていた。
レムは警戒するように夜神月をじっと見つめていた。
そして。
まるで二人の再会を祝福するかのように、空からはチラチラと雪が降り続けていた。