単刀直入に言おうか。  ―――『勇者暗殺計画』に協力してほしい」


 大陸の覇者たるシグムント王国。
 かの国にはここ数年、ある災害に悩まされていた。
 それは水害でも干害でもなく、当然ながら人災でもないが天災と呼ぶには多少なり憚られた。
 即ち―――『竜害』。竜による人畜無機物問わぬ多大な被害である。

 その災いの原因たる『竜の王』を、勇者アレックスは見事討ち果たして見せた。
 その命と引き換えに―――。

 ………つまりこれは、『そういうことになった』というお話である。

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 オリジナルリハビリ作です。
 今後の研鑽のためにあえて恥を晒しにきました(笑)
 カクヨム様、小説家になろう様にも投稿しています。



勇者暗殺計画

 

 

 

 ガラス一枚を隔てた先は、昼間だというのに薄暗く、けたたましい水滴の音がくぐもって耳朶に届く。

 土砂降りの雨音を時折掻き消すのは、大地そのものを太鼓とするような雷の轟音だ。

 

 毛足の長い柔らかな絨毯の上に置かれた格調高いテーブルセットに腰掛けながら、彼はそれを演奏のように堪能していた。

 より正確に言えば待つ時間を持て余していただけなのだが、どちらにせよ自然が生んだ不協和音の大合唱に耳を傾けていたことには違いない。

 

 と、そこに新たな音色がつかの間に加わる。外から扉をノックする音だ。

 安宿によくみられるような、木の板を並べて張り付けただけの隙間ができていそうな代物とは雲泥の代物。

 装飾としての彫刻すら施されたそれは、何気なく叩くだけでも打楽器めいた軽快な音を生み出している。

 流石は高級宿、貴族や大きな商家も御用達にしていると謳うだけあって、わかりやすい調度品などのみならずさり気ない実用品まで品質が高い。

 

「ああ。どうぞ」

 

 入室を促せば、それを待っていたように扉が開いた。

 その向こうから姿を現したのは、すでに見慣れきってしまった二人の男女だ。

 

 普段は重装の鎧に身を包み、自分たちへの攻撃をその五体と装備で受け止めてくれていた僧兵、ディーン。

 多種多様な魔法とその智慧で戦闘のみならず、あらゆる場面で自分たちを助けてくれた魔法使い、クレア。

 いずれも、自分たち……所謂『勇者パーティー』の頼れる仲間達だ。

 

 ―――そんな二人に、これから随分と酷い提案をしなくてはいけない。

 それを思い、彼……剣士のバラッドは思わず沈む様な息を吐いてしまう。

 そんな彼を見て、クレアが不満げに顔を歪める。

 

「なによ。呼ばれたから来たっていうのにいきなり溜息とか、失礼ね」

「あ、いや……悪い。そういうつもりじゃなかったんだ」

 

 思いがけず機嫌を損ねかけてしまい、平謝りをするバラッド。

 「まあまあ」と宥めるディーンの援護もあり、どうにか向かいの席に腰を下ろしてくれた。

 とりあえずは怒りを収めてくれたことの安堵に、笑顔の裏側で胸を撫で下ろす。このパーティーで一番怖いのは彼女であるというのが本人以外の暗黙の共通認識だ。

 

 それはさておき。

 バラッドは佇まいを直した上で、改めて二人に対して向き直る。

 それに引っ張られるように引き締まる雰囲気に、ディーンとバラッドも自然と表情を引き締めていく。

 

「前置きは省いて、単刀直入に言おうか。

 ―――二人には、『勇者暗殺計画』に協力してほしい」

 

 バラッドの言葉に二人が驚愕に目を見開くのとほぼ同時に、落雷の閃光と轟音が轟いた。

 あまりにも図ったようなタイミングに、吹き出しそうになるのを何とか堪える。

 

 

 

 雨脚はさらに強くなっていく。

 嵐はしばらくやみそうにはなかった。

 

 

 

***

 

 

 

 大陸の覇者たるシグムント王国。

 かの国にはここ数年、ある災害に悩まされていた。

 それは水害でも干害でもなく、当然ながら人災でもないが天災と呼ぶには多少なり憚られた。

 即ち―――『竜害』。竜による人畜無機物問わぬ多大な被害である。

 

 元々、この大陸には竜が生息している。しかしそれらは人類に友好的というわけでもなくかといって殊更に敵対しているとも言えず、ともすれば熊などの比較的危険な野生動物とさほど変わりはしない存在だった。

 生息域も高い山の山頂や切り立った崖の岩棚、平地でも生い茂った森の奥深くなどで、余程でない限り人間が足を踏み入れるような場所ではない。

 大きさは成体で成熟した熊よりやや大きく、それに翼が生えているという程度。なるほど確かに脅威ではあるが狩れないというほどではなかった。

 竜の側もそれを理解しているのか、人里に姿を見せることはほぼなく、ごく稀に農家の家畜や商人の馬などが襲われる程度で、それも年に一回あるかどうかといった程度だ。

 牛を丸呑みにするような体躯、灼熱の吐息、人語を解する叡智……そんなものを備えている竜なんていうのは、それこそ幼子に枕もとで語り聞かせるお伽噺にしか存在しない。………その、はずだった。

 

 始まりは辺境のとある村落の壊滅。

 それを皮切りに、各地から上がってくる竜による被害の内容は、徐々に常軌どころか常識さえも逸脱し始めた。

 

 曰く、群れることのないはずの竜が大群で以って街を襲い始めた。

 曰く、見たこともないほどの巨大な龍が砦の城壁を踏み潰した。

 曰く、軍の騎馬に取り囲まれた竜が炎を吐いてこれを蹴散らした。

 曰く、曰く、曰く―――曰く、人語を話す竜が、『竜の王』の復活を迎えんと高らかに謳っていた。

 

 そんな悍ましいお伽噺は、しかし稚児の悪夢ではなく現実の災禍として現れ、人々の意識に恐怖という形で刻み込まれていった。

 

 あまりにも唐突に現れた未曽有の危機。その原因は、竜が語っていた『竜の王』である。

 その名を、邪竜【ファブニル】―――これまで、王国に古くから伝わるお伽噺としてしか考えられていなかった存在。

 それが真実、この世に実害を為す確かな災禍であるということが永き時を経て立証されてしまった。

 だが同時に、その厄災を祓うための方法もまた語り継がれてきた物語から知り得ることができた。

 それは即ち、『聖剣に選ばれた勇者がその刃を以て邪竜を討つ』というものだ。

 無論、そこにはそれを裏付けするために古今の文献資料と格闘した王国の擁する賢人たちの成果あっての確証であるのだが、そこは割愛しよう。

 

 閑話休題。

 かくして、邪竜討伐を為すための『聖剣』と『勇者』の捜索が開始され、果たしてそれらは見つかった。

 それが王国内のとある神殿の奥底に奉納されていたご神体であり、王国の片田舎に住んでいた平民の青年、『アレックス』である。

 

 さて、前置きが長くなってしまったが、結果だけをシンプルに搔い摘もう。

 勇者『アレックス』と彼をサポートするために付けられた仲間たちは見事、邪竜を討ち果たすことに成功した。

 その役目を終えた勇者の命と引き換えに。

 

 

 

 ―――つまりこれは、『そういうこと』になったというお話だ。

 

 

 

***

 

 

 

 シグムント王国、王宮。

 挿し込む陽の光すらも玉座の主を讃えるために計算されつくして築かれたその謁見の間にて、バラッドとディーンはそれぞれに跪いていた。

 玉座に座すのは、当然ながらシグムント王国の王。左右に侍るのは右腕たる宰相と、末子の姫である。

 姫の年頃はバラッドよりも二つか三つほどは下で、そろそろ縁談の話も出ているだろう頃だ。

 さらに、周囲には大臣や官僚などが立ち尽くしており、それぞれが張り詰めた中にどこか期待に満ちたような表情を浮かべていた。もっとも、姫だけは顔色を蒼褪めたモノに染めながら悲壮さの濃い表情となっていたが。

 と、王が厳かに声を上げる。

 

「その方ら、面を上げよ。言を赦す。

 ―――課せられた任の如何を語るがよい」

「「はっ」」

 

 声を揃え、バラッドとディーンが顔を上げる。

 そこから一拍の沈黙を挟み、バラッドの方が口を開く。

 

「……謹んで承りました『邪竜討伐』の任、我ら確かに果たしまして候。

 シグムント王国を苛んできた『竜害』、早晩……或いはすでに自ずと鎮まるものであるかと」

 

 途端、周囲の大臣たちの口々から思わずといった風に安堵と感嘆が漏れ出て行く。一つ一つは囁きよりも小さいが、幾重にも重なることでそこそこにざわめいた物に膨らんでいく。

 と、そこへバラッドが「されど!」と遮るようにぴしゃりと声を張った。

 その声音の鋭さと、朗報を伝えるにしてはいやに強張ったその表情に、湧き上がっていた空気がまたたく間に鎮まっていく。

 ややあって、場が完全に静まり返ると重ねて「されど」と今度は静かに前置き、続ける。

 

「聖剣に選ばれた勇者『アレックス』は、邪竜との戦いで負った傷が元で―――帰らぬ身と成り果てました」

「っっ!!? ………そん、な………」

「エレノア!? 誰ぞ! 誰ぞ、エレノアを!!」

 

 告げられた言葉に、驚愕と悲嘆で顔を歪めたのは姫の方だ。

 彼女は瞳に涙を湛えながら口元を両手で覆うと、まるで見えない支えでも失ったかのように崩れ落ちてしまいかけて玉座へと倒れ込みそうになってしまう。

 辛うじて倒れ込むことはなかったが、それを見て王は慌てて声を張り上げる。するとすぐさまに年嵩の侍女頭が補佐らしいもう一人の侍女と共に姫に駆け寄り、彼女を支えながら共に下がっていく。

 姫の姿が見えなくなってから、王は深く息を吐いた。

 

「そうか、勇者アレックスが……戻ってきたならば、貴族に召し上げてエレノアと結ばせることも考えていたが……叶わなんだか」

 

 吐息に込められた感情は、単純な悲嘆や残念だけでは表すことのない複雑な心情が込められていた。

 勇者が生還していたならば発生していただろう利益と不利益。そしてそれが叶わなかったことで生じる利益と不利益。

 そしてそれらによる影響を鑑みる為政者としての思考と、傷心の娘を思う父親としての心情。

 その全てが現在進行形で心中を錯綜しており、早くも鎌首をもたげつつある心労がまるで煮立たせた鍋の蓋の隙間から漏れる湯気のように吐露してしまう。

 末娘のように純粋に悲しみ悼むことのできない自分に、業が深いものだと表に一切出さずに自嘲する。

 そしてそれだけで、王は意識を切り替えて改めて眼前の二人を見据えた。

 

「それで、勇者の遺体と聖剣は? それに魔導士クレアの姿も見えないようだが」

「はっ。アレックスの遺体は獣の餌となるのは忍びなく、炎で清めた後に略式ながら弔いました。

 クレアに関しては、その弔いを終えた後に『己が知見を広げるため』と、そのまま旅に出ました。引き止めもしたのですが、本人の意思も硬く……

 そして聖剣に関しましては、ここに」

 

 バラッドは背負い込んでいた細長い布の包みを取り出すと、柄の部分だけをはだけさせて掲げて見せる。

 簡素な装飾に年季を感じさせながらも、それ故に見る者に重厚な印象を与えるそれは謁見の間にて挿し込む光を鈍く照り返している。

 謁見の場であるからか刃までは見せてはいないものの、託した秘宝が無事に帰還したことに、王は内心で安堵する。

 もとは神殿に納められていたご神体であるゆえに、紛失などしようものなら神殿勢力との仲に亀裂が入りかねない。

 無論、あちらとて事の次第を理解しているのだが、それとこれを完全に分けられるとは限らない。故に、こうして無事に戻ってきたことは何よりもありがたかった。

 

(それこそ、勇者の死が些末事に思えるほど、か。……我ながら、人でなしよな)

 

 王は胸中に自嘲を浮かべつつも、表情には一切出さなかった。

 玉座の上からわざとらしいほどに大仰に頷くと、王は立ち上がってその場にいる皆を睥睨しながら声を張った。

 

「双方、改めて大儀であった!! そなたらの働きで、我が国に漸くの平和が訪れる!!

 褒美についてはいずれ祝宴と共に授ける故、いましばらくはその身を休め、癒すがよいだろう!!

 ―――ついては、その方らから何か要望などはあるか? 

 遠慮なく申すがよい。 そなたらには、それだけ……いや、それだけでは足らんほどの資格と権利がある」

「………では、恐れながら一つだけよろしいでしょうか。陛下」

 

 顔を上げ、そんな風に申し出たのはディーンだった。

 彼は静かに立ち上がると、胸の前で手を組み、瞑目しながら朗々と言う。

 

「勇者にしてわが友、アレックス……彼の鎮魂と安らぎを、簡潔ながらこの場の皆さまに祈っていただければ、と」

「………そうだな。よかろう」

 

 王はそう返しながら胸に右手を置いて同じように瞑目を以て黙祷を捧げ始める。

 すると、周りの大臣や官僚たちもそれに倣っていく。

 体の重みが増すような錯覚さえ覚える厳粛な場の空気が、更に沈み込んでいくように静寂が深まっていく。

 そんな、吐息すら憚られてしまうような中で、バラッドは人知れず瞼を開き、視線を巡らせた。

 すると、

 

「………」

 

 確かに、目当ての人物と目が合った。

 

 

 

***

 

 

 

 バラッドとディーンが謁見を終えてから幾許か後。

 夜の帳も落ちきり、引き絞った弓のように欠けた月が冷え冷えと中天に輝く頃。

 バラッドはある人物と膝を突き合わせていた。

 

「―――王も仰られていたが、本当にご苦労だったな。

 幼少の姿を知っている身としては、図らずも感無量となってしまったよ」

「………恐縮です」

 

 恐々と頭を下げるバラッド。その姿は、王の謁見の時と比べても差が無いものだった。

 それもむべなるかな、宰相に比肩しうる政治的影響力を持つ公爵の一人と対面しているのだから。

 もっとも、その公爵本人の空気は柔らかく、肩幅を狭めんばかりに身を固くしているバラッドの様子をむしろ微笑ましげにさえ見ていた。

 実はというか、バラッドの生家は元より公爵の連枝の一端であったのだ。その関係で、先の公爵自身の発言通り幼い頃からの面識は存在していた。

 そして同時に、その出自こそが彼が竜害を祓う勇者の旅に同行する理由に繋がっていた。

 

「それにしても、勇者が死んでしまうとはな。

 ……『竜の王』とは、それほどまでに手強い相手だったかね?」

 

 問い尋ねる言葉には、しかし興味というよりからかうような冗談めかしたような響きが含まれている。

 そのことに、しかしバラッドは疑問を抱かない。

 それもそのはず。―――バラッドに勇者の『暗殺』を依頼したのは、眼前の雲上人であるからだ。

 

「そうですね……封印されたままの状態でなく、目覚めてしまっていたならばそれこそ全員が死んでしまっていたかもしれませんでしたね」

 

 そう返しながら、バラッドは肩を竦めて見せる。

 その脳裏に浮かぶのは、『竜の王』を討ち果たしたときの情景だ。

 

 『竜の王』はなるほど、その名にふさわしい威容を湛えた巨大な龍であった。通常の竜など、比較になるどころか文字通り歯牙にもかけずに丸呑みできてしまうだろうほどだ。

 ならばその全身がどれほどなのかなど、想像するだに恐ろしい。

 しかし、バラッドたちが目にしたのは首から上だけで、それも氷漬けのように水晶に覆われて固まった姿だった。

 いや、或いは水晶の内側でそれほどまでに育ったのかもしれないが、既に知る由もなければ興味もない。

 その水晶漬けの竜の頭にアレックスが剣を突き立てれば、それだけで『竜の王』は粉微塵に砕けて消えていった。

 ―――それが、アレックスとの旅の終わりである。

 

「なるほど……つまり、最悪の事態には間に合ったのだと」

「でなかったら今頃全部滅んでますよ、きっと」

 

 バラッドは脳裏に浮かんだ最悪の未来を振り払うかのように、殊更に冗談めかして見せる。

 それは『竜の王』の姿を目の当たりにしたが故のものだったが、さすがに公爵はそこまで察することはできなかった。

 ただ、なんにせよ先ほどよりも緊張がほぐれているのは確かだった。

 それを見計らい、公爵はいよいよ本題へと切り込んでいく。

 

「……それで、『勇者』は本当に死んでしまったのだな?」

 

 念を押しているかのように、問いかける公爵。

 先ほどと変わったところはないはずなのに、その眼の光が研ぎ澄まされた刃のそれと重なって見える。

 これに比べれば、獰猛な竜の眼光などじゃれつく猫と大差ない……バラッドは背筋に冷たい汗が縦断するのを鋭敏に感じながらそんな感想を益体もなく抱いていた。

 

「―――えぇ。『勇者』はもうこの世のどこにもおりません」

「ならば、あの聖剣も本物だと?」

「無論にございますとも」

 

 交わす言葉、その内容はともかく声音は穏やかで、和やかですらある。

 だが、じわり、と。

 布地に落とした一滴の油が、滲みながら広がるように。

 先のやり取りで仄かに温まった場の空気が、少しずつ少しずつ冷やされていく。

 

 底冷えするような気まずい空気の中で、沈黙が王必すること暫く。

 存念の一つを晴らすことはできたのか、公爵は小さく唸りながら顎を撫で、小さく頷く。

 

「ならば、良し。……と、言いたいところではあるが」

 

 にわかに、公爵の目が細まった。

 それだけで、バラッドは空気そのものの圧が増したような錯覚を得る。

 背筋に脂汗が滲み出てきていることを自覚して、途端に気持ちが悪くなってくる。

 それでも表層だけは平静を保ちながら、バラッドは公爵から目をそらさずに見つめ返した。

 それを受け止めながら、公爵は続ける。

 

「………魔導士クレア。彼女が何処かへと消えてしまったのは痛いところだな。

 せめて、顔だけでもこちらに見せて欲しかったものだがな」

 

 言葉だけならば、有能な人材を取り込めなかったことを残念に思っているだけに聞こえるだろう。

 だがその実は、『真実を知っているだろう者を外に泳がせてしまっている』ということを危ぶんでいるのは言うまでもない。

 そして同時に、引き止められなかったバラッドを遠回しに責めてもいる。

 

 ディーンはまだ良い。

 謁見での言動を鑑みるに、事実を暴き立てて白日に晒すような真似は見られなかった。

 それに彼は今回の功績で国教の教会内でのこれから躍進が半ば確約されているようなもの。それを推す支援をそれとなく働きかけることもできるだろう。

 

 だが、クレアは完全に外様の存在だ。

 彼女の祖母はかつては宮廷魔術師として宮仕えをしていたこともあるが、隠居して以後は完全に繋がりが断たれている。

 そんな全く紐のついていない人物が、その動向を把握できない状態でいるというのはそれだけで都合が悪い。

 可能ならば首輪代わりに宮廷魔術師の地位に据えることも考えていただけに、公爵からすればこれはバラッドの明らかな失態であると言えた。

 それに対し、バラッドは苦い笑みを浮かべる。彼としてもこうなることは予想できていたが、どうしてもできなかった理由というものが存在したのだ。

 

「それについては誠に申し訳ありません。

 実を言いますと、あの場では切り出せなかったのですが……」

 

 彼は先ほどとは打って変わって言い淀んだように言葉を一度区切って、しかし続く言葉をはっきりと口にした。

 

「………彼女の向かう先は、アレックスのそれと同じでして」

「なんと、そう言うことか」

 

 言わんとする意味を察して、公爵は軽く瞠目して見せると再び小さく唸る。

 その逡巡はわずかだが、脳裏に巡らされた思案の程は恐らく迷宮のように複雑怪奇なのだろう。

 若輩者のバラッドでは、きっと察しきれぬほどに。

 

「そう言うことならば致し方なし、か。……重ねて、難儀であったな」

「いえ……」

 

 そんな風に返すバラッドに浮かぶ笑みは、どこか苦い。

 そのまま沈黙が続くこと暫く、それを払拭するかのように、公爵はパンッ、と手を叩いて軽快な音を響かせる。

 

「なんにせよ、これは君の家を復興させるには十分な武功だ。

 郷里には、君も胸を張って凱旋すると良い」

「はい、ありがとうございます」

 

 その言葉に、バラッドは頭を上げながら安堵と歓喜に胸を満たしていく。自身の目的を遂げられたことを、今この時になってようやく実感し始められたのだ。

 

 バラッドの生家は『竜害』発生初期においてもっとも大きな被害を受けていた。

 領地は蹂躙され、少なくない数の民が帰らぬ者となり………何より、当主であった父と跡取りであった兄が命を落とした。

 元々が軍人の家系であったため、竜を討たんと領内の砦で軍備を整えていたところを兵と言わず砦と言わず、何もかももろともに一掃されてしまったのだ。

 母親は既に夭逝しており、他に兄弟はいない。バラッドは『竜害』によって文字通りに家も家族も失ってしまった。

 更に言えば、ただ一人残った者として領地を守ることのできなかった咎を受けることになり、貴族籍を凍結させられた。

 剥奪でないのは自身が元々跡取りではなかったことと、要因が天災のようなものであったためだ。

 だが、これによってバラッドは市井の人間と立場を同じくすることになり、以後は一介の雇われ剣士として賊や竜と刃を交える日々を過ごしていた。

 

 当初はあらゆる理不尽に荒れ、半ば自暴自棄な生活をしていた。正直、この頃に命を落としていなかったのは今振り返ってみると僥倖としか言えない。

 その後は諦観を抱えたまま、何とか安定した生活を惰性のように続けていた。

 そしてそれすらも忘れかけ、そんな生き方を日常と受け入れて謳歌していた頃に、『竜害』の原因たる邪竜を討つための『勇者』の存在とその任務を目の前の公爵からの使者によって知らされたのだ。

 そして同時に、その旅路に同行することで功績を上げ、その恩赦によって家を再興するかという誘いも。

 バラッドはその話に飛びつき、そして見事に成就して見せたのだ。

 

 自然と浮かびそうになる涙をこらえ、歯を食いしばるバラッドの様子を公爵はどこか微笑まし気に眺めている。

 その表情は、後ろ暗い政情など関係なしに知己の忘れ形見の栄達を純粋に祝福しているものだ。

 ややあって、公爵は手元に伏せて置かれていたハンドベルを揺らし鳴らした。

 すると隣室に控えていたのか、すぐさま扉がノックされ、公爵の赦しを得て年嵩の侍女が静々と入ってくる。

 

「そろそろお話もお開きとしようか。部屋は用意してあるので、今宵はゆるりと疲れを癒すと良い。

 時間を気にせず休むと良い」

「……っ、お心遣いありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

 

 バラッドは目元をさっと拭うと、立ち上がり深々と頭を下げた。

 そして侍女に案内される形で部屋を辞する―――その時。

 

「最後に、一つだけ訊ねたいのだが」

 

 飛んできた言葉に、バラッドが気負いなく振り向けば。

 

 

 

「―――もし、死んだはずの勇者を名乗るものが出てきたならば、君はどうする?」

 

 

 

 何気ない声音と表情と眼差し。

 ただの思い付きの、それこそ去り際の簡単な世間話のような問いかけ。

 だがそれは、バラッドのこれまでを台無しにしかねないほどこの上なく鋭い無形の刃だった。

 

「―――」

 

 にわかに、言葉を失う。

 一瞬で溢れ出しそうになる焦燥を、まるで吹きこぼれる鍋を火を消すよりも先に蓋で無理やり抑えるように押し留める。

 それはなんとか成功して、息を詰まらせた沈黙は二拍ほどで破ることができた。

 

「そんな輩が現れるとするならば、それはわが友の名を騙る唾棄にも値しない愚物に他なりません」

「ほう……」

 

 吐かれる言葉は力強く、公爵は吐息のような感嘆を漏らしつつ目を細める。

 バラッドは構わず、さらに続ける。

 

「仮にそんな不届き者が現実に現れるというのなら―――このバランディード=バイスバード、果断なく容赦なく慈悲もなく、その首を落として晒してご覧に見せましょう」

 

 実に久しく己の名を胸を張って名乗りながら、バラッドは覇気を込めて宣言した。

 場に静寂が訪れること幾許か……公爵はどこか吹き出すように、苦笑を浮かべて肩を竦めて見せた。

 

「相分かった。意地の悪い質問をしてすまなかった。

 ……なのでその覇気を収めてはくれんかな。正直、この身には少々キツイのでな」

「っっ、も、申し訳ありません」

 

 その言葉に、バラッドは慌てて頭を下げる。引き始めた冷や汗がどっと揺り戻して押し寄せてくるが、公爵は笑って流してくれていた。

 現状の立場を考えれば、無礼打ちまでは行かなくても何らかの罰を降されても文句は言えなかっただけに、その寛大さには素直に感謝と申し訳なさが湧き上がる。

 そうして改めて軽い挨拶を交わしてから、今度こそバラッドは部屋を後にする。

 

 

 

 侍女に案内された部屋は想像よりもさらに豪勢で、そのくせそれが嫌味に映らない。

 恐らくは全体として調和が取られつつ、細やかなところまで手入れが行き届いているからなのだろう。

 その為か、もしくは単純な気疲れのためか。

 用意された寝間着に着替えて柔らかなベッドにもぐりこめば、それだけで意識の半ば以上が夢の世界に羽ばたきつつあった。

 微かに香を抱かせていたのか、ふわりと鼻腔をくすぐる仄かな芳香も睡魔の呼び水となっていた。

 

(さすがにここと比べれば、あの宿もだいぶ見劣りするな……)

 

 つい先ほどまでの話題のせいか、眠りに落ちる寸前の思考はあの嵐の日の宿のことで。

 芋の蔓を引くように、その日のことを夢幻として想起した―――。

 

 

 

***

 

 

 

「………正気、ですか?」

 

 長い沈黙を経て、ディーンから出たのは絞り出したような一言だ。

 その表情は形容しがたい複雑さに歪み、額には一瞬にして脂汗が滲み出ていた。

 その隣で、相反するように怜悧な無表情を浮かべているのはクレアの方だ。

 こちらは一見すると平静のようだが、正直こういう時の彼女こそが最も恐ろしい怒り方をする前兆であったりする。

 そんな二人に対してバラッドが浮かべるのは苦みの混じった失笑だ。

 

「おいおい、本気を通り越して正気を疑うとか……さすがにちょっとひどくないか?」

 

 冗談めかして大仰に肩を竦めて見せるが、眼前の二人の視線は変わらず冷たい。

 特にクレアの方はもはや完全にバラッドを敵として見ているような眼差しだ。竜との戦いに於ける彼女の容赦のなさを間近で知っているバラッドからすれば、それだけで心臓が凍り付きそうになる。

 バラッドは平伏したくなる本能を理性と勇気で必死に堪えつつ、勇気と気力と闘志を振り絞って余裕かつ鷹揚な様子を演じ上げて見せる。

 

「まあ、そう言いたくなる気持ちはよくわかる。苦楽を共にした仲間だからな。

 ………だが、オレは本気でこう言っている。『勇者暗殺計画に協力してくれ』ってな」

「………信じられません」

 

 だが、なおディーンは懐疑を表情諸共声音に乗せている。だが、それもむべなるかな。

 なぜならば。

 

「もし、本気だというのなら―――」

 

 ディーンは普段纏っている重装の装備よりも重々しい動きで腕を持ち上げ、指を差した。

 その先にいるのはバラッド―――ではない。

 

 

 

「―――なんで勇者(ほんにん)がそこにいるんですか???」

 

 

 

 バラッドの隣で、バラッドと同じようなポーズをとりながら座るアレックスに対してである。

 そう、彼……暗殺計画の標的である勇者アレックスは最初からこの場に同席していたのだ。

 つまりバラッドは暗殺対象の目の前で暗殺計画をほのめかしたのだ、そりゃ誰だって正気を疑う。というか狂ってないと思う方が無理であろう。

 というかディーンの目の前にいる二人は揃ってなんか同じようなキリっとしたドヤ顔を浮かべてこちらを見据えていて、清々しいまでにイラっとする。

 ディーンがこめかみが引くつくのを堪えていると、今度はそれまで沈黙していたアレックスが口を開いた。

 

「何を言ってるんだ、ディーン。オレのことなんだから、オレがいなくてどうするんだ?」

「いやアンタの暗殺計画だって言ってるんでしょうが!? なんで殺す本人交えて計画立てるんだ!!?」

 

 訂正、火に油を注ぎに来た。

 いよいよ青筋を浮かべながらディーンが突っ込めば、バカ二人はこれまた冗談めかした態で二人して大げさに肩を竦めながら顔を見合わせた。

 しかも口笛まで揃えて吹いている。ディーンの血管の耐久値が危ない。

 

「オイオイ、ヒドイなディーン。そんな大声でオレを殺したいとか」

「まったくだ。体育会系僧侶だっていうのに存外薄情なヤツめ」

「マテや殺す言ってるのはお前たちって言うかなんで私がって、ぐ、ぬっ、んがぁあああ~~~~~~~~~~~ッッ!!!」

 

 もはや最後には言葉にもならず、ディーンは髪をガリガリと掻き毟りながら唸り声を上げて憤激を露にしている。

 それなりに砕けてはいるが元々神官であることも相まって根が生真面目な彼にとって、この状況は処理しきるには少々難しいらしい。

 もっとも、バラッドとアレックスの馬鹿二人にとっては確信犯だったらしく、そんな彼の姿を見て軽く吹き出して笑っていた。

 さて、そろそろ説明してやるかと、そう切り出そうとした瞬間。

 

 

 

「………ねぇ、この茶番いつまで続くの?」

 

 

 

 底冷え、どころか魂まで凍り付きそうなセリフが一同を貫いた。

 瞬間、ビクンと身を震わせてそれぞれが静止する。そこから首回りが錆びついたかのようにギチギチとぎこちない動きで顔を向けること同時。

 彼らが一斉に目の当たりにしたのは、

 

「それとも、この間の竜に食らわせた呪詛を味わいたい? 発動させれば叶うけど?」

 

 家畜のと殺に慣れきった人間がこれから肉にする動物を見る眼差しさえ、愛と慈悲に塗れているだろう……そう思わせるほどに、どこまでも鋭くどこまでも冷たい眼差しで以ってバカ共をメッタ刺しにする絶対者の姿だった。

 瞬間、男三人は並んで膝を折って床に付け、額を勢いよく同じ床に激突させた。毛足の長い品の良い絨毯でなければ、悶絶していたかもしれない。一応は被害者ともいえるだろうディーンまでもが平伏してしまっている辺りにその恐ろしさを察していただきたい。

 バカ代表として、バラッドが顔を伏したまま恐る恐るに伺う。

 

「あの……それってもしかしなくても竜が悶絶しながら泡拭いてくたばったヤツですよね???

 ってぇーか発動させればっつーことはもう下準備はできちゃってるってことでしょーか???」

「前後二つの質問に同じ返事で『そうだけど』って言わせてもらうけど……別段大した術じゃないわよ?

 ―――野郎の股にぶら下がってるタマの中身が秒で煮立って小便みたいに排出されるだけだし」

「空前節後に恐ろしいのですがッッッ!!!??」

 

 なんでもない様子でしれっと知らしめされた事実に野郎どもは揃って跪いた状態のまま股座を両手で覆いながら身をこれでもかと言わんばかりに縮こませ、ガチガチと震え始める。

 そこには男たるものが根本から抱かざるを得ない原初からの恐怖が存在していた。

 同時に、酸鼻極まる凄惨な殺され方をした竜に対し、今更ながらに心からの冥福を祈ることを禁じ得なかった。

 

「それで? ―――サムい茶番で引っ張っただけの意義はある話なんだよね?」

「もちろんでございます女王陛下」

 

 ニッコリ、と。

 絵画で切り取るならば極上なくせに実際に目の当たりにすれば生存本能が大嵐の如く警鐘を鳴らしまくる笑顔を向けられる。なんか見覚えあるっていうか、命乞いしてきた竜の頭吹っ飛ばした時の表情ですねコレは。

 それに対し、バラッドをはじめとした男たちはもはや五体投地(腰だけ引けて微妙に山なり)となって全面降伏を露にしていた。

 

 

 

 ややあって。

 改めてテーブルについた一同(男三人は内股気味)は、バラッドへとその眼差しを向けた。

 口火を切るのは、やはりクレアだ。

 

「それで? なんだって暗殺計画とか言い出したわけなの?」

「ああ、順を追って説明する。―――元々の要請は、オレの後ろ盾になってる公爵だ」

「そう……そいつのタマをフットーさせればいいのね?」

「ダメだから!! 順を追うっつってんのに最初の最初で最悪の国家動乱起こそうとしないで!!?」

 

 出鼻を挫かれつつも必死の形相でクレアを抑えるバラッド。さすがに幼少の砌から知る国家権力の最高位の一翼をいろんな意味で最悪の形で崩されるわけにはいかない。

 ………だってクレアの表情全然変わってないもの。これヤると決めたらヤる系の仕事人の貌だもの。

 それはさておき。

 なんとか場を鎮めたバラッドは話を続ける。

 

「公爵様からのお達しはこう……『竜害解決の目途が立ったならば、勇者はその戦いにて死んだものとなるようにせよ』ってな」

「ああ、なるほど……そういうことですか。

 ようするに、表向きは死んだことにしろ、と」

 

 得心に至り、ディーンが思わずポンと手を打つ。

 そう、公爵からの暗殺依頼とは即ち『勇者が公的に死んだものとする』ことが目的なのだ。

 それこそ、現実の生死とは関係なく。

 だが、クレアはその表情も態度も軟化させることなく、不機嫌さをそのままに鼻をフンと鳴らした。

 

「そんなことは言われる前から察しているわ」

「………あの、察していただけてるならもう少し、こう……ソフトに」

「私が聞きたいのは、なんでアレックスがそんな厄介払いみたいな扱い受けなきゃいけないかって話なの」

 

 バラッドの要望をさらっと却下したうえで核心を問うクレア。その表情にはわかりやすい苛立ちと、その裏に隠されたわかりにくい焦燥が入り混じっている。

 もっとも、他の三人ともがその裏側も含めて察しているのは、流石の付き合いの長さと密度か。

 ………指摘した瞬間、想像を絶するような目を(照れ隠しで)味わう羽目になるだろうことも察しているために口には出さないが。

 

 さて、アレックスを殊更に気にかけている発言からも薄々は察せられるだろうが、実は彼女とアレックスは恋仲である。

 そのため恋人を害するだろう可能性に、内心では気が気でないのだろう。

 ……でなければ、ここまで危険な呪いを発動寸前で仲間に差し向けることはないんじゃないかなとバラッドは心の中で信じたく思っていた。幻想とは時に心の安定剤である。

 

 閑話休題。

 気を取り直すためにバラッドは咳払いを前置いた。

 

「ンン……あー、そもそも原因というか発端はというと、陛下の末娘であらせられるエレノア姫なんだ。

 どうやら姫様はアレックスに惚れてるらしく、陛下も後押ししてるらしくてな」

「へぇ……それで?」

「このまま『竜害』を解決して帰った場合、アレックスは姫様と結婚することになるらしい」

「なるほど……まいったわね、姫様にはタマがないわ」

「うん、あろうがなかろうがやめてね?」

 

 下手すればこの会話だけで不敬罪に問われかねないので、バラッドとしては先の公爵のことも含めて心臓に悪い思いをしっぱなしである。

 背筋が冷や汗でぐっしょり濡れて気持ちが悪いことこの上ない。

 

「し、しかし、いくら何でも姫との婚姻とかそんな簡単に通るものなんですか?」

 

 そこで決死の覚悟で話題を逸らそうとしたのはディーンだ。……仲間との会話になんでそんなものが必要になってしまうのか、そんなことを突っ込める者はここにいなかった。

 それはさておき、元々がただの一般的な一市民に過ぎないアレックスと一国の末姫では、釣り合う釣り合わない以前に仮定さえ成立しえないような組み合わせである。

 それこそ、お伽噺でしかない。

 だが、その問いに対しバラッドは疲れたような溜息を漏らしてしまう。

 

「ぶっちゃけ、今回に限っては十分にあり得ちまうんだよ」

 

 そもそもにして、今回の旅の目的である竜の王ことファブニルの討伐……ひいては『竜害』の解決は、それこそ一個人の功績としては大偉業であると言っていい。

 『竜害』は災害のようなものであるという認識が一般的なのもあり、わかりやすく言いかえて国そのものを崩壊させるほどの嵐や洪水を消し去ったようなものだと考えればその功績がどれほどかは察せられるだろう。

 それこそ、望めば新たに貴族としての家を興すことも可能である。

 加えて、姫の政治的な立ち位置も関係する。

 

「エレノア姫は陛下のご正妃の子供ではあるけど、遅くにできた末子ってこともあって陛下以外に後ろ盾らしいものはないんだ。

 だから将来的には他国への橋渡しも兼ねて嫁いでもらうってのが暗に確定してた」

 

 バラッドの後ろ盾になっている公爵を始めとした主だった有力貴族も、その辺りを察してエレノア姫に関してはノータッチを貫いていた。

 姫と誼を通じられれば、将来的には嫁ぎ先の国家とも強いパイプが見込めるが、もし誰かが動き出せば他の者も動き出し、それだけで内政に不要な混乱が生まれかねない。

 数年前からの『竜害』のこともあり、国力の維持のために互いに自重するということで暗黙下に合意したのだ。

 つまりはある種の紳士協定に近く、言ってしまえば姫は政治的な空白地帯となっていた。

 ……ここで問題になってしまったのが、エレノア姫がアレックスとの婚姻を公に望み始めたことである。

 

「仮に姫との婚姻が成立した場合、まずアレックスが新興貴族として家を興し、姫がそこに降嫁するってことになる。そしてアレックスには恐らく領地として王家の直轄地が割譲されることになるだろう。

 ………で、ウチの公爵様が危惧してんのはここから」

 

 政治的な空白地帯である姫君と、口さがない言い方をすれば成り上がりに過ぎない勇者の組み合わせによって生まれた新しい家。

 それは即ち、血統とネームバリューを兼ね備えた最高級の宝箱が早い者勝ちで放り投げられるようなものである。

 ……爆弾、と言い換えても良いかもしれない。

 

「オレたちは竜の討伐のために国内の各地を巡り歩いていたからな。その関係で、各地の領主の方々とはそれなり以上に面識がある。

 ……アレックスが姫様と結婚した場合、その知己を辿ってその領主貴族やその寄親が後ろ盾になるべく表に裏に名乗り出てくる可能性が高い。

 そうなると、最終的にはアレックスを名目上の頭にした新たな勢力が生まれかねない」

「………今ふと思ったのですが、そうなる前にバラッドの後ろ盾である公爵様が自身の勢力に組み込むという形にはならないんですか?―――ひぃっ!?」

 

 湧いて出た疑問を素直に口にするディーンだが、直後に背筋に怖気を感じて身を縮こませた。

 その隣では、クレアが『え? なに言ってるの? アレックスと別れろって言ってるの? バカなの? 死ぬの? 処すわよ?』と瞳孔が開いた眼光で彼を射抜いていた。

 それをすかさずクレアの逆隣に陣取っていたアレックスが必死で宥める。すると熱意が通じたのか、恋人の必死さに何かが満たされたのか、クレアの怒りが収まっていき、一同は安堵の息と共に胸を撫で下ろした。

 ……それにしても、ちょっとした発言が命取りというか、そも命を狩りに来るのが苦楽を共にした仲間であるというこの状況が中々にトチ狂っている。

 暗殺計画と銘打って暗殺対象本人がノリノリで参加している時点で言わずもがなかもしれないが。

 それはそれとして、結果的にディーンに助け舟を出す形でバラッドが口を出す。

 

「ウチの公爵サマに限った話じゃないが、既にある派閥に組み込んでも、それはそれで勢力が大きくなりすぎちまうんだよ。

 なんだかんだ言って、臣籍に入るとしても王族直系の血筋になるわけだからな。

 ……結局のところ、この話の懸念は『政治的な派閥の力関係の急激な変化』だからな」

 

 当然の話ではあるが、王国の頂点は国王であり、最高権力は王家のものである。だが、王家が国政の全てを賄えるわけもなく、つまりは権力の全てが王家だけのものではないのもまた当然の話だ。

 その為に貴族が存在し、爵位という階級が設けられている。そして権力が細分化されれば、それをグループとして纏めていく者が台頭するのもまた自然の流れだ。

 そう言ったグループが派閥という形になり、それぞれの派閥はそれぞれの思惑により、国という括りの中で反発と係合、衝突と和解を繰り返している。

 ここでいう派閥の権力とは、そのまま『王家への影響力』と言い換えることができる。そういう意味では『王の末娘』という存在がどういうものかなど想像がつくだろう。

 

「当然ながら、どの派閥だって自分とこの勢力は強くしたい。けど、だからって一足飛びに増強したら他の派閥は勿論、王家そのものにだって危険視されかねない。

 それでなくとも、混乱は必至だ」

 

 『竜害』の解決に目途が立った今、優先して目指すべきは国内の復興と安定だ。

 その為にも、派閥争いの政治ゲームに興じるわけにはいかないというのが公爵閥の総意だった。

 

 ―――と、そこまでの話を聞き、クレアは苛立たしさの頂点と言うかのように荒々しくテーブルの上に踵を叩きつける形で足を乗せて組んだ。

 すらりと引き締まった美脚が奏でるガン!! という不機嫌を露にした音に、男衆が揃ってビクゥッと身を竦ませる。

 

「ねぇ。それってようするに、アレックスがここまで頑張ってきたのに都合が悪いからいなくなれってことでしょ?

 そんなの骨折り損のくたびれ儲けじゃないの!! ―――ナメてんの!?」

「お、おちついてクレア」

「そ、そうそう。最後まで聞いてくれ!!」

 

 気炎を吐く恋人に、当事者であるアレックスの方が止めに入ることになってしまっている。

 とはいえ、このままだと本当に公爵が原因不明の急死に陥りかねないので、バラッドも必死になって宥めに懸かる。

 一方でディーンは密かに耳を抑えつつ可能な限り気配を消していた。保身はばっちりだが、神職としてそれでいいのか。

 

「ほ、報酬に関してはオレを通して内密に送る形になる。もっとも、そちらもこちらもある程度落ち着いてからになるだろうし、何度かに分けてという形になるだろうけどな。

 ………ただ、その関係で金銭的な報酬にしかならないだろうってのは申し訳ないんだが」

 

 そもそも王族との婚姻さえ叶うほどの功績だ。権力財力で叶えられるものなら大抵の望みは通せただろうに、それを思えばバラッドも心から申し訳ないし、情けなくもある。

 だが、当のアレックス本人はあっけらかんとした様子で、むしろ本人からすれば安堵が強い。

 

「いや、まったく問題ないって言うか……今回の話が無かったとしても、同じように適当な報酬もらってどっかに行くつもりだったから、ある意味で丁度いいんだよね」

 

 そう、アレックスは姫と結婚する気もなければ、そもそも貴族になる気など毛頭なかった。

 勇者としての旅の当初こそ、『なり上がってお貴族様とかありえるんじゃね?』などとお気楽に夢を馳せていた時期もある。

 だが、これまでの旅で培った経験が現実と共にその夢を消し去っていた。

 

「………お貴族様のパーティーとかさ、一番最初はテンション高かまったし、豪勢な料理食えるってんでそら喜んだよ?

 でも実際はいろんな貴族の人とお話しなくちゃいけなかったりするし……なにより、ご令嬢とかがね?」

 

 クレアと恋人になったのは旅を始めて半年ほど経ったころだ。

 なので旅の当初はロイヤルな美女美少女との出会いに心をときめかせてたし、なんならアレやコレやいろいろと夢想やら妄想やらも抱いていた。

 だが、しかし。

 

「お話とかね、全然合わないの。そもそも本来の生活の舞台が全然違うんだから、必要な知識とか技術とか……根本的な教養とか、噛み合うわけないんだなって」

「まあ、そりゃな」

 

 貴族のお嬢様がダンスや音楽などを嗜むのは伊達や酔狂、ましてや趣味のためなどではない。

 自分自身への付加価値としての面の他に、習い場での他家の令嬢との交流や夜会での話題。或いは様々な情報を得るためのアンテナなど、その目的は多岐にわたる。

 それは演奏家や舞い手などのプロとしてのそれとは違う、だが同じくらいの切実さを伴っていた。

 それに対して、結局は市政で土に塗れて生きるのが常なアレックスとは、そもそものステージが違っていた。

 

「お姫様に関してもさ、オレって一回くらいしかまともに会ったことないんだよ?

 それで結婚したいくらい好きって、要するに『竜殺しの勇者様』に恋してるわけじゃん?」

「それは、そうだな」

 

 つまりエレノア姫にとってのアレックスとはこうして眉根を歪めて首を捻る男ではなく、彼女が戦果を伝え聞いた中で構築された『彼女の中にしかいない勇者アレックス』のことである。

 無論、それも彼の一側面であると言えなくもないが、逆説的にはごく限られた一面でしかないともいえる。

 

「そんなので仮に……いや、あくまでも仮だからね?

 とにかく結婚したとしても、それ絶対に一年もしないうちにバイアス取れて幻滅されるやつだよね?」

「身も蓋もないですね」

 

 自身の恋人に念を押すように前置いてから吐露した台詞に、ディーンももはや乾いた笑みしか出ない。

 

 これが交流を深めた上でのものなら私人としての互いを知ってでのことなので、問題はないだろう。

 だが、夢見がちなままに結ばれれば現実に冷めてからが酷くつらいものになるのは必至である。

 ならば、ここで死に別れたものとして夢を夢のままにする方が、姫にとっても幸せなのではないだろうかとアレックスは考えたのだ。

 

「ただ、クレアにこそ悪いことになっちゃったな」

「え? わたし?」

「だってほら、クレアこそ褒賞で何でもしてもらえたじゃんか。それこそ、お祖母さんみたいな宮廷魔術師とか―――」

「死んでも真っ平御免」

 

 言葉半ばに、肩を竦めながら吐き捨てるような様子で真っ向から切り捨てられてアレックスが目を白黒させる。

 その様子に、クレアはそう言えば話したことはなかったかと小さく得心しながら続ける。

 

「確かに、わたしのお祖母ちゃんは宮廷魔術師やってたけど……そのお祖母ちゃんからは『権力者としてふんぞり返りたいんじゃないなら絶対なるな』って忠告されてたのよ」

「そりゃまたなんでだ?」

 

 バラッドが訊き返せば、クレアは遠くを見つめるような眼を虚空に投げかける。

 そうしてその形のいい唇から黒く淀んだような声音が流れ出てくる。

 

「……宮廷魔術師ってさ、実際の仕事は陛下や貴族官僚の相談役なんだけどね。政治的なことは各官僚の領分だし、儀式的なことは大抵は協会関係が担当じゃない?

 勿論、どちらにも手伝うことはあるし忙しい時もあるらしいけど、平時はそうでもないって話でね。なら普段はどうしてるのかっていうと、まぁ……表に出せないような内容なわけよ」

「っ、まさか……」

 

 謀略か、はたまた暗殺か。俄かに走る緊張感を、クレアは鼻で笑った。

 

「んなシリアスなんざ爪先だって踏み入れられないわよ。

 曰く、『楽にキレイに痩せたい』。

 曰く、『もっと若々しくなりたい』。

 曰く、『意中のあの人と縁を繋ぎたい』。

 曰く、『ハゲをどうにかしたい』。

 曰く、『腰が痛い』。『歯が痛い』。『娘に邪険にされてるんだけどどうしたらいい?』とかとかとか……」

「お、おぅ……」

 

 なんてくだらない……そんな感想を、バラッドはどうにか喉の半ばで呑み込んだ。それでいて確かに表に出せない内容ではあるだけに始末が悪い。

 だが、クレア越しのかつての宮廷魔術師が遺した愚痴はまだまだ続く。

 

「それだけならまだしも、真面目な仕事もそれなりにあったらしいんだけど……そのおかげで、今度は宮廷魔術師をやめた後まで諸々の機密を喋らないようにって監視までつけられてたらしくてさ。

 結局、宮廷内の世代が完全に交代するまでは窮屈な思いしっぱなしだったってことあるごとに零してたわね」

 

 そのせいで引退後もろくに研究の一つもできなかったらしい。そんな愚痴をよく聞かされたクレアは、立身出世の類に夢を見ることはなくなっていた。

 

「だからまぁ、実際のところこのままフェードアウトするって流れはありがたいっちゃありがたいのよ。

 ぶっちゃけ、このまま褒賞貰いに謁見しに行けばその流れで勧誘されかねないし、そうなったら断り続けるのも骨が折れそうだものね」

 

 さらりとアレックスと一緒にいなくなることが決定済みだったと宣うことに苦笑が浮かびかけるが、それを男衆は示し合わせるでもなく寸でのところで抑えた。

 口どころか表情に出しても藪蛇になりかねない。触らなければ祟りはないのである。

 なんにせよ、全員の方向性は統一されたと言っていいだろう。―――と、バラッドは一つだけ忘れていたことを辛うじて思い出した。

 

「………ディーン、お前の方からはなにかあるか?」

「いいえなにも。というか、ここで反対してもなんの意味もないですしね」

 

 答えながら、彼は苦笑いと共に肩を竦めて見せた。

 仲間とはいえ、根本的には関係ない話に巻き込んでしまった上に協力してくれる朋友に、申し訳なさとそれを上回る感謝を禁じ得ない。

 ともあれ、本題は終わった。細かいところはこれから詰めていかなければならないだろうが、それでも大まかな方向性は定まった。

 ………そうなると、とある実感がいよいよといった具合に沸いてくる。

 それは。

 

「もうすぐ旅も終わり。―――そうなれば、二人ともお別れか」

 

 アレックスがしみじみと、まるで溶けていく氷細工を惜しむかのように呟く。

 すると、他の三人も無言のまま噛み締めるようにそれぞれがその言葉を受け止めていた。

 

 そう、『竜の王』を討って『竜害』を解決することができれば、あとは予定通りアレックスは死んだことになる。

 死人となる以上、彼は己を知る人間のいない場所へと移る必要がある。恋人であるクレアはどこまでもそれについていくことだろう。

 そしてバラッドとディーンは国に帰り、それぞれがそれぞれの道で栄達することだろう。

 そうなれば、アレックスの道がバラッドとディーンの道と重なることは二度とない。

 つまり―――旅の終わりが今生の別れである。

 

「………バラッドは家の復興だっけ?」

「ああ。今回の話も、そこら辺の目途が立ったからオレに話が来たってのもある」

「ディーンは?」

「私は教会に戻りますよ。……まあ、相応に出世はできそうですが」

 

 穏やかに、そして寂しげにディーンは笑った。元々、神職の家としてはそれなりに高い家格の出であったが、そこに今回の旅で箔もつけられた。

 うまく立ち回ることができれば、ゆくゆくは枢機卿も夢ではないかもしれない。もっとも、根回しを間違えれば権力闘争に早晩潰されることもあり得るので、戻れば人脈と地盤の構築に奔走させられそうではある。

 それを考えれば、今のこの和やかな時間が殊更に名残惜しい。

 

「アレックスとクレアはどうするんですか?」

「とりあえずは国外かな。この国に居たままだと、やっぱりバレる可能性は高いし」

「そうね。さしあたっては簡単に変装してから商隊護衛辺りに潜り込もうかしら」

「それでしたら私の親戚筋に心当たりがあるので、そちらへの紹介状を用意しておきますよ」

「本当? ありがとうディーン。助かるよ」

「そういえば、ディーンにはいっつもこういう風に世話になりっぱなしだったような気がするな」

「そうですね、その分思いっきり振り回されてましたねぇ……今回みたいに」

「あら、謙遜どころか全肯定でしかも返す刀で指しに来たわこの僧侶」

「謙遜する気も失せたんですよ。……まあ、その分楽しくもありましたがね」

「ハハッそうだな……そういや、最初に世話になったのは確か―――」

 

 

 

 これからのことを語り始めていたら、いつの間にかこれまでのことの想起に熱が入り始めた。

 それまでの旅路を反芻するかのように。

 あるいは、『これから死にゆく勇者』の一足早い走馬灯であるかのように。

 これまでの旅路を一歩一歩踏みしめるかのような思い出話は、いつしか暗くなった空が白み始めるまで続いていた―――。

 

 

 

***

 

 

 

「……で、途中で酒も入ったら全員見事に悪酔いしたってオチになったんだっけか」

 

 夢想による追憶に、起き抜けから苦笑を禁じ得ない。

 しかも夜通しで飲んでたことも相まって二日酔いが長く尾を引いて丸一日ベッドの住人と成り果てていたのも懐かしい……というには些か気恥ずかしさが勝っているか。

 

「そんでもって、全員元気になったところで『竜の王』を退治して」

 

 その足で、旅を終わりにした。

 アレックスの墓を偽装で作ったその後で、今生の別れを果たした。

 別れはどこまでもあっさりとしたもので、ともすれば明日にはまた顔を合わせるのではないかと、そう思ってしまいそうになる。

 ……だが、それはない。もうないのだ。

 

「……終わっちまったんだよなぁ」

 

 自分たちの旅は終わった。

 身を刻まれるような艱難辛苦も、何よりも眩い輝かしい思い出も共にしたあの日々は、もうすべてが過ぎ去った。

 期間にして言えば実際は一年余りほどでしかないが、後にも先にもその一年よりも素晴らしい時間はないと言っていいかもしれない。

 少なくとも、バラッドにとっては世界全ての黄金をかき集めたとしても、天秤の皿を浮かせるには遥かに足りない。

 

「ああ、本当に……楽しかったなぁ……」

 

 瞼を閉じれば、まるで場面が切り替わったかのように旅の思い出が流れるように浮かび上がる。

 アレックス、ディーン、そしてクレア。

 

 ―――誰にも語ったこともなければ、これから先も語ることは決してないと断言できてしまうが。

 実は、バラッドはクレアに心惹かれていた。

 それを自覚したのはクレアがアレックスと結ばれた後というのは、果たして幸であったのか不幸であったのか。

 どちらにしろ、今となってはほろ苦くも大切な思い出だ。

 

「本当に……ああ………本当に……」

 

 振り返った旅の思い出こそが、呼び水となったのか。

 バラッドは声を震わせながら俯いていく。

 

 その脳裏に映るのは、先ほどよりもさらに色濃く思い起こされる旅の記憶。

 僅かな未練を押し流すように、恋慕の決別をここで果たそう。

 

『はじめまして、私はクレア』

『バラッド!! 足は止めたからトドメ!!』

『アハハハ!! 飲んでるぅ?』

『っっ、ドジったわ。………助けてくれて、ありがと』

『あ、私昨日からアレックスと付き合うことになったんで。よろしく』

 

「……あっさり言いやがったよなぁ」

 

『そら! 燃えとけクソトカゲ!!』

『へぇ、そう、死にたくないんだぁ? じゃ、死ね』

『なんか試しで作った呪い発動させたら一番バカでかいのもあっさりポックリ逝っちゃった。……テヘ☆』

『あ゛あ゛ぁ゛……二日酔いでクッソ頭痛いってのになんでやかましいの竜? バカなの? 死ぬの? ………よし、死んだわ』

 

「……本当に、ああ……本当に……っ」

 

『別段大した術じゃないわよ? ―――野郎の股にぶら下がってるタマの中身が秒で煮立って小便みたいに排出されるだけだし』

『そう……そいつのタマをフットーさせればいいのね?』

『なるほど……まいったわね、姫様にはタマがないわ』

 

『それじゃあ、元気でね、バラッド。―――下手打ったらタマフットーだから』

 

「………無事でよかったぁ。オレのタマ………!!!」

 

 思わず、膝を折って安堵に涙するバラッド。

 どうやら、恋慕の決別を凌駕して男としての安寧に心が揺り動かされてしまったようである。

 

 この朝。

 彼はこの涙で以って真実、己の青春を終えたのだった。

 ………ひどい終え方だった。

 

 

 

***

 

 

 

 ―――さて、月並みではあるがその後のことを語るとしよう。

 

 

 

 『竜害』の解決の報は瞬く間に国中を席巻し、しばらくの間は文字通り国を挙げてのお祭り騒ぎとなった。

 そこには、平和の礎となった【勇者アレックス】を悼むものが含まれていたのは言うまでもない。

 

 バラッド……バランディード=バイスバードは公爵の後押しを受けて家を復興させた。

 かつての領地である生まれ故郷に帰った彼は、援助を受けつつも自身の名声を後押しにして晩年に渡るまで見事これを治めて見せた。

 ディーンは神殿へと戻り、後には枢機卿に次ぐ大司教にまで上り詰めることとなる。

 『喰い詰めた農家の三男坊にしては遠くまでこれたもの』とは、晩年に地方の教会に隠棲していた時に笑いながら零した皮肉だ。

 

 かくしてシグムント王国に平和が訪れたわけであるが、平和を享受してくるとまるで煮詰めた鍋に湧く灰汁のように噂というものが立ち昇ってくるものだ。

 まず人々の口に上がったのは、『実は勇者は死んでいないのではないか』というものだ。

 と言っても、これはどちらかと言えば願望という方に近いものだったし、噂を囁き合っている当人たちもそれを自覚していたのだろう。

 王家が正式な発表として生存を完全否定すると、波が引くように早くそれは収まっていった。どれほど噂が高まっても、勇者が姿を現さなかったという事実も収束に拍車をかけた。

 

 だが噂が波ならば、引いた後に押し寄せてくるのもまた道理。

 そしてその次の噂というのはなんと『勇者は竜に殺されたのではなく暗殺された』というものだ。

 無論、これについても否定する発表がされたのだが、しかしこちらはそれで納まることはなかった。

 そもそも暗殺であるならば最初から肯定されるはずもない……そんな理屈を追い風として、逆に燃え上がるばかりであった。

 先の噂の例もあり、反応が迅速であったことも薪となったのかもしれない。

 かくて噂は際限なく広がり、国外にまで届いていく頃になれば、真実を知る僅かな者は人知れず胸を撫で下ろしていた。

 

 枯草の野に放った火のようにその版図を拡げていった噂話は、そうであるが故にその内容が際限なく変化していった。

 曰く、『竜の王を討った直後にその背を貫いた』。

 曰く、『いいや、竜害を払ったその祝いの酒に毒を仕込んだ』。

 曰く、『仲間の女魔法使いと心中した』。

 曰く、『女魔法使いとの恋路に嫉妬した剣士が謀殺した』。

 ………などと、内容は多種多様、複数人が集まって全員の聞いていた噂の内容が全員とも全く違っていたなどという話もある辺りまさしく十人十色といったところか。

 このような有様では、真実に辿り着くものが現れることはまずなく、仮に真実を吹聴する者が出てきたとしても他の噂に埋もれてしまうのがオチというものだ。

 さらにしばらくすると、アレックスの旅路を題材とした劇などが作られるようになった。

 その内容はやはり諸々の噂話のまとめ上げて編纂したものに近く、更には劇としての見栄えを重視して脚色までされていく。

 結果、大衆に周知として認識される【勇者アレックスの冒険】は、関係者の誰にとっても都合の良い形と成り果てていった。

 

 もっともエンターテイメントの必然と言うべきか、玉石混交種々様々な劇が乱立する中、特に人気であったのは『アレックスと女魔法使いとの悲恋』や『アレックスと剣士、女魔法使いとの三角関係』などの恋愛譚や悲恋譚の類であった。

 結ばれぬ恋を儚んでの心中や愛憎渦巻く三角関係はいついかなる世でも余人(特にご婦人方)の心を掴みやすいということなのだろう。

 もっとも、これらが流行ることでごく一部……というか某元剣士が背筋に冷たい汗をかかずにはいられなかったりするのだが、それは誰にも知られることのない話である。

 

 

 

 やがて時が流れ、時代が巡り、世代は交代する。

 かつての『竜害』もすでに歴史書とお伽噺の中での綴られるものとなり、人々の中では単純な知識と教養としてしから知られなくなっていた。

 そんな頃に、俄かに世間を賑やかせる発表が行われた。

 それはかつて『竜害』を払った勇者パーティー……その一人であるディーンの残した手記だ。

 本人の遺言により、死後百年を経て開示されたのは、当時の旅の詳細な記録と勇者アレックスの死の真相である。

 ……といっても、『アレックスは自身の死を偽って魔法使いクレアと共に旅立った』というだけの内容で、シグムント王国の内情に接することは書かれてはいなかったのだが。

 なんにせよ長い時を経て明かされた事実に、世間はにわかに活気づいた。

 そこには仲間内のたわいのない日常や、アレックスたちの旅立ちに骨を折ったバラッドの事、さらにはバラッドがアレックスと結ばれたクレアを祝福しながらその失恋に酒を飲み明かしたのに付き合ったことなども赤裸々に綴られており、これまで語られていた内容をひっくり返すような肉のついたエピソードが詰め込まれていたからだ。

 

 かくして。

 ディーンの手記を元として、百年越しに『勇者アレックスの物語』は劇や絵物語の題材として一世を風靡することになった。

 同時に、勇者を支えた剣士の姿をクローズアップされた作品も多く作られることになるのだが………それはまた別の話である。

 

 

 

***

 

 

 

「別の話じゃねぇ!! なんてことしてくれたんだ!?」

「死んだ後ですから時効ですよ時効。……いや、あの飲み会の後、二日酔いホントきつかったんですよ?」

「私怨入ってんじゃねぇか!!?」

 

「………まあ、ぶっちゃけ惚れられてたのは気付いてたんだけどね。

 その前からアレックスが好きだったし、コクられてもごめんなさい一択だったから知らないふりしてたけど……ごめんネ?」

「ちょっ、クレア!? このタイミングで言ったらアカンよ!!?」

「いっそころして」

「いや、全員もう死んでますって」

 

 

 

 ―――めでたしめでたし、おわっとけ。

 

 

 

 




 リハビリということで短編を投稿してみました。
 ……頭の中で描いた面白さを、そのまま出力するのはものすごく難しいということを重ね重ね実感。


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