「ふっ、ふっ、ふっ……」
朝日がようやく朝らしい明るさで街並みを照らし出した、早朝ともいえる時間。
ジャージに身を包んだ俺は、涼しいこの時間、旅館近くの砂浜でランニングに勤しんでいた。
「……っふー!」
1000mをそこそこの速度で走り、一度息をつく。
肩に乗ったオニャンコポンもなんだかふぃーっとやり切った顔をしているが、俺はこの後もう2本走るし、そもそもお前も走るべきでは?まぁ太ってたりはしてないけどさ。
さて、なぜ俺がこうして砂浜で走っているかという話だが、一言で表せば体力作りのためである。
説明するまでもないと思うが、トレーナーという仕事は体力を求められる。
アスリートであるウマ娘達を指導する立場として、広い練習場を駆け足で移動することも多々あるし、マッサージなどもそれなりに体力を使うものだ。道具運びとかも何気に大変だし。
そういった理由と、そもそも指導者である自分がだらしない体、体力無しの出不精であればウマ娘や周囲からの目線が余りよろしくないものになる。
そのため、特に中央のトレーナーというものは、ウマ娘だけではなく己自身もしっかりと鍛え、体力をつけておく必要があった。
これは俺というトレーナーだけにとどまらない。他のトレーナーだってみんなそうだ。
男性トレーナーを思い浮かべていただければ理解できると思うが、沖野先輩、南坂先輩、黒沼先輩、北原先輩…他の方々もそれぞれ、隙のない見事に絞った体をしている。
黒沼先輩などはボディビルに出場できるほどにキレのある筋肉を装備しているし、北原先輩は年齢から考えれば相応の努力をされていることもわかる。敬意しかない。
もちろん、女性トレーナーだってそれぞれが己の体を緩ませない努力をしている。女性トレーナーの場合はメディア露出も多く、化粧など顔を整えなければならない面もあるため、更に敬意は深まる。
トレーナーという仕事は、無論のこと俺にとっては天職だと思っているし、素晴らしい仕事だとは思うが、反面かなり業務やそれ以外でも気を遣うことの多い職業であると理解している。
だからこそ、俺たちは全力を注ぎ込むのだ。
「うし……あと2本!」
こうして砂浜を走っている俺だが、普段から体力づくりの運動は欠かしていない。
週に何度か、早朝に自宅近くの河原を走っているし、仕事終わりや休日などにスポーツジムに通って鍛えたりもしている。学園のトレーニング施設はウマ娘向けなのでNG。
幸いにして、永遠の輪廻に入る前の学生時代の俺も体力の重要さは理解していたらしく、そこそこ鍛え上げた状態の体でループが始まることが多い。
その体を衰えさせるのももったいないため、こうして走っているわけである。
「ふっ、ふっ、ふっ…!」
しかしやはりこうして1000mを何度も往復してみると、ウマ娘というものは規格外の存在なのだなぁと改めて実感してしまう。
何度ループをしても感じるこの種族的差異。人間はウマ娘には勝てないのだ。走る上では。
改めて彼女たちへの敬意を深めながら、息を乱さないように気を付けて砂浜を走っていた。
そうしてまた1000mを走り終えて一息ついたところで、ふとウマ娘の声が耳に入る。
その声は、早朝だというのにとても元気で、明るく、楽しそうで。
ああ。
この声を俺が忘れるはずがあるもんか。
そうして声の方を向く。
そこには、砂浜のそばに設置された防波堤の上を元気そうに歩くウマ娘が一人と。
それに付き添うように道路を歩くウマ娘が一人。
ハルウララと、キングヘイローだ。
「えっへへー!いっぱいカブトムシとれたね、キングちゃん!」
「そうね…蛾とか見たくない虫もいっぱい集まっていたのはちょっとあれだったけれど…!」
遠くから聞こえる二人の会話を聞けば、どうやら虫捕りに行っていたようだ。確かに歩いてきた方向は小さな林が広がっており、俺もそこにウマ娘の付き添いで虫捕りに行ったことが何度もある。
なるほど、彼女らしい。そしてキングヘイローはそんなウララを一人で行かせるのが不安なので己から付き添いを申し出たのだろう。容易に想像が出来る。
「スペちゃんやグラスちゃんにも見せてあげたいね!……って、あれ。猫トレだー!」
「スペシャルウィークさんはともかく、グラスさんって虫大丈夫なのかしら…?……あら、本当ね。朝から運動かしら?」
息を整えながら彼女たちを見ていると、ばっちりとウララと目が合ってしまった。
とはいえお互いに別に恥ずかしいことも隠したいことをしているわけでもない。
遠慮などもないし、俺だけが一方的に抱えていたこの世界にそぐわない想いが出てくることも、もうない。
俺は二人のこっちを向いた顔に笑顔を返しつつ、近づきながら挨拶を返した。
「や、おはようウララ、キング。精が出るね、虫捕りかい?いっぱいとれたか?」
「猫トレおっはよー!!うん、見てみてー!カブトムシいっぱい採れたんだー!!」
「おお、すげーなこりゃ!でっかいの一杯取れたな!」
「おはよう、立華トレーナー。精が出るのはそちらも同じね…朝からランニング?」
「ああ、まあね。やっぱトレーナーって体力勝負だから」
俺はウララが掲げたカブトムシがいっぱい入った虫かごを見て、笑顔で褒めつつキングにも返事をした。
説明するまでもないが、キングヘイローもかつて俺の愛バだった。
ループし始めて間もないころに彼女の為に一流のトレーナーになることを誓った当時の俺は、しかしまだまだ『へっぽこ』だった。
クラシック三冠をすべて逃し、共に悔し涙を流して…そうしてその後から俺は、この永遠の輪廻の中で初めて、『距離適性の壁』というものを強く実感し、それを乗り越える努力を始めた。
その後は短距離マイル中距離、それぞれのGⅠで冠を取らせることが出来たが、それは彼女の才能のおかげであろう。当時の俺の指導論は今の俺からすればまだまだ未熟なもので、適性の壁を越えられたのは彼女の努力に依るところが大きい。
それでも、やはりあの3年間もまたかけがえのない物であり、俺の大切な想い出の一つとなっている。
泥に塗れてもなお首を下げない彼女は、どんな高価な宝石よりも美しい。
──────しかし、これはこの世界線では閑話である。休題。
「…ああ、そういえばウララ。こないだはジャパンダートダービー、一着おめでとう。すごい走りだったな」
「えへへ!!ありがとー!!ウララもね、すっごく楽しかったし、嬉しかった!」
そうして雑談に興じる中で、俺はそういえばと思いだして、先日のウララのレースの勝利を祝福した。
忘れてはいけない。この世界でウララは俺の担当ではない、いずれライバルになるウマ娘である。
だからこそ、彼女の勝利を心から祝福する。
どんなトレーナーでも、他のトレーナーが育てるウマ娘が勝利して、そこに自分の担当するウマ娘の敗北がなければ、相手を褒め称えるものだ。
初咲さんにも後で改めて祝福して、その上でどうやってウララに中距離を走るコツを教えたのか聞かないとな…などと思っていると。
「初咲トレーナーと、
「っ…!…そうか、黒沼先輩か…!」
意外にも、ウララの口からその答えが返ってきた。
────────黒沼先輩。
成程。すべて合点がいった。
初咲さんはウララの中距離適性が厳しいことを理解して、黒沼先輩に助力を仰いだのだ。
最適解じゃないか。
黒沼先輩なら…あの人なら、やる。
芝の適性を考えない、中距離を走らせるだけという命題なら、やり遂げる。
そしてそこに躊躇いなく助けを乞うた初咲さんもまた流石だ。
ウマ娘の為に、ベストな選択を取れている。
余計なプライドなど二の次、己の担当の為に行動できている。
…ああ、いいな。
この世界線の俺の同期は、随分とやってくれるじゃねぇか。
「…それにね」
「ん?」
「猫トレのチームの、ファルコンちゃんのレースも見たんだー。それでね、私、ぐーっと体が熱くなって…あんな走りがしたいって、ファルコンちゃんに勝ちたい!ってなっちゃって!だから、いっぱい頑張ったの!!」
「……ッ!」
そうして、重ねてウララが紡いだ言葉は、ウマ娘の本能から迸るそれ。
それは、あらゆるウマ娘が持つ、好敵手への、ライバルへの競争心。
彼女たちはそれを強く持つために、だからこそ輝く。
同じ世代や、仲のいいウマ娘に強い子が集まると…レースをしていく中で、全体のレベルが引き上げられることがある。
それは永年三強もそうだし、BNWもそうだし、黄金世代もそうだ。
今フラッシュ達の走るこの世代も、ササヤキやイルネル、ヴィクトールピストやライアンなどがそれぞれよい影響を受けている。
最高のライバルを持つことが、ウマ娘の走りを速くする一番の薬なのだ。
まさしく世代全体のレベルアップを体現しているウマ娘であるキングヘイローに、ちらりと視線を向けた。
この子の、この世代…黄金世代は、どの世界線でもズレることはない。
黄金世代の5人は、常に、輝いている。
そうしてキングを見ていると、言葉を待たれていると捉えたようで、キングもまた先日のファルコンの走りについて感想を零した。
「…私もファルコン先輩の走りは見たわ…魂が揺さぶられるような、あれをね。…ねぇ立華トレーナー、ファルコン先輩はまた芝に来ないのかしら?走りたいわ、あの奇跡と」
「…ははは。行くとしても日本の主なダートGⅠ、その全部の冠を取ってからかな…ああ、流石にJBCは一つでいいけどね」
「あら、随分と遠い未来ね。…ここにそれを簡単には許さない子がいるわよ?」
「ぽぇ?……あ!!うん!!私、負けないよー!!」
「…いいね。でも、俺のファルコンも強いぞ。いつか君達と走ることがあったら、そん時はよろしくな」
キングヘイローの檄と、それに応えて瞳から桜色の炎を零すほどにやる気を見せるハルウララ。
そんな二人に対して、俺もまた己の愛バを誇り、彼女の宣戦布告を受け止めた。
彼女たちが織り成す、熱いレース。
それを見るのが今から楽しみだ。
「さて。…俺はもうしばらく走っていくから、ここらへんで。虫を触った後の手はよく洗うんだぞ、ばい菌がついちゃうからな」
「はーい!またね、猫トレ!」
「子供じゃないのよ、もう。…それではまた、立華トレーナー」
笑顔のウララと、苦笑を返すキングに別れを告げて、俺は改めて砂浜のランニングに戻った。
いい出会いだった。
俺の中の疑問も消化できたし、またこの世界線のウララが彼女らしく、楽しく走れており…そして、強さを持っていることも理解できた。
だからこそ、俺も容赦しない。
ウララに、他のライバルに負けないように…砂の隼を、日本の頂点へ立たせるために。
これからも、頑張っていこう。
────────────────
────────────────
「よーし。集まったな。それじゃ今日の練習ですが、まず20分は柔軟します。この後筋トレメインになるので、柔軟を疎かにすると筋を痛める可能性が高くなるから真剣にな。それじゃペア組んで開始!」
今日の練習、パワーに重点を置いたトレーニングに集まったウマ娘達を見渡して、俺は最初に柔軟の指示を出す。
ウォームアップは重要だ。ここに本気で取り組むことで練習の効率も変わってくるし、怪我の危険性を減らすことも出来る。
体が硬いウマ娘はそれだけでハンデとなる。努力で改善できる箇所でもあるため、ここはどんなウマ娘を指導する時も真剣に取り組ませている。
無論、今日集まったウマ娘達は優駿揃いで、柔軟の重要性もしっかり理解しており、真剣に柔軟に励んでいた。
「ほっ、ほっ、ひっ、ふー…」
「いつも思うッスけど、オグリさんのその独特の息遣いは何なんスか…」
「オグリさんらしいと思います、押忍」
まずチーム『カサマツ』よりオグリキャップ。
その脚を固定するバンブーメモリーと、ヤエノムテキ。
彼女たちはパワートレーニングでは欠かせない逸材だ。彼女たちの世代でも、特に力強さに定評があるウマ娘達だ。
「う、うーん…!ライスだとここが限界、かも…!」
「ふふーん、ボクはここまで伸ばせるよー!体の柔らかさには自信があるモンニ!」
そしてその隣、ぷるぷる震えながら前屈をするライスシャワーと、その隣で胸までぺたりと地面につけているトウカイテイオーも参加していた。
ライスも決して柔軟性が足りないことはないのだが、なにぶん相手がテイオーだ。彼女の柔軟性は驚異である。
彼女たち…特にライスシャワーはその小さな見た目に反して有り余るパワーとスタミナを有している。長い距離で息を入れるコツなども知識として有しており、やはりトレーニングを共にする上では逸材の二人と言えた。
「やはり、砂の上はいいな…そう思わんか、ファルコン」
「わかります!ここが私のあるべきところって感じがしますね…!心底!」
「いやファルコンちゃんここ砂浜だって」
「ダートとは砂質違わん?」
「でも気持ちがわかる我らダート組」
もちろん、オグリがいるということで、チーム『カサマツ』のみんなも一緒に練習に励んでくれている。
北原先輩も別のウマ娘を見て回っているし、ベルノライトは飲み物などを準備してくれている。
今日は俺だけではなく、北原先輩と…あと、ライスの付き添いで黒沼先輩が時々様子を見に来てくれていた。
「……キタハラあいつ、スケベな目で他の子見てねーだろうな」
(おっ独占力か?新しいデバフに目覚めたか?)
(せっかく新しい水着準備したのに学園指定の水着しかまだ見せてないからねーノルン)
(…いや、何も言うまい)
(ノルン先輩…その心配する気持ち、わかるよ…)
ノルンのつぶやきが聞こえてしまい、そしてその周りの子たちもやれやれって顔を見せているが、北原先輩がそのような目でウマ娘を見るはずもない。当然だろう。敬愛する北原先輩だぞ。
とはいえ流石にそれをウマ娘に囲まれたここで指摘する勇気も俺にはないので、北原先輩が後で問い詰められないように祈るばかりであった。
なぜか胃が痛い。なぜだろう。
「…トレーナー?随分とノルン先輩のほうを見ておられるようですけれど…?」
「…何か気になるところでもあったのかな?あたし気になるの」
「いや別に。しっかり柔軟しているか見てただけです」
そうしてノルンのほうばかり見ていたら近くで柔軟していたフラッシュとアイネスに詰められてしまった。
違くて。
別にノルンばかりを意識していたわけじゃなくて。
…というか、なんだ。彼女たちの危惧もまぁ理解できないわけじゃないけど、俺は、俺たちはトレーナーであるからして、ウマ娘をそういう目で見ない。
胸が大きいとか小さいとか、水着だとか、そういう理由で掛かりだすようなトレーナーは少なくとも中央にはいないのだ。
観察するにしても純粋に柔軟であるとか、トモの発達であるとか、全身の筋肉のつき方とか、そういうのを見ているわけで。彼女たちが危惧するような視線では一切見ていない。
そこだけははっきりと伝えておきたかった。アレな話題なので口には出さないが。
「…ふっ。苦労してるな立華クン。されるよな、誤解。わかるぜ…」
「
「立華。ウマ娘の体は一日ごとに変化がある。よく観察することは大切なことだ」
「
なぜかウマ娘達の視線が俺に集中してしまっていたところに、小声で二人の偉大なる先輩トレーナーから気遣いの言葉をかけられて俺は嬉しくなってしまう。
やっぱり…先輩たちは…最高やな!
「「「「「「「「「………………」」」」」」」」」」
だがウマ娘の発達した聴覚には俺たちのつぶやきは耳に入ってしまっていたらしい。
冷たい眼差し(金スキル)が全方位から突き刺さって、俺たちは冷や汗をかいたのだった。
ひらめいた!この強い視線は、ウマ娘達のトレーニングに活かせるかもしれない!
「御託はいいですから」
「みんな柔軟終わったから早く練習に入ろう☆?」
「砂浜だからサンドバッグがないのが悔しい所なの」
3人とも随分俺との心理的な距離感が近づいて、気安い会話が出来るようになっている。
いいことだな。うん。
逃げたいなんて思ってないぞ。
まぁ、その後のパワートレーニングについては勿論、それぞれが良い影響を与え合って、素晴らしい練習になったことを後述しておく。
夏合宿らしい、騒がしい日々が続いていた。