※組織で生まれ育っているために、姉の死を経験する前の宮野志保の倫理観が極めて薄い設定です。くれぐれもご注意ください。
※作者にはあらゆる専門知識がありません。事実と矛盾だらけだと思いますが、フィクションとしてお楽しみください。
低いエンジン音を立てて車が走行する中、志保は窓縁に肘を置いて頬杖をついた。
後ろに流れていく景色をぼんやりと眺める。
組織の運転手が走らせる車で研究所に向かう道中だった。
運転手と志保の間に会話はなく、バックミラー越しに視線を合わせることもない。
後部座席に座る志保が窓の景色を眺め、運転手は運転のみに集中するのが通例だ。
(五年後にお姉ちゃんが死ぬ)
志保は外の景色に視線を固定したまま、心中で呟いた。
前の周の自分の策略が成功したために、アドニスからもたらされた情報だ。
姉は五年後に志保とともに組織を抜けようとしてジンに射殺される。
それを知った『この周』の自分はアドニスと利害関係を結んだ。
組織が行っているタキオンの研究について教え、適宜知識を貸す代わりに、姉の死を防いでもらう約束になっている。
姉の死を防ぐ方法はすでに定まっており、今はその下準備を進めながらアドニスへの情報提供をしている段階だった。
志保に与えられている研究所の個室で、検査協力の名目のもと、人目を偲んで内談を行っている。
(しかし私たちは共犯関係でありながらも、お互いに腹を探り合っている)
志保はアドニスを手放しに信用していない。向こうも同様なはずだ。
例えば、アドニスはこちらの機嫌を取っている。
姉生存の対価として知っている情報を全て教える約束になっているが、志保がやろうと思えば「情報は全て教えた」と偽って一部の情報を伏せることも可能だ。
志保が一部の情報を伏せたとしても、アドニスがそれに気づく手立てはない。
腹いせに情報を伏せられる恐れがあるから、彼女は志保を丁重に扱う。
志保もそれを理解しながら、あえて口には出さない。
例えば、志保は「途中で裏切られたら困るから」と偽って「あの方の奥の手とは何か」という最重要情報を最後まで秘匿すると宣言した。
もちろん本気でアドニスの裏切りを心配しているわけではない。
アドニスが裏切ったら志保は報復としてあの方に全てを明かすし、そうなったら彼女は終わる。
志保も同時に罰を受けるだろうが、姉が死んだ世界に未練はない。組織の手にかかるのは癪だし、あの方が動く前に服毒自殺してやろうなどと考えている。
アドニスも、志保のこの思考を承知している。
自分が裏切ると、志保によってあの方に全てを密告される恐れがあることを彼女は認め、だから裏切らないと主張していた。
最重要情報を秘匿しているのは、アドニスに説明したように共犯者の裏切りを心配してのことではない。
二つの事態に備えてのことだ。
一つ、情報提供の対価としてアドニスにこなしてもらう姉を助ける計画が失敗して、この周でも姉が死んでしまった時の保険。
初めから「姉を無事に助けられたら最後の情報を教える」と宣言しておけば、計画失敗の際は黙秘を貫ける。
もちろんアドニスは困る。
困り果てた彼女に、志保は「あの方の奥の手を知りたいのなら、次の周で宮野明美の生存を達成して、その報酬として次の周の自分に教えてもらえ」と言ってやる。
もしもこの展開になったら、アドニスは真っ先に自白剤を次の周の志保に盛ることを考えるだろう。
すでに全てを把握している『この周』の志保の意表を突くのは不可能に近く、そもそもあの方からの疑いをそらすために志保は明美殺害の直後に組織から逃亡する必要があり、時間的側面においてもアドニスのチャンスはほとんどない。
しかし何も知らない次の周の志保であれば、いくらでも付け入る隙がある。
──とそこまで考えて、アドニスはこの案を却下する。
自白剤とは意識を朦朧とさせて判断力を低下させることで隠している情報を聞き出す薬だ。
意識が朦朧とした状態で専門的な内容を素人にも分かりやすく噛み砕いて説明できるとは思いにくい、と彼女は考える。
というか、これをやったら何も知らない次の周の志保は、間違いなく「アドニスに自白剤を盛られて妙なことを聞かれた」と報告するので、あの方にアドニスの動きがバレる。
口封じのために志保を葬ったとしても「宮野志保の失踪」というこれまでの周で見られなかった出来事によって、あの方はもう一人のループ者であるアドニスを疑う。
どちらにしろ詰んでいる。
そして何より、志保が突き止めた『あの方の奥の手』は元々知っていた事柄ではない。
アドニスからループ現象の実在について聞かされて初めて、色々と考えるうちに
ループ現象について知らされていない志保をいくら騙し討ちしようとしても、アドニスが情報を得るのは不可能である。
だからアドニスがあの方の奥の手を知りたければ、次の周の志保に洗いざらい全てを話す工程を挟まなくてはならない。
宮野明美の死を伏せて話そうにも、これを伏せたら志保が裏切るリスクが跳ね上がる。
彼女は悩んだ末に、今度こそ明美を助ける代わりにあの方の奥の手を教えてもらおうと考えるだろう。
志保が契約未達成を理由に口を閉ざし続ければ、アドニスはあの方の奥の手を知るために『次』の志保にループ現象の存在を教え、将来姉が死ぬことも教えてくれる。
今回と同じように、アドニスが宮野明美の死を防ぎ、志保が頭脳と知識を貸す契約を持ちかける。
よって仮にこの周で姉が死んでしまっても、『あの方の奥の手』を秘匿し続ければ次の周でのやり直しが可能になる。
また、あの方の奥の手を最後まで伏せると宣言したのは、ループ現象の仕組みが不明瞭だったためでもある。
志保はループ現象の詳細を知らなかった。もしかしたら、姉が殺される未来を回避したのに次の周が訪れて、時間が巻き戻ることで「姉の生存」という結果ごとリセットされるかもしれないと考えた。
この場合は「この周で姉が死ななかったとしても、次の周で姉が死ぬのなら契約は未達成である」と言い張って、最重要情報を対価にアドニスにどうにかさせるつもりでいた。
だから志保はこの懸念が起こりうるかどうかを確かめる目的も兼ねて、ループの詳細をアドニスが説明するよう誘導した。
結果、志保の予想は的中していた。
姉を助けたとしても変わらず時間は繰り返され、次の周からまた姉が殺され続ける展開は大いにあり得るらしい。
しかしアドニスも馬鹿ではない。腐っても組織の幹部だ。
彼女はこの時点で志保の狙いを見抜いた。
自分にループ現象の説明をさせたのは、この周で姉を助けた後にまた時間が巻き戻って、姉を助けた意味がなくなる可能性を考慮してのことだ。いざとなったら、最後まで伏せておいた最重要情報を盾にして、どうにかするよう自分に迫る腹づもりだったのだろう、と彼女は指摘した。
大当たりだった。
志保が何も言えずにいると、彼女は続けて「あの方を倒してループを終わらせるから、宮野明美の死亡偽装が成功したら最後の情報を教えてほしい」と直球で頼んできた。
(…………あの要求は飲むしかないわね)
志保は長い回想を終えて結論を下す。
彼女の要求を飲まなければ、「宮野明美の生存」という自分の目的は達成されない。
つい先程の検査協力で行われた話し合いによって、アドニスとあの方二人の『後悔』が解消されない限りこのループが続くと結論づけられた。
アドニスがあの方をどうにかしなければループが続く。
ループが続けば姉は殺され続ける。
(お姉ちゃんを助けるには、アドニスとあの方の『後悔』を解消して時間の流れを通常に戻し、あの方を無力化する必要がある。ループを終わらせただけであの方が無事だったら間違いなく反撃される。私たち姉妹もどうなるか分からないわ。
だから私がやるべきなのは、『後悔』の解消とあの方の無力化を目指しているアドニスへの最大限の協力。私は彼女に賭けるしかない。ここで彼女が失敗したら、『次の周』の私にループの存在や姉の死を教えてくれる存在がいなくなる。それどころか、アドニスがあの方の手中に落ちた時点で情報提供者が私だと知られる)
さらに周を重ねたところで状況が悪化することはあれど改善することはない。
アドニスがあの方を出し抜くことを信じて、この周で勝負を仕掛けるのが最善だ。
未だにアドニスの『後悔』が不明である、あの方をどう無力化するのかなど、不明瞭な点はまだまだあるが、これらは検査協力中の密談で詰めていくしかないだろう。
タイムリミットは五年後だ。猶予はある。
(それにしても、)
志保は前方の赤信号に視線を放った。
あの方を倒してループを終わらせると語ったアドニスの目は、見覚えのある色を宿していた。
裏社会のさらに奥、一層深い闇の中にある組織では、時折ああいった人種が発生する。
罪悪感に耐えきれなくなったのか、彼らは人を殺す算段を練っていた口で突然道徳を語り出す。
幾度も拳銃を握った血塗られた手で、盲目的に正義だと信じ込んだ代償行為をなそうとする。
彼らのような半端な裏切り者は、始末されるか人体実験要員として志保のもとに送られてくるかのどちらかだった。
だから志保に馴染みが深い。
これまでは彼らのことを愚かだと断じてきた。
従順に組織に従っていれば安全なのに、揃いも揃って発作のように正義に掛けられて馬鹿を見る。
しかしアドニスに姉の死を知らされて、大切な人の死の恐ろしさを疑似的に思い知った今、誰かの大切な人を葬る罪深さを理解し始めている。
アドニスの気持ちは分からなくもない。
(まあ、アドニスがどんな心理だろうがどうでもいいわ。お姉ちゃんを助けるという目的さえ達成されれば、それで)
半ば強制的に思考に終止符を打つ。信号が青にかわり、景色が再び流れ始めた。
*
車が到着した先は薬品会社だった。
烏丸グループをスポンサーに持つこの薬品会社は表向き普通の企業だが、その裏には組織がついているし、会社の研究部門では非合法な研究がなされている。
ここは志保の勤務先でもあった。
タキオン関連の研究はつい一時間前にアドニスといた施設で行う。
一方で、タキオンと密接な関わりがあるもののあちらの施設の特殊な設備・データを必要としない薬品開発や、メインの研究とは別に作らされている様々な薬──死体を溶かすなど犯罪のサポートをする薬か、売買の対象にして金を集める目的のどちらかが主──の開発はこの薬品会社で行う。
表向き、『シェリー』が所属しているのはこの薬品会社だけだ。
タキオンの研究がメインでなされている、あちらの研究施設は存在すら厳重に秘匿されている。組織の幹部の大半が認知していない。研究内容を思えば当然だろう。
当然、姉が知っている志保の勤務先もここだけ。面会はこの薬品会社のラウンジで行われるのが常である。
だからこそ、姉から自分のことを聞き出した
長い足を折り曲げて玄関横の壁にもたれかかっている
彼こそが長々と前提確認をするに至った原因である。なぜここにいるのか。大体想像がつくのが憎たらしい。
志保の視線に気づくと男──諸星は顔をあげる。
「何故ここにいるのかと言いたげな顔だな。差し入れだ」
「百歩譲って、口実を作って私に取り入ろうとするのは許すとしても、チョイスは流石に看破できないわ」
話しながら、頭から足まで真っ黒な男が小脇に抱えている袋に目をやる。
「どうして持ってくるのが焼き芋なのよ」
「スーパーで売っているのを見かけたんだが珍しくてな。女子供は甘いものが好きだろう」
唐突に、アドニスが彼に対して「生煮え煮込み料理を何度も持ってくると思ったら今度は変化球でさくらんぼ持ってきそう」と言っていたのを志保は思い出した。
これまでもこれからも彼と接点が無い彼女はどうしてこんな言葉が出てきたのかと不思議がっていたし、「なんか……諸星を忌み嫌っている人から聞いたような……?」と首を傾げていたが、今から思うと「手土産のチョイスが謎」という特徴は捉えていた。
「私が好きなのはフサエブランドの新作よ。五十万くらいする」
「次からは参考にしよう」
諸星は、洋画の登場人物がよくやる仕草で肩をすくめた。嫌味を言われたにしては真面目腐った表情をしている。
手渡された紙袋は冷めていて、ずっしりと重い。アドニスと別れる前だったなら彼女に押し付けられたものを、今渡されても持て余しそうだ。
焼き芋の扱いに頭を悩ませる傍ら、志保は半ば無意識に先程の会話を反芻していた。
脳内の自分がフサエブランドの新作を要求したところで、映像が止まる。
ここにきてやっと、志保は自分の手落ちを自覚した。
焼き芋への困惑が頭から吹き飛び、思わず舌打ちしたくなる。──諸星に聞かれるのが癪なので我慢するが。
諸星に女物のブランド品を要求するなど、姉とのデートの口実を与えてしまったに等しい。
この様子だと次は志保が好きなブランド品を持ってくるだろうが、手頃な値段で志保の好みらしき商品を選ぶ能力がこの男にあるわけがない。そもそも「五十万の新作」は志保が咄嗟に口にしたでまかせだ。少し調べれば分かる。
要求された品は嫌味を言うためにでっち上げた架空のもので、諸星には別の商品を見繕う能力がない。
となれば、彼は明美に選ぶのを手伝ってもらおうと考えるはずだ。
志保への手土産が見つかって、ついでに色仕掛けが進む。
下手を打った苦々しさを噛み締めていると、諸星がさらに言葉を続けた。
「それにしても、俺の行動を邪推したようだが心外だな」
「初対面から一ヶ月しか経ってないってのに、こうして待ち構えてるの二回目じゃない。警戒するに決まってるわ」
「どちらも偶然だ」
「それで納得すると思う?」
志保は眉をつり上げた。以前の諸星も偶然を装ってお裾分けを持ってきたが、この頻度は絶対に意図的だ。
さらに二回とも口実が雑。
姉との接触方法もかなり無理があったらしいし、勢いで誤魔化す手法しか取れないのだろう。
しかし志保の険しい顔つきを物ともせず、諸星は飄々と言ってのける。
「明美との出会いもああだったしな。お前が警戒するのも分かる」
よく言う、と志保は思った。
彼は知る由もないが、志保は彼がFBI捜査官であることも、組織に潜入するために『シェリー』の姉と交際したことも知っている。
出会いも、姉への恋心も偽物だ。
しかし当然ながらそれを指摘するわけにはいかない。
志保は代わりに呆れ声を出した。
「まあ、あの出会いから発展させれたのは感心するわ。確か同じミステリー好き同士意気投合したんだっけ」
姉は組織の目を欺くための暗号を考案しただけあってミステリー好きだ。小学生の時は図書委員をやっていたそうだし、推理小説を好むようになるのも分かる。
そして諸星はホームズフリークらしい。
初めは姉に近づくための嘘かとも考えたが、おそらくこの様子は本当だ。
なにせ姉の話によると、デート中だろうがなんだろうが頻繁にホームズの話をしてくるらしい。一種のオタクだろう。
恋に盲目状態の姉は微笑ましそうに話すが志保は心底どうかと思う。
デートの時もホームズの話しかしない男を好きになるなど理解不能だ。少なくとも自分は絶対そんな男を好きになったりしない。
つらつらと内心で毒づいていると、諸星は志保の問いかけに首肯した。
「ああ、当時大学生だった明美はミステリー研究会に所属していてな。彼女をどうにか口説きたかった俺にはありがたい偶然だったよ。偶然と言えば出会いも天の恵みによる偶然だったがね」
(よく言うわ、ほんと)
志保は半目になった。
諸星による姉の惚気がこのまま続くのは嫌なので、さっさと話題を戻す。
「あなたが毎回手土産を持参してまで取り入ろうとしてくる件に話を戻すけど、重宝されている科学者と言っても私に重要な決定権はないわ。昔からいるネームドに取り入りたいのなら他を当たることね」
「そんな目的で会いに来ているわけではない」
やけに真剣な表情と声色だった。
「偶然だ」という主張をかなぐり捨てたのを指摘する気にはなれなかった。
志保は紙袋をさらに強く握りしめて聞き返す。
「じゃあ、どうしてこんな事してるのよ」
「お前たち姉妹は似ている」
「は?」
意味の分からない第一声に、志保は眉をひそめた。
「お前は俺と初めて会った日、明美が席を外した隙を見て姉を助けてくれと頼んできたな。明美も同じだ。アイツがお前と俺を引き合わせたがっていたのは、妹を守ってくれる誰かが欲しかったからだろう」
「……その意を汲んで私に会いに来てるって?」
「まあな」
元より無口な男だ。諸星はそれだけ言って押し黙った。
しかし口をつぐんですぐ、考え込むように視線を斜め上へと放る。
しばしの間そうしてから、彼は再び口を開いた。
「姉を取られたと感じているのかもしれないが、心配せずとも割って入りはせんよ。互いに相手を思いやっているんだ。入り込む余地がない」
腹立たしいことに、諸星は志保の態度を間違って解釈して、慣れないなりに慰めようとしてきた。
しかし、まるきり見当違いなわけでもない。
貴重な姉との時間の何割かがこの男の話になって不服なのは事実だ。
とはいえ、やはり志保が苛立つ理由の大半は、彼の正体と目的によるものである。
諸星大は、黒の組織という巨悪を打ち倒そうとするFBI捜査官だ。
組織に潜入する足掛かりにするために偶然を装って宮野明美と出会い、恋人の座に納まった。
彼は姉を利用しているに過ぎない。利用するだけ利用して最後には捨てる。
残された姉は組織で危険因子とみなされるようになり、「妹と組織を抜けたいのなら任務を成功させろ」という甘言に乗って命を落とす。
これまで大人しくしてきた姉が組織から抜けようとする動機に、生き別れとなった元恋人の存在は少なからず関わっていたはずだ。
だから志保は諸星に対して何かと喧嘩腰になる。
しかしそれはあくまで、何も知らない人が見たら「姉を取られて何かと噛み付いてくる妹」と受け取る程度のものだ。
諸星が引き金となって将来起こる予定の悲劇を知ってもなお、志保は彼を憎悪することができずにいる。
正直に言うと、志保は諸星と初めて会った日に「姉が惚れるのも分かる」と思った。
諸星には光の下で健やかに育った人間特有の安定感がある。
彼は正しい理屈で築かれた場所で生まれ育った人しか持ち得ない、善良さと傲岸さを有している。
平たく言うと捻くれていない。
だから諸星は志保を気遣って、明美の隠された願いにできるだけ応えようとする。
明美は組織の監視下にあるだけの幹部の姉で、志保は能力を認められてコードネームを得ているだけの道具だ。幹部と言っても決定権はない。
どちらも取り入る先としては不相応で、すでに組織の一員として活動している諸星の周囲には、より親切にするべき相手が沢山いるはず。
彼が自分たち姉妹を尊重してくれるのは、当たり前に人に優しくできる人種だからだ。
子供の頃から不安定な場所に身を置いている姉の目には、諸星の安定感が魅力的に映ったのだろう。
そしてそれは志保も同じだ。志保だって、物心ついた時から身の危険と常に隣り合わせで自由がない生活を送っている。
志保は、将来姉が死ぬ間接的な原因であるこの男を憎みきることが出来ずにいた。
だからだろうか。「姉を取られて不満に思っている」という諸星の解釈を否定する気にも、肯定する気にもなれなかった。
そのせいで会話への終止符の打ち方も、どちらにも付かない半端なものとなる。
志保は諸星に対して「今回はそういう事にしておくわ」とだけ返した。
*
諸星と別れた後、薬品会社に用意されている自身の個室に入ってパソコンを立ち上げる。
やや時間を置いて、ディスプレイは二つの画面に分かれた。
右側にはベッドに敷き詰められたモルモットたちのライブ映像。
左側にはリアルタイムで測定している脈拍、心拍、血圧などの数値が並ぶ。
左に映し出されているのは、貼り付け型ウェアラブルデバイスを使ってリアルタイムで測定しているデータだ。
IoMTと呼ばれる医療分野で活用されるIoTで、患者の生体データを計測し、データ化できる。
本来は医療分野で使用する最新技術の道具だが、組織では人体実験に使用されている。
彼らで試しているのは、アポトーシスとテロメラーゼ活性を組み合わせて作る試作品。
今行っているのは、試作品を非ループ者に飲ませて効能を観察し、どのように改良していくかの指標とするための実験だった。
失敗前提なので、最悪モルモットは死ぬか、酷い身体障害が出る。
酷い身体障害が出た場合は、モルモットとしての利用価値がなくなるためどの道組織に始末される。
目を背けたくなる凄惨な光景だと今は思う。
少し前の志保にとって、この光景は研究を前に進めるために必要なデータでしかなかった。
ベッドに並んでいるのは右から「三番」「七番」「十二番」だし、まばらな数字を痛ましく思うこともなかった。
志保は長らく、彼らを『モルモット』として捉えてきた。
モルモットは組織にとって不要となった人間の末路だ。粛清対象の中で、抵抗する能力がないと見做された者が送られてくる。
姉も、組織にとって都合が悪くなったら殺される。
組織にとって不要となった人間であるモルモットと、組織にとって都合が悪くなったから殺された未来の姉。
この二つはイコールで結ばれる。
モルモットが姉と同等の存在なら、彼らは人間だということになる。
志保はそれを知らなかった。気付こうともしなかった。
志保にとって、物心ついた時からモルモットはモルモットであり、研究のために役立てるべき道具だった。
モルモットをモルモットとして扱うことを誰も咎めなかったし、結果を出せば褒められた。姉と連絡を取り、たまに会うことを許された。研究所に自分用の個室だってもらえた。
組織で行っている実験について、どんなに些細なことでも姉に漏らしてはいけないと言い含められている理由に気づいたのはずっと後になってからだ。
一応、自分が行っている研究が法に触れている自覚はあった。組織の外で行ったら捕まることだと理解していた。
それだけだった。
組織の力で外でできない実験ができるこの環境を、心地よく感じてすらいた。
姉の未来を知って、このディスプレイに映るのがデータではなく人だと気づいたときはゾッとした。世界が全て崩れ落ちた。
アドニスも同じだったのだろうか。
萩原という人物の誘拐によって、自分の罪を自覚したのだろうか。
だから彼女は、あの方を倒すことで償おうとしているのか。
志保はマウスを強く握り、瞼を下ろす。
アドニスは道を決めた。正義という名の代償行為である可能性は大いにあるが、進み始めているのは確かだ。
志保は分からない。
自分がどうするべきなのか。どうしたいのか。
逡巡は長々と続き、志保が目を開くまでに数分を要した。
観念して目を開けた時でも、結論は出ていなかった。
*
姉との面会は、志保の表向きの勤務地である薬品会社のラウンジで行われる。
志保と明美は窓際の席に腰掛けていた。
少しは陽の光に当たった方がいいからと姉がこの席を選んだ日を境に、志保が自主的にこの席を選ぶようになった。
何年も前の何気ない一幕のやり取りなので姉が覚えているかどうかは分からないが、志保にとっては大切な思い出だ。
それに、この時期に差し込む暖かな日差しは結構気に入っている。
諸星に焼き芋を押し付けられた日から三日が経つ。
あの日思い悩んでいた諸々──主に、自分はどうしたいのか、どうするべきなのかといった考え事──には一時的に蓋をすることに決めている。
前回の面会日は数ヶ月前だった。
隠れるつもりがない全身黒ずくめの男が二人監視についていて、話してはいけない話題が事細かに決められていると言っても、貴重な機会であることに変わりはない。
哲学らしきことを考えるのはいつでも出来る。今は姉との会話に集中したい。
志保にとって、明美と一緒にいられる僅かな時間は聖域に等しい。
姉の死を知る前の、何も知らなかった志保は研究を心の底から楽しんでいた。
知的好奇心が満たされて、成果を上げれば褒められる。待遇も良くなる。
表では倫理的に許されない研究だとしても、組織の力を持ってすれば可能になる。
志保は自分の境遇を受け入れていて、日々の生活にまあまあ満足していた。
自分が作らされているのは毒ではなく世界のあり方を飛躍的に変える薬だという耳障りのいい言葉を信じながらも、失敗作として出来た毒薬が暗殺に使われるのを受け入れていた。
それでも、時折襲いかかる強迫観念らしきものはあった。
それが訪れると、何かをしなければという焦燥感にかけられて落ち着かなくなる。常に何かに追い立てられているかのような心地になる。
不思議なことに、姉と会えばそれは消える。
だから志保は研究に勤しみ、焦燥感でどうしようもなくなる頃に姉と会い、追い立ててくる焦燥感をリセットして再び研究に没頭する生活を送っていた。
それが自分の日常だった。
「仕事はどう?」
陽だまりの中で、姉が微笑みをたたえて尋ねた。
それだけで志保の胸に立ち込めていた靄がおおかた晴れた。いい意味で全てがどうでも良くなる。
目尻が思わず緩みそうになって、志保は慌てて表情を取り繕った。
ここにいるのが姉だけならいいが、すぐ横の席に組織の監視員がいる。
彼らにだらしなく緩んだ顔を見られるのは避けたい。
というか、彼らはストローを噛みちぎらん勢いで飲み物を啜っている。
図体が大きい男が全身真っ黒な格好をして、机にだらしなく肘をついてストローを咥える姿はシュールだ。
心優しい姉は、何気ない雑談に見せかけて自分を心配している。
それが分かるから、志保はアイスティーを啜りながら慎重に答えを選んだ。
「おおむね上手くいってるわ。そこそこ親しい相手もいるし」
「へえ、どんな?」
「常に自分を褒め称えている変人だけど、組織に染まり切っていない人」
もちろんアドニスのことだ。
彼女は自分を心配する姉に話して聞かせるには最適な人選と言っていい。
志保は組織で浮いているため親しい相手と言えばアドニスくらいしかいないが(それも希薄な関係性なので、アドニスから見たらシェリーは数いる知人の一人止まりなはずだ。少なくとも、手を組んだ今でも互いに腹の中を探り合うような信頼関係しか築けていない)、親密さ以外にも「組織の中では無害な方」という利点がある。
妹を心配する姉に話して聞かせるには、組織の人間はバイオレンス寄りか、そうでなくとも倫理観に問題がある奴らばかりだ。
事あるごとに拳銃をチラつかせてくるお目付役がいるとか、とある研究員が人体実験の結果に目を輝かせていたとか、髪を見ただけで志保のものだと言い当ててくる諸星っぽい特徴を持った幹部がいるなどと言えるわけがない。
それらと比べるとアドニスは温和である。
無闇に人を害したりはしないし、殺人に快楽を見出しているわけでもない。
倫理観と道徳心を度外視した最も理にかなっている手法を選ぶところはあるが、組織に長らく属していればそうなるだろう。
集団内での「普通」や「常識」に引っ張られるのは当然だ。
志保だって彼女と同じく、明るい場所で生きてきた人間が眉を顰めるであろう思考をしがちだ。
というかそれ以前に彼女の場合、無害さを抜きにしても「自画自賛エピソードだけで乗り切れる」というとんでもなく便利な特徴を持っている。
アドニスは毎回自画自賛の語彙が変わっているのだ。
深く追及されたとしても、日々聞かされた自賛の言葉を諳んじるだけで結構な時間が過ぎる。
妹が語った、「そこそこ親しい相手」の存在に明美は目を輝かせた。
「へぇぇ〜。大くんも知ってる人かしら。ねえ、その人の名前は?」
志保は動きを止めて考え込んだ。
もちろん自分は彼女の本名を知らない。
かと言って、姉に組織の情報を少しでも与えることは禁じられているから「アドニス」というコードネームを教えることもできない。
姉は情報規制によってこの組織のスケールを知らないし、幹部たちが酒の名前で呼び合っていることも知らない。
彼女が知っているのは、視覚的に分かる「構成員がカラスのように黒い服を纏っている」という特徴のみだ。
そこまで考えて、志保ははたと思い当たった。
姉に知られてはいけないのは「組織の人間が酒の名前で呼び合っている」という特徴だ。
自分の親しい相手が「アドニス」という名を持っていること自体は話してもいいのではないだろうか。
なにせアドニスは──子供につけるにはなかなか勇気のいる名前ではあるが──人名として使われる単語だし、酒としてはマイナーだ。
酒に詳しくない姉なら「アドニス」と聞いて本名だと思い込むことはあっても、酒の名前だと考えはしないだろう。
志保は握っていたカップをテーブルに置くと、彼女の名前を口にした。
「アドニス」
志保の答えに、明美はもう一度へぇと感嘆の声をあげる。心なしかニヤついている気もする。
「ところで志保、彼氏とか作る気ない?」
「突然話が飛んだわね」
志保は半目を作って呆れ声を出したが、あくまでパフォーマンスだった。明美の思考の連鎖は察せられる。
人の名前としてのアドニスは男性名だ。
志保の予想通り明美は「アドニス」を人名だと解釈し、彼女の性別を誤認した。
明美の視点では、妹がそこそこ親しい相手として真っ先に異性の名前を挙げたことになる。
だから恋バナが始まった。
しかし、明美は何も恋愛話が特段好きなわけではない。
彼女は時折恋人を作ってはどうかとせっついてくるが、それは「組織にとって重要な科学者」ではなく宮野志保自身を大切に思い、力になってくれる誰かを作ってほしい気持ちの現れだと理解している。
自分たち姉妹は組織の監視下という特殊な状況の中で、相手を守ってくれる誰かを常に求めてきた。
志保だって姉を守ってほしいと諸星大に頼んだ。彼女の気持ちは分かる。
こうして考えてみると、諸星の言うように志保と姉は少し似ているのかもしれない。
「残念ながらアドニスは女よ。そして私は異性愛者。お姉ちゃんが期待しているような展開にはならないわ」
志保はピシャリと言った。
恋だなんて非論理的な感情を持った経験がないので、自分の性的嗜好には「おそらく」が付くが、そこまで説明する義理はないだろう。
現時点で志保に分かっているのは一つ。
もしも将来自分が恋をするとしたら、絶対にデート中にひたすらホームズの話をするような相手ではないことだけだ。
この話題は終わりだと言わんばかりに、志保は次の言葉を紡ぐ。
「彼氏と言えばお姉ちゃんの恋人、ものすごく胡散臭い口実で接触してくるんだけど。せめて、今度は焼き芋じゃなくフサエブランドの新作でも持ってこいって伝えておいて」
諸星にフサエブランドの商品を要求してしまった時点で、彼が姉をデートに誘う口実として使うことは確定してしまった。
志保とて、彼の押しの強さは知っている。
ここで志保があの日のことを話そうが話すまいが、二人のデートはほぼ確定したと見ていい。
ならば、この機会に諸星への文句を伝えておくべきだろう。
ジト目の志保を見て明美は苦笑いをした。
「あ〜。大くんって場を整える手段が結構強引というか、そういうところあるから」
「気づいてるんならなんで付き合ったのよ」
「初めは新しい監視員かなって」
「……」
明美にすら疑われていたと知って、志保はよりジト目になった。
気持ち的には、ここにはいない諸星にもの言いたげな目を向けている。
志保のそんな様子を見て、明美は雰囲気を打ち消すように明るく言う。
「でも私の勘違いだったわ。大くんと出会ったのは本当に偶然だし、私たちが惹かれあったのも本当」
姉の声は少しだけ上滑りだった。アドニスから未来の出来事と諸星の正体を聞いていなかったら流してしまっただろう、些細な違和感。
飛躍しすぎた妄想が頭をよぎる。
もしかしたら姉は諸星の怪しさに気づいた上で付き合っているのかもしれない。
惹かれているのは自分だけで、諸星は目的があって自分に近づいただけだと察しているのかもしれない。
(まさかね)
志保はすぐさま自分の想像を打ち消した。
思考を打ち消すようにアイスティーを吸い上げる。
一時的に沈黙の帳が降りた。
姉との沈黙なら、苦にならないどころか心地よさすらある。
沈黙に身を委ねるのも一興かと、志保はストローを咥えたまま背もたれに体を預けた。
ただし明美は違った。
言葉が途切れたこのタイミングを逃さんと口を開こうとし、ためらいがちにまた閉ざす素振りを見せる。
しかし最後まで唇が閉ざされることはなく、彼女は決意を固めた目で志保の視線をとらえると、言葉を発した。
「会った時からずっと気になっていたんだけど、最近疲れてるんじゃない?」
「そんなに暗い顔してた?」
志保は目を丸くした。
明美は「ええ」と答えて、眉を下げて笑う。
「してたしてた。いつどうやって声をかけたらいいか迷ってたんだから」
雲の位置が変わったらしく、窓から降り注ぐ日差しが強まった。
いつも薄暗い研究室にいる自分が、今は陽だまりの中にいる。
姉がいるからだ。姉がいるから、自分はたまに太陽の下に出てこれる。
その心中での独白が呼び水となったのだろう。
突如として、実感が体の中を駆け巡った。
志保の生活は、たまに姉と会うことで成り立っている。
彼女がいなくなったら志保の生活は破綻する。
だから姉と一緒にいられる僅かな時間は聖域に等しい。
脅かされてはならないし、当たり前に存在していなければならない。
やっと道が定まった心地がした。
自分はどんな道を歩むべきなのか、これまでの所業とどう向き合えばいいのか。一向に結論は出ないままだが、一つだけ確かなことがある。
自分は絶対に姉を死なせたくない。それさえ分かっていればいい。
今集中すべきは姉を死なせないこと。この一点だけ。
これまでの所業との向き合い方を考えるのは後回しだ。
仮に「償う」という結論が出たとしても、組織から逃げ出すまでは行動を起こせない。
これまでの周と異なる動きをしたら、あの方に疑われ、志保たちの計画が露呈するリスクを増やすことになる。
何よりも姉を優先するならば、これまで通り粛々と人体実験を行い、研究に精を出す必要がある。
結論がどうなろうと、あと五年は取るべき行動が確定しているのだ。
結論を急ぐ必要はない。
「私は大丈夫よ」
志保は微笑み返した。
心からの言葉だった。
これだけだと、心優しい姉は安心したふりをしてこの場を終わらせ、心配し続けてしまうことを自分は知っている。
だから付け加える。
「そうね。お姉ちゃんが勧めてくれたミステリーが思いのほか面白くて夜ふかししちゃったの」
昔姉が考案した、本の貸し借りになぞらえた暗号だ。
本のジャンルが状況を示し、本を貸してもらった人物がメッセージの主語となる。
暗号の存在が露呈するリスクを減らすため、ジャンルと関連づけられている意味合いはランダムである。
今回の例でいくと、本のジャンルはミステリー。本を貸してもらった人物は志保。
ミステリーには「問題なし」「安全」という意味が割り当てられている。
よって、組み合わせると「宮野志保は安全。問題なし」。
暗号を使うことで、組織に口外を禁じられているから取り繕っているわけではなく本当に大丈夫なのだと明美に伝えられるわけだ。
志保の言葉を聞いて、明美はあからさまにホッとした。彼女の肩の力が抜けたのが目視でも確認できた。
「確かにそうね。本当に大丈夫そうに見える。お姉ちゃんの勘違いだったみたい」
姉が微笑んだ。
のどかな休日だった。