右へ進めば、先は断崖絶壁かも知れない。
左を行けば、不慮の事故に逢うやも知れない。
それでも尚、進まねばならない。
生きている限りは。
これ以上、不義理を続けてはいけない。
あの日、全て言ってしまうべきだったんだ。
先輩の誕生日、アクシデントで同じ部屋で一夜を過ごすこととなったあの時に。
胸につっかえていた「嘘」を吐き出した俺は、千夏先輩に「謝るような事でもないよ」と優しく許してもらえた。だから、その先を言えなかったんだ。
大好きな人に隠し事をしながら過ごすのは辛かったし、そのまま千夏先輩が一時とは言え猪股家を出ることになったのは更に苦しい。もしこのまま、離ればなれになったなら。俺は千夏先輩に、ずっと嘘を吐き続ける事になってしまうのではないか。
言ってしまわなければならない。なるべく早く、必ず。
――雛に告白された、と。
先輩は
そして先輩はまだ知らない、俺の気持ちを。千夏先輩を、異性として好きなのだという事を。
こんな感情を持ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
だからそう、俺は千夏先輩に恋をしている。雛はそれを知った上で、言ったんだ。大喜が好き、と。
俺が千夏先輩に対して抱いているのと同じ気持ちを、雛は俺に対して抱いている。
これは――、どうすれば良いんだろう。
返事は良い、自分を好きな女子として見てくれれば良い、と言われたけれど。そんな割り切れるものじゃない。
好きになってくれた人を、粗末に扱ってはならない。いやそもそも、親友を粗末になんかできるものか。
雛は大事な人、それは確かだ。でもそれは、……違う形の「好き」なんだろう。
頭の中で縺れた糸は、際限無く絡まっていく。
もう俺一人じゃ、どうにも出来ない。
情けない、最低な話だけど。千夏先輩を、頼るしかない。
「そっか。……そうなんだ、ね」
俺の話を聞き終えた千夏先輩は、小さく息を吐いた。
その視線は俺を見据え、心の底を覗き込んでくる。
「大喜くんは、蝶野さんをどう思っているのかな。正直な気持ちを、教えて欲しい」
それは、一つしかない。
俺にとって雛は。雛は――。
「大切な人、……です。何度も背中を押してもらった、アイツはいつだって俺を護ってくれました」
あの明るさに、バカさに、どれくらい助けられただろう。でもその裏側に、あんなにも強い思いがあるなんて。それに気付けなかった能天気な俺は、どれほど雛を傷付けたんだろう。
花火大会の時だって、今思い返せば二人きりで行きたかったんじゃないか。「ほかに誰がくんの?」と聞いた俺に一瞬驚いた顔をしたのは、みんなを誘い忘れたからなんかじゃ無かったのかもしれない。
だからこそ、これ以上雛を苦しませたくない。
「じゃあ、付き合えば良いんじゃないかな。大喜くんも蝶野さんを、形は違っても好きなんでしょう?」
先輩の言葉は、正しいんだろう。思いを受け入れてしまえば、きっと雛は喜んでくれる。
俺たちは
でも。でも。……でも。
俺が望んでいるのは、そうじゃない。
「……それは、……出来ません」
辿々しく言った俺をじっと見詰める千夏先輩、その眼差しが問い掛けてくる。どうして、と。
血が出るほど強く拳を握り締め、俺は胸の内で意識を集中する。
そしてカラカラに渇いた口から、その答えが這い出した。
「俺は千夏先輩が、……好きです。だから、……出来ない、んです」
今言うべきじゃない、これが言ってはいけない事なのはわかっている。
千夏先輩はすっと目を閉じ、僅かに沈黙して。俺の頬へと手を伸ばした。
高鳴る鼓動が胸を突き破りそうになった、次の瞬間。
ペチリという音と共に、頬へ小さな痛みが走る。
「甘えすぎだよ、大喜くん。逃げる理由に他人を使うのは、そのくらいにしなさいね」
先輩の声には、ほんの少し怒りが混ざっているように思える。
いやこれは、ほんの少し――ではないのかもしれない。
「蝶野さんを傷付けたく無いんじゃなく、決断するのが怖いんでしょう? 必死に悩むフリして、必死で逃げてるだけだよ」
俺を解体するような、鋭い視線。心の外郭が切り刻まれ、中身が暴かれていく。
確かに――俺は、怖い。誰かに好かれたことなんか無い自分を、好きだと言ってくれる雛が。気持ちなんて、変わるものなのに。
雛の思いを受け入れて、そして雛を好きになったら。俺はきっと、幸せだろう。でももし、それが失われたら。
そしてそれは、先輩相手でも同じだ。今まで思いを伝えられなかったのは、片想いしているだけなら傷付かずに済むから。遠くからこの人が好きだと思い続けているだけなら、何も考えなくて良い。
最低だな、俺は本当に最低だ。
「大喜くんの気持ちはね、嬉しいよ。でもさ、それを蝶野さんへの言い訳にしないで。受け入れるも受け入れないも、ちゃんと考えて決めて欲しい」
これは大喜くんの問題だよ、と立ち上がり部屋を出ていく千夏先輩。
一人残された俺は、ただ俯くしかない。俯いてそして、決めるしかないんだ。
俺が何をするべきか、それは知っている。あとは行動する、勇気だけ。
「なによ、大喜」
突然呼び出された雛は、当然のように不服そうな顔。あの日告白を受けたこの公園は、雛の家からはそう近くない。それにもう遅い、理由を付けたってホイホイ出て来てくれる時間ではないだろう。
それでも、今でなければならない。ずっと先伸ばしにして来たんだ、一分一秒でも早くしなければ。
「……まさか、変なことしようってんじゃないでしょうね!?」
「違うから落ち着け、スマホから手を離せってのっ!」
こっちが真面目になろうとすればこれだ、全く。隙あらばふざけ倒し合う仲だからな、俺たちは。
……だからそれが、良くないんだ。この緩んだ甘い空気に和んで、つい安住しようとしてしまう。でもこれは雛のせいじゃない、俺がバカで優柔不断だからなんだ。
覚悟を決めて、雛と向き合う。言うべき事を、言う為に。
「あのさ、雛。俺を好きになってくれて、ありがとう。でも……」
だから返事なんかしなくて良いんだって、と俺を阻もうとする雛。その手をそっと制し、俺は続けていく。
「俺は雛を、そういう風に見られない」
千夏先輩が好きだから、じゃない。それは理由の一つでしかない。
俺は、俺は。
「うまく言えないけど、でも。俺は雛と、――
恋より特別な関係でいたい、そんな都合の良い事を考えてしまっている。殴られたって文句は言えない。
雛は少しだけ黙って、そして。
「お友だちでいましょう、か。そういうレトロなフリ方出来るほど、あんたが器用だとは思わなかったな」
あーあ、フラれちゃったよ。おどけるようにそう言って、クルリと背中を向けた。
その背に見えるのは、ただ拒絶の色だけ。
こうなるに決まっていた。友達で居続けるなんて、不可能なんだ。あの日ブランコに乗った雛が、告白をして来た瞬間から。あそこで何も言えなかった時点で、俺たちはこうなるしかなかった。なのに傷付くのが怖くて、踏みとどまっていたんだ。それが傷口を広げていく行為だと、気付かないままに。
「じゃ、ね。……さよなら」
「あ、あ。また学校で、な」
歩き去る雛は、応えない。小さくなっていく背中をただ見送って。
頬に伝う涙を拭う事も出来ないまま、俺はしばらく立ち尽くしていた。
それから、暫くの時が過ぎた。
俺たちは表向き前と変わらず、でも実際は少しだけ歪な関係の中で過ごしている。
隣に座ったときに出来る小さな隙間は、その証拠。
なにもかもが手遅れで、ちゃんとした終わり方になんかならなかったから。
先輩と俺の間も、似たようなものだ。只の「仲が良い同居人」に戻り、そして期限が来れば去っていく。
もし、俺がもう少し物を考えられる頭を持っていたら。傷つくことに脅えず、すぐに気持ちを伝えていたら。俺たちは拗れずに済んだのかもしれない。
でも、そうはならなかった。
だからここで、――御仕舞いなんだ。