紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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復讐者、福澤桃介

 

 世に愉快の種は数あれど、復讐に勝る悦びというのは稀だろう。

 

 奥歯が磨滅するほどに、憎みに憎んだ怨敵を、首尾よく討ち果たしたその瞬間。溜め込み続けた負の情念は一挙に炎上、快楽へと昇華され、中枢神経を直撃しては白熱化させ、眼球から火花が飛び散るような陶酔境に運び去る。そう、復讐とは気持ちいいのだ、絶対に。

 

 福澤桃介なども、その妙味を存分に堪能した一人であった。

 

 左様、福澤桃介。

 

 名字から連想するそのままに、福澤諭吉の息子である。

 といって、血は繋がっていない。

 養子である。

 慶應義塾在学中、諭吉の妻たる錦に見込まれ、ぜひ娘の婿にと懇望されたというから、よほど才気溌溂とした、目から鼻に抜けるような好青年であったのだろう。

 

 一見怨みだの何だのと、その種の薄暗い感情とは無縁そうなこの人物が、意趣を抱いた相手は誰か。

 他でもない、同じ慶応義塾出身の、森下岩楠というのだから何ともふるっているではないか。

 

 

 

 事のあらましはこんな具合だ。桃介が経営していた「丸三商会」という貿易会社が、あるとき危機に陥った。

 

 

 

 それまでメインバンクと仰いでいた三井銀行の方針がにわかに変じ、融資を断たれたのが原因だ。至急、他に活路を求める必要がある。そこで桃介が目を付けたのが、とある外国資本であった。

 

 後年大井発電所建設のため、アメリカから金を引っ張ってきたことといい、桃介にはこのような、良く言えば国際人的な感覚がある。

 

 が、丸三商会に関しては失敗した。融資を求められた外国人が東京興信所に福澤桃介の調査を依頼し、そしてその報告が、

 

「資産ゼロ、信用皆無、相場に手を出す危険人物」

 

 という、およそ考えられる限り最低の評価だったことが原因だ。

 この東京興信所を経営していたのが、他ならぬ森下岩楠だったのである。

 森下はもともと相場というものに強烈な胡散臭さを感ずる性質で、桃介がその世界にのめり込むのが気に喰わず、ためにこの仕事が舞い込んだとき、

 

 ――ここはひとつ痛い目を見せ、今後の教訓にしれくれようず。

 

 博奕まがいのよからぬ業から桃介をして足抜けさせる、絶好の機会に感じたらしい。

 当人が聞けば、余計な世話だと声を大にして叫んだだろう。

 実際問題、こんなことをされては堪らないのだ。森下の報告を受け取った結果、外国人は恐れをなして契約を打ち切り、丸三商会はぶっ潰れ、桃介は諭吉から大目玉を喰らわされ、本人自身恥辱のあまり、

 

 ――おれは福澤の姓に相応しくない。

 

 と本気で考え、「養子縁組を解消したい」と喚き散らしたほどである。

 

 

 

 桃介は、偽善者ではない。彼はこの怨みを忘れなかった。虎視眈々と復讐の機会を窺い続け、そしてついに訪れたのが明治四十一年のこと。

 

 この年、洋行の機会に恵まれた森下のため、送別会が芝の三縁亭にて営まれている。必然、慶應義塾の出身者が数多顔を連ねる運びとなった。

 

 一座を代表して送別の辞を読み上げたのが、第三期卒業生の豊川良平。岩崎弥太郎を従兄弟に持ち、その縁から三菱を支えた功労者だが、演説の才にはどうやら恵まれなかったらしい。

 内容は退屈、キレも悪く、そのくせいやに冗長で、皆あきらかに退屈し、ついに鎌田栄吉塾長と岡本貞烋がヒソヒソと、内緒話に耽りはじめた。

 

 その姿を見て、途端に良平は癇癪玉を爆発させた。

 

「いやしくも慶應義塾の塾長ともあろう者が人の演説中に私語をするとは無礼千万、何事か!」

 

 大声一喝、そう叱責したという。

 

 内容自体は正当である。

 が、さんざん惰気を生じさせる演説をした上、その口ぶりが如何にも尊大で憎体であり、出席者の同情は良平よりも、鎌田の側に集約された。

 やがて良平の送別の辞が終了したとき、すっかり興を醒ました一座の中から、待ち兼ねたように屹立した者がある。

 

 彼こそ福澤桃介だった。

 

 怪訝な視線をものともせず、やおら桃介は語りはじめる。

 

「ただいま豊川さんはひどく鎌田塾長を叱られた。人の演説中に話をするなんて、なるほど確かに不作法であるが、しかし正直に申し上げれば、豊川さんもあまり演説がお上手でない。下らぬ送別の(ことば)を長々と聴かされると、誰でも退屈して内緒話がしたくなる。その点本人は一向反省にならないで、鎌田塾長ともあろう人を、大喝一声、叱り飛ばすとはエライ御威勢だ、それというのも豊川さんには三菱という背景があるからだろう。私はそれが羨ましい。斯く申す桃介は、何等の背景を持たない一介の書生であるために、先年森下氏の興信所からひどい報告を受けた」

 

 さりげなく攻撃の矛先を良平から森下へと移行している。

 桃介にとっては、ここからこそが本番だった。積年の怨み、晴らすは今を措いてない。

 

「私が丸三商会と云うものを経営して居た時、私は某外人と石炭の販売契約をしようとした。すると、その外人は興信所に向って私の信用を問うた。その時、森下氏の興信所は、資産零、信用皆無、相場をする危険人物と答えてやった。その為に外人は契約を中止する。銀行からは金融を止められる。私の丸三商会は破綻して、私は血を吐いて死のうとした」

 

 たいへんな送別会もあったものである。

 桃介、更に続けて曰く。

 

「私は爾来非常に発奮し、産を為し、この不名誉を恢復しようと努力した。幸に私はその後相場に当り、満更の無資産でもなくなった。森下氏は相場を罪悪と心得て居らるるようだが、天下相場をしないものが幾人あるか。東京興信所は財閥の御用ばかり勤めて居る。それで興信所の任務を果したものであるか。この辺よく欧米の実況を視察してお帰りを願いたい」

 

 一連の演説を終えたとき、人々は拍手喝采して桃介のことを讃えたという。

 世にも爽やかな復讐劇は、このようにして成就した。

 慶應義塾の門下生たる者、斯くあるべし。七年前の明治三十四年を砌に黄泉路へ着いた養父諭吉も、草葉の陰で莞爾としたに違いない。

 

 

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