紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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猿の夢

 

 文禄元年(西暦1592年)三月というから、朝鮮出兵の第一回目、「文禄の役」を間近に控えたある日のことだ。

 太閤豊臣秀吉は、この戦争を監督するため上方(かみがた)から腰をあげ、大陸によほど近接している肥前名護屋の大本営に移らんとした。

 

 そのとき居並ぶ群臣の中から、勇をふるって忠言した者がある。上様が名護屋に在して遥かに朝鮮を麾くのときには、明国なり朝鮮なりから、書簡の往来が必ず多いことでございましょう。その処理のため、通訳として、誰ぞ文才ある者を召し連れて行かれては如何でしょうか――。

 

 至極真っ当な献策だった。

 ところがこれを聞いた秀吉は、

 

「左様な者はいらぬ」

 

 一言のもと、すげなく切り捨ててのけたという。

 

「そんなことより明・朝鮮の人をして、その国の文字を棄てさせ、我が国の『いろは』を用いしむればよいではないか」

 

 というのが理由であった。

 

 これは江戸時代に突入してから編纂された、林羅山の『豊臣秀吉譜』に描かれている情景で、著者が著者であるだけに偽作を疑う声も強い。

 

「国家安康・君臣豊楽」の字句を徳川家を呪詛するものだと糾弾し、方広寺鐘銘事件を惹き起こした主犯格の一人なのである、林羅山という儒学者は――。

 

 豊臣家覆滅に大きく寄与した、そんな幕府の御用学者が、秀吉の為人(ひととなり)を正しく伝えるわけがない――そういうわけだ。

 

 しかしながら、醍醐の花見を開催するにあたって書状を作成させた際、「醍」の字をド忘れして蒼褪めている祐筆を見、

 

「なんだダイの字か」

 

 快活に笑って筆を取り上げ、墨痕淋漓と「大」と書き、

 

「これでよい」

 

 と軽快に捌いてのけた秀吉である。

 その気宇の大きさから考えて、この程度のことを言ったとしても少しも不思議でないだろう。

 

 なお、『豊臣秀吉譜』のこの話には続きがあって、

 

 ――その夜秀吉、つらつら思い返して、ついに相国寺承兌、南禅寺の霊三、東福寺の永哲、この三人を連れて名護屋へと赴くに至る。

 

 となっている。

 すると衆目の前での放言は、敢えて常識論を蹴り飛ばし、代わりに雄大無比な構想をぶち上げ、居並ぶ群臣の胸に熱気を吹き込み膨れ上がらせんとする、秀吉らしい鼓舞の一環だったのか。宣伝上手な太閤のことだ、これまた有り得そうなことである。

 

 

 

 文禄の役に於いて、この「いろは」というか国語問題に触れた史料は他にもあり、中でも注目に値するのは安国寺恵瓊の書簡だろう。法体のまま大名の位に昇るという異例の立身を遂げたこの男が、朝鮮の陣から書き送ったところによると、

 

 

 内々於其許如申候、高麗人にいろはを教、髪をはき、童部をば中そり仕召仕候、日本人の様にも候はて、童部も物書詩を作候、高麗人文字仕候を召寄、五日十日つつ置候て、在所在所へ遣候、今二三人召仕候者、日本人よりもいさかしく候、

 

 

 この文章の大意というのは要するに、

 

「かねてより内々に申していた通り、朝鮮人に日本語(いろは)を教え、また髪型を改めさせなど、風俗すべてを日本式に倣わせている。朝鮮人は子供でも字を書き詩を作る。その、字をよく知った者達を集め、自分のそばに五日から十日ほどの間付けておき、よく馴らした後で諸方に遣わすことにしている。今召し連れている二三人のごときは、日本人よりも優れているように思われる」

 

 同化政策の経緯と効果を説明したものであったろう。

 まさに『豊臣秀吉譜』の記述そのままの光景ではないか。

 

 恵瓊の書簡には他にも興味深い記述が多々含まれる。彼の人間性を探る上でも、重要な史料といっていい。例えば、

 

 

 太閤様被成御朱印、朝鮮之事、両日之内属御手候、是は物の数にては無之候、

 

 

「朝鮮一国などまったく物の数でない、こんなところは明日のうちにも太閤様の手中に収まるべき運命なのだ」と筆を躍らせ、

 

 

 最前以来渡唐と被仰出候上は、当年中大唐へ御渡候て、来正月日本天子並当関白様被成御渡、大明国まで行幸可有之催之由候、朝鮮大明の大王を日本の天子に降参可被仰付候条、王をは生捕に可仕候由被仰出候、

 

 

「来年の正月までには朝鮮・大明の王をそれぞれ生け捕りにし、日本国に降伏せしめ、以って関白様と天皇陛下の渡海と相成り、陛下の北京行幸が実現するに至るだろう」と、恵瓊の意気はもはやとどまるところを知らない。

 

 しかしながらこの構想は、まんざら恵瓊の独創でなく、

 

 天皇陛下を北京に迎え、

 その周辺十ヶ国を御料所として献上し、

 日本本土には現在の皇太子良仁親王若しくは八条の宮様を据え奉り、

 朝鮮はかつて三法師の名で知られた織田家の正統なる相続者、岐阜中納言織田秀信に裁量せしめ、

 自分と漢土征伐を成し遂げた諸将たちは、次の目的地たるインドめがけて速やかに前進するという、

 

 秀吉自身のグランドデザインに添ったものに他ならなかった。

 

 毛利家中にその人ありと謳われた安国寺恵瓊ほどの男なら、秀吉のこの「計画」がもはや「計画」とも呼べないほどに粗雑をきわめた、単なる誇大妄想狂の戯言に過ぎないと容易に見抜けたことだろう。

 にも拘らずこういうことを書いたのは、つまり阿諛追従以外のどんな目的をも見出せず、後世に対して瑕疵(きず)にこそなれ、どういう名誉も恵瓊の上に齎さなかった。

 

 果然、秀吉や恵瓊が紙上に於いて述べたほど明は甘い相手ではなく、戦乱はいつ終わるともなしに泥沼の様相を呈してゆき、とてもインドを獲るどころではなかったのは歴史が示す通りのことだ。

 

 日本と大陸との関係を、しっちゃかめっちゃかに掻き廻したまま秀吉は死んだ。

 出征中の将兵を安全に帰国させるため、その死が長く秘されたことは有名である。

 

 

露と落ち 露と消えにし 我が身かな

浪速のことも 夢のまた夢

 

 

 夢の後始末は高くついたといっていい。

 

 

 

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