紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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後悔という感情は、罪そのものをあらわすものではなくて、ただこれを制圧できないほど弱い一個の魂をあらわすものでしかない

(マルキ・ド・サド)



手段を選ばぬ男たち

 

 紀元前、文明の都アテネにて。

 ある彫刻家が裁判所に召喚された。

 容疑は、我が子に対する過度の折檻、虐待である。

 事実と判れば十中八九、重刑は逃れ得ぬだろう。アテネの倫理はその手の類の悪徳を許容しない水準にある。史家トゥキディデスが、

 

「我らは文明の魁、人類の先駆である。我らの群れに入り、我らの交わりに加わることは、人間として享有し得べき最上の慶福である。我らの勢力範囲に入ることは隷属にあらずして、特権である」

 

 自信たっぷりに嘯いたのは伊達でないのだ。

 周囲の者らは、

 

 ――あの人も、はや、これまでか。

 ――腕はあったが、愚かなことよ。

 

 と、声を潜めて言い合った。

 

 

 当日法廷に姿を見せた彫刻家は、妙なものを携えていた。

 

 

 石像である。

 

 彼自身の新作で、「少年が苦悶する有り様」を表現したものだった。

 

 その身振りといい、表情といい、何処をとっても真に迫らざるものはなく、今にも魂切る叫びが聴こえるようで、あまりの出来に百戦錬磨の法官たちも息を呑み、皮膚を粟立てずにはいられなかった。

 彫刻家、反応をとっくり確かめてから徐に唇を動かして、

 

「私が息子を虐待したのは、偏にこれを完成させんが為でした」

 

 悪びれもせず、そんな陳述を敢えてした。

 開き直りといっていい。アテネの司法は、やがてこの男に無罪判決を投げている。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 こういう具合いの、つまりはよりよき芸術のため、悪魔に魂を売り飛ばしでもしたかのような徒輩の噺は古今東西いくらでもある。

 

 日本にもある。

 

 幕末画壇の一巨魁、歌川国貞ですら必要に迫られればそれをした。「婦人賊に遇ふ」の図を依頼されたときの巷説だ。どれほど苦心惨憺しても筆の動きが捗らず、女の貌から白々しさを一掃できない問題に業を煮やした国貞は、とうとう一計を案じてのけた。

 

 行き先も告げずに外出し、夜になっても帰ってこない。

 

 当時の自然なたしなみとして、妻は寝もせず彼を待つ。

 

 ところがここに不幸が襲った。表戸が力任せにぶち破られて、覆面姿の強盗が、魔の如く邸内に押し入ったのだ。

 

「…………」

 

 恐怖のあまり妻は全身を硬直させて、悲鳴を上げることすらできない。引き攣った喉からひゅーひゅーと、素人が吹く笛みたく、かすれきった()が漏れた。

 その様子を強盗は瞬きもせず見届けて、やがて覆面を剥ぎ取ると、こはいかに。現われたのは亭主国貞の顔ではないか。

 

(あっ)

 

 緊張が一度にほどかれて、あふれだした激情のまま妻はぼろぼろ泣き出した。

 国貞が傑作を描き上げたこと、言うまでもない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「芸術は人格の反映だと云われる。人格上に欠陥のある人の芸術は、結局、欠陥ある芸術であって、決してより長き声価を保つことは出来ないと云われている。私はこの俗論を嘲笑せずにはいられない。私の見るところによれば、どんな背徳の人間でも芸術家たり得るであろう。否、背徳の人間であるということが、芸術家として強味となる場合がないとは限らない」

 

 大胆な観察を行ったのは生田春月。常人の五十倍も繊細な神経を宿すこの男――「憂愁の詩人」は続けざま、

 

「私は多年所謂文学者といわれる人々の生活を見て来た。そして彼等の人物と生活とには世間の普通の俗人や無智な人達の生活よりも一層悪いものの存することを知った。彼等の中には人間として何等の価値なき卑劣な卑しむべき人間さえもある。しかも彼等は文学者として全然価値なきものではない」

 

 このようなことを言い立てて、いよいよ自説を堅くした。

 事実、春月は目撃している。

 地球が秘めるエネルギーの大解放――関東大震災の惨禍より、一ヶ月ほど経ってから。

 瓦礫の街と化した東京、灰を掻きとる人の姿がまだふんだんに見て取れる、その只中を詩吟仲間と徘徊したときのこと。

 

「諸君、これはどうだい」

 

 面子の一人がいったい何を思ったか、妙に明るい表情で弁じはじめた。――浮華に漲りきっていたあの東京が、今や見てみろ、火の洗礼を浴びせられ、嘘で固めた何もかも、面倒くさい一切が綺麗さっぱり無くなった。

 

「その清々しさよ」

 

 水垢離をとった行者のような屈託のなさで言うのである。

 この時点でもう唖然とするには十分なのに、この男は更なる暴走を用意していた。

 いったいどういう心理の作用に因るものか。無造作に陽根を取り出して、焼け跡に立小便を始めたのである。

 

 馬鹿馬鹿しいほどに出た。

 

 黄金の滝と形容するに値する。飛沫(しぶき)が危うくかかりかけ、春月は急ぎ身を引いた。

 

(なんということだ)

 

 不謹慎どころの騒ぎではない。

 人間の皮を被っただけの畜生ではあるまいか。

 しかもこういう奴に限って、いったん筆を執らせるや、青年の純情な心の襞を甘い感動でしめらせる、みごとな詩をつくるのだ。

 春月が「芸術に対する根本疑」を抱いたのも無理はなかった。

 

 ――女は皆女優である。男は唯その美しさに見とれて居ればいい。楽屋を覗くものは馬鹿だ。楽屋を人に見せるものは悪魔だ。

 

 生方敏郎の毒舌も、このテーマとは親和性が高そうである。

 

 

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