紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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ニワタリ様、ニワタリ様。どうか赦しておくんなし。



昭和七年の不審者情報

 

 その不審者が淀橋署に引っ張られたのは、昭和七年十一月二十五日、草木も眠る丑三つ時もほど近い、午前一時のことだった。

 

 柏木三丁目あたりの通りを、鶏の鳴き真似をしながらほっつき歩いた(かど)に因る。まだまだ日の出は遠いのに、こんなことをされてはたまらない。後に「新宿区」と改められるこの地域の住民にとっては、大迷惑であったろう。連行は至って妥当であった。

 

 男の身体からは、濃厚なアルコール臭が漂っていた――それこそ毛穴という毛穴から、酒を噴霧しているのではあるまいかと思われるほど。

 

(あん)ちゃんよ、いったいどれだけ呑んだんだい――」

 

 ろれつが回るようになるのを待って、さて取り調べを進めてみると、男はこの淀橋区の一角に棲む、所謂「地元民」であるのが判明。三十代半ばで、結婚して妻もいる。

 

 ただ、どういうわけか、子宝には恵まれなかった。

 

 そこで寂しさを紛らわすため、夫婦は鶏を飼い出したという。

 

 年を追うごとに数は増え、ついに五百羽に及んだというから、もはや養鶏場といっていい。目の玉の飛び出るような地価を誇る新宿区にも、百年前には養鶏場が営めるほど土地にゆとりがあったのだから、今昔の感、ただならざるものがあるだろう。

 

 

 

 が、やはり鳥類ではいかんせん、(かすがい)として十分に機能しなかったものとみえ。

 

 

 

 夫婦仲は次第によそよそしさを増してゆき、ついにこの昭和七年、書置き一枚を手切れと残して妻は何処かへ消えてしまった。

 懊悩したのは男である。その甚だしさは、もはや錯乱といっていい。

 さしたる愛着も残っていないと考えていたのに、いざ手元から離れてみると衝き上げてくるこの物狂おしさはなんであろう。

 

(これほどまでに、おれはあいつを愛していたのか)

 

 と、自己を客観視して驚いてやる余裕さえない。哀しみだけが五臓六腑を駆け巡り、胸は今にも張り裂けそうにじくじく痛んだ。

 

 この苦痛からの解放を、よりにもよって酒に求めたのが彼の過ちであったろう。呑むのではなく、呑まれにいった。しぜん、悪酔いに流れざるを得ない。

 

 飼っていた鶏をぜんぶ売り飛ばして得た資本(もとで)。それを少しずつアルコールに変え、消費するだけの毎日。自暴自棄の見本のような、そんな生活を送っていると、次第に彼の網膜は、妙な錯覚を起こすようになってゆく。

 

 道行く人の首から上が、なんと鶏のそれにすげ変っているように見えるのだ。

 

(そんな馬鹿な)

 

 慌てて眼を擦ってみても、どうしても鳥人間が消えてくれない。

 そのうち何もない空間に、血に染まった白色レグホンの群れを視るようにもなりだした。むろん、彼が飼っていた品種である。

 

(幻覚だ)

 

 自分の脳が勝手に作り出した虚像に過ぎぬと、彼とて重々承知している。

 が、一週間、二週間、一ヶ月と異常状態が継続すると、次第に精神作用が冒されてきて、判断力が弱くなり、ついにはそれを信ずるようになるらしい。この期に及んで、なおも酒を手離せなかったことも災いした。眼球のみならず、鼓膜までもが狂い出し、今や彼の耳の奥では絞め殺される鶏の悲鳴がひっきりなしに木霊するようになっていた。

 

 既に末期といっていい。男にはもう、自分が人間なのか鶏なのか、両種族の境界があやふやになりごちゃ混ぜになる瞬間が一日のうちに何度かあった。

 

 今回は、それが運悪くも夜の夜中、ウイスキーをひっかけた帰路に出てしまったに過ぎない。この事件はその日の読売新聞夕刊に載り、帝都の人心をいっときながら賑わわせたものである。

 

 

 

 まあ、鶏といえば、遠く神代の大昔。

 天照大神が岩戸にお隠れになったあの場面にも馳せ参じ、鬨の声を高らかにあげて世に光を取り戻す一助を果たした、存外にエライやつである。

 

 日本人との関わりはよほど深いといってよく、その縁から勘繰るならば祟りを及ぼす霊能程度、発揮しても不思議ではないのやもしれぬ。

 

 せいぜい感謝して喰らうとしよう。あの肉や卵なしの生活なぞ、味気なくてとても堪えられたものではないのだから。

 

 

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