紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

31 / 104

教育を授くるは酒を飲ましむるが如し、但し酒の酔は五、六分間に発すれども教育の結果は八、九年ないし十年にして始めて発するものなれば、之を醒すにも亦八、九年ないし十年を要す。

(福澤諭吉)




個性煌めく教師ども

 

 明治の終わりも近いころ。東京高等師範学校附属小学校尋常科にて、とある教師が生徒の知識を試すべく、こんな問いを投げかけた。

 曰く、

 

「地球上で一番大きな魚は何か、諸君は答えられるかね」

 

 たちまち挙手するやつがいる。

 指名されるなり黄色い声を張り上げて、自信たっぷりに少年は言った、

 

「はい先生、クジラです」

 

 と。

 

「それで宜しい」

 

 教師は鷹揚に頷いた。正解を得て、少年は鼻高々だ。円満な空気が教室に満ちた。

 

「先生、間違っておられます」

 

 ところがその円満に、横槍がぶすりと入れられる。

 

 同調圧力を跳ね除けて、自己の信じる「正しい知識」を呈しにいった、うら若き一人の勇者によって――。

 

「クジラは哺乳類であり、魚とは別な種族です」

 

 勇者の名は、石川欣一。

 当代屈指の動物学者、「ジラフ」を「キリン」と名付けた男、石川千代松の長男である。

 

 そういうことは、むろん教師も知っている。反射的に、

 

(しまった)

 

 と思った。

 

 おそらく千代松直々に、家庭で薫陶を受けたのだろう。クジラが魚類にあらずというのは、きっと正しいに違いない。

 

(が、迂闊に認め、頷けば)

 

 失うものが多過ぎる。自己の権威は当然として、なにより先に挙手し答えた少年の不名誉たるやどうだろう。赤っ恥もいいところではあるまいか。下手に感情が転がれば、

 

 ――おのれ余計な差し出口。

 

 と、欣一に対し意趣を抱いて、その挙句、喧嘩口論に発展せぬとも限らない。

 

(つまりは面倒事になる)

 

 冗談じゃない、ならせて堪るか、(わざわい)未萌(みぼう)のうちに摘む。

 摘み取るため、事態を丸く収めるために、教師は咄嗟に頓智を出した。咄嗟であろう。幼い欣一の眼には、教師が裏で爪繰った算盤珠のすべてが視えず、

 

「そうだ石川の言う通り、クジラは魚類(・・)に属さない。けれども、クジラがサカナだと言ったのも同時に正しく成り立つのである」

 

 一拍置いて語りはじめた教師の言に、黙って首をかしげることしか叶わなかった。

 

「つまりは同じサカナでも、表す文字が違うのだ。メの下に有と書く方のサカナ()であれば、当然クジラも含まれる。牛蒡だの大根だのもサカナと言うから、この意味でクジラもサカナといって差し支えない。しかし鯛やヒラメのような魚類とは違うのであるから、石川の言うのも正しいわけだ」

 

 屁理屈としか言いようのない、こんな言葉遊びでも、人の師たるの威厳を以って壇上から堂々と、歯切れよく説き聞かせられてしまった場合、真実以上の真実として立派に生徒を納得させるものらしい。

 欣一はまんまと煙に巻かれた。

 

「あの頃は俺も無邪気でね」

 

 巻かれたと自覚した時は、既に欣一、少年ではない。

 いっぱしのジャーナリストとして浮世の辛酸、表裏をさんざん味わった、苦労人の面魂になっていた。

 

「要するに学術的な知識では俺の方が勝っていた。しかしながらそれ以外、世間知の部分の働きで、俺は先生に圧倒された。教師も生徒も、個性が躍如としていたよ、あの頃の学校って場所にはね――」

 

 世間の事情、人情の機微をからりと諷す、毒を含めど嫌味ではない石川欣一の筆鋒は、そのような環境に育まれ、研磨されたものだった。

 

「迂遠に似たれども風俗を移易するは学校の教に如くものなし、美なるものを長ぜしむれば悪なるもの自ら消ゆべし」。庄内藩士・白井重行が嘗て上申した如く。教育は蓋し国の大事で、教師の役目は頗る重い。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 親馬鹿といふ言葉はあるけど、子馬鹿といふ言葉はない、僕は子馬鹿か知ら。さうかも知れないが、鮎を調べたいばかりに台湾まで行き、肺炎になり、死ぬ直前の譫言にまで鮎のことをいってゐたおやぢのことを考へると、世の中には、何と僕をはじめ、あるひは僕を最後とする、ゴクツブシが沢山ゐることよ! と嘆かざるを得ない。

 

(石川欣一)

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大阪の街の風物詩、中学連合運動会から優勝旗が消えたのは大正四年以後である。

 

 市岡中学の一強体制、同校が頂点に君臨すること六年連続に到達したのが直接的な原因だった。

 

「常勝」という言葉ほど、「面憎さ」の培養土として相応しいのも珍しい。

 

 由来、勝負事というやつは、実力が伯仲すればするほど面白いのだ。

 

 はじめから一方の勝利が確定している闘いを見てなんの愉快があるだろう? 絶対者による蹂躙劇一辺倒では華を欠く。番狂わせこそ望ましい。勝敗の切所、ぎりぎりのところで押し合いへし合い、飛び散る火花が見たいのだ。にも拘らず期待外れの肩透かしが続いたならば、観客でさえ白けるのである。況してや当事者、蹴散らされし他校生どもに於いてをや。

 

 ――やってられるか。

 

 そういう気持ちがどうしたってこみ上げる。毒素となって、徐々に心を蝕んでゆく。

 当時の学校校長会は、

 

「連合運動会に優勝した学校が必ずしも体育に成功せりとはいはれぬ。只特別な技倆の優勝者を有してゐる事を表彰するに過ぎぬ。優勝旗あるが為に、孰れの中学校でも、市岡中学校に対して面白くない感情を有ってゐる」

 

 ざっとこのような声明を出し、競争自体を廃してしまった。

 

 敗者の嫉妬や怨嗟やら、暗く粘ついた感情に、どうにかしてもっともらしい理屈をコジツケ罷り通らせようとする苦心のほどが窺える。

 

 順位という概念を喪失(うしな)い、運動会は本当にただ、身体を動かすだけの会に成り果てた。

 

 熱気も喧騒も遠ざかり、すっかり色褪せた印象だったが、人間世界を構成するのは二分の道理に感情八分、こういうこともあるだろう。

 

 そのような諦観に基いて、多くが自分を納得させた。

 が、

 

「なにをコンニャク野郎ども、阿呆な理屈をくどくどと、勝手放題並べてからに、日和りやがってボケナスがァ」

 

 全部ではない。もちろんのこと、順応せぬ者もいる。

 

 一柳安次郎が代表格といっていい。

 

 大阪市歌の作曲者、当代きっての硬骨漢、市岡中で教鞭を執り直木三十五の師という顔をも併せ持ちしこの人物は、わかりやすく激怒した。そりゃもう怒髪天を衝かんばかりの勢いだった。

 

 就中、「孰れの中学校でも、市岡中学校に対して面白くない感情を有ってゐる」の部分に対し特に不快を覚えたようで、「武士道よりして一瞥する価値もない女々しい語」と口を極めて糾弾し、更に続けて、

 

「大阪五千の活々(いきいき)した学生が、皆こんな御殿女中的感情に囚はれてをるとせば、由々しき大事で、負け角力が勝った力士を怨めしく思ふと同一だ。そんな根性に充ちた学生の、優勝を獲得し得ないのも当然である。大阪学生が、自己の校長からしかく推断せられたのを甘受するであろうか」

 

 こんな具合に、まず滅多切りと呼ぶに足る、大胆な所信を披露している。

 

 末尾の方など大阪学生らに対し、校長の決定を覆すべく一大反抗ムーブメントを巻き起こせと暗に教唆しているようではないか。

 

 これはこれで、人間の変物たるを失わぬだろう。「男の世界」の殿堂に、列席するに値する。すめらみくにに人傑多し。悦ばしきことである。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。