紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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友の如く馬を見るべし、
敵の如く之に乗るべし。

(古諺)




馬蹄は遥か

 

 

 明治・大正の日本にも、動物愛護の動きはあった。

 

 特に高名な旗頭として、松井茂・小河滋次郎の両法学士が挙げられる。

 

 わけても前者は「動物を虐待して平然たる者は人間に対しても残虐を敢えてして平然たる者」「動物虐待を見過ごす社会は問題児を大量生産する社会」との所見に基き、新聞に盛んな投書を行い、欧米すなわち先進諸国の実情を伝え、大衆の意識を刺激して、立ち上がらせんと努力した。活発というか、意欲に満ちた人である。

 こころみに「投書」の中身をひろってみると、

 

 

〇英国では一八〇九年ロード・エアースキン氏(Lord, Erskine)が上院に於て動物愛護の事を述べた時は寧ろ嘲笑に附せられたが、一八二二年マーチン氏(Martin)が之を唱ふるや、議員の多数に歓迎せられ、マーチン・アクトとして其法令が発布され、一八二四年、世界に率先して動物虐待防止会を組織し、越えて一八四〇年には皇室的の名称を冠することを許された。

 

 

 一八〇九年といえばナポレオン戦争の真っ最中だ。

 コルシカの人食い鬼を相手に、存亡を賭け、がっぷり四つに取っ組み合ってる状態で、更にこの上、物言わぬ獣へと割いてやるだけのリソースは、いかな大英帝国といえど持ち合わせが無かったか。

 

 我が身の安全が確保され、心に余裕があってこそ、他の誰かに優しくしてやる気にもなる。

 世間一般の「善人」とはそういうものだし、たぶんそれでいいのだろう。

 

 

〇ベルフ(Bergh)氏が米国領事館書記官として露国在職中、同国の動物の残忍な取り扱ひを受けて居るのを見て惻隠の情を起し、帰途ロンドンに立寄りて、動物虐待防止事業を視察し、帰来防止事業を初めて米国に企て(時に一八六六年)、続いて児童保護会を組織(一八七五年)して、斯会の鼻祖と仰がれるやうになった事を考へても、動物を虐待する露国民の中から、パルチザンの如き兇暴の徒の輩出したのは決して偶然でなく、又動物愛護と児童保護とは根本義に於て離るべからざる関係にある事が判る。

 

 

 引き合いに出されたロシア人こそいい面の皮であったろうが、なにぶん尼港事件が起きてからあまり時を措かないうちに草された文ゆえ、いかんせん。

 ニコラエフスクに滞在していた邦人を、軍民問わず皆殺しにされたショックは大きかったということだ。

 

 もう何点か抽出したい部位がある。

 

 

〇ドイツでは一八三七年、初めてシュトゥットガルトに、一八四一年にはミュンヘンに於て之が創設せられ今や各州に亘って居る。我邦では東京、横浜、神戸の如き外国人の多く居る場所で而も外国人の注意の下に貧弱なる動物愛護が行はれて居るに過ぎない。

 

〇奥州辺では馬の子を我子のやうに可愛がって育て上げ、やがて伯楽に売り渡す日になるや、家族一同村境まで見送り、愛馬が伯楽に曳かれて行く後姿を見ては、泣いて別れを惜むさうだ。所が曳かれ行く馬は、無情な伯楽に怒鳴られ、鞭れるので、初めて人間の怖ろしさを知り、段々と警戒の色を浮べて、それが東京に着く迄には、怒りっぽく後足を挙げて蹴るやうになるといふ。

 

 

 ああ、これについては聞き覚えがある。

 

 確か明治十年代であっただろうか、中央から役人が来た。

 

 南部馬の皮の質の調査のためだ。良好ならば背嚢・鞄・靴等の、軍需品の原料供給源として設定する気でいたらしい。お国の大事というわけである。ところがこの目的がひとたび漏れるや、たちまちのうちに収拾のつかぬ騒ぎになった。

 

「この人非人、鬼、外道っ」

 

 耳から蒸気を噴かんばかり――と言うべきか。

 岩手県の農民という農民が、逆上して叫んだのである。

 

 

…皮をとるために育てるのぢゃない。たとひ死んでも皮を剥ぐやうなことは情として出来ない。死んだわが子の皮を剥ぐ奴があるものかと、ひどくどなられて役人連中、面目を失して退却した話が残ってゐる。その位にみんな馬を可愛がる。競売に出るときは家族の者多数つきそひでついて行く。売れる前夜まで馬の横にねる。随所に塩原多助馬わかれの場が実演される。

 

 

 こういう記述が、昭和三年の『経済風土記』に載っている。

 

 ほぼ一揆寸前の眺めであった。

 

 威圧によって「官」の意向を曲げさせた形であるゆえに、そう取られてもやむなしだろう。

 

 天高く馬肥ゆる地の誇りと看做してやるべきか。

 

 こういう「お国柄」と対面するのは、何につけ悪い心地ではない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 馬肉禁食会の発起は明治三十九年になる。

 

 越前福井の有力者、亀谷伊助が立ち上げ人だ。

 

 (ココロザシ)自体は正当だった。

 

 高潔とすらいっていい。日露戦争遂行のため、日本全国津々浦々から動員された軍馬たち。のべ十七万頭以上に及ぶ、乃木希典の言葉を借りれば「活動武器」の大群は、しかしいったんポーツマスに講和条約成立するや、思わぬ悲運に見舞われた。

 

 既に戦争が終わった以上、軍隊はその膨れ上がった図体を再び萎ませねばならぬ。

 

 凱旋早々、各師団にて多くの軍馬が競売にかけられる運びとなった。

 

 それだけならばべつにいい(・・)。目くじらを立てるに及ばない、ごくありきたりな展開である。

 

 ただ問題は、落札者のかなり多くを食肉業者が占めていたこと。

 

 もちろん彼らは競り落としたる軍馬(うま)どもを、有無を言わさず屠殺した。砲を挽き、糧を運び、人を乗せ――その背で以って祖国の勝利を支えたであろう功労者らを、用が済むなり殺して解体(ばら)して食肉(にく)にして、市場に卸して利益(カネ)にした。

 この事態を受け、

 

「なんということだ」

 

 と、誰一人として血相を変えなかったなら、それこそ我らは明治人の神経に深刻な疑義を抱かねばなるまい。

 幸いにして、亀谷がいた。

 

「彼の軍馬は軍人と共に満韓の野に馳駆し畜類とは云へ其の功多きに今や恙なく帰国すると共に忽ち屠殺して食膳に供するが如きは情に於て忍びざる所なり」――声を張り上げ、広く江湖に訴えてくれた人がいた。

 所産がすなわち馬肉禁食会である。

 

 繰り返し言おう、ココロザシは高潔だ。が、現実的な成果となると、これがあまり捗々しくない。率直に言ってあまり流行(はや)りはしなかった。社会を根底から揺さぶるような、そういう一大ムーブメントには至っていない。

 

 原因は、明治人が一般に冷血気質と視るよりも、むしろ会の名前がいまひとつ適当を欠いていたのであろう。

 

「禁食会」ではサクラ肉を口にすること、馬食文化それ自体に挑戦しているように思える。戦功相応の待遇を軍馬に与える点にこそ会の目的が在るならば、「禁」の文字は避くべきだった。禁酒会とか禁煙会とか、そっち方面(・・・・・)の連中と同一視されても不思議ではない。

 要するに、意図と看板に若干のズレがあったのだ。

 

「軍馬顕彰会」とでも銘打てば、あるいは結果は違ったろうか。第一印象の重大さを、つくづく考えさせられる。

 

 

 

 日本に於いて軍馬表彰の制度が樹つのは昭和十四年以後のこと、日露戦争から三十年以上を俟たねばならず、それでやっと、漸くだった。

 

 

 

 制度の詳細に関しては、昭和十七年刊行の『馬』という書に特に詳しい。

 

 著者の名前は伊澤信一。負傷によって現役を退いた嘗ての陸軍軍人である。

 

 

 功章は次の三種類に区分されてゐる。

  甲功章(金鵄勲章に相当するもの)

  乙功章(旭日章に相当するもの)

  丙功章(瑞宝章に相当するもの)

 右の功章は金属製にして頭絡の額革中央に附けるものである、(中略)昭和十七年十月迄に表彰されたる名誉の軍馬は、合計一五七二頭で、其内訳は左の通りである。

  甲功章 三九九頭

  乙功章 八五二頭

  丙功章 三二一頭

 

 

「これ等の功労軍馬は、軍役を果したる後には、神馬として奉仕し、或は乗用、農用、輓馬等それぞれ適当なる職場に於て働き、または牧場にて悠々たる生活をなす等、適当なる飼手に養はれて楽しく余生を送るものである」――と、伊澤はざっとこんな具合に述べている。

 

 もっとも制定から六年経たずで大日本帝国の軍組織自体が壊滅したため、上の功労軍馬らが、いったい真に「楽しく余生を送」れたかどうか、定かではない。

 

 なお、兵士としての著者(伊澤)の最後の戦場は、明治三十七年の、遼陽会戦こそだった。

 

 このこと一応附言しておく。

 

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