紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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原作・『駿河土産』




天下人

 

 将軍職を息子に譲り、駿府に退いた家康は、隠棲するなり居城の門の開閉に口やかましい規則をつけた。

 曰く、夜間の開閉は、如何な理由があろうとも一切罷りならぬなり、と。

 

 この新法で迷惑したのが村越茂助だ。

 

 茂助、ある日の都合によって、なにか用事を片付けるべく城外へと出向し――関ヶ原の件といい、不思議とこういう使い走りめいた仕事に縁の深い人物である――、意外にこと(・・)が長引いて、帰路を急ぐころはもう、星がまたたき月を見上げる時刻であった。

 

 案の定、門は閉じている。

 型通り、

 

「通せ」

「通さぬ」

 

 の押し問答をやってはみたが、むろん何の効もない。

 癇の虫をまぎらわすべく、足踏みなどしていると、たまたまそこへ安藤直次が通りがかった。

 

「茂助ではないか」

 

 お互い古参の三河者ゆえ、顔も気性もよく知っている。

 どうしたことだ、夜分遅くに、こんなところで――と、会釈抜きでいきなり訊いた。

 

(いいやつが来た)

 

 と、あるいは茂助、思ったか。

 土くさいお国言葉まるだしで事情を説明したという。

 

「ふむ。……」

 

 直次はちょっと考えて、しかし結局、茂助の期待に応えてやることにした。

 

「こいつの身元の確かさは、わしが全面的に保証する」

 

 上様に不為を働く者では決してない、我が顔に免じ、ここはひとつ、便宜を図ってくれまいか。そんな意味の相談を、門番相手に持ち掛けた。

 

「そ、それは」

 

 番士は流石に、言葉に詰まった。

 

 安藤直次といえば小牧・長久手に大功ある老将で、家中でも聞こえた(・・・・)人物である。

 

 生きた英霊にやや近い。いやしくも武士である以上、この男を前にして精神になにごとかを起さないのは不可能であり、現に起こった。番士の呼吸は早くなり、ねばっこい汗がこめかみ(・・・・)に垂れ、夜目にもはっきりわかるほど顔から血の気が引いていた。

 

 が、そこまで追い詰められてなお、

 

「なにぶんにも、法度は法度でござりますれば」

 

 最後の一線だけは譲らず、頑張り通してのけた点、この門番も尋常一様の胆気ではない。

 村越茂助・安藤直次という、家康の興隆を初期から援けた老臣二名を、規則規則の一点張りでついに妨げ、妨げきって追っ払ってのけている。

 

「ちっ」

 

 と、茂助は闇を鳴らして去った。

 

 やがて夜が明け、陽が昇り、奥から出てきた家康に事の次第が達すると、

 

「ほう、茂助が、な」

 

 この老人は意外にも、終始機嫌よく報告を受け、聴き終わるやいよいよ相好を蕩けさせ、

 

「それでこそ頼もしき門番よ」

 

 あっぱれ見事、さてさてそう(・・)であってこそ、門を任せた甲斐がある――と、激賞して惜しまなかった。

 

 当の門番は、後に人づてにこれを聞き、思わずその場に崩れ落ちるほど感動し、声を涙で滲ませて、せきあげるように「厚恩」を謝した。

 

 封建人の可憐さというものだろう。

 

 もう彼は、自分の固める門前に、鬼が来ようが菩薩が来ようが、孔子孟子が弟子を引き連れたとえ列を成そうとも、その来訪が正規の手順を踏んだものでない限り、棒を突き出し、

 

()ねっ」

 

 と叫ぶに違いない。

 もちろんのこと家康は、そういう効果を期待して一字一句を吐いている。

 政治的妖怪と畏れられる所以であろう。権現様は明らかに、法が峻厳に行われ、各々が各々の職分に命を懸けて忠実なのをお望みだった。

 

 ――たとひ地獄から来れる鬼たりとも我定めたる掟を守る以上は天人の如く之を待遇すべし。

 

 南蛮人の取り扱いをめぐる議論の席上で発したという一言が、よくそれを証拠づけている。

 

 

 

 筆者はこれまで何回か、上野東照宮に参詣している。

 

 

 

 恩賜公園の一角に建つ、黄金ずくめのあの社殿を仰ぐたび、常に森厳な気に打たれ、意識が濾過され清澄に赴くのがわかる。

 

 金は存外、扱いの至難な鉱物だ。金箔張りの握り寿司だの、一歩過てば途端に胸焼けするような、鼻持ちならない成金趣味のケバケバしさに堕すること、バブルの時期の日本人が散々証明し尽くした。

 

 ところが上野東照宮には、そういう嫌味やくどさ(・・・)の分子がほんの少しもにおわない。

 

 鎮座まします御方の()が、黄金本来の尊貴さと完璧に釣り合っているからだろう。

 

 祀られている神霊は、家康・吉宗・慶喜の三柱。

 

 幕府を開いた英雄と、中興の祖と、幕を引いた人物で、そういう意味でもやはり均衡が取れている。

 

 






慎重遠慮万に違算なきを期して事を行ひ、一の事を行ふ時既に次の為すべき事を考慮しつつある徳川家康の如きは、日本人中にありては真に異色とす。余は上下三千歳の日本歴史が「思慮の人」を産する事余りに少なかりしを悲しまずんば非ざるなり。

しかも家康の如きも、民衆の同情に関しては、却って理知に於て遥かに劣れる秀吉信長の下に位するの観あり。

人は己れの同情する者に依て、反射的に自己を説明す。依て観る、日本人の多くに取て、より多く衝動的なる秀吉信長が却て快きは、即ち日本人の衝動的なる性情を反射して示すものには非ざるか。

(小泉信三)

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