紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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ベルの燈台

 

 フランス北西、ブルターニュ地方はキプロン半島の沖合に、ベル=イル=アン=メールという島がある。

 

 優美な島だ。

 

 名前からしてもう既に、その要素が含まれている。フランス語でベル(Belle)は「美しい」を、イル(Ile)は「島」をそれぞれ意味するものらしい。

 

 島には複数の燈台がある。

 本土との主な連絡手段が船頼りである以上、それは必須施設であろう。

 さて、その複数ある燈台のうち、東端に置かれたケルドニス燈台にて。

 一九一一年四月十一日、ひとりの男が死亡した。

 

 

 

 彼はここの燈台守たるマテロット一家の亭主であって、その死は夏の夕立ほどにだしぬけな、不意打ち以外のなにものでもなかったという。

 

「ぬ、ぅ――」

 

 燈台内の清掃作業に当たっていたマテロット氏は、にわかに胸奥に不快を覚えた。咳ばらいをしても背筋を弓なりに伸ばしても、はたまた深呼吸を繰り返そうと、一向にその不快感がなくならない。どころか逆に、身体の芯にいよいよ深く絡みついてくる感がする。

 とうとう彼は直立さえままならなくなり、掃除半ばで下階に降りて床に入るを余儀なくされた。

 

「いったいどうなさったのです」

 

 ほんの数時間のうちに、別人の如く衰弱しきった夫の姿に狼狽しながら、妻は必死の看護に当たった。

 が、容体は回復の兆しを一向に見せず、そうこうする間にいよいよ陽は傾いて、西の空を紅蓮に染めた。

 

 そろそろ燈台に()をともすべき頃合いだ。

 

 だが、その作業には夫を置いて行かねばならない。

 呼気もか細く、虫の息という表現がちっとも比喩でなくなった今の状態の夫から、一時的にといえど離れなければならないのである。

 

 人情として、これほど辛い相談もない。

 まさしく身を引き裂かれる気分であろう。

 が、ほどなく妻は決意した。燈台守として、仕事を果たしに赴いた。標高37.90mの丘の上に、あかあかと灯が点ぜられた。

 

 しかし、ああ、やんぬるかな。妻が部屋に戻ってみると、既に夫はこと切れていた。ほんの数瞬間の差で、彼女は半身の死に目に立ち会えなかった。

 

「そんな。――」

 

 どうして、どうしてあと少し、待っていてはくださらなんだと。

 遺体に縋り、悲嘆の涙に暮れる彼女に、更に追い打ちというべき報せがかかる。足音も荒く部屋に飛び込んで来た長男が、

 

「燈台の灯が回ってません」

 

 泣くような声で、そんなことを言ったのである。

 

 

 

 本来ケルドニス燈台は動力による回転式であったのが、マテロット氏が清掃のため回転機を取り外し、しかも作業半ばで発病したため元の状態に復しておらず、それが招いた事態であった。

 これをこのまま放置すれば、どんな不祥事が起こらぬとも限らない。

 

(ばかな。――)

 

 嘗て感じたことのない激情が腹の底から衝き上げてくるのを、マテロット婦人は感じていた。

 

(私は夫を犠牲にしてまで役目を遂げた。にも拘らず、この燈台めの怠慢ぶりはどうだろう)

 

 冗談ではない、こいつには何が何でも安全に船舶を導かせてやる、と。

 遺体をベッドに放置したまま、彼女はまたも駆け出した。

 その心境は、ある種復讐者のそれに近しい。

 

 原因を突き止め、回転機を嵌め直そうとしてみたものの、どうしても夫がやっていたようにカチリとうまく嵌らない。

 万策尽きた彼女は、ついに最後の手段に打って出た。

 

(自動が駄目であるのなら)

 

 結構、手動でやるのみよ、と。

 二人の息子と力を合わせて、二十一時から翌朝七時に至るまで、延々十時間に亘り、灯火を回転させ続けたのである。

 

 力技にもほどがある解法だった。

 明らかに給料分を超えた労働。

 しかし損得勘定を超越した行為にこそ、人は心震わせる。

 

 この日マテロット一家を襲った異常な事態はやがて「フィガロ」紙に取り上げられ、全フランス国民の知るところとなり、英雄的義挙として、絶大な反響を呼び起こす結果となった。

 日本では杉村楚人冠が、同年七月四日に新聞紙上で触れている。

 

「幸ひにして出入の船舶が此の燈台を見誤らずして全く事なきを得たるは、一に此の幼い子供が母の命を奉じて夜の目も合さず燈火を回転させたるに依る」、と、そのいじらしさをほとんど手放しで称賛した。

 

 左様、幼い。

 

 夜を徹して燈火を廻し続けた二人の子供。そのうち長男ですらこのとき十歳の若さに過ぎず、次男に至っては言わずもがな。

 おまけに彼らは、直前に父を喪っている。

 心身ともにどれほど疲弊したことか。それを想えばどんなつむじ曲がりといえど、流石に脱帽せざるを得ないであろう。

 

 

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