紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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あゝ満鉄

 

 

 日高明義は満鉄社員だ。

 

 実に筆まめな男でもある。

 

 連日連夜、どれほど多忙な業務の中に在ろうとも、僅かな時間の隙間を見つけて日記に心象(こころ)を綴り続けた。

 

 それは昭和十二年七月七日、盧溝橋に銃声木霊し、大陸全土が戦火の坩堝と化して以降も変わらない。

 

 日中戦争の勃発に伴い、「特殊輸送」の名の下に、満鉄社員も大々的に動員された。祖国の軍旅を補佐し円滑ならしめんがため、多くの社員が長城を越え大陸本土に馳せ向い、言語を絶した苦闘に直面したものだ。

 

 破壊された線路の修理に赴いて、伏兵による機銃掃射を浴びるなぞはザラであり。

 食糧の欠乏、資材の払底、衛生不良、言語不通――ありとあらゆる悪条件がのべつ幕なしに彼らの身を打ちすえて。開戦から二年弱、昭和十四年四月の段階で既にもう、殉職した満鉄社員は五百名を突破するの惨状だった。

 

 日高明義の日記にも、鬼の炮烙で煎られるような極限状態の辛酸が、「一睡もせず且つ激務」とか「暖かい飯でも食ひたいがそれもできず」とかいった言葉によって如実に表現されている。

 そういう窮境下にあって、

 

 

八月十一日(晴)

 昼頃から腹がチクチク痛みだした。ビオフェルミンを飲み懐炉を入れる。夜になって寸時良いやうだが多忙のため寝る暇がない。午前二時まで起こされてゐる。総站に来てから丁度十日目、毎日睡眠不足のため目は充血し痛む。小便の色は白くなることがない。満鉄社員の首に百円の懸賞がかゝったといふ話だ。首は惜しくないが少し安いと大笑ひした。

 駄句一句 百円の首を並べて夕涼み

 

 

 まだこれだけの気勢を張れるということは、尋常一様の器量ではない。

 肝っ玉が練られているにも程がある。どうすればこんな人間性が形成(つく)れるか、ほとんど想像の外だった。

 

 やはり教育が違うのか。よほど指導に宜しきを得た結果であろう。幼少期から入念に研磨されたと見るべきだ。満鉄は社員採用に、単に才覚のみならず、人品もまたしっかりと考慮に入れていたらしい。

 

 ところが精神より先に、肉体の方が参りはじめた。日高の腹痛、小康は得ても根治に至らず、折に触れては悪化して、ために屡々下痢となり、肛門が荒れ、遂には痔をも病んでいる。

 

 それでも日記を書く手を止めない。

 一種の執念すら見える。

 

 

八月十七日(火) 晴

 昨夜来の痔病が大分痛むので北寧医院救護班にて治療をうく。入院をすゝめられたが輸送が終るまでは頑張らねばならんので薬を貰って帰る。乗務員の任業時間東站豊台間百四十粁であるが単線運転のため輻輳してゐるので片道十二時間くらゐより甚しきは二十四、五時間を費すので疲労と空腹に困ってゐる。

 

 

 なんという男であったろう。

 願ってもない大義名分、医師の勧めに従えば、殺人的な激務から一時なりとも解放される。デスゾーンで酸素ボンベにありつくような福音にも拘らず、しかし日高は、敢えてそれを選ばない。

 

 いったい何が彼をそうまでさせるのか。

 

 責任、義務感、連帯意識、滅私奉公、不惜身命? ……そういう紋切り型の言葉では、なにやら、こう、徒に上っ滑りするばかりであって、核心に喰い込めている気がしない。

 

 日本人が名実ともに日本人をやってくれていた瀬戸際と、うまく言語化できないが、しかしそういう実感だけが切々として胸を圧す。

 

 しかし十日後、すなわち八月二十七日、早朝厠に赴いて用を足すなり、さしもの日高も蒼褪めた。

 便に混じって大量の血がぶちまけられていたからである。

 

(これはまずい)

 

 と、便壺を満たす夥しさに俄然危機感を煽られて、その日のうちに病院を訪ね、みっちり検査を受けている。

 

 診断が下った。

 

 病名、大腸カタル。有無を言わさず入院である。「当分入院し下剤をかけられた」と、病床にてなおも書く。

 

 

八月二十八日(土)

 朝七時厠へ行く。血便出る。昨日からの下剤のため歩行困難となった。

 

八月二十九日(日) 晴

 石川君の見舞をうく。元気がないので話をすれば疲れる。総站待機の社員多数病院附近の仮宿舎に入ってゐる。元気な姿を見ると羨ましい。

 

八月三十日(月) 晴

 無風快晴誠によい天気だ。寝てゐるのが惜しい気がする。北寧医院も今日から開始するらしい。

 

八月三十一日(火) 雨

 朝から雨で鬱陶しい。今日は下剤を止めて初めてみる便通である、余り良くない。食物が支那料理のためであらう。腸の悪いのに支那料理は誠に苦手だが致し方がない。恐る恐る少しづつ食べることにする。

 

九月一日(水) 晴

 同室の同病患者は頻りに便の相談してゐる。即ち「君の便は良いから乃公にもくれ、そして早く退院しようではないか」笑話ではあるが笑話としては聞き逃せない。何時までもこんなにしてゐては同僚に済まんといふ切実な気持だ。

 

 

 ああ、ちくしょう、日本人だ。

 

 あまりに日本的すぎる。しつこいようだがこれ以外、どんな感想も浮かばない。南満洲鉄道会社、当代きってのエリート集団。なるほど確かに大日本帝国の「上澄み」たるに相応しい。遡ること三十余年、日露戦争の最中に於いて発揮され、フランシス・マカラーを驚嘆せしめた異様なまでのあの意気を、彼らは確かに受け継いでいた。

 

 

 

※   ※   ※

 

支那の弱さは日本に対する誘惑である。故に支那をばありとあらゆる方法で精神的にも物質的にも強大ならしむることは、英国はじめ各国の共通政策であらねばならぬ。支那が何人にも攻撃できなくなったとき、太平洋に利害を有する各国は初めて平和を享受することができるのだ。

 

(『マンチェスター・ガーディアン』)

 

※   ※   ※

 

 

 

 日本に於いて黄砂が観測されるのは、三月から五月にかけてが通常であり、わけてもだいたい四月を目処にピークがやってくるという。

 

 が、それはあくまで海を隔てた、この島国に限った常識(はなし)

 

 黄砂の供給源である大陸本土に至っては、だいぶ事情を異にする。

 

 早や一月から黄塵万丈、濛々として視界を塞ぎ、その状態がおよそ半年、七月まで持続するから大変だ。日本式の気構えで悠長に臨もうものならば、たちまち白眼を剥かされる。

 

「昭和十三年度のおれたちが、つまりはそれ(・・)の生き証人よ」

 

 と、満鉄社員金子茂は紙面を通じて物語る。

 

 この人もまた日高明義と同様に、日中戦争の勃発に伴い山海関を南に征ったひとりであった。

 以降、専ら、黄河駅に勤務する。

 そういう彼の日記帳を捲ってみると、

 

 

一月二十五日

 夜明前よりの大風で宿営車の戸ががたがたする。明るくなって見ると誰の頭も蒲団もなにもかも、内も外も砂だらけで仕事もへちまもあったものでない。手拭で口をむし塵除眼鏡をかけて暫く座ったが、息苦しくて仕様がなく外に出た。三四四粁の大黄河へ行って見たが、兵隊さんは豪い。砂の涙を流しつゝやっぱり仕事をしてゐる。午後は風が止んだが、内の掃除が大変なものであった。

 

 

 あの微粒子に虐め抜かれている様が素朴な筆で簡潔に、だがなればこそ、これ以上ない生々しさを伴って書かれているのにぶっつかる。

 

 翌日もやはり、黄砂が舞った。

 

 その翌日も、翌々日も――十日ばかりもこの環境に置かれると、

 

 

二月六日

 今日も風があって砂が埃る。あんまり目を擦ったので目が悪くなり衛生兵に薬を貰う。

 

 

 粘膜がまず、変調を来さずにいられない。

 花粉症の苦しみに若干似るのではないか。きっと彼の眼球も、充血して兎みたいに真っ赤になっていただろう。

 慰問袋に目薬でも突っ込めば、存外歓迎されたか知らん。――この内地からの心尽くしの贈答品の分配に、満鉄社員も与っていたのは別の手記から明らかだ。

 

 とまれかくまれ、金子の日記を、もう少しばかり見てみよう。

 

 

二月十日

 今日も風がある。明日は木橋の開通で忙がしい。砂埃が立ったが皆元気なものであった。あんまり砂を吸込んだのか晩方胸が痛かった。

 

 

「木橋」について一言したい。

 

 もともとこの付近には黄河を跨ぐ鉄橋が、「東洋一」とも称される立派な橋が架けられて、此岸と彼岸を連絡し、交通の便を図るのに年来重きをなしていた。

 が、昭和十二年十一月中旬、国民党軍は撤退がてら、この大建築を爆破して日本軍の追撃を僅かなりとも遅らせようと試みた。

 

 珍しいことではない。インフラの破壊は、戦争となれば何処の国でも行使する焦土戦術の一環である。

 

 この作戦は、確かに一定の功を奏した。十トンを超す爆薬により橋は瓦礫と化し去って、どう見ても取り返しがつかぬ状態。日本軍は新たな橋を架けるべく、大工事を余儀なくされる。

 

 その計画に満鉄もまた駆り出され、一方ならぬ貢献をした。

 

 彼らの努力は幸にして実を結び、昭和十三年二月十一日、スケジュール通り仮設橋たる「木橋」の開通式となっている。

 金子も胸を撫で下したろう。

 しかし当日、彼の心臓は安堵どころの騒ぎではない、予想だにせぬ展開に早鐘を打つ破目になる。

 

 

二月十一日

 天の与か風はなく上天気である。軍鉄合同で紀元節の式を終り引続き開通式をやる。午後宴会が始まる。久しく見たことがなかったが今日は済南から来た日本人の女にお酌してもらふ。皆相当メートルがあがったやうであったが自分もたしかにその方であった。宴のなかばに大連の僕の四男の勲キトクスグカヘレとの電報が無電にきて渡された。兵隊さんにどうするかと尋ねられたが、今の場合死んでも仕方ないと思ひ、キンムノツゴウカヘレヌと無電により変電した。

 

 

 断腸の思いだったに違いない。

 

 極端な論法を用いれば、職務遂行の大義の為に金子茂は我が子を見捨てた。「七つまでは神のうち」と、そういう言葉で夭折を諦観せねばならぬほど子供の命が失くなりやすい時代背景を勘案しても、易々と下せる判断ではない。

 

 奥歯を軋らせ、眼窩は窪み、熱病の如く黒ずんでいたことだろう。

 

 だが、紛れもなく、彼は選んだ。円は閉じた。

 

 ところが二日後、事態は更に四次元的な、嘘のような転回をする。

 

「金子君、帰れ」

 

 べつに何の申請もしていないにも拘らず、会社の方から「子供に会いに行ってやれ」と許可を送り付けてきたのだ。

 

 

二月十三日

 大連元所属より天津鉄道事務所へ電報が来たであろう。鉄道事務所より子供のキトクで一時帰還してよいと無電を通じて言ってきたので夕方の貨物列車に乗り込んだ。

 

 

 以降、暫く記述は途絶える。

 そしておよそ一週間後、

 

 

二月二十日

 午前〇時十五分大連病院にて四男勲死す

 

 

 持ち直すことはなかったようだ。

 しかしそれでも、最後まで側に居てやれた。

 

 金子茂が黄河駅に復帰するのはこれより更に半月後、三月四日のことである。

 

 その日の日記帳に曰く、

 

 

 天津にて京山線より津浦線に乗換へる。なんと客の多いこと、南満で見たことのないほど客車を連結してゐるのに身動きができない。徳県でだいぶん客が降りて楽になった。停車中工務区へ走り南満帰りの遅かったあいさつをして来た。禹城のホームに十修理班の中村君がゐた。内地の同じ土佐から来てゐて五年も会ったことがなく、あれやこれやの話が停車中に出来るものでないから明日、黄河へ来てもらふことを約して別れた。黄河に着いた時は日が暮れてゐた。宿営車の者は大半留守中に済南や徳県に引き上げて保線専用になってゐて楽であった。夜中、死んだ子供のことが浮かんできて仕様がない。

 

 

 聲が聴こえる。

 

 心の奥底、ずっとずっと暗い場所、人間性の深淵で、煮詰まる業の低吟が。

 

 ()(どう)は本より虚無なり、終も無く、始も無し。陰陽気構へて尤霊起る。起るをば生と(なづ)け、帰るをば死と称す。――

 

 浮世はときに、一個の劇であるらしい。

 

 

 


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