紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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志士の肖像

 

「おれは料理の大博士だ」

 

 とは、井上馨が好んで吹いた法螺だった。

 

 ――ほんまかいな。

 

 と、疑わずにはいられない。

 

 発言者が伊藤博文だったなら、納得は容易、抵抗らしい抵抗もなく、するりと呑み下せただろう。伊藤の素性は、武士とは言い条、下級も下級の出であった。

 

 あの階層の貧窮ぶりは――特に江戸時代後期にかけて――まったく凄絶そのものであり、ややもすれば勃興する資本主義的風潮の()というのを一身に引き受けた如き観すら呈し得る。

 

 文化年間成立の『世事見聞録』を捲ってみると、

 

 

「…なべて武家は大家も小家も困窮し、別て小禄なるは見体甚見苦しく、或は父祖より持伝へたる武具、及び或は先祖の懸命の地に入りし時の武器、其外家に取りて大切の品をも心なく売払ひ、又拝領の品をも厭わず質物に入れ、或は売物にもし、又御番の往返他行の節、馬に乗りしも止め、鑓を持せしを略し、侍若党連れたるも省き、又衣類も四季節々の物、質の入替又は掛売の雑呉服といへる物を借込て漸く間を合せ、又其甚敷(はなはだしき)に至りては、御番に出る時は質屋より偽りて取寄せ着用いたし、帰りたる時は直に元の質屋へ帰すなり」

 

 

 先祖が死線を潜った際に頼みの綱と抱いていた刀槍さえも売っ払い、

 若党、槍持ち、騎馬すら廃し、

 それでも金が足りないゆえに、夏の間は冬の着物を、冬の間は夏の着物を、入れ替わり質にぶち込むという自転車操業めいた手法で暮らしをどうにか弥縫する、

 世知辛すぎる状態が、躍如と記載されている。

 

 どこか田舎の名主の方が、よっぽど上等(マシ)な水準で暮らしていたのでなかろうか。疑念を持たずにいられない、そういう「火の車」であった。

 

 寛政十年、森山孝盛なる旗本が世に著した『蜑の焼藻』を覗いてみても、

 

 

「…百俵五十俵有余の御目見得以上の人は僕一人つかふことも叶はで、宅にてはみづから米薪をあつかふやから多し。彼輩は支配与頭の逢対にも容易に出ることかたければ、病と号して朝夕をたすけ、不叶事(かなはざること)ある時は、やとひ人して漸く出来る」

 

 

 常時家人を置くだけの資力も持ってないゆえに、やむなく「みづから米薪をあつかふ」、台所に立つ武士の姿を赤裸に素っ破抜いている。

 

 だから、伊藤博文が若い時代それをした――包丁芸の達者であるというならば、繰り言になるが、容易に納得できるのだ。

 

 しかし井上となると話は違う。

 彼は上士ではないか。

 

 筋目の正しい、折り紙つきの、歴とした門閥である。そういう男がみずから調理の場に臨む、必要性が何処にある?

 

 ない。

 敢えて断言してみたい。

 

 必要に迫られてでないならば、純然たる趣味であろうか。そっちの方が、どうも有り得そうである。

 

 もっとも肝心の腕前たるや賛否両論、舌の上に楽園が拓ける場合もあれば、名状し難い「物体X」――とても口に入れるには相応しからぬナニカまで往々生産するという、当たり外れの極めて激しいものだった。

 

 素人芸らしい(・・・)と言えばらしかろう。

 

 以下に示すはくだんの大塊、野田卯太郎が運良くも、「当たり」を引いた際の噺だ。

 

 ――内田山の井上邸を訪ねた際。

 

 と言っているから、最低でも明治二十七年以後だろう。四方山話に耽っていると、すっかりいい時刻になった。

 

「ついでだ」

 

 めしでも喰っていけ――と誘われて、野田は遅疑なく頷いた。下手に遠慮しようものなら、雷が落ちるとわかりきっていたからである。ねぎま鍋が、卓の上に運ばれた。箸をつけるとなかなかうまい。

 

(汁がいい)

 

 独特で奥深い滋味がある。

 野田はすっかり夢中になって掻っ込んだ。

 

「どうだ」

 

 身を乗り出して井上が訊く。

 

「まことに結構なものですな」

 

 本心から、野田が答えた。

 それへおっかぶせるようにして、

 

「そりゃあ結構であるべきはずだ。なんてったってスッポンで出汁をとっているんだからなあ、このねぎま鍋の汁はよう――」

 

 多年の研究の成果だぞ、と。

 さも得意気に、稚気さえ浮かべて語ったということだった。

 人を怒鳴りつけるのと、気に入った書画骨董をねだりまくって頂戴するのが明治の元勲・井上馨の趣味の全部でなかったらしい。

 

 

「凡そ志士の身を立て名を成すの要は、其芸能人の意表に出るに在り。関羽が書を能くして加藤清正が和歌に妙なりと聞けば世人は之に驚き、此人にして此芸ありとて益々其人物に心酔する外なかるべし」

 

 

 福澤諭吉の言葉であった。

 

 そういう面から推し量るなら、――なるほど確かに井上馨は志士と名乗るに相応しい。一筋縄ではとてものこと括れない、味わい深い人間性をもっていた。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 中江兆民は奇行で知られた。

 

 とある酒宴の席上で、酩酊のあまりにわかに()をはだけさせ、睾丸の皮を引き伸ばし、酒を注いで「呑め呑め」と芸者に迫った件なぞは、あまりにも有名な逸話であろう。

 

 その兆民の語録の中に、

 

 

「ミゼラブルといふ言葉の標本は、板垣の顔である」

 

 

 という短評がある。

 短いながらも、これほど板垣の本質を鋭く穿ったものはない。

 

 板垣退助の絶頂期、一個人としての黄金時代は幕末維新の騒擾に、もっと言えば戊辰戦争の砲煙にこそあったろう。彼の生命がもっとも溌溂とした期間であって、それゆえ一旦そこを過ぎてしまってからは、どういう立場、どういう仕事に就いていようと、その輪郭には憂愁の翳が付き纏い、なにやら常に夕暮れなずむ黄昏時の丘にでも佇んでいるようだった。

 

 本人もおそらく薄々は、そういう自分を自覚していたのでないか。

 

「あからさまに不機嫌そうな閻魔顔をしていても、ひとたび話頭を戊辰の役に転ずれば、たちまち地蔵顔になり、得々として語りはじめた」

 

 とは、彼に親炙した者の、よく目撃したところであった。

 

 ハナシというのはそれ自体、一個のいきものなのだろう。

 

 語られるたび成長し、どんどん尾鰭が付いてゆく。

 

 板垣の場合も、ご多分に漏れずそう(・・)なった。いつからか、彼は自由民権運動のよってきたる淵源を会津戦争の実体験に見出して、そのように他者(ひと)に告げもした。

 

 曰く、――会津は東北の大藩である。

 

 藩祖保科正之以来、二百数十年の永きに亙り、彼の地を統治し続けた。

 仕置は概ね的を射て、まず仁政といってよく、家中の空気も引き締まり、士風凛然、侍どもの精悍なる顔つきは傍から見ても一種偉観を呈していたということだ。

 

 実際彼らはよく戦った。

 一所懸命の体現だった。

「よき敵ござんなれ」の期待に背かないように、熾烈な抵抗で以ってして、殺到する官軍を迎えてくれたものである。

 

 が、それ以外はどうだろう。

 

 会津の町人、百姓は、「皆な手を袖にして傍観し、何れも我が持物を失はざらんとして逃げ隠れてゐる。中には少しの賃金を与ゆれば、欣然として官軍の用を為す者も少くない」状態だからたまらない。

 

 この現象を前にして、板垣は閉口を通り越し、腹の底から戦慄したそうである。

 その戦慄は、

 

(こいつらは、たとえ相手が外夷でも、ちょっと飴をしゃぶらされればやっぱりこうして節操なしに、ご主人ご主人可愛がってと尾を振りまくるのではないか?)

 

 国防上の危惧、不安。大袈裟な言い方をするならば、時代正義に裏打ちされたものだった。

 以下、本人の語り口を引かせてもらうと、

 

 

「…斯る状態では会津藩が落城したのも無理からぬことである。これを広く日本に押広げて考へれば、又たその通りである。若し、一旦外国と事あるに際して、今日の儘にして置かば、国を衛る者は僅かに国民の幾百万分の一にも過ぎまい。それではとても一国の独立を維持することは、出来様筈はない。

 そこで予は高知に帰るや否や、兎に角総ての人民から兵を採ることを原則とした。所謂る士の常職を解いて、総ての者の力に依って国を衛るといふことの必要なるを知り、此に於て初めて自由民権の已むべからざる所以を悟った。即ち大なる責任を負担せしむるには、先づそれに相応する丈の権利を与へねばならぬ。一般に政権を分配することは、国民と共に国を衛る所以である。これが予が今日ある所以である」

 

 

 つまるところは国民皆兵。

 啓蒙を得て板垣は凱旋したというわけだ。

 

 戦利品というのなら、これほどみごとな戦利品もないだろう。

 

 分配で揉めることもない。結構至極そのものである。

 

 結構すぎて牽強付会を疑われるのも、やはり順当、不可避の流れであったろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 起きてはならないことが起きてしまった。

 死者の安息が破られたのだ。

 

 墓荒らし――真っ当な神経の持ち主ならば誰もが顔をしかめるだろう、嫌悪すべきその所業。

 

 それが明治十二年、京洛の地で起きてしまった。

 場所も場所だが、「被害者」はもっと問題である。

 

 ――よりにもよって。

 

 としか言いようがない。荒らされたのは、木戸孝允の墓だったのだ。

 

 木戸孝允、かつての名乗りは桂小五郎。

 言わずと知れた長州の巨魁、西郷・大久保と相並び、維新三傑と呼ばれた男。

 

 華やかな呼び名と裏腹に、その晩年は極めて哀傷の色が濃い。べつに誰かが彼を迫害したのでもなく、彼の内部にいつからか巣食った気鬱の病がいよいよ悪化、骨髄まで喰い込んで、ただもう一途にこの人物を暗所に暗所に追い込んでいった印象だ。

 

 これは千万言を費やすよりも、当時に於ける彼の詩作を一読すればたちどころに諒解される。

 

 

山依舊而秀(やまきゅうによってひいで)

 

水依舊而漫(みずきゅうによってまんたり)

 

孤松払雪立(こしょうゆきをはらってたち)

 

痩菊経霜残(そうぎくしもをへてのこる)

 

年光容易尽(ねんこうよういにつく)

 

人間行路難(にんげんこうろかたし)

 

 

 断っておくが、べつに辞世の句ではない。

 

 木戸の號が「松菊」であることを踏まえると、三・四行目の趣がいよいよ深くなってくる。

 

「人生行路難」とは、使い古された字句ではあるが、まさに赤心の吐露だったろう。

 

 そういう男だ。

 

 しかし既に人生を()え、冥い黄泉路に就いてさえ、墓荒らしに遭うという「難」に襲撃されるとは、いったいどういうことなのだろう。

 

 そういう星を背負ったのだと、諦めるしかないのだろうか。

 

「なんということだ」

 

 仰天したのは長州閥の方々である。

 この人々にしてみれば、諦観どころの騒ぎではない。

 彼らにとって本件は国家の威信を揺るがしかねない大問題に他ならず、並々ならぬ圧力が、警察機構にかけられた。

 

 必死の捜査が展開されて、翌年三月にはみごと犯人を検挙(あげ)ている。

 

 当時の報道を参照すると、「それは墓守の非人であって、盗んだものは錫製の三宝と徳利の外に、遺骸に着せてあった絹の衣服であった」のだそうな。

 

 動機のほども尋常(ただ)の単なる生活難に基くもので、なにからなにまで陰惨なる雰囲気に包まれきった事件であった。

 

 

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