刺激を好み、活動を愛するものは、アメリカに心酔する。刺戟を嫌ひ、静を好むものはアメリカを唾棄する。しかし何人もこの大刺戟の横溢するアメリカの中に入る時、無関心、無頓着ではゐられない。そしていひ合せたやうに、アメリカの正体をつきとめたい、奥底を研究したい気になる。
(鶴見祐輔)
日米開戦の危機というのは、なにも昭和に突入してからにわかに騒がれだした話ではない。
満州事変の遥か以前、それこそ明治の昔から、大真面目に論議され検討され続けてきたテーマであった。
サンフランシスコ・コール紙などは一九〇六年十月に「If Japan should attack us」なる記事を載せ、いざ事が起きた場合の予測を披露。それによれば、サンフランシスコはいっとき日本軍の占領下に置かれようが、やがてアメリカはこれを回復、軍艦を進め太平洋の向こう側まで逆撃し、日本列島の港湾という港湾をことごとく封鎖。
ついには陸軍を上陸せしめ各都市を制圧、終極の勝利を飾るであろう――こんな具合に結んでいる。
旭日旗がサンフランシスコの街路を練り歩く挿絵までつけて、なんともセンセーショナルな報道だ。これを見た市民は、勢い日本への敵愾心と危機感を募らせずにはいられまい。
分水嶺は、やはり日露戦争にこそ見出せる。
あの
彼らの脳中、ただ利だけがある。満洲に蟠踞し、しつこく南下の執念を燃やし続けるロシアを追って、代わりに自分達こそが東亜の覇権を掌握せんと企図したからだ。
アメリカとロシアの確執は古い。シベリアの曠野を東へ東へと進み続けたロシア人は、驚くべきことにベーリング海峡に到達してなお停止せず、アラスカに渡り年々北米大陸西岸を南下、サンフランシスコ附近にまで出没し、一八二一年には太平洋北緯五〇度以北を自国領海と宣言するまでに至っている。
建国間もないアメリカにとって、これは非常なストレスだった。
歴史に名高い「モンロー主義」にも、このロシア人の跳梁を抑止せんとする意図が含まれていたといったなら、おおよその雰囲気は察せよう。
ついでながら「モンロー主義」ほど時代時代でご都合主義的な解釈を施された理念というのも珍しく、その得手勝手さは自国民ですら眉をひそめずにはいられぬほどで、
「モンロー主義は伸縮自在なることインドゴムに似る」
とニューヨーク・サンが揶揄すれば、
「モンロー主義はその初め大統領が作り上げたのであるが、その後幾度となく改造されて、今では生みの親すら見分けのつかぬ子になった」
ニューヨーク・プレスがこう書き立てる始末であった。
まあ、それはいい。
このとき生じた恐露感情はその後ながらく尾を引いた。
「東方問題はもはやコンスタンティノープルを中心とせず、シベリア鉄道の完成によって旅順港に転ぜしめられたのである」
とか、
「満洲や遼東半島に於けるロシアの実際的優越権はもはや疑う余地がない。従って牛荘条約港――この港の輸入する綿織物の半分以上は合衆国から来るのである――は、何時でもロシア帝国の一部であると宣言され得る」
とかいったアメリカ知識人の言論が、どれほど日本を利したか知れない。
今次戦役に於けるアメリカの意図が那辺に在るか、はっきり日本に告げもした。国務大臣ジョン・ヘイの口から、金子堅太郎に語って曰く、
「私は外務大臣として支那に向っては門戸開放、機会均等と云ふことを宣言した。それをロシアが門戸開放をせずして満洲には外国人を入れぬ。満洲に於いては機会均等ではない。満洲はロシアの勢力範囲として、アメリカの商人も入れない。而して日本では満洲も矢張支那の一部であるから、門戸開放をしろ、機会均等をしろと言ふ。此の結果が、今日の戦争になったのである。詰りアメリカの政策を日本が維持するが為の戦ひであると謂っても良いから、今度の戦争はアメリカが日本に御礼を言はなければならぬ。のみならず日米の政策が今度の戦に就ては一致して居るから、アメリカは日本に同情を寄せることは疑ひない」(『日露戦役秘録』)
ところが周知の通り、いざ戦争が終わってみると日本は露骨に満洲からアメリカ資本を排除する態度を発揮した。合衆国の便利な道具に飽き足らず――独立国としては当然なことだが――、みずからが東亜の盟主に踊り出んとの野気を示した。
――おのれなんたる僭越か。
合衆国は激怒した。
この瞬間、情勢は既に一変したといっていい。
日露戦争からたった一年。
たった一年で米国内には排日論が横行し、カリフォルニア州を中心として移民に対する襲撃事件が続発。冒頭に掲げた日米開戦論の類が紙上を飾るようになってしまった。
こうなれば、日本も黙っていられない。真っ先に輿論が沸騰しだした。ヤンキーがそうまで
未だ敗北を知らぬ国民は血の気が有り余っており、恐れることなく意見を尖鋭化させてゆく。
ところが時の大統領――星条旗を背負う男の二の腕は、日本国民の気焔如きで火傷するほど柔い皮膚をしていなかった。それは鉄で覆われていた。
合衆国は日米関係の悪化を受けて、その原因を日本の「傲慢」にありと解釈。その傲慢を打ち砕くには、言葉にあらず、ただ実力を以って威嚇するより他にないと断を下した。
一九〇七年七月十三日、セオドア・ルーズベルトが国務長官エリフ・ルートに宛てた書簡ときたらどうであろう。
…余は日米両国間の関係に対しては、他の問題以上に心労する。幸いにして我が海軍は整備し、今や世界を巡行すべき好時機である。第一に余は思う、此の巡航は米国海軍の為すあるを示すにおいて、平和的良果を挙ぐるを得べく、第二には、余は時局に於いて海軍当局と熟慮を重ねた末、平時に於いて太平洋上に一大艦隊を遊弋せしめて、我が海軍の為すあるを示し、依って以って戦時の実験を避けしむることは、米国にとりて絶対必要なりと、余は確信するに至った。
意味するところは、大西洋艦隊の西海岸への廻航。
そして同艦隊を以ってして太平洋をぐるりと巡る、壮大な軍旅の構想だった。
棍棒外交の極致と看做していいだろう。是非善悪は抜きにして、
果然、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
日本のみならず、アメリカ社会までもが、だ。
――宣戦布告に等しい所業ではあるまいか。
主力艦隊を太平洋側に廻航するということは、である。
――ハーグ国際平和会議を主導した立場でありながら、敢えてそのような挑発的行為に踏み切れば、世界はどんな眼を向けるであろう。
ダブルスタンダードを危惧する声もちらほら上がった。
が、
「余は運河区域をとった。そして議会をして討論せしめた。討論がなお進んでいる間に、運河も進んだ」
パナマ運河にまつわるこの発言からも窺える通り、元々セオドア・ルーズベルトとは、めだって剛腕な政治ぶりのある男。
一旦やると決めたなら万難を排して突進する、ある種猛牛的気質を有する。
このときも、その特性が遺憾なく発動されたものらしい。エリフ・ルートに書簡を送付してからおよそ五ヶ月後、一九〇七年十二月十六日。艦隊はついにバージニア州ハンプトン・ローズの港を発し、予定の航路を進みはじめた。
戦艦十六隻、装甲巡洋艦二隻、駆逐艦六隻、補助艦八隻、のべ三十二隻から成る堂々たる陣容である。
ルーズベルトはこの艦隊の目的を、帝政ドイツ海軍大臣アルフレート・フォン・ティルピッツに向け、
「余は日本をして憐れむべきロジェストヴェンスキー(筆者註、バルチック艦隊司令長官)とは全然別種なる白人種の艦隊が、他に存在することを知らしむるを得策と認めた」
と説明したが、なるほどそれだけの迫力は十分にあったことだろう。
この時期、パナマ運河は未だ完成していない。
艦隊は南米大陸南端のマゼラン海峡を経由して、漸く太平洋に進み出た。
欧州各国でも
「もはや日米の衝突は不可避になった」
との論調が盛り上がりをみせ、フランスでは日本の国債が暴落し、何故かスペインが軍資金の提供を持ちかけてくる滑稽な事態に。
大方、米西戦争の意趣返しがしたかったのだろう。が、
(大概にしてくれ)
日本としてはそのような復讐心に付き合ってやる義理はない。
対米戦争など狂気の沙汰事、どう転ぼうが結局は日本にとって自殺以外のなにごとにも成り得ぬと、首脳陣は余すところなく知っていた。
彼らはむしろこれを機に、日米間の緊張をどうにかして解きほぐしたく、だから外務大臣林董の、
――ここは一番、我が方から艦隊の寄港を要請し、諸手を挙げて歓迎するに如かず。
との提案に、膝を打って賛意を示した。
しかしながら当時の社会的空気の中でこの方針を貫徹するのは、よほど至難であったろう。
なにせ、東京五大新聞の一角を占める報知新聞をしてすらが、
…由来、米国人は文明を以て誇るものなれど、実際彼等の為す所を顧みれば、毫も文明国民として称するに足るものなし。彼等の文明は唯だ物質文明にして、其精神は全々野蛮なり。支那人は屡々排外運動を試み、近くは三十三年に団匪の暴発となりたるが、今回米国の排日運動は団匪の暴発と毫も択ぶ所なく、団匪の暴発は支那なりしが為、列国の激怒に触れ、文明の敵として鎮圧せられたりしが、米国の団匪は米国なるが為、列国間の問題とならず、日本人間にさえも頗る寛大にこれを観察し、両国の交情を破るなからんことを望むと云ふが如き、
このような過激な言辞を振りかざして憚らぬ始末。
迂闊に口を滑らせようものならば、売国奴の烙印を押され暗殺目的の壮士が殺到しかねない状況。当局者は、さぞかし神経を磨り減らしたことだろう。
が、苦しみに堪え、彼らはその難行をやり遂げた。一九〇八年十月十八日、米国艦隊――グレート・ホワイト・フリートが横浜港に投錨すると、日本人は「朝野を挙げてこれを歓迎」する姿勢をみせ、一週間の滞在中、決して彼らを飽きさせないよう努力した。
渋沢栄一や東郷平八郎まで動員しての接待だったというのだから、その必死さ加減がわかるであろう。
あまりに意を尽くし心を砕いたそのふるまいに、口さがのない米国紙などは、
「ブルドックの鼻息に畏縮せるフォックス・テリアの醜態に似たり」
と冷笑を浴びせかけたほどだった。
グレート・ホワイト・フリートを派遣して正解だった、甲斐があったと、アメリカ人の誰しもが、きっと思ったことだろう。
セオドア・ルーズベルトはこの艦隊が任務を果たし、合衆国に帰還するのを見届けてから、およそ半月後の一九〇九年三月四日、大統領職を退いている。
引退後はアフリカに向かい、みずから銃をぶっ放しての猛獣狩りに明け暮れて、大いに愉しみ鬱懐を散じきったあと、帰路すがらちょっとベルリンに寄り、前述のアルフレート・ティルピッツと顔を合わせて談話に耽った。
その際、グレート・ホワイト・フリートも話題の俎上に載せられている。
ティルピッツが
「あの時自分は日本が、米国主力艦隊の遠航中を奇貨として、アメリカに攻撃を加えるだろうと予測していた。貴下はそうした憂慮を少しも抱かなかったのか」
と訊ねたところ、ルーズベルトは、
「十に一つはそんな事があるかも知れないと考えていた。そして勿論、日本にして開戦するも、はたまた平和的態度を持続するも、どちらの態度に出ようとも十分対処可能なように準備は整えてあったとも」
と、容易ならぬ返事をしている。
一九四一年十二月八日を思うとき、日本人にとってはどこか宿命的な響きすら感ぜられる言葉であろう。
太平洋の波濤の上で、日章旗と星条旗が繰り広げた幾多の悲喜劇――。
白船はその、象徴的なひとつであった。