紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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唵 呼嚧呼嚧 戰馱利 摩橙祇 娑婆訶



日本の底に潜むもの

 

 大正九年から十年にかけ、布袋竹の一斉開花と枯死が来た。

 

 この「一斉」の二文字を、どうかそのまま受け取って欲しい。

 

 現象が確認されたのは、福島、新潟、長野、山梨、神奈川、東京、栃木、茨城、群馬、千葉、愛知、岐阜、兵庫、大阪、奈良、京都、香川、徳島、愛媛、高知、鳥取、島根、佐賀、福岡、熊本、大分、宮崎、そして鹿児島。四十七都道府県中過半数越え二十八、上は東北から下は九州に至るまで。ブラキストン線の向こう側、北海道を例外とする日本すべての地方に於いてであったのだから――。

 

 竹の開花、それ自体が既に立派な珍事であるのに、こうまで気息が揃うというのはなにごとだろう。どう表現したものか、語彙に惑うほどである。

 

「天地開闢(ひら)けてはじめてのこと」

 

 との修飾がすこしも誇大にあたらない、極めて稀な例だろう。

 

 それまで布袋竹の花といえば実物はおろか標本すら見た者はないと言ってよく、ただ理学士武田久吉が奥日光を登山中、たまたま発見(みつ)け採取した一枝ばかりが存在するのみだった。

 

 ところがどうだ、もはや一般人であろうとも、ごくごく気軽にこの「貴重品」を拝める日が来たのである。

 

「釣具屋にとっては災難だろうが」

 

 私共にしてみれば勿怪の幸い、欣快に堪えぬ事態なり――と、当時に於いて書いたのは、植物学者の川村清一。

 

 布袋竹は特徴として稈の先が細長く、且つ強靭ゆえ釣り竿には最も適した素材であった。

 

 手元の部分は女竹で我慢できないこともなくとも、先端部分はどうしても布袋竹を継がねばならぬ。これがすなわち、当時に於ける定説だった。

 

 ところが今や全国各地の布袋竹は枯れ落ちて、必須材料の供給をために断たれた釣り竿製造業界は、ずいぶんな悲況に見舞われるに違いない。川村の文は、そういう意味を内包している。

 

 彼はまた、この時期なにかの用向きで九州地方を旅したらしく、その途中、

 

 

「熊本より鹿児島行の汽車に乗って沿道の左右を見渡すと、山里に夥しく竹林を成して居るのが悉く褐色を呈して、目も当てられぬ光景である」

 

 

 このような記録をつけもした。

 

(工場の煤煙でも浴びたのか)

 

 不吉な予感が咄嗟に胸をよぎったが、訊ねればすぐ「褐色の部分の竹林」がみな布袋竹から成る地帯だと確認できた。

 

 当時に於ける鹿児島県の竹林は、面積にして実に八千四百四十町歩。うち最大を占めるのが真竹三千十七町歩で、三千十六町歩の布袋竹がこれに次ぐ。

 

 一位と二位を隔てているのは一町歩、紙一枚の僅差でしかない。

 

 角逐し合う両者のあとを孟宗竹千二百町歩が追いかけて、さらに淡竹二百九町歩と、ざっとこのような塩梅である。

 

 上記の如き光景が成立する条件は、十二分に揃っているというわけだ。

 

 それやこれやで、

 

 

「竹の開花は生理現象であるから、絶対に之を予防することは出来ないが、肥料を充分に与へて置けば、かういふ場合に、恢復することが早い。又花が開くと、地中の養分を一時に吸収するから地が疲弊する。故に開花の兆候を認めたならば、平年よりも余計竹を伐って了ふが()い。すると開花の為に地下に貯へた養分を一時に消費することがなくて済む」

 

 

 おそらくは一世紀に一度、使いどころが有るか無いかの、斯くの如き忠言を、川村清一は世に与えている。

 

 

 なお、関東大震災が突発したのは、布袋竹の一斉開花が観測されておよそ三年。大正十二年九月一日のことだった。

 

 

 科学的根拠は何もない、安易な結びつけはやめろ、それは迷信の入り口だぞと自戒に自戒を重ねれど、共に大地に由来している現象だけに、つい想わずにはいられない。

 

 日本の底に、いったい何が潜むのだろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

「痛え、医者を呼んでくれ」

 

 岐阜で兇漢に刺された際、板垣退助が本当にあげた叫びとは、こんな内容だったとか。

 まあ無理からぬことである。

 

 死の恐怖を、それもだしぬけに突き付けられて、泰然自若とふるまえなどとそれこそ無理な注文だ。

 

 大正十二年九月一日、溜まりに溜まった地殻変動エネルギーがついに臨界点を超え、関東地方一帯を、時化の海もかくやとばかりに激しく揺らしたあの瞬間。

 

 横浜に不幸な父子があった。

 

 父は書斎でくつろいで、

 息子は庭で土いじり、

 その格好で大震災を迎えたことが、彼らの運命、生と死を、どうしようもなく分かってしまった。

 

 震度七の衝撃に、住宅はむろんひとたまりもなく、象に踏まれたマッチ箱みたくぺしゃんこになり。

 

 脱出が遅れた父の身体は、梁やら屋根やら柱やら、無数の残骸の巻き添えになり、挟み込まれてにっちもさっちもいかなくなってしまったのである。

 

 動転のあまり、息子の魂は消し飛びかけた。

 

 下敷きの状態でも父の意識は明瞭で、苦悶の声をひっきりなしに漏らすのも、彼の青い精神をいよいよ千々に乱しただろう。

 

 救出のため、あの手この手を講ずるが、どれも一向に捗々しくない。

 

 そうこうする間に煙がたちこめ、次いで火の粉が舞いだした。

 

 関東大震災の発生時刻は午前十一時五十八分三十二秒。昼飯時といってよく、調理用に熾された火が意図を外れて広がって、結果街を焼き尽くす焦熱地獄に繋がったのは蓋し有名な話であろう。

 

 この現象はなにも東京のみならず、横浜に於いても発生したと、つまりはそういうことなのだ。

 

 息子は、絶望した。

 父も状況を察したらしい。で、唇を蒼白(あお)くわななかせ、発した言葉が、

 

「何故早く救け出さぬ? 早く早く……親不孝者!」

 

 だったということである。

 

「このままではお前も危険だ。俺のことはいい、もう構わないから、さっさと逃げろ」――そんなセリフ、気遣いは、一言半句もこぼれなかった。

 

「板垣死すとも自由は死せず」と同様に。急場に臨んで感動的な名台詞を口にするのは、実に、実に難しい。

 

「今でもあの末期の声が、親不孝者と怒鳴られたのが、耳の奥にしみついたまま離れないんです」

 

 息子は後に、そんな風に語ったという。聞き役は、朝日新聞の記者だった。震災から既に一月(ひとつき)、三十余日の時間を経たにも拘わらず、彼の形相はつい今がした焼け出されたばかりのような、憔悴しきったものだった。

 

 発行部数を絶対正義と信奉する朝日新聞の記者といえども、この父子を報道するにあたっては流石に実名を出してはいない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 あとで聞いた話によると、地面が揺れて半刻ほどもせぬうちに、もう家財道具一式を大八車に積み込んで、雲を霞と安全地帯へ避難した途轍もない「利け者」が神田辺には居たらしい。

 

 そいつの家には旧幕生まれの老人が猶もしぶとく生きていて、第一震を感じた瞬間、

 

(こいつはまずい)

 

 絶対に大変なことになる、今日の夜には東京全市が火の海だ、留まっていては死ぬるのみ――と、脳天に電極を刺された如く、鮮やかに確信したそうな。

 

「急げ、逃げるぞ。もたもたするな」

 

 口角泡を飛ばしつつ、ときに擂粉木で息子の尻をぶったたき、老人は家人に支度を強制。

 

(因業じじいめ、とうとう物に狂うたか)

 

 あご(・・)で使われる身としては当然思わざるを得ない、腹のふくるる話だが、そこは大正十二年、家父長制の盛んな時代。日本社会全体を統制している習慣に、その大いなる威圧に対し表だって逆らえるほど度胸を練っているやつは、一家の何処にも見当らず。

 

 不満に唇を曲げつつも、命令通りに動かざるを得なかった。

 

 だがしかし、結果的にはその惰弱さが、彼らの生命(いのち)と財産を守ってくれたわけだから、運命というのはわからない。

 

 

 ――そういうことを、大震災ですべての家財を灰にした、辻二郎が書いている。

 

 

 この人は当時、浜松町に腰を据えていたようだ。

 今の港区住民である。

 不幸にも、と言うべきか。彼の家には預言者めいて勘冴える、老爺の用意はなかったらしい。夕刻、火の粉が舞いはじめるまで、べつだん用意もせずにいた。

 

 結果、着の身着のままで芝公園まで逃げる破目になっている。

 

 そこから天に沖する猛炎を見た。

 

(なんと壮観な)

 

 自分の家をも薪の一個とされているにも拘らず、

 その美の下で何百、何千、何万という人間が最大級の苦痛を味わい死んでいるにも拘らず、

 如上の悲愴一切を重々承知しているのにも拘らず、

 辻はその火に魅入ったという。

 

 感動とは、ときに暴力に似るのであろう。理性も倫理も薙ぎ倒し、問答無用で人を慄え上がらせる。

 

 

「…あまりの美しさに嘆声を洩らしたら、すぐ隣の芝生に避難してゐる人が『ビールはどうです』と云ったのに驚いた。『私はこんな物は飲めないんで、誰か飲んで下さい』と云ふので二度びっくりした。此人はどう云ふ心算で自分では飲みもしないビールを持って避難して来たのかは、十五年後の今日まで未だに了解出来ない事の一つである。只自分達の家の焼けて居る火を見ながら、見ず知らずの隣人にビールをすゝめる、まるで宴会で隣の人にお酌をする様な語調でビールをすゝめる此人の気持は、其時の雰囲気からわかる様な気がした。そしてこの『諦め』と『諧謔』は日本人の短所で同時に長所ではないかと思ふ」

 

 

 昭和十三年の震災記念日――今の言葉で「防災の日」に、辻が起こした回顧であった。

 

 なるほど確かに、燃えたものは仕方ない、泣いたところで死んだやつは還らない。

 

 めそめそと、いくら涙に濡れてみせても、効果はしょせん魂の活力を弱らすのみで現実はマシにならぬのだ。ならいっそのことアナトール・フランスのあの(・・)言葉――「われわれはこの世界では諦めるよりほかに仕方がない。しかし高貴な魂の人々は『諦め』に『満足』という美しい名を与えるすべを知っている。偉大な魂の持主たちは聖なる喜びをもって諦める」――に従って、「神聖なる諦め」を、実行に移すべきではないか。

 

 差し出された瓶ビール。微笑と共に受け取ると、辻はそいつをラッパ飲みにしたという。

 

 喉にて爆ぜる泡の味。その痛快さときたらもう、筆舌の能くする範囲ではなく。

 

「あんなにうまいビールはなかった」

 

 目眩(めくるめ)くような陶酔を、十五年後のこの日まで、根強く憶えていたそうな。

 





 この時、うちのおふくろは山の方が安全だって上野の谷中に逃げたんだよ。一緒に逃げた人が、そば粉を持ってた。それで醤油と塩で味付けしたスイトンを作ったら、商売大繁盛。墓地だから箸と茶碗はいくらでもある。お墓の前の茶碗を全部洗って使ったって。たった二日間で、鶯谷に店を一軒持てるほど儲かったらしいよ。だけど、帽子とネクタイの商売をはじめたら、親父がバクチで巻き上げられて、元の木阿弥。すぐ店を閉めたって。
 あの頃の庶民なんて、みんなそんな感じだったんじゃないかな。

(北野武)

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