酔へよ君心の春を数へみば
ととせはあらし人の命の
(川田順)
日本土木会社の禄を食む若い衆五名がリンチ被害に遭ったのは、明治二十四年一月二十八日のはなし。「陸軍の街」青山で、その看板に相応しく、兵舎建設作業のために腕を揮っていたところ、突発したる沙汰だった。
五人を囲むに、犯人たちは四十人もの多勢を以ってしたという。
「なんだ、てめえらァ!」
圧倒的な数の差だ。肉体労働を事として、如何に体力に自信があれど、覆せる不利でない。抵抗空しく、被害者たちは一方的に殴られ、蹴られ。意識に恍惚の靄がかかる間際まで、暴虐を加えられてしまった。
犯人たちの素性の方は、すぐ割れた。
そも、隠す気が無かったとすらいっていい。
「制裁じゃな」
「左様よの、事ここに至っては是非もなし」
「心得違いの畜生に、痛棒を当ててくれようず」
必然として、そういう流れに帰着する。
謂わば五名は
明治二十四年はさらなり、どのケースを見てみても、下手人どもに罪悪感など皆無であったに違いない。
それどころか裏切り者を成敗したと、「正義」を果たした充足に身を火照らせていただろう。
さながら酔客の如くに、だ。
生田春月の言や良し、「憂愁の詩人」の感性は、疑義を挟む余地もなく、この世の真理に触れていた。
だが、ああ、しかし、
明治十年代半ば、自由民権運動は、すっかり時代の「流行り物」と化していた。
大阪あたりの抜け目のない
後年早稲田の門前で「ホラせんべい」というのを売って――言うまでもなく校租大隈重信の大風呂敷を揶揄ったものだ――、まんまと地元の名物になりおおせたのと一般で、商法としてはむしろ王道に近いゆえ。
だがしかし、新生児の命名に「自由太郎」やら「自由吉」やら「自治之助」、挙句は女児にあってまで「お自由」やら「お自治」やら、その種の単語を以ってするに至っては、いくらなんでも奇矯すぎ、度を失っているだろう。
土佐高知にて顕著であった
だから最初に「流行り物」と書いたのだ。こんな名前を我が子につける両親の、いったいぜんたい何割が「自由」の意味を真に諒解していたか、すこぶる怪しいではないか。
なんといっても「自由」に「リバティ」の意味を与えた張本人、福澤諭吉にしてからが、日々増殖する「民権家」どもの質を危ぶみ、辟易し、
「近頃民権の議論世に流行してより、民権とは威張るの義なりとて、少年にして老成人を凌ぎ、人民にして官吏を侮辱する者なきにあらず。仮令へ或は侮辱までは至らざるも、官民の交際甚だ
因循家と吐き捨てられても不思議ではない、こんな苦言、警鐘を、『時事新報』を通じて鳴らしたほどである。
人心は明らかに均衡を欠き、自由というのを無条件で善きモノと、盲目的に信奉する気質さえ発生しつつあったろう。
自由のために、自由を求めて、自由を然らずんば死を――。
誰も彼もが眼の色変えて追いかける。そいつを口にした者は、気が大きくなり権威に平気で唾を吐く。自由とはつまり、一種の興奮剤なのか。
「正義」と並んで、その効能は頭抜けているに違いない。
津田梅子が光源氏を嫌っていたと示す逸話が世にはある。
英訳された『源氏物語』の校正作業を頼まれて、しかし内容の卑猥さゆえに断然これを拒絶した、と。こんなものはポルノ同然、品性下劣限りなし――と、激しく罵りさえしたと。だいたいそんな筋だった。
目下、世間はこのエピソードを専ら「ガセ」と認識している。妄想の産物、学術的な裏付けは何一つないにも拘らず、取り合わせの妙、構図自体の面白味に引っ張られ、とめどもなく
ところがだ。明治十七年十月二十日の『今日新聞』を覗いてみると、こんな記述が目に入る。
「いづれの御時にか勝れて時めき給ふ参議在しましけり、一日津田仙氏の愛嬢梅子ぬしを館に召させられ、其の学びの程をためさんとにや、末松謙澄うしの訳せられたる英文の源氏物語一巻をとうで給いて読みて見よとぞ仰せられける、此の梅子ぬしは幼なき折より異国に渡りて物まなびせし少女なれば、我邦の書どもは仮名まじりの文すら読得ざれど彼国の文字には明かなりければ、臆する色もなう其書一ひら二ひらを読みもて行きて、にはかに巻を覆ひ嘆じて云ひけるは、此書はいと猥褻がはしき事のみ多ければ読むとも益なく害多し、かゝる物語は文庫に納るを好まずと言ひ放ちて其儘我家に帰へりしとなん」
新聞に
というよりも、実に屡々、フェイクニュースを発信してる。もはや周知のことである。だから当然『今日新聞』のこの記事も、手放しに信じるわけにはいかぬ。デマの可能性は十分にある。
だがしかし、仮にデマであったとしても、それはそれで一種
津田梅子に『源氏物語』を読ませたがる風潮は、ひいては彼女の口を借り、「世界最古の小説」を批判したがる風潮は、百四十年以上前から既に存在していたと、そのことだけは確実に證明されるわけだから。
大衆が好む構図というのは、どうも定型があるようだ。
百年前も、百年