紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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ロシア――ツァーリとボルシェヴィキの祖国。
今やわれわれは、草原と山岳、魚と毛皮、小麦と森林、富と資源、学説と飢餓のこの国の東の門口へとさしかゝってゐるのである。

(エドワード・ウェーバー・アレン、カムチャッカ沖にて記す)




赤い国へと、血は流れ

 

 奥平謙輔が実権者として佐渡ヶ島に乗り込んだのは、明治元年十一月のことだった。

 

 翌年八月には職を(なげう)って帰郷とあるから、彼の統治は一年足らず、十ヶ月かそこらに過ぎない。

 

 だがしかし、と言うべきか。斯く短期にも拘らず、佐渡ヶ島が負わされた傷痕たるや重大で、まこと瞠若に値する、戦慄すべきものがある。

 

 折から高まりつつあった廃仏の凶風(かぜ)。隠そうにも隠しきれない維新史の恥部。神仏分離の実行に、この長州系維新志士は度外れた情熱を発揮した――そりゃもう派手にやっちまった(・・・・・・)らしいのだ。

 

 後年『東京日日新聞』所属の記者が該地を訪れ、物したルポルタージュに曰く、

 

 

「…佐渡国は元来仏寺の多き地なりしが、維新のころ奥平謙輔が権判事たる時、堂塔は無用の長物にして到底人民の厄介ものなりとて、由緒不分明なる分は悉皆取潰し、釣鐘をはじめ仏具の銅器類は残らず天保銭に鋳替しにぞ」

 

 

 云々と、その惨禍の一端を、朧気ながら窺い知れるものである。

 

 明治元年、佐渡ヶ島の領内に散在せし寺院の数は、実に五百三十九箇所にも上ったという。

 

 それが廃仏毀釈を経た後は、八十箇所まで減少していた。五分の一以下である。激減といって差し支えはないだろう。全部が全部、奥平の仕業でないとはしても、その責任の大半は、やはり帰せられなければならない筈だ。

 

 仰せ、あまりにむごすぎまする、どうかお慈悲を、お情けを――と、涙ながらに訴えかける坊主頭の行列へ、

 

 

「此廃合を違背し少しも苦情を説ものあらば(それ)こそ皇国の民にあらず、去る坊主どもは速に釈迦の本国天竺へ送籍すべし、然らば彼らに於ても素懐に適すべし」

 

 

 ――国を根こそぎ建て替えんとする御一新の大業に際会しておきながら、実行者たる俺さまの、ひいては政府の意向に背くやつばら(・・・・)は、もはや日本人でない。

 

 ――かかる不逞な坊主どもには天竺なり何処(いづこ)なり、もっと似合いの場所がある。これ以上ウダウダ言うならば、手加減無用、そっち(・・・)に向けて叩き出す。そうだ、追放するまでだ。釈迦の故郷に近付かせてやるんだぜ、感涙してくれていい。

 

 こういう意味のセリフを浴びせたからには、もう、明らかに。

 

 やがて奥平謙輔は前原一誠らと共に萩の乱を引き起こし、事破れて刑死する。

 

 

 ――それにつけても、鐘や仏具を無用なりと鋳潰して、有用有価な銅銭へと転生せしめた、この部分。

 

 

 ひどい既視感に見舞われる。まるで大東亜戦争中期以後、金属回収令下に於ける情景が、七十年ほど早く来たかのようではないか。

 

 鐘というのはまったくどうして、事あるごとに真っ先に、槍玉に挙げられてしまうのだろう。

 

 日本に限った話ではない。第一次世界大戦中にもロシア人がやっている。ドイツに対する嫌がらせのため、貴重な資源を万が一にも渡さぬように、教会含めて公私を問わず自国内の施設へと、あらかじめ掠奪を行って、色々回収しておいたのだ。

 

 嫌がらせというよりも、焦土作戦と見た方が相応しいのやもしれぬ。

 

 

「一般に、勝利をしめた敵が、戦争遂行のために役立てるかも知れぬと考えられるあらゆる兵器および軍需品を破壊することにかけては、ロシア軍は徹底的であった」

 

 

 と、歯ぎしりの音が聞こえてきそうな述懐を自伝の中でやったのは、誰あろうパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥だった。

 

 とても正気の沙汰ではないが、まあロシアではよくあることだ。

 

 空の鐘楼に吹く風は、さぞ冷たかったことだろう。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 日本人が死亡した。

 遠い異境の地に於いて、政変に巻き込まれた所為だ。

 

 政変とは、すなわちロシア二月革命。ペトログラードで流された血に、大和民族の赤色も、いくらか混じっていたわけだ。

 

 その死に様は陰鬱に彩られている。彼は駐在武官でも、大使館の職員にもあらずして、全然一個の商売人の身であった。

 

 純然たる民間人にも拘らず、居てはならない空間に、あってはならない一刹那、身を置いてしまったばっかりに、頭を砕かれ、むごったらしい屍を晒す破目になってしまった。

 

 不運としかいいようがない、その男の名は牧瀬豊彦。

 現地に於ける高田商会の主任であった。

 

 この件につき、『東京日日新聞』のペトログラード特派員、布施勝治記者報じて曰く、

 

 

「革命は三月八日に始まり十六日に終る、其間軍隊及市民の死傷僅に二千人内外に過ぎず誠に手軽き革命と可申候、唯其中に一人の邦人(高田商会員牧瀬豊彦氏)あり、ダムダム弾の一撃に頭蓋を打砕かれ無残の最期を遂げしは遺憾千万の事に候」

 

 

 わずか(・・・)と。

 わずか(・・・)とのたまうか。

 二千人の犠牲者を「わずか」と一蹴し去るのか。

 

 現代ならば大炎上に値する、致命的な失言だ。マスメディアの生命倫理が疑われるに違いない。布施のために弁護するなら、彼の神経系統は、折から続く欧州大戦の惨禍によってだいぶ麻痺していたのであろう。大量殺戮の報告に、あまり多く触れ過ぎたのだ。そうであって欲しいと願う。

 

 

 日本人の目の玉は、存外多いものである。

 

 

『時事新報』も、当時の露都に通信員を置いていた。播磨楢吉がそう(・・)である。彼の呈した報道は、もう少し解像度が高い。

 

 

「十二日朝私の宿所の周囲に当って唯事ならぬ銃声と騒動が頻りに聞えた、私は取るものも取敢えず外に飛び出した、私の宿の直ぐ前は兵営である、街上に出て見ると多数の軍隊が鬨の声を揚げて空中に向って頻りに発砲してゐる、市民は手を揮って軍隊を迎へる、何事ぞと問へば軍隊が反旗を翻して上官を惨殺し労働者に呼応したのだといふ、…(中略)…正午過ぎ工廠の硝子窓を狙って発射した者があるが丁度此時期商用の為めに同廠に来て士官と話してゐた高田商会代理人牧瀬豊彦氏は何事ならんと窓から外を覗いた、露国将校も同じく覗いた、叛軍では露国将校の顔を狙って発射したが誤って其弾は牧瀬氏の頭部を打砕いた、牧瀬氏は眼もあてられない無惨な最期を遂げた」

 

 

 銃弾は貫く相手を選ばない。

 弾道は国旗に忖度してくれぬ。

 物理法則――冷たい方程式だけが、唯一彼らを支配する。

 

 要するに牧瀬豊彦は、とばっちりを喰い死んだ。

 

「こんな馬鹿な話があるか」

 

 と、遺族は叫んで許される。

 

 実際問題、どうなのだろう、この一件に関連し、日本政府は何かしら抗議を行ったのであろうか?

 

 まあ、よしんば激怒しようとも、革命直後の混沌とせるロシアの政治事情では、いったい何処に苦情の尻を持ち込んだらいいのやら、責任者は誰なのか、とんと見当がつかなかったやも知れないが。

 

「革命ほど悲壮なものはあるまい、赤い革命旗そのものが既に残忍を現はしてゐる、或る警部は革命党の為めに火炙りにされた、そして革命党員は其警部の妻子を引摺り出して其亭主たり父たる人が無惨にも火炙りにされる面前にひき据ゑて悶死する有様を見せつけたといふ、又某将官は革命軍から先づ手足を切断されて嬲殺しにされたといふことである、野性蛮風も極まれりといふべしだ」――播磨楢吉に俟つまでもなく、革命など、起きぬに越したことはない。

 

 

 

※   ※   ※

 

 

 

 大正九年十月の国勢調査に従えば、当時樺太――むろん南半、日本領――に居住していたロシア人の総数は、ギリギリ三桁に届かない、九十九人だったとか。

 

 明治三十八年のポーツマス条約締結時、つまりこの地が「日本」になった直後では、およそ二百人ほどがあくまで居残ることを選んで引き揚げを拒絶したというのに。指折り数えて十五年、ずいぶん減ったものである。

 

 まあ、あと何年かしたならば、革命で祖国に居場所をなくした、いわゆる「白系ロシア人」らが東の果てのこの地にもはるばる流れ着いてきて、少しは人口恢復に寄与してくれる次第であるが。

 

 とまれかくまれ、「丸太作りの小屋に棲み、中流以下の生活をする」残留ロシア人たちは、具体的にどんな暮らしを送っていたか。

 

 彼らの日常風景につき、かなり詳細なスケッチを遺しておいてくれたのが、樺太庁の技士である、川崎勝という男。職務柄、彼らと関わる機会とて、多かったかと思われる。それに曰く、

 

 

「…夏は馬鈴薯、キャベツ、小麦等を自作自農し、牧畜を業とし、冬季は狩猟を以て生計を立てる。採暖装置はペーチカを主としストーブはめったに使はぬ。ペーチカは粘土を以て固めた煉瓦様のもので築き冬は之に薪を焚いて寒さを凌ぎ窓はすべて二重である。彼らは自ら作り自ら耕し、自ら製粉せる小麦でパンを焼き、養へる牛の乳を搾って飲み、牛、豚の肉を塩蔵して冬の用に備へる。多くは日本語を語り子供は日本の学校で教育を受ける」

 

 

 素朴というか、牧歌的というべきか。

 ツルゲーネフとか、あの辺のロシア文豪が小説の題材に使っても違和感のない景色であった。

 

 ときにはこの、「自ら製粉せる小麦で」焼いたパンや牛乳を、最寄りの駅のプラットフォームに持ち来たり、売り捌きもしたらしい。

 

 本多静六林学博士がゆえあって北方をひとめぐりした際に於いても、その旅日記に

 

 

「南から北へ細長い樺太を縦貫する間に数駅で『ロシアパン、ロシアパン』と呼ぶ聞き慣れない日本語を聞く。パンを焼いて異人種の間にほそぼそと生計を立てゝゐる残留者の淋しさが忍ばれる」

 

 

 斯くの如き一文を態々挿入しているあたり、だいぶ思うところがあった、――胸に迫ったようだった。

 

 しかし彼らも、一九四五年の敗戦により、赤露に樺太を席巻されて、結局は……。

 

 北の大地の悲愴であった。

 





「銃殺、将軍の娘、年齢12歳」
「銃殺、火事ありし時ボルシェヴィキの過失なりと騒ぎ立てたるが故に」
「銃殺、鉄道より小麦一袋を窃盗せり」

(チェーカーの死刑執行記録)

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