紙上の人々・片影星羅   作:穢銀杏

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金閣モドキが夢の跡

 

「いま、お酒を呑んでおいでですか。あなたは酔うとおかしくなる方だそうで……」

 

 夢野久作の実の父・「怪傑」杉山茂丸が、黒田清隆と初めて顔を合わせた席で、劈頭一番放った台詞がこれである。

 

 この薩人の酒癖の悪さがどれほど人口に膾炙されきったものであったか、如実に示すエピソードに違いない。

 

「なにせあれは、自分の妻すら酔った勢いで殺した男だ」

 

 と、口さがない者は言うであろう。

 この風評は、いったい事実なのかどうなのか。

 少なくとも、東京市民の大多数が事実と信じるだけの下地は既に整っていたようである。

 

 

 

 黒田婦人、名は(きよ)という、彼女が清隆の許へ嫁いだのは十五歳という妙齢の折。明治二年十一月二十二日の佳き日であった。

 明治六年、第一子を出産している。

 男児であった。

 

「奥よ、でかした!」

 

 黒田の喜びは尋常ではない。

 (はじめ)と名付けたこのやや(・・)が無事に育っていたならば、あるいは彼の晩年も、よほど様変わりしていただろう。

 しかしそうはならなかった。夭折した。僅か二年の命であった。

 

 ――七つまでは神のうち。

 

 と云われる通り、この時代の乳幼児死亡率の高さときたらまったく話にならないほどで、平均寿命を引き下げる巨大な要因にもなっていた。

 

 明治八年、清は再び懐妊し、今度は女児を生み落とす。

 

 鶴と名付けたこの赤子も、しかし翌年には兄と同様の運命を辿った。

 

 黒田にとって家庭がなにやら面白くなく、どころか逆に息苦しいものを覚える場所になったのは、だいたいこの辺りからであるという。

 代わりに当時の豪傑連の常習として、紅燈緑酒のきらめきに鬱懐を散ずるようになった。

 特に芝神明のとある芸者に入れ込んだらしい。たまらないのは婦人である。清隆と違い、外部に容易く逃避先を求められるような、そんな身軽さは彼女にないのだ。

 

 ある日、ついに限度を超えた。

 

 具体的には、明治十一年三月二十八日である。

 すっかり夜も更けてから帰ってきた清隆を見て、

 

(どうせまた、あの女のところへ通っていたのだろう)

 

 むらがり湧いた嫉妬の念にもはや抗う術もなく、溜め込んだ怨みを縷々と述べだす清婦人。

 が、誰にとっても不幸なことに、このとき黒田は酩酊していた。

 

 酒に酔ったときの黒田というのは、人の形をした竜巻か何かと変わらない。豪胆とか大度とか、そういった人間的美質がすべて吹き飛び、ただただ一個の衝動となる。

 この場合もそうだった。にわかに逆上した清隆は、日本刀を素っ破抜くや妻の体を袈裟懸けに一閃。斬殺してしまったという。

 

(あっ)

 

 すぐさま我に返った清隆であるが、哭こうがどうしようがもう遅い。

 婦人はとっくに物体と化してしまっている。

 二十三歳を砌とし、彼女の魂は地上を離れた。

 

 

 

 深夜であるにも拘らず、黒田の屋敷は上下が顛倒するほどの騒ぎになった。

 

 

 

 なにしろ当時の黒田と言えば、もはやかつての了介ではない。

 西郷隆盛以下高名な士を西南戦争でごっそり喪った後の、薩藩に残された代表的勢力家であり、陸軍中将兼参議開拓長官正四位勲一等の堂々たる顕官である。

 白昼堂々しょっぴくには、いささか大物になり過ぎた。

 やがて黒田婦人の「病死」が伝えられると、

 

 ――本当は黒田が殺ったのを、政府ぐるみで隠蔽したのだ。

 

 との疑惑が、「団団珍聞」なる一雑誌を中心として発せられ、瞬く間に社会に横溢するの観を呈する。

 これは社会諷刺にポンチ絵を使うことを思いついた日本最初のポンチ雑誌で、やがて起こる藤田組贋札事件も、同様の手法で面白おかしく報ぜられることになる。面白いだけに、人々の頭脳にもまた浸潤し易かったのだろう。明治初頭の歴史の流れは、この不平吐露機関が作り出した部分も少なくはない。

 

 なにしろ大久保利通の斬奸状にも、この「団団珍聞」報道を真に受けた形跡がありありと見える。

 

 

 …頃日世上に陳ず、黒田清隆酩酊の余り暴怒に乗じ其妻を殴殺す、(たまたま)川路利良其座に在りと而して政府之を不問に置き利良亦不知と為し已む、嗚呼人を殴殺するは罪大刑に当る、而して既に其事世上に伝評す、政府に在っては被殺人の親族之を告ぐるを待て其を治めんと欲するか、未だ知る可からずと雖も、利良は何者ぞ身警視の長となり天下の非違を検するの任に在り、而して黙々不知()る者豈に之を私庇せんと欲するか、夫れ姦吏輩の法律を私する(おおむ)ね斯くの如し…

 

 

 結局、黒田はその妻を殺害したのか、しなかったのか。

 

 真相は曖昧なまま、しかし相次いで起こる他の重大事件に気を取られ、徐々に人々の記憶からその衝撃が薄らいでいった翌々年。

 明治十三年十二月十二日、世間は再び、黒田清隆の名を強烈に印象することとなる。

 

 この男は、再婚したのだ。

 

 相手は深川木場の豪商、丸山傳右衛門の娘滝子。

 年齢、実に十七歳。

 四十一歳の清隆とは、ほぼ二回り近い年の差がある。

 

 ――なんと若い娘好きの婿殿だ。

 

 ということで、世間は目を見張らざるを得なかった。

 

 

 

※  ※  ※

 

 

 

 実に多くの東京市民が、彼と、彼の邸宅に、羨望のまなざしを送ったものだ。

 

 材木商、丸山傳右衛門のことである。

 

 ときに「金閣寺(まが)い」と揶揄されもしたその屋敷の結構は、山本笑月の『明治世相百話』に於いて特に詳しい。

 

 

建坪はさまで広くないが総て唐木造り、一階大広間の九尺床は目の覚めるような紅花櫚の一枚板、左右一丈二尺余の大柱は世にも珍しい鉄刀木の尺角、上から下まで精密な山水の総彫、多分は堀田瑞松あたりの仕事であろう。この柱一本で立派な邸宅が建つという代物。左右のわき床は紫檀黒檀の棚板、三方の大障子は花櫚の亀甲組白絹張りで、開閉にも重いくらいの頑丈造り、一間幅の回り縁は欅の厚板、天井は三尺角樟の格天井、いや全くお話ですぞ。

 

 

 如何に富強といえど、商人がこれほどの豪邸を拵えるなど、門構えひとつにすら一々厳格な規定のあった江戸時代では考えられぬ、新政府治下ならではの、ある意味維新を象徴する建造物であったろう。

 そんな場所へ、維新回天の功労者たる黒田清隆が足を運ぶ。見ようによってはこれほど相応しい組み合わせもない。

 

 訪問の目的が、何であったかは定かでない。評判の四層望楼が気になっての物見遊山だったとも、傳右衛門に金を借りに行ったのだとも、色々だ。

 が、玄関にて靴を脱ぎ、座敷にあがってもてなしを受けたときにはもう、本来の用向きなどこの男の脳内から影も形もなくなっていたのは確からしい。

 

(美しい。――)

 

 給仕役として黒田の側につけられたのは、傳右衛門自慢の愛娘・丸山滝子その人である。

 舞の上手であったことも、おそらく無関係ではないだろう。しなやかでそつ(・・)のない動作の中に、さりげなく香る婀娜(あだ)っぽさ。滝子の魅力に、黒田はたちまちグニャグニャになった。

 

 その日のうちに滝子を馬車に積み込んで、連れて帰ってしまったとの噺さえも残されている。

 

 真偽のほどはわからない。

 しかしまあ、仮に即刻連れて帰りたいと言われたところで、傳右衛門は断らなかったことだろう。

 むしろえたり(・・・)とほくそ笑んだに違いないのだ。彼は端から黒田に滝子を縁づかせる心算であった。そうでなければいったい誰が、手間暇かけて蝶よ花よと育て上げた大事な娘に給仕の真似事などさせるであろうか。

 

 

 

 とんとん拍子に話は進み、例の明治十三年十二月十二日、二人は結婚。滝子は黒田滝子となる。

 

 

 

 結婚式の仕度には、黒田邸から馬車が十七台も来たそうだ。

 清隆が如何にこの嫁に入れ込んでいたかよくわかる。

 が、この後妻との関係も、やがては思わぬ蹉跌に嵌り込むというのだから、あるいは清隆という男には女難の相が生まれつき備わっていたのかもしれない。

 

 淵源は、生家である丸山家の没落にこそ見出せる。

 

 それは極めて意外な方面からやって来た。左様、文字通り「やって」「来た」のだ。

 

 宮内省内匠寮に籍を置く官吏数名――この一団がある日のこと、気晴らしがてら深川あたりをぶらぶら散歩し、その途上、

 

 ――折角ここまで来たのだから。

 

 かの有名な「丸山の金閣」を拝んでから帰ろうぜ、と。

 誰はともなく言い出して、いいねえ、賛成、行こう行こうという流れになった。

 ところが実際に訪ねてみるとどうであろう。既に黒田の里方として政商の地位を確立し、たいへん鼻息の荒くなっていた丸山家では、この連中を「小役人」と頭ごなしに決めつけて、

 

 ――何を寝言ほざいてやがる。

 

 顔を洗って出直せと言わんばかりの乱暴さで、さっさと叩き返してしまった。

 門前払いといっていい。

 

(おのれ。……)

 

 当たり前だが、官僚たちは意趣を抱いた。

 この怨み晴らさでおくべきか、と、奥歯をきりきり鳴らせるほどに憎悪した。

 

 果たして天は彼らに対し微笑んだ。ちょうどその頃、明治六年の失火により焼失した江戸城西の丸御殿に代わる新たな皇居御造営の儀が正式に決定していたのである。

 丸山家では当然この大事業を委任されるものとして、既に大量の材木を確保すべく働いていた。

 

(そうはさせるか)

 

 内匠寮の復讐者たちは、この大命を絶対に丸山づれ(・・)に仰せつけられることなきように、おそるべき運動を開始した。

 各員が各員の持ち得るツテをあらん限り動員し、まさに百方運動の有り様を現出。妨害工作に努めた結果、ついに念願叶って丸山を皇居御造営から切り離すことに成功している。

 

 

 

 まこと、世に小人の妬心ほど厄介なものはないであろう。蟻の穴から堤も崩れる。メルツェルは流石に慧眼だった。

 

 

 

 本懐を遂げた「小人ども」は、

 

(ざまをみよ)

 

 さぞ鼻高々であったろう。

 事実、傳右衛門は地獄を見た。

 

「話が違うではありませぬか」

 

 と、いくら清隆に泣き付いたところでもう遅い。このとき彼が開けた負債の額は、どんなに低く見積もっても三十万円に届くと云われる。

 明治初頭の三十万は、現代貨幣価値に換算しておよそ六十億円にも相当しよう。

 これが契機となって丸山は坂を転がり落ちるように没落し、明治十八年、ついに破産閉店の憂き目を見ている。

 

 江戸時代から続く老舗の、あまりにも呆気ない終焉だった。

 

 この没落は、滝子の精神にも一方ならぬ負荷をかけたものらしい。

 

(なんという不義理な方でありましょう)

 

 実家の危機を救わなかった夫への不満、このあたりの構図は、なにやら徳川家康と築山殿の関係を彷彿として趣深い。人間とは時を移し場所を変えても、結局同じような悲喜劇を演ずるものだとしみじみ思う。

 もっとも黒田清隆の場合、家康ほど異常な別れを経験せずには済んでいる。というより、なにごとかが起きる前にこの人は、脳の血管を詰まらせて死んでしまった。

 

 多年の飲酒が災いしたものだろう。

 

 未亡人となった滝子は、そう間を置かず紛失物取調の役儀で家に出入りした某警官と桃色遊戯を営んだとかで、黒田の家を追われている。

 明治三十九年になってから、我が子の引き渡しを求めて黒田家に訴えを起こしたが、むなしかった。

 

 傳右衛門ご自慢の「金閣寺擬い」はその後浅草花屋敷に移された。「奥山閣」と命名して一般の観覧に供したところ、たいへんな盛況で、長く当園の目玉であったが、関東大震災の猛火からは逃れ得ず、ついに灰と化している。

 

 

 

 兵どもが夢の跡。近代社会はスピード社会、栄枯盛衰、有為転変も実に激しい。

 つまりはそういうことなのだ。

 

 

 

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